百年の夜の先

松原塩

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 何の感慨も無かった。
 ことりと自分を天秤にかけて、セルジュはことりを選んだ。それだけのことだとサリムは理解していた。
 目の前に翳される刃を見ても恐怖は無い。
 少しだけ不思議だった。
 サリム様、とあれだけ懐いていたセルジュが、自分を見捨てるということが。
 ふと、セルジュの体に刻まれた傷痕が脳裏を掠めた。百年経ってもまだはっきりと残っている無残な傷痕。サリムがつけたのだと言っていた。
 なるほどサリムがそのような酷い行いをしたのなら、彼が今自分を見捨てるのも無理はない。慕っていたからこそ、サリムから受けたその仕打ちを、本当はずっと許せなかったのかもしれない。
 獣のような金色の瞳が、一瞬でも見逃すまいと食い入るようにサリムを見ている。
 こらえるようなその表情の意味は分からなかった。
 サリムの目の前に、記憶にないはずの過去の光景が過ぎる。
 あの時も自分は腕を拘束されていて、地に伏した青年の姿のセルジュは血塗れだった。血溜まりの中で、泣きながら自分を見ていた。
 その金色の瞳が、今の彼の目とそっくり被る。
 己の身に振り下ろされようとしている鋼の煌きよりも、その金の光から目が離せなかった。

 まるで命の灯を映したかのように、旧聖堂内に灯された全ての明かりが揺らぎ、ふっと消える。暗闇に包まれた。
 神官達の動揺した声と、負傷した神官の呻き声。そういった雑音に混じって、セルジュの耳にはサリムの血が流れ出す音まで聞こえる気がした。静かに、彼の命がとくとくと流れ出していく、その音が。
 目の前も見えない完全な闇に閉ざされた旧聖堂内で、セルジュの魔物の目だけには周囲の様子がはっきりと見えていた。
 隣でことりがセルジュを見上げてきていた。彼女の目には、神官達と同様ほとんど何も見えていないだろうに、水色の瞳はまっすぐにセルジュの金色の目を見ていた。そこには何の恐れも無い。
 セルジュはふっと笑った。
 ようやく大切なものを取り戻すことができる。
――彼女の犠牲によって。
 ぎゅっと胸が痛むのは無視した。
 稚い小鳥の命を惜しむより、セルジュには守るべきものがある。百年前からそれは変わらない。
 闇の中、セルジュは剣を握りなおした。金属の僅かに鳴る音。
 セルジュは傑然としていることりの胸へ、刃を突き立てた。
 柔らかい肉を破る感触。
 彼女は声も上げなかった。
 剣を引き抜くと、生温かい血がセルジュの顔を濡らす。力の抜けた華奢な体を片手で受け止めて、そっと冷たい床に横たえた。
 音だけが耳に届き、何が起こっているのか、理解できていない神官達がざわめく。
 サリムの体が、塵のようにほろほろと崩れていくのが見えた。
 セルジュは獣の咆哮を上げる。
「気高き御魂、約束の血は御身に捧げられ、唯一の受け皿は用意された。我が君よ、百年の時を経て、真実の姿で還り来よ!」
 空気を震わせる叫び。神官達は誰もが口を閉ざした。
 痛いほどの静寂の中、それは起こる。
 崩れたサリムの体が、一斉に黒い羽根に変わり、一陣の風となってことりの体を包み込んだ。
 闇の中、金色の瞳だけがそれを見ることを許されていた。ただならぬ気配を感じてはいても、人間の目は光がなければ何も捉えられない。
 黒い羽根は翼のようにことりを包み、黒い塊は巻き起こった強い風によって高く押し上げられた。
 セルジュの心臓は痛いほど高鳴っている。
 呼吸するように収縮していた黒い羽根の塊が、一気に開く。同時に壁際の明かりが戻り、突然の光に目が眩んだ。
 黒い羽根はばらばらになって散り、床に着く前には消失した。
 遥か高い場所から、待ち焦がれたそのひとが優雅な仕草で降り立つ。
 誰もが息を殺して眼前の光景に見入っていた。
 腰に届く艶やかな黒髪が舞い、黒い軍服が白い肌を彩る。背筋が冷たくなるほどの美の顕現、まるで全ての心を惑わす悪魔の誕生を見ているようだった。
 右目は金、左目は翡翠の色違いの、ガラスのような瞳がセルジュを捉える。
 その目に映り、その目で何かを求められる度、彼の為なら全てを捧げてしまいたいような心地にさせられた。
 体中が震える。これは歓喜だ。
 百年前から一度たりとも心から失われることのなかった、世界で最も慕わしく、麗しく、敬愛してやまないそのひとの姿が、目の前に。
 サリム様。呼んだつもりだったが、掠れて声にならない。それでもサリムは正確にそれを察して、微笑んだ。
 人間として生かされていた時よりも、少し大人びて、青年にさしかかるくらいの年齢に見える。少年と青年の狭間の危うい均衡、この姿こそが本来の姿だ。
「セルジュ」
 美しい声に呼ばれて、背筋に震えが走った。涙が溢れ出す。この瞬間のために、彼に名前を呼ばれるためだけに生きていると錯覚しそうになるほどの恍惚感。
 サリムの手が、彼自身の胸に差し込まれる。血は出なかった。彼は己の体から何かを取り出して、小さなそれをセルジュに渡した。
 金色の小鳥だった。手の平の上に横たわって、翼はしおれている。サリムに体を明け渡したことりの欠片を、セルジュは受け取った。
 ことりを受け渡して空になった、白い手が差し伸べられる。無慈悲なその手が何を求めているのか、考えることですらない。
 一度はおさめた剣を鞘ごと外して、彼に持ち手を向けて差し出す。サリムは笑みの形に目を細めて、剣を抜き取った。
 ようやく我に返った神官達が動き出す。
「サリム! あなた……っ」
 悲鳴のようなクロティルドの声。神官達が一斉に剣を向けるが、全ては遅かった。
 ふっと風が肌を撫でる。神官達の目では、サリムの動きは捉えられなかったはずだ。次には一斉に鮮血が散って、状況を理解できないまま、ほとんどの神官が床に伏していた。
倒れた仲間達の中、ただ一人残されたクロティルドは声を失う。
 人間などが敵う筈のない、絶対的な力。
 迷いの無い鮮やかな動きを、セルジュは陶然として見つめた。
 惨状に青い顔をしながらも肉薄するクロティルドをも、サリムは一太刀で斬り捨てた。
 聖人の祝福を受けた剣が少女の腕から零れ、床に落ちて高い音を鳴らす。
 立っているのはサリムとセルジュだけだった。
 サリムは剣を振って血を払い、投げ捨てるような気軽さでセルジュへと返す。
 比類なき残酷な強さと美しさ。全ての魔物がひれ伏した、悪魔の名を冠するに相応しい、セルジュの心の主。
 ただ彼をよみがえらせるためだけに、百年を生きてきたようなものだ。
 軋んだ音を立てて、扉が開く。月の光を背にして、大勢の黒い影が恭しく跪いていた。
「お待ち申しておりました、我らが主」
 これまで人間社会に潜んでいた魔物達が、サリムの復活を祝して駆けつけていた。これほど大量の魔物が侵入しているとは、教会は今どうなっているのだろう。狂乱だけでは済まないはずだ。漂ってくる錆びの臭いは、旧聖堂の惨状だけが原因ではない。
 扉の外を見ていたサリムが、不意に旧聖堂の奥へと振り向いた。セルジュを始め、扉の外に集っていた魔物達の視線もそちらへと集中する。
 針のような緊張の中、靴音と共に奥から悠然と歩いて来たのは、華奢な少年だった。波打つ金髪は薄闇の中でさえ輝き、白い服が浮かび上がって見える。後ろには、黒服を纏った金髪の長身の青年を従えていた。
 人間である二人は、微笑している。倒れ伏した神官達が目に入っていない筈もないというのに。まともな人間であれば吐き気を催すほどの血の臭いに包まれてなお、どこか楽しげにさえ見える二人は異様だった。
 少年の方は、長く生きた魔物であれば皆が知っている顔。サリムを封印した憎き聖人、リシュタンベルジェルだ。怨敵を、魔物達は肌が痺れるほどの殺気で迎えた。そこかしこから唸り声が上がる。
 セルジュは、サリムから返された剣を油断なく構えた。
「おはよう、サリム」
 澄んだ声。魔物達の憎悪を一身に受け止めながら、そんなものは全く意に介さず、リシュタンベルジェルはサリムだけを見ていた。セルジュはその聖人の忌々しい青い目を抉り取ってやりたかった。視線だけでも、サリムが穢されるようで。
「気分はどう? 久しぶりに会えて嬉しいよ」
 血の気の多い誰かが、セルジュと似たようなことを思ったのだろう、聖人に向かって飛び出していった。飛び掛った黒い影は、聖人に付き従っていた青年の剣が一閃して、あえなく床に落ちる。
 聖人はそれすらも気に留めない。彼の目にはサリムしか映っていない。まるで演説でもしているかのように両手を広げ、微笑みながら言葉を継ぐ。
「ねえサリム、そろそろ僕のものになる気になったかな」
 あまりに傲慢な言葉を耳にして、セルジュの身の内で怒りが膨れ上がる。
 サリムが魂を封じられるという屈辱を味わう羽目になったのは、一体誰のせいか分かって言っているのだろうか。分かっているに決まっている。彼のせいで魔物達の平穏は打ち壊された。「聖人」などという清らかな名で呼ばれる彼こそが諸悪の根源であり、厚顔無恥と言うほかない。
 いきりたつ魔物達を背中に、サリム自身はぼんやりとした視線で聖人を見ていた。
「俺は……お前のこと、愚かだと思うよ」
 穏やかに告げると、聖人は不機嫌な子供そのものの様子で口を尖らせた。片手を腰に当て、首を斜めに傾けて、かみつくような口調になる。
「なあにそれ。なんで僕にそんなこと言うの? 君は百年の昔から変わらないね。いつも、僕じゃないものばかり可愛がる」
 言いながら、セルジュのことを睨んできた。憎い相手を視線だけで殺そうとでもしているかのように。忌々しいのはこちらの方だと、それ以上の敵意を込めて睨み返す。
 聖人はつまらなさそうにセルジュから視線を逸らし、肩にかかる金髪を払いながらサリムへと視線を戻した。
「君から全部奪ったら、僕だけが残るのかな。無理かな、魂を奪ったって僕のものにならなかった」
 美しい顔で寂しげに笑う様は同情を誘うものだった。言葉の内容さえ鑑みなければ。
 いっそ純粋に見えるからこそ狂気が際立つ。
 高らかに歌うように、リシュタンベルジェルは続ける。
「もう待てない。今度こそ君を奪ってあげる、今度こそ完全に殺してあげる。それまで誰にも殺されないで、僕のために生きていてね」
 無垢な少女のように、清廉な微笑みを湛えて。
 くるりと踵を返し、聖人は旧聖堂の奥へと歩き出した。その背中を守るように黒服の青年が従う。
 二人はそのまま、旧聖堂の奥へと消えて行った。



「お前、何でそんな格好しているの」
 サリムの屋敷は、以前襲撃された折に、神官たちによって占拠されていた。サリムの復活により活気付き、決起した魔物達がそれを放っておくはずがない。
そうして教会から取り返された自分の屋敷で、サリムは椅子に座っていた。広間の奥の一段高くなった場所に配置された椅子はまるで玉座のようだった。
 座っているだけで、魔物達が次から次へと拝謁に来て、言いたいことを言っては帰っていく。ほとんどが、サリムの復活を言祝ぐものだった。見知った顔もあれば、全く知らないような者も混じっていた。大体をサリムは聞き流した。
 入れ替わり立ち代わり現れる魔物がひと段落した頃を見計らったように、どこかへ行っていたセルジュが戻ってくる。
そうして椅子の脇に立った彼はサリムに訊ねられて、そんな恰好、と口の中で呟いて己の体を見下ろした。
 彼は普段通りの装いだった。黒い軍服を身に纏い、黒い羽根のような飾りで銀髪をひとつに結わっている。どこも変わった様子はない。
 けれど百年前と比べれば、大幅に変わっている――魔物としてよみがえったサリムは、かつてカプドヴィエルの悪魔として畏れられていた頃の記憶を全て持っていた。
 自分の身に起こったことを、今のサリムは正確に理解している。
 サリムを誰より慕うセルジュは、サリムを魔物としてよみがえらせるために、人間として生きていたサリムを見殺しにした。そしてサリムの血で穢れを受けた血筋の娘、ことりの器を使って、望み通りサリムを魔物としてよみがえらせたのだ。
 器として利用するのに、ことりが最も適していた。ただの人間でも、ただの魔物でも、その体に受け入れるにはサリムの魂はあまりに強大すぎる。あのまま人間として生きていても、そう長くもたなかっただろう。本来の力も発揮できない。
 セルジュならやりそうなことだ、と思う。
 百年前からいつでも側に付き従っていた魔物。
 教会との争いでも、常にサリムの傍らに立って戦い、最後……サリムが殺されるまで、彼は側に居た。
 主人によく懐いている犬のような気質は変わらないが、当時のセルジュは青年の姿をしていた。記憶に残る彼はサリムより背が高く、しっかりした肩幅に、精悍な顔つきをしていた。
 隣に立っている彼を頭から爪先まで眺めてみるが、どう見ても少年の骨っぽい体、まだあどけなさの残る顔立ちをしている。背もサリムより低い。
過去の記憶が無かったため、人間として過ごしていた時には何も感じなかったが、青年だった時の彼を知る今となっては、違和感があった。
 セルジュは笑っているのか困っているのか曖昧な表情で、歯切れ悪く答える。
「その……、生死に関わる大怪我をしたので、治癒に力を使いすぎて、元の姿を保てなくなってしまいました」
 はにかんでいるセルジュからは、その大怪我に対する憤りのようなものは少しも窺えない。
 サリムは立ち上がって、セルジュの命を脅かしたほどの傷痕が残っている、腹部のあたりに指先をそっと添えた。
「戻りたい?」
 今のサリムは覚えている。セルジュに傷を負わせたことを。
 最後までサリムのことだけを考えていてくれたセルジュに、何の躊躇いも無く斬りつけた。それが魔物であったサリムが殺される直前のことだ。怪我を負わせた後に言葉を交わすことはなく、サリムは殺された。
 その傷について、セルジュがどう思っているのかは分からない。
 サリムが人間だったとき、その傷を大切なものだと言っていた。どんな気持ちでそう言っていたのだろうか。
 生死が危ぶまれるほどの手酷い傷を付けられながら、なぜ今なおサリムを慕えるのだろう。
 サリムは一抹の申し訳なさも覚えていなかったが、少し不思議だった。
「あなたが、そう望まれるのでしたら」
 自分の姿ですらサリムに委ねようとする彼の頭を、犬を可愛がるように撫でた。以前そうした時と同じように、セルジュは少し驚いたようにサリムを見てくる。
「俺と初めて会ったときと、同じ姿だ」
「覚えていて下さったんですか」
 目を大きく見開いたセルジュは、どことなく嬉しそうだった。妙に照れくさそうにしていたが、すぐに思い直したように顔を引き締める。
「サリム様、少しよろしいですか」

 セルジュに連れられて、サリムは庭に出た。人間だった時、教会の襲撃に会う前にことりと二人で眺めていた場所だ。
 隅の方に、少し土が盛り上がっている場所があり、その上に楕円の石が置いてあった。ことりの名と、没年が刻まれている。
 今思えば、ことりはあの時にはもう覚悟を決めていたのだろう。死んだらこの場所に埋めて欲しいと言っていた、その時から。死ぬ予定があるのかと直截に訊ねたサリムに対して、人はいつか死ぬものだとはぐらかしていたが、ことりは近く訪れる己の死を見つめていたに違いなかった。
 そうまでして、魔物であるサリムの復活を求めた。サリムが復活した時、ことり自身はもうその場に居ないというのに。
 ことりはどんな気持ちでそんなことを言ったのだろう、魔物からしてみればほんの幼い子供、たったの十四歳で何を望んで――サリムにそのような感傷は一切ない。
 彼女が何を望んでいたのかは知っている。
 人でありながら人間を憎んでいたことり。
 かつてアルカデルトを壊滅状態に追い込んだ、その暴虐の力が再び振るわれることを望んでいる。
 ではセルジュは何を望んで、サリムをよみがえらせたのだろうか。
 色違いの双眸で、隣に立つセルジュをじっと見つめる。ささやかな墓を見ていたセルジュは、サリムの視線に気付いて驚いたのか若干仰け反り、それから主の真意を読み取ろうとするように金色の目で見つめ返してきた。
 彼の瞳はどこか不安げだった。
「怒って、おいでですか」
「どうして」
「あなたを騙すようなやり方で、俺が勝手なことをしたからです。ことりのことも」
 短い時間でも、共に過ごした相手のことを思って憤る。そういう種類の人間が居ることも知っている。知ってはいても、それがサリムに当てはまるわけではない。
 セルジュは一体何を不安に思っているのだろう。何に対して怒りを覚えるべきなのだろう。
 返事をしないまま視線を注いでいると、セルジュは困ったように眉を下げて笑った。
「失礼しました。つまらない質問でした」
「そう」
 小さな墓に視線を落とす。
 この石の下には、あの小さな体は埋まってはいない。少女の華奢な体はサリムに明け渡したからだ。彼女の最後の欠片とでも言うべき金色の小鳥だけが、ひっそりと埋められている。いつかは分解されて土に還るだろう。
「お前は怒っているの?」
「何をです」
 明確な目的もなく、なんとなくで問いかけると、不思議そうに返された。サリムは自分でも、何をだろうと思いながら、とりとめもない答えを口にする。
「……ことりが死んだことに、そうしなければならなかったことに、俺の死に様を二度も見なければならなかったことに……ほかには?」
 無表情で言葉を連ねると、セルジュは一瞬戸惑いを見せたが、すぐに首を振った。
「怒ってはいません」
「じゃあなに、それは」
 自分より背の低いセルジュの顔を覗き込み、サリムはその中に潜むものを暴き立てる。何の遠慮も、気遣いも存在しない。
 サリムは、感情表現に疎い。自分が表すことも、他者から読み取ることも。
 だからこそ他人の感情には頓着せず、飾り気の無い言葉で、残酷なまでに追及する。
「ことりのことについては、俺は何も言えません。最初からそのつもりで、ことりに近付いたんですから」
 どこか震えているように見えるセルジュの手が、そっとサリムに伸べられようとして、思い直したように引っ込められる。骨ばってはいるけれど、少年らしい繊細な手。サリムの為にと剣を握り、多くの血を浴びてきた手だ。
「あなた、が、二度も人の手にかかる、と言うの、は」
 言葉が不自然に途切れる。言葉にするだけでも苦しいのだと、セルジュの双眸が雄弁に物語っていた。
「それを、ただ見ているしかないというのは……俺にとって、とても……」
 銀髪をかき回すようにぐしゃぐしゃと撫でた。それからサリムの手は首筋を通り、セルジュの胸へと落ちる。
 サリムがセルジュの胸を軽く押すと、そこを中心に熱い風が巻き起こったように感じて、セルジュは反射的に目を瞑った。
 その熱い奔流はサリムの指先から流れ込んで、瞬く間に体中を駆け巡り、溶けるようにして消えた。
 セルジュが目を開いた時には、その姿は青年のものへと変じていた。
 金色の目は鋭く、しっかりとした肩に厚みのある体。サリムより頭ひとつ近く高い長身。
 サリムにとっては、見慣れた姿だ。
「サリム様……」
 凛々しい青年の姿になろうとも、金色の目を見開いて戸惑いを露にする様は、少年の姿をしていた時と何も変わらないセルジュだった。
 サリムは微笑んで、肩口に落ちかかる彼の銀髪に指を絡めた。
「こちらの方がいいだろう。百年前の続きを始めるのなら」
 続き。それが指すものを理解して、セルジュの顔にも笑みが上る。
 百年という長い時を待ち続け、またサリムのもとでサリムの為に動けることが嬉しい。それ以外には何も無い、純粋とすら言える笑みだった。
 百年前はサリムの敗北で幕を閉じた、魔物と教会の戦い。カプドヴィエルの悪魔の復活によって、今またその幕が開こうとしていた。



 謝られなくてよかった。服の下に隠れている傷痕を撫でる。
 姿は元の青年のものに戻ったが、傷痕までは消えなかった。そのことに安堵さえ覚える。
 今セルジュのいる部屋の窓からは、広い庭が見えていた。門の外では魔物達が警備にあたっているが、今のところ特に騒ぎは起こっていない。教会も、こちらの出方を窺っているのだろう。
「でっかいセルジュって久しぶり」
 丸テーブルを囲んでいる魔物の内の一人イジドールが、頬杖をついているのとは逆の手で、セルジュを指差す。彼の三白眼が、物珍しそうにセルジュを見ていた。
「正直俺は、主の復活より先にセルジュが死ぬんじゃないかと思ってた」
「は?」
 セルジュは怪訝そうにするが、イジドールの隣に座るテオフィルも頷く。
「……セルジュは、いつも怪我ばかりしている」
テオフィルは濃い灰色の長髪を陰鬱に垂らして、高い背を丸めて俯いている。服の隙間からは巻き付けられた包帯が見えた。
「怪我ならテオフィルだって同じだろう。具合はどうだ」
「俺は、平気だけど」
 ぼそぼそと喋るテオフィルに代わって、イジドールが続ける。
「お前ほど四六時中ぼろぼろになってるやついねーよ」
 セルジュは言い返そうと口を開いたが、事実過ぎて何も言えないことに気付き、ただ顔をしかめた。
 ほかにも数人の魔物がテーブルを囲んでいるが、その全員が、百年前からサリムを知る者だった。当のサリムはここにはおらず、古い盟友が集まって茶話に興じている。
 誰もがサリムに心酔して、彼を己の主と崇めてきた者達だが、中でもセルジュは突出しており、この集まりでも一目置かれる存在だった。少年の姿では足りなかった迫力も、青年の姿に戻った今では充分に備わっている。
 とりとめもなく語られるのは主にサリムのことと、これからの動向。また、久方ぶりの集まりでの互いの近況を報告しあうような、他愛の無い話も多く飛び交っていた。
 まとまりのないざわめきの中、セルジュは腹の上で指を組む。
 サリムが、セルジュの傷痕について気にした素振りを見せた時は、どうしようかと思った。
 彼の手が服の上から傷痕を辿り、結局サリムが口にしたのは「戻りたい?」という短い問いだった。
 謝られなかったことに、セルジュは深く安堵していた。
 謝る必要も、謝られる理由も、何も無い。
 傷を負わされた状況だけを考えれば、全く理不尽とも言える仕打ちだったには違いない。けれどセルジュにとって、これは恨むようなものではなかった。
 思案に耽るセルジュの耳に、笑い声が届く。席に着かずひとり窓を開けて外を眺めていた魔物が、腕にとまらせた黒い鳥と喋っていた。
「シャミナードが今がんばってるらしいよ」
 地名を挙げられ、皆の意識がそちらへ引かれた。
 セルジュも世話になったアネルカの住んでいるシャミナードは、自然の多く残る土地柄だろうか、ほかの地方よりも魔物が多く、魔物に寛容な人間が多い。隣接している王都との境が峻険な山になっていて、王都の意思が伝わりにくいせいもあるかもしれない。教会と魔物の争いが激化するより以前のように、人間に魔物が紛れて生活し、人間も害を与えられない限り黙認している。
「シャミナードか。あそこアシルエトナが居るからな」
「誰だっけ」
「おっかけだろ。主の」
「思い出した、あいつか」
「あいつセルジュのことすげー嫌ってなかったか?」
 話題に上がった魔物の顔が思い浮かぶ。
 ここ最近現れた魔物だが、どうもサリムに心酔しているらしい。おしゃべりで小うるさい少女だったように思う。そして確かにセルジュのことを毛嫌いしていた。主様をひとりじめしてたセルジュ嫌い、そうはっきり言われたこともある。
「おっかけって言ったら、セルジュ以上の奴はいないけどな」
 突然話題が自分に向き、眉根を寄せるセルジュをよそに、集まった面々は好き勝手に言い合う。
「確かに。いつも一緒だよな」
「俺達なんて主の復活をただ待ってることしかできなかったけど、セルジュは行動的だったしな」
「教会ですごい数の神官相手に立ち回ったんだろ? 俺なら死んでる」
「なんだかんだ言って、あの主の側に立ってられるんだから並の神経じゃないよな」
 おっかけなどと称しておきながら、どちらかと言うと賞賛に近い声が上がる。セルジュは苦笑した。
 確かに、サリムの側に立っているのは難しいことだ。
 憧れだけで、常に傍らに控えていることなどできはしない。
 悪魔どころか鬼神のごとき無類の強さを誇るサリムの側で剣を振るうためには、それについていくだけの腕は勿論のこと、サリムその人に怯まないだけの胆力も必要になる。あまりに鮮やかな太刀筋は、敵が剣の前に躍り出ているようにすら見えることがあった。圧倒的な力は、それが味方のものであれ、時に背筋を寒くさせられる。
 それだけではない。
 サリムの感覚は、魔物はおろか人間とも異なる。それが最も、彼を近寄りがたい存在へと押し上げていた。
 傍らに立ち、言葉を交わせば嫌でも分かる。
 情緒の類に著しく欠けた思考。底の読めない微笑。同じ物を見ていても、彼の金と翡翠の瞳に何が映っているのか理解できない。確かに側に居る筈なのに、まるで遥か遠くに居るように、寄り添うことができないのだ。
 サリムに憧れる魔物は多くても、側に居ることに、魔物の方が堪えられなくなる。それが薄々分かっているのか、魔物達はサリムを崇拝しながらも一線を引いていた。
 誰をも魅了せずにおかない美しさと、他を圧倒する強さは当然のこと、残酷なほど自他を顧みないという点を含めて、サリムは完璧だった。
 その近寄り難さすら、サリムへの憧れを強める一因になる。
 理解できないからこそ美しく、恐ろしい。
「そんな目にまであってまでねえ。死にかけたんだろ?」
 魔物の一人が、爪の長い指でセルジュの腹部を指差した。これも皆に知られた話だ。
「生きてる」
 セルジュは溜息と共に吐き出した。この傷に関して、同情的に見られるのは好きではない。
「聞いたことなかったけどさ、何でそんな目にあったんだ? お前が主の機嫌損ねるなんて」
 頬杖をついたイジドールが、好奇心を隠そうともせず訊いてくる。
「別に、機嫌を損ねたわけでは」
「じゃあなんでだよ」
 セルジュは答えようと口を開きかけたが、すぐに困ったような微笑を浮かべた。硬い表情でいることの多いセルジュが、サリムの前でもないというのにこんな顔をするのは珍しい。
 セルジュは一呼吸置いてから答えた。
「秘密だ」
「何それ」
 イジドールが不満そうに口を尖らせるが、セルジュは答えるつもりはなかった。



 どこを見ても白かった部屋は、今や焼け焦げ、無残に灰と煤で黒く汚れていた。天井から垂れ下がっているかつては純白だった布は、半分ほど焼け落ちている。焦げたぼろきれと化した布を避けながら、リシュタンベルジェルは呆れたような声を上げた。
「随分派手にやったね」
「手っ取り早いでしょう」
 非難するような響きは無視して、アズナヴールはにっこりと笑う。
 垂れ下がっていた布を軽く引くと、簡単に千切れた。アズナヴールはそれを目の前に翳して見る。黒く焦げた布には、白い糸で文字が細かく刺繍してあるのが分かった。
 部屋の奥を隠すように、部屋中に垂れていた布は、全てが同じ作りになっていた。これこそが、聖人リシュタンベルジェルを眠りに着かせていた仕掛けだ。サリムの魂が封印されていたのと同じように、聖人もこの部屋に封印されていた。
 人々が信仰する聖人が、よりにもよって魔物狂いだなどと露見することを恐れた神官達の仕業だ。
 聖法を施された布を一枚一枚取り外し、更には壁にまで書かれた文字を上から塗りつぶしていたのでは時間が掛かって仕方ない。
 カプドヴィエルの悪魔が覚醒する時、自分も起こすように。リシュタンベルジェルの言葉を忠実に守るため、アズナヴールは部屋に火を放った。
 一歩間違えば教会全体に被害を及ぼしかねない暴挙だが、そうなることは無かった。
 部屋を埋める言葉の半数ほどが焼け落ちた時、聖人は眠りから覚めた。明々と燃え盛る炎の中、白い棺から起き上がり、その青い目が瞬きをしただけで、部屋中を覆う炎は掻き消えた。
 炎でさえも、彼に害をなすことを恥じて、自ら消え去ってしまう。その光景を、もしもアズナヴール以外の誰かが見ていたなら、聖人の奇跡だと語られ、讃えられただろう。
 元が白で固められていただけに、焼け焦げた跡が無残に見える。リシュタンベルジェルは部屋を見回していたがやがて飽きたのか、部屋の入り口で待つアズナヴールに振り向いた。
「さて、それじゃあ、久しぶりに目が覚めた事だし……女王陛下にでもご挨拶に伺おうか」
「わざわざ出向くんですか? あなたが一声かければ、女王陛下だって喜んで頭垂れに来ますよ」
 百年もの昔から語り継がれ、信仰の対象とされてきた聖人である。当然のことをアズナヴールが言うと、リシュタンベルジェルは逆に怪訝そうに眉をひそめた。
「僕がお目通りを願うんだから、こちらから出向くのが筋でしょう?」
「あなたって……」
 アズナヴールは半笑いで言葉を切った。
「何?」
「普通にしてりゃ普通なのに、あの悪魔が絡んだ時だけ頭おかしくなるんですね」
 怒り出しても無理はない無礼極まりない言葉だったが、リシュタンベルジェルは目を細めて笑った。
「僕にそうやって言ってきた人間は、ジード、お前で二人目だよ」
「それは悔しい。一人目は?」
「百年前、僕に無断でサリムを殺した女」
 涼やかだった声に、ほんの一瞬、灼けるような憎悪が滲む。
 いつだったか、棺の中で眠れる彼に聞いたと、アズナヴールは頷く。
「悪魔を殺した聖女のことですね。穢れとかなんとか適当にでっちあげて腹いせに処分したっていう」
「当然でしょう、僕のものになるはずだったサリムを奪われて、我慢しろっていうの? その女が最期に言ったんだよ。あなたは狂ってる、って」
 アズナヴールは顔も知らないその聖女にほとんど同意だったが、おくびにも出さず微笑んだ。
 聖人は狂っている、悪魔に狂っている。美しい少年の皮の下、そこに渦巻く純然たる狂気こそが、何よりアズナヴールを惹き付けてやまない。
「欲しくなるってそういうことじゃないの? 我慢ができないんだよ。だから欲しいって思うんだよ。見ているだけなんていや、手に入れないと苦しくて我慢できない。どうしても手に入らないのなら、消え去ってしまえばいい。……ね? わかるでしょう、ジード」
 白く華奢な手が差し出される。アズナヴールは恭しくその手を取った。



 闇の中、月の光におぼろげに照らされている。木々の整然と並んだ広大な庭。風が走り抜けると、池の水面に反射した月がさざなみに揺らめく。
 もっと遠くに視線をやれば、闇と同化してほとんど見えない鉄の門の向こうに、街が広がっている。雑然と並ぶ屋根、まばらに突き出している尖った塔、その周囲を囲む森。街路にも、道しるべのように木が立ち並び、その脇を静かに水路が流れている。
 目を引くのは、今サリムが居るこの屋敷にほど近い建物だ。無残に打ち崩れたそれは元は教会だった。目を凝らしてみれば、密集する家々の間にも、欠けたように屋根の途切れる箇所があった。場所によっては、広い範囲で屋根や建物といった類の姿が消失している。代わりに、がらくたと化した木やら石やら煉瓦やらが山になっていた。
 何があったのかは、このシャミナードの領主の邸宅に今サリムが居ることからも、想像に難くない。
 魔物の手に陥落した街で、サリムは領主が住んでいた屋敷の屋根から、街を見渡していた。
 不思議と死のにおいは漂わず、街にはひそやかな眠りだけが満ちていた。
 領主の住処を魔物に奪取される事態になっても、街から人は消えていない。
 元から人に混じってこの地に暮らしていた魔物、彼らを許容する人々、擁護する人々。街に残っているのはそんな人間だけだ。魔物の味方をする人間と言っても、何も彼らは悪というわけではない。シャミナードの住民が教会の味方をするか魔物の味方をするかというのは、隣人を何と定義するか、それだけの違いだった。
 種族は違えど同郷のものを同胞とするか、種族という繋がりを重んじ、同じ人間こそを友と呼ぶのか。
 どんな争いがあったのかは知らない。ただサリムのために豪華な椅子を用意したと招かれて、この場所に来ただけだ。
 サリムの復活で、魔物達は活気付いている。領主の椅子など手始めに過ぎない。
サリムが望んだものではないし、権力や支配などに興味はないが、そうしたいと言う者達が居るのなら、やりたいようにやれば良いと思う。扇動もしないし止めもしないが、喜ぶこともない。
 ただひとつだけ、今のサリムにはやりたいことがあった。
 百年前には無かった感情だ。
 自主的に何かを求め、何かをしたいなどと。それを明確に意識することなど、一度だって無かった。
 誰のためかは分からない。自分を慕うセルジュのため、命を捨ててまで望んだことりのため、あるいは。
「サリム様、こんなところにおいででしたか」
 聞き慣れた声が誰のものか、振り向かなくても分かる。
「ご用意したお部屋はお気に召しませんでしたか?」
 足音もなく、そっと近付いてくる長身の影がサリムを覆い、その視界がにわかに翳った。
「別に」
「おひとりのところ、お邪魔して申し訳ありません」
 振り向くと、セルジュがいつもの真面目な顔つきで立っている。
 サリムは、左右色違いの双眸で彼をじっと見つめた。彼は不思議そうにしながらも、視線から逃げることなく、金の目で真っ直ぐに見つめ返してくる。
 金色の光。いつでもサリムを慕い、求める、二つの瞳。
「……お前もいつか死ぬのかな」
 突拍子も無い発言に、セルジュは目を丸くしたが、すぐに苦笑に取って代わる。
「おそらく、いつかは。あなたと同じ、不滅の魂を持っているのは、恐らくあの『聖人』だけです。俺もいつかは、他の皆と同じように」
 同じように。
セルジュは視線を足元へと落とした。背中から照らす月が、足元に色濃い影を生み出している。俯いた顔も影になって、表情は窺えない。
 魔物の命は人間より長いとはいえ、永遠ではない。ひとたび死を迎えても魂は滅びず、幾度でも繰り返すサリムとは違う。
 例えば目の前に立つセルジュが死んでしまったら、二度と会えない。ことりに、どんな気持ちで死を選んだのか聞くことができないのと同じように。その人と二度と関わりをもてない、喋ることができない、側に居てはくれない。
 それは当然だ。命の終わりとはそういうことだ。誰かの心の中に生き続けているなどと謳っても、結局それは過去の幻影でしかない。同じ時を歩むことはできない。死人は、生ける者の心の中で、多分に装飾された思い出を繰り返し続ける。
 サリムの中に、不思議な気持ちが湧き上がった。
 これまでに感じたことの無いもの。それは分かるが、それ以上何と形容したら良いのかが分からない。
ことりともう一人、遥か百年も前に死んだ、魔女公主と呼ばれた女性の顔が浮かぶ。二人とも、サリムに特別な関わり方をした人間だ。
 脳裏に浮かんだ二人の顔と、目の前に立つ俯いたセルジュを見比べる。背中に月光を受けて、銀髪のふちが煌いて見える。
 かすかな戸惑いを覚えながら、サリムは浮かんだ言葉を口にした。
「死ななければ、いいのに」
 セルジュの俯けていた頭が上がる。猫のような目が驚愕に見開かれているのを見て、サリムは首を傾げた。
 彼はただ黙って、サリムを見ていた。今の言葉が、本当にサリムの口から出たのだと確認するかのように。青年の体に戻ったセルジュだが、今の彼はまるで少年のようだった。
 サリムは薄く笑う。
「なにか、変?」
「いえ……」
 茫然とした様子で呟いたセルジュは、もう一度首を振って繰り返した。
「いいえ。……あなたが……、あなたにそんなことを、その……」
 震える声で、切れ切れに紡がれる言葉。一体何にセルジュが動揺しているのか分からず、サリムは無垢な表情でセルジュを見上げていた。
 見る間に彼の瞳に涙が盛り上がる。唇は震えるばかりで、とうとう言葉にはならないようだった。
 零れ落ち、頬を伝う涙に手を伸ばし、指で拭ってやる。彼はまるで、そうされることも畏れ多いとでもいうかのように両手でサリムの手を退けさせ、手についた雫をそっと拭った。
 サリムはセルジュに包み込まれた右手を見下ろす。包む手は優しいのに、その指先までが震えていた。
 胸が痛いような気がした。
「セルジュ」
 一言呼ぶだけで、その手がびくりと震える。
 痛い。彼の震える指先が、涙で濡れた目が、どうしてかは分からないがサリムの胸に突き刺さる。
 今感じているものを何と表現したらよいのか分からない。
 いつだって、感じたことをそのままに口に出していた。ほとんど無頓着なまでに、深く考えることも一切なく。
 それだけのことが今はできない。今のこの痛みを表す言葉が見つからない。握られた手の温度をいやに鮮明に感じる。
「セルジュ。やりたいことがある」
「俺でよろしければ、何なりと」
「俺は、お前に幸せになってほしいのだと、思う」
 セルジュは茫然としていた。唇がぎこちなく動く。
「しあわせ、です。俺は、あなたが生きていて、あなたの側に居られるなら、それだけで」
 うわごとのような言葉に、サリムは苦笑する。
 いつでもサリムのことを考えてくれるセルジュ。サリムのことだけを考えてくれる。おおよその場合自分などは二の次で、彼はサリムさえ良ければ全てがそれでいいのだと言う。
 だから可愛いと思った。彼は、己の全てを傾けて愚かなまでにサリムを想う。
 けれど、本当にそれで良いのだろうか。
 初めてそう想ったのは百年前、セルジュを斬る直前。
 あの時はもっと漠然とした思いだった。
 うまく表現できないのは、今も変わらない。
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