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押し殺した泣き声で目が覚めた。
大人が二人寝ても余るような広さのベッドで、サリムは起き上がる。アネルカが用意してくれた部屋は、邸内で最も広い客室だった。二つ並んだベッドの片方は空だ。
部屋を見回すと、窓際にセルジュが居た。細く開けられたカーテンの隙間から、月光が差し込んでいる。セルジュは体を丸めるようにして、窓枠に肘をついて顔を伏せていた。
サリムはそっとベッドから降りて、彼の傍らまで歩み寄る。
「何が悲しいの」
声をかけると、セルジュが勢いよく顔を上げた。彼らしくもなく、気配に気付かなかったらしい。
予想通り、彼の顔は涙で濡れていた。少なくとも百年以上生きているはずのセルジュが、今はひどく頼りなく、寄る辺ない少年にしか見えない。血塗れになってサリムを助けに来た時の勇ましさが嘘のようだった。
「申し訳ありません……」
泣いていたことを恥じるように、セルジュは俯いて顔を拭った。その手が小さく震えているのを見つけて、サリムは何の気無しに彼の涙で濡れた手を握る。
「俺は謝れって言った?」
「……申し訳ありません」
ささやかな月明かりが細く差し込むだけの暗い部屋に、短い沈黙が落ちる。
サリムが黙っているのは最初の問いに答えるのを待っているのだと気付き、セルジュはのろのろと口を開いた。
「あなたの死に顔が、頭から離れないんです」
サリムは左右色違いの目で、じっとセルジュを見つめる。
「およそ百年前、あなたが殺されるところを、俺は見ていました。地面に這いつくばって、何もできず、ただ見ていたんです。その時の光景が目に焼きついて……今も夢に見るんです」
震える声は段々と掠れていく。
「ま、またあなたが……いなくなってしまったらと思うと……俺は……」
落ち着かない息を吐きながら、セルジュは片手で顔を覆った。
今人間として生きているサリムには、悪魔と呼ばれていた頃の記憶は一切無く、そのころの話をされても実感がわかない。誰か別人の話をされているような気さえするが、セルジュはサリムこそが、間違いなく「敬愛するサリム様」だと信じている。
信じて、失うことを怖れて、泣いている。まだ死んでもいないのに。
サリムは微笑した。
瞬く間に日が過ぎ、ことりの誕生日が訪れる。アネルカは盛大に祝おうと提案したが、ことりがそれを頑なに拒んだ。ただ穏やかに誕生日を迎えられればそれで良いということだった。
水色のワンピースを纏ったことりは屈託無く笑って、年相応の少女らしく愛らしい。
ようやく迎えたこの日、ことりはセルジュと二人で、廊下で立ち話をしていた。セルジュは壁にもたれかかり、ことりは窓から外を見ている。何があるか分からず、できるだけサリムから離れたくないので、サリムの居る客室の前の廊下だ。
朝日に照らされる爽やかな若葉を見ながら、ことりは口を開く。
「私のわがままに付き合ってくれて、ありがとう」
「もういいんですか」
「うん。この服を着て、誕生日を迎えられた……私はもう、満足したわ」
薄青の空を眺める、ことりの横顔は寂しげだった。
ことりが誕生日を迎えるまで、と止まっていた計画が、これで動き出す。
それは本来ことりにとって残酷な計画だった。サリムの為にそれを企てたセルジュは、最初は強引にでも協力させるつもりだった。予想外だったのは、ことりが自ら協力を申し出たことだ。
サリムを救い出すにあたって、ことりの協力が必要不可欠だと知ったセルジュは、教会に忍び込み彼女に会いに行った。そうして出会った少女に、セルジュは計画を持ちかける。
かつてカプドヴィエルの悪魔として魂を封じられたサリムを救い出す。その手伝いをして欲しいと、計画の全てを伝えた。怯えて逃げられるくらいのことを想定していたセルジュの前で、ことりは笑った。
凄絶な顔だった。
お父さんとお母さんの、復讐ができるのね。そう言って、泣きそうなのか怒っているのか判別のつきがたい様子で、顔だけを笑みの形にしていた。
ただひとつ、協力する代わりに十五歳の誕生日まで待ってほしい、という条件を提示され、セルジュはそれを呑んだ。
短い期間とは言え教会で生活をしていたことりが、カプドヴィエルの悪魔の所業を知らないはずがない。それでも彼女は自らすすんでセルジュに加担した。
魔物に育てられた娘。
ことりはほんの一年前まで、魔物の両親と暮らしていた。人間であることりと両親の間には、当然血の繋がりは無い。捨て子であったことりを拾い、育てたのがそのつがいの魔物で、三人は本物の家族のように睦まじかった。
魔物が混血でもない人間の子を育てるというのは珍しいことで、ことりの名は魔物の間に知れ渡っている。
人でありながら魔物に育てられたことりは、魔物を相手に怖じることはなかった。ことりが魔物の味方である限り、彼らは優しい。
一年前、そんな日々に終止符を打ったのはリシュタンベルグの神官だった。
魔物は悪しきものであり、聖裁こそが彼らに与えられる唯一の救いである――神官達は、彼らの信じる正義を振り翳し魔物を屠り、人間の少女を魔物から救い出した。
救い出した、と思っているのは神官と教会だけで、本人は決してそうは思っていない。
その時から、ことりは教会を憎み続けていた。そんな彼女にとって、セルジュの申し出は正に願ったりだった。
共に過ごしていると、セルジュは情を移しそうになるが、それはあってはならないことだ。
セルジュはサリムの為に、誰よりも冷酷にならなければいけない。
サリムの為に。目の前で殺されたサリムを守れなかった自分の為に。今度こそ、大切なひとを失うことのないように。
「やはりケーキだけでも……、失礼」
扉を開けた後に、アネルカは忘れていたとばかりにノックした。それから言い直す。
「せっかく誕生日なのだから、ケーキだけでも用意してやりたいんだが、どうだろう」
それを聞く目的だけで、アネルカはサリムとセルジュの部屋を訪ねてきたらしい。ソファーに腰掛けていたセルジュはやや呆れたような顔をした。
「何で俺に聞くんですか」
「友人として意見を求めているんじゃないか。ことりはいらないと言うし」
「好きにしたらいいでしょう」
「何だ、冷たいやつだな。元々お前の友人だろう」
「そんなに長い付き合いでもないですよ」
「そうなのか?」
サリムは会話には全く興味を示さず、肘掛のある椅子に座って、分厚い本に視線を落としていた。本の内容にも興味があるわけではないが、時間つぶしにはなる。
「ところでことりはどこだ? 部屋に居ないみたいだが」
「知りませんよ。庭にでも……」
言いかけて、セルジュは立ち上がった。
先だって襲撃にあったばかりだ。ことりが一人で勝手な行動を取るとは思えない。
すぐに部屋を飛び出そうとしたセルジュだが、踏みとどまり、サリムに声をかけた。何が起こっているか分からない以上、彼を一人にはできない。
セルジュと別れ一人で廊下を歩いていたことりは、突然開いた扉に引っ張り込まれた。
「お静かに。危害は加えません」
閉められた扉の内側で、口を手の平に塞がれ、青年の声が聞こえた。自分を押さえている人物が黒い服を着ていることに気付いて、ことりはそれが何者であるのか悟った。
ことりが抵抗しないでいると、間もなく青年の腕から開放された。すぐに青年から身を離し、ことりは神官の黒い服を着た青年を睨み付けた。
頭に包帯を巻いた青年は、セルジュが縛って連れて来た神官だった。屋敷でも縛られたままで客室に放り込まれていると聞いていたが、今の彼はどう見ても自由の身だ。
「安心して下さい。私はあなたの味方です。私はリシュタンベルグの神官、デフロットと」
「神官が私の味方なんて、ばかなこと言わないでくれる」
いかにも神官らしく誠意を込めて名乗るのを、ことりは敵意に満ち満ちた刺々しい口調で遮った。神官が驚きの表情を浮かべているあたり、ことりは魔物に連れ去られたということにでもなっているのだろう。
いい迷惑だ。自分が教会側の人間だと思われているなど、不快でしかない。
「ラシェルさん? 私とここから脱出しましょう。不安に思わないでも大丈夫です」
久しぶりに呼ばれた名前に、不快感は募る。
ラシェルというのは、ことりが教会に保護された時に勝手につけられた名前だ。その名で呼ばれることに甘んじていたのは、大嫌いな神官に、両親のつけてくれた大切な名前で呼ばれたくなかったからにほかならない。
「いい加減にして。なんで教会の人って、そうやって人間は皆教会とか聖人を信じてるって思い込めるの? すごく不思議なんだけど」
少女から辛辣な言葉を浴びせかけられた神官デフロットは、複雑そうな顔をしていた。
「君が一緒に居るサリムという少年が、どれほど危険な存在か、君は知らないのでしょう。あれはかつてカプドヴィエルの悪魔と呼ばれた魔物の魂を持っています。魔女公主に仕え、大勢の魔物を率いて、このアルカデルトを滅ぼそうとした悪しき者です! このまま野放しにしていては、百年前の惨劇が繰り返されないとも限りません。百年前はリシュタンベルジェル様が封印されましたが、かの聖人も今は眠りに就いたまま……」
知っている情報を繰り返されたところで、意思が揺らぐはずは無い。
優しい湖面色の瞳を今は凍てつかせて、ことりはデフロットを睨み付けた。
「掃討作戦なんて言って魔物を虐殺するくせに、自分達が殺されたら惨劇? 自分が何を言っているのか、もう一回考えてみたら?」
ことりはぎゅっとワンピースを握り締めた。
本当なら一年前の今日は母の作ってくれたこのワンピースを着て、両親に祝福され、ささやかなごちそうを食べて過ごすはずだった。両親と笑って過ごすはずだった。そんな未来が叶わなくなってしまったのは、奪われたのは、誰のせいなのか……考えるだけで、ことりの胸は焼けるようだった。
ことりを捨てたのは人間なのに、その人間がことりから両親を奪った。ことりから何かを奪っていくのは、いつだって人間だ。
人間の味方である神官とことりとでは、永遠に分かり合えない。
「君は魔物の中で暮らして、混乱しているだけです。教会に戻れば分かるでしょう。我々人間は、人の中で生きていくことこそが幸せなのだと」
「私はもう幸せになんてなれない。私の幸せは教会に、あなたたちに奪われたの」
「そんなのは思い込みです。幸せになれないことなんてありません。過去を受け止めて、これからどう生きていくか、それが重要なのです」
「だからやりたいことをしているんじゃない」
どこまで行っても平行線のやりとりに焦れたデフロットは、深い溜息を吐いた。
「分かり合えないのは残念ですが……君もいずれ分かるでしょう」
デフロットが、ことりの背後にちらりと目配せする。気配に気付いた時には遅かった。口元に布を押し当てられ、やがてことりの体から力が抜けた。
刃物で切断された縄の切れ目を見て、セルジュが顔をしかめ、アネルカが額を押さえて溜息を吐いた。
「魔物を匿うことは我慢できても、神官を縛って閉じ込めておくことは我慢できない奴が居たみたいだな」
サリムとセルジュ、アネルカの三人は、神官を閉じ込めていたはずの部屋に集っていた。そこは既にもぬけの殻で、切断された縄が落ちているだけだ。
「今屋敷内を探させているが、まあ……無駄だろうな」
眺めていた縄をぽいと投げ捨てて、セルジュは苦々しい顔をする。
ようやくことりが誕生日を迎えた日にことりを連れて逃げるとは、この神官は全くタイミングが良いのか悪いのか。腹立たしいことこの上ない。
「逃げられたということは、この居場所もばれるということです。長居はできませんね」
「なあ、セルジュ」
アネルカはセルジュの袖を引いて、耳元に口を寄せた。
「やっぱり、やめることはできないのか? これでは……ことりが可哀相だ」
「ことりも望んだことです」
これから起こるであろうことを考えて顔を曇らせるアネルカを、短く切り捨てる。
サリムだけ、ことりが消えたことも、神官が逃げたことも全く気にならない様子で、窓の外にぼんやりと視線を投げていた。
慌しい足音がして、部屋に使用人の青年がかけこんでくる。彼は肩で息をしながら、アネルカに紙片を差し出した。
「玄関にこんなものが……」
「どれ」
アネルカは受け取った短い文章に目を通して、次にセルジュに渡した。持ってきた使用人は下がらせる。
そこにはご丁寧に、ことりは教会に連れて行く旨が記されていた。几帳面な文字で綴られた文を苦々しい顔で読み、紙片をアネルカに返す。
「我々を連れて行こうにも分が悪いから、ことりを人質に教会まで来いということですか」
「行くのか?」
「仕方ないでしょう。ことりが居なければ話になりません」
「敵の本拠地だぞ。お前、それで大怪我しといてまだ懲りないのか」
「懲りる懲りないじゃありません。取り返しに行かないことには、どうにもならないんですから」
セルジュとて幾度も訪れたい場所では無かったが、引き下がるわけにはいかない。
二人の言い合いは、礼拝を装った変装をして穏やかに侵入する、ということでひとまずの決着を見た。ただでさえ包帯の取れないセルジュが、正面から切り込んでいくのは得策ではない。
どちらにしろ荒っぽいことにはなるのだろうが。
サリムは白いシャツに黒いジャケットの、貴族めいた服に着替えさせられた。髪を結い上げて帽子を深く被れば、特徴的な瞳も鍔の影に隠れる。
セルジュは綺麗に繕ってもらった軍服を着込んだ。いつも通り剣を腰に提げ、袖口や服の内側に幾つかナイフをしまう。その上から地味なマントを羽織ってしまえば、装備は見えなくなる。サリム同様帽子で髪を隠し、できるだけ魔物の瞳が目立たないようにした。
リシュタンベルグの教会で過ごしていたサリムは顔を見られれば正体がばれてしまうが、聖都なだけに多くの人間が集まる礼拝の時間に紛れてしまえば、教会に入り込むことくらいはできるだろう。
「ご自分の身が危ない時は、躊躇わずに」
セルジュはそう言ってサリムにも剣を持たせた。
聖都の教会までは距離があるが、今出れば夕方の礼拝には間に合う。若い貴族とその従者のような格好で、二人はアネルカの屋敷を後にした。
移動に使う馬車は、またもアネルカが貸してくれた。
走る馬車の中は、単調な車輪の音が響く以外、静かなものだった。
セルジュは何か考え込む様子で黙り込み、セルジュが黙っていればサリムから喋り出すことはほとんど無い。
険しい顔で窓の外を見ていたかと思うと、セルジュの視線がサリムへと向けられた。真摯な光を宿した金色の双眸。これがサリムのためならば酷薄に煌き、人を傷付けることも厭わない残酷な色に変わる。
人をどれだけ傷付けようと、それがサリムの為であれば、躊躇いも後悔も無い。一方で、サリム一人を失うことを怖れ、夜中に一人で泣いている。そんなセルジュが、サリムは嫌いではなかった。
例え彼が血に塗れていても、恐ろしいなどと一度も思ったことはない。サリム一人の為だけに全てを捧げ、無垢なまでの気持ちを傾けられる。何を見ても心を動かすことのないサリムだが、彼のことは素直にかわいいと思えた。
ひたすらに自分のことを追いかけ、自分のためにその身を犠牲にする様が、かわいい。
例えばことりなら、自分の為に人が傷付くことは嫌がるだろうし、我が身を省みず危険に突き進む姿に眉をひそめ、心配しただろう。けれどサリムにはそういった感情の一切が欠落していた。
「サリム様。これから、あなたにとって辛いことがあるかもしれませんが……俺が、あなたのことを第一に考えて行動しているということだけは、忘れないでおいて下さい」
難しい顔をして何を考えていたかと思えば、セルジュは真剣にそう言った。
「何があるの」
「……いいえ」
サリムの質問に返事にならないような返事をして、セルジュの顔が曖昧な笑みに歪む。
自分の身に関わることであっても、別段興味があるわけではないサリムは、それ以上追求しなかった。
「……ことりは、恐らく無事でしょう。俺達を誘き寄せるのが目的なら、それまでは手出ししない筈です」
「そう」
サリムが興味を持つ話はごく少なく、会話は長く続かない。
いつもならそんな沈黙さえも居心地がいいというような様子のセルジュだが、今は違った。どことなく、彼は焦っている。
口を閉ざしていることが惜しいとでも言うように、何でもいいからと話題を探して、口を開く。その焦燥の正体が何か分からないまま、サリムは彼の声に耳を傾ける。
「サリム様は、カプドヴィエルに君臨していた頃の記憶は無いと存じておりますが、教会ではカプドヴィエルの悪魔がどのように言われているかご存知でしょうか」
「……魔女と共謀して、この国を破滅させようとしたんでしょう」
大まかなことくらいしか記憶にないが、とにかく聖書に出てくる悪しき魔物の筆頭のような扱いだった。何となく思い出して答えれば、セルジュは不服そうに言う。
「百年前、この国アルカデルトが崩壊の寸前まで追い込まれたのを、教会は全てカプドヴィエルの悪魔、あなたのせいだと言っています。本当の原因がどこにあったかも知らずに……いえ、全て分かった上で隠そうとしているのかもしれません」
セルジュは冴えない顔色で続ける。
「あなたが王国を破滅に追い込んだそもそもの原因は、人間達が聖人と崇める、あれにあったというのに」
百年前、魔女公主と呼ばれた女性の治める地があった。彼女は本来、アルカデルト王国の東方、カプドヴィエルの領主に過ぎなかったが、魔を統べる魔女であるとして、いつからかそうあだ名されるようになった。
やがて魔女公主はアルカデルトに反旗を翻した。魔女公主の配下の中でも主力として戦い、王国に壊滅的な被害をもたらした魔物は、カプドヴィエルの悪魔と呼ばれ、後の世にまで名を残すことになる。魔女公主と並ぶ、悪の名として。
神官でなくとも、国民なら誰もが知っているその話の半分は嘘だということを、アズナヴールは知っている。
ほかでもない、彼が敬愛してやまない聖人、リシュタンベルジェルから聞いた話である。
カプドヴィエルの悪魔が王国に壊滅的な被害をもたらしたのは本当だが、魔女公主が反旗を翻したというのは全くの嘘である。更に言えば、カプドヴィエルの悪魔は魔女公主の配下などではない。
カプドヴィエルの悪魔、サリムが魔女公主に従っていたとでも言おうものなら、途端にリシュタンベルジェルの機嫌は悪くなる。
人々が思い描く、王国の救世主の聖人の姿と、現実のリシュタンベルジェルの姿には、大きな隔たりがあった。
アズナヴールが初めて聖人にまみえたのは、まだ彼が十四歳の頃のことだった。子供達が中等部に通う年頃だが、身寄りのない子供として教会に引き取られたアズナヴールは、学校で教わるような勉強は、全て教会で教わった。教会にはアズナヴール以外にも親の無い子供は多く、勉学と同時に神官としての教養も身に着け、彼らはほとんどがそのまま神官になる。
幼い頃からの教育で、多くが心から聖人に仕える神官となる中、アズナヴールは例外だった。
周りに合わせて神官への道を歩んでいたが、信仰心は皆無に等しい。教育係の神官も手を焼く、捻くれた子供だった。
長じるにつれて、段々と講義を抜け出すことの多くなったアズナヴールは、ある時立ち入りを禁じられている部屋に忍び込んだ。いつもなら閉ざされている扉の鍵は開放され、扉守も見当たらない。隠されれば気になるもの。ただの好奇心で、アズナヴールは廊下を駆け、部屋へ潜り込んだ。
白い布が幾重にも垂れ下がっている部屋の中には、数人の神官が居た。
聞き耳を立ててみると、どうやら魔物の討伐に使用する武器の祝福を受けていたらしい。
力の強い魔物になると、ただの武器では致命傷を与えられない。聖人リシュタンベルジェルの祝福を受けた剣だけが、無敵とも呼べる効力を発揮するのだという。
室内では何らかの儀式が行われていたようだったが、アズナヴールが覗いた時にはもう終わっているらしかった。
無事に儀式が終わったことについて言葉を交わしている神官の声に混じって、清涼な笑い声が聞こえる。
「さあ、僕の為に思うまま殺しておいで。憎き魔物どもを」
聞いたことのないほど美しい声の囁き。そこに潜むのは、残酷な響きだった。
アズナヴールは即座に確信した。
これはリシュタンベルジェルの声だ。
聖人だと誰もが崇める人間の、清廉な声で紡がれた、誰もが抱く聖人像とはかけ離れた言葉に、アズナヴールは隠れていたことも忘れて、思わず吹き出した。
何が聖人だ。どう聞いたって性悪だ。あまりに可笑しくて、滅多にないほど笑い転げるアズナヴールは、すぐに神官達に見つかった。
高位の神官達に取り囲まれて事情を説明したが、最初は信じてはもらえなかった。神官達の中で聖人の声が聞こえるという人間が一人も居なかったのだから、不真面目な見習いの少年の言うことを戯言だと一笑に付したのも無理は無い。
しかしもしも事実ならば看過できるものではない。真偽を確かめるべきだと幾度か聖人の眠る部屋に入れられ、聖人しか知りえない話を聞いては神官に伝えると、やがては言い分を信じてもらえるようになった。
聖人は、部屋の奥で棺に入って眠っていた。部屋の奥、白い布をめくると白く塗られた棺があり、蓋部分は一面ガラスでできている。中には枯れない白い花が敷き詰められ、その中央に埋もれるようにして、一人の少年が指を組んで瞼を閉じていた。
着ている服は純白で、肌の色さえも雪のように白い中、波打つ長い髪だけが清浄な淡い金色の光を零している。
初めてその姿を目の当たりにした時には、アズナヴールは呼吸さえ忘れた。これが本当に生き物なのかと疑うほどの美がそこに横たわっていた。
彼がその長い睫に縁取られた瞼を開いて、滑らかな皮膚に覆われた体で動くところを見たい。猛烈な欲求に駆り立てられる一方で、標本のようにガラスの内側に納まっているその姿には、倒錯的な恍惚を感じさせられた。
最早彼の前では性別なども取るに足らない問題で、アズナヴールは眩暈さえ覚えた。
聖人と讃えられるに相応しい美を持ちながら、彼の言葉は歪んでいる。その不均衡さも含めて、心を奪われるには充分だった。
特例的に、聖人の眠る部屋への出入りを許されたアズナヴールは、逢瀬を求めて幾度も部屋を訪ねた。その度他の誰にも聞こえない声を聞く。歪んだ心から吐き出される言葉。
初めて毒を盛られて、生死の淵を彷徨ったのはその頃だ。
アズナヴールに聖人の声が聞こえると知っているのは、上位の神官のごく一部だけだった。その神官達の中では、アズナヴールを神聖視する者と、異端視する者とに分かれていた。
聖人に取り入ろうと、アズナヴールに何かと便宜を図る神官が居る一方で、極端に彼を疎み、過激とも思えるやり方で排除せんと画策する神官も少なくなかった。腕が立つアズナヴールに正面から勝負を仕掛けるような者はおらず、方法はもっぱら陰湿なもので、おかげで今ではすっかり毒物に体が慣れてしまった。
結局諍いの種にしかならないアズナヴールは持て余され、王都アルケードの教会へと移された。
それ以来酷い目に遭う回数は減ったが、比例して聖人に会う回数も激減する。アズナヴールは偶に用事でリシュタンベルグの教会に呼びつけられると、必ず聖人に会いに行った。
いつ会いに行っても聖人は美しく、そして性格は最低だ。
「そろそろかな」
珍しく機嫌の良さそうな声。今日も聖人の部屋に入り浸っていたアズナヴールは、自然と微笑む。
「何がです」
「決まっている。あの悪魔がよみがえるんだよ」
「カプドヴィエルの悪魔の魂なら、とっくに人の器に入っているでしょう」
「お前はばかだね。僕は悪魔がよみがえるって言っているでしょう。人の体なんかに納まってるだけのアレを、悪魔なんて呼ばないよ」
アズナヴールをばかだと詰る声さえも浮かれているようだった。
本当にこの人はどうしようもない。顔が益々綻んでしまう。
アズナヴールが知る限り、聖人リシュタンベルジェルほどの、カプドヴィエルの悪魔信奉者は居ない。人に紛れて暮らしているそこらの魔物よりよっぽどあの悪魔に耽溺している。
カプドヴィエルの悪魔に常に付き従っている忠臣の魔物とはアズナヴールも一度剣を交えたが、その魔物と聖人どちらの方がより悪魔に傾倒しているのかすら怪しい。
しかし聖人リシュタンベルジェルの気持ちはどこまでも歪んでいる。鳥を鳥籠に閉じ込めておきたいのならまだしも、聖人はその翼を叩き折ってでも鳥籠に閉じ込めておかなければ気が済まない。それで鳥が死んでも満足して眺めるのかもしれない。本当にどうしようもない。
聖人のそのような反吐が出るほど利己的で幼稚なところも、アズナヴールは非常に気に入っていた。聖人本人がその愚かさに気付いていないところも素晴らしい。
教会の祀る聖人がこれなのだから、おとなしく寝かせておきたいという教会の意向はアズナヴールにも理解できる。
「ということは」
「アレが悪魔としてよみがえるってことだよ。本当に楽しみ……」
くすくすと笑う声だけを聞いていれば愛らしい。しかしそんな朗らかな口調で歌うように喋っているのは、まともな神官なら卒倒しかねない内容の話だ。
「あの悪魔の居ない世界で起きていたってつまらないから、大人しく寝ていてあげてるけれど、分かってるね、ジード。あの悪魔が目覚めたら、僕を起こすのはお前の役目だよ」
聖人しか呼ばない己の名前を呼ばれて、アズナヴールは満足気に目を細めた。
十四歳の頃から憧れ続けた聖人の目覚めを、目にできる日が近い。しかもその眠りを覚ますという大役を、自分が仰せつかったのだ。これほどの喜びがあるだろうか。
「お任せ下さい」
悪魔に傾倒しすぎて、神官達により眠りにつかされた聖人。
その歪みこそを愛するアズナヴールは、これ以上ないほどの笑顔で答えた。
ことりとクロディルドの間には険悪な空気が漂っていた。
さらわれたことりが連れて来られたのは、教会に隣接する宿舎だ。そこでは、神官やその見習い達が生活している。サリムやことりが教会に居た時も、宿舎の一室を宛がわれていた。
ことりが今押し込められているのは、その宿舎の端の方に位置する客室だった。部屋の広さは、神官見習いの使う二人部屋と同程度だ。窓から陽の入る位置に机があり、あとは小さなクローゼットとベッド。部屋に三つある扉は浴室と手洗い、残るひとつが廊下へと繋がる出入り口になるのだが、その扉の前には常に神官が立っていた。見張りの神官が交代する時に、外にも見張りが立っているのが見えた。
手狭な部屋の中、ことりとクロティルドは向かい合って立っていた。目付きのきついクロティルドにじっと見られると必要以上に睨まれているように感じられ、自ずとことりも睨み返していた。
ことりは彼女を知っている。教会で暮らしている間、彼女は自分のことをいやに睨んでいた。直接話したことは無かったが、その目が印象的だった。
そして今はその目が真っ向から、ことりのことを見据えている。
「ご自分が何をしたのか、分かっていますか」
冷たい声には怒りが滲んでいる。
「あなたは人間でありながら魔物に加担しようとしていた。騙されていたとはいえ」
「騙されてなんていないわ。私が望んで協力したの」
毅然として言い返すと、クロティルドが眉を顰める。
「それが騙されていたってことよ。あの悪魔の臣下、あれの目的が成し遂げられていたらあなたは」
「知ってる。私がどうなるかなんて知ってるわ」
一方的に断定しようとするクロティルドをことりが遮る。
人間が苦手なことりだが、神官は特に大嫌いだ。両親を殺した神官。直接手を下した相手ではなくとも、神官であるというだけで憎い。もっと言うなら、教会を信仰している全ての人間が呪わしい。
神官がいなかったら、教会がなかったら、自分は両親と引き離されることもなかった。何事もなく誕生日を迎えて、母の作ってくれたこのワンピースを着て。笑顔に包まれて生きていけた筈だった。
もしもなど考えても仕方がないが、それでも考えずには居られない。
掃討作戦と言う名目で、山奥で暮らしていた両親は殺された。近場に隠れ住んでいた魔物達も皆殺されたたらしい。ことりにしてみれば、気のいい隣人だった。ことりが一番年下で、誰もがことりに優しかった。
可愛がってくれた皆は、神官によって皆殺しにされた。
憎くないはずがない。
ことりの帰る場所は永遠に奪われ、無理矢理教会に押し込まれた。
誰よりも忌むべき神官達と寝食を共にするのは耐え難い。
味方など一人も居ない場所で、ことりはそこから逃げ出すことばかり考えていた。そして復讐を夢想した。
教会を逃げ出して、下町の方へ逃げ、恐らく隠れ住んでいるであろう魔物に匿ってもらい、いずれは教会に復讐を。
魔物と暮らしていてもただの少女だったことりには、勿論そんな力は無い。魔物と戦う為に訓練を積んだ神官に適うはずが無い。それでも考えずには居られなかった。
両親の為に。あの時殺された優しい魔物達の為に。復讐を果たさなければ。
妄執ともいえる思いに取り憑かれ、しかしそうしていなければ、ことりは立っていることさえできなかった。いつか無念を晴らすのだと信じることだけが、ことりの支えだった。
血塗れの両親の姿が瞼に浮かぶのだ。
ついさっきまで笑っていた筈の優しい人たちが、苦悶の表情で絶命している。
その無念を晴らすまで、ことりの心は自由になれない。悲しみと憎しみで狂いそうだった。
「知っていてなぜ、人間であるあなたがそうまでして、魔物の味方などするんです」
「私の両親は魔物だわ。だから私だって魔物なのよ」
その言葉が嘘であることは、ことり自身が一番わかっている。もしことりが魔物だったなら、一人生き残ることなく、両親と共に逝けたのだから。一人生き残って、こんなにも何かを呪うこともなかった。
両親が大切に育ててくれた自分が、今では気が狂うほど憎むものがある。それは両親の優しさに背くようで胸が痛かった。
こんな風になってほしくて、ことりを育てたのではないだろうに。それでも、ことりにはもうそれ以外何もなかった。
ことりにとって、セルジュに出会えたことは本当に幸運だった。
彼はわざわざ教会に忍び込み、ことりに声をかけに来たのだ。忍び込んできた魔物を見て、ことりは真っ先に安堵した。人の群れで神経をすり減らして生活していたことりは、見も知らない相手であれど、魔物の方がずっと近い存在に感じた。
そしてセルジュは、ことりに復讐の手段を与えてくれた。
力ないことりが、教会に、人間に復讐できる唯一の方法。
たとえそれが残酷な結末をもたらそうと、是も非も無かった。ことりにならばそれができるのだと、ことりにしかできないのだと、教えてくれたセルジュには心の底から感謝した。
「愚かなことを。あなたの本当の両親は、人間の筈でしょう」
「知らないわ。だって見たことないもの。それにもう生きていないでしょう。穢れし血の聖女なんて」
「……知っていたの」
意外そうな顔をするクロティルドに、微笑んでみせる。ことりにとってはむしろ、彼女が知っていたことの方が驚きだった。
ことりの本当の両親の話は、セルジュが教えてくれたことだ。初めて会った時に聞かせてくれた。
母であった女は「穢れし血の聖女」と呼ばれる血を受け継いでいたのだという。
百年前、カプドヴィエルの悪魔を討った聖女だ。悪魔はその後聖人によって封印されたのだが、聖女はその戦いで悪魔の血を浴びて穢れを受けたと言われている。そのせいで一族は処刑の憂き目に遭ったが、ことりの母であった女は逃げ延びた一族の末裔だった。
しかしことりが生まれて間もない頃、教会に出自を突き止められてしまい、処刑される前にことりだけでも、と捨てられた。そこを魔物に拾われたらしい。
しかしその血を受け継いでいたことりだからこそ、セルジュに協力することができる。穢れし血を受け継いだ最後の娘である、ことりだからこそ。
「ああ、でも、そうしたら……生みの親も、育ての親も、教会に殺されたのね」
ふと思いついたようにことりが笑う。クロティルドは露骨に嫌そうな顔をした。
「何を笑っているの」
「だっておかしいもの。そんな教会の人に、何でお説教されなきゃいけないの? 全然分からない」
「私は教会の判断が間違っていたとは思わない。魔物は生まれながらに罪深く、あの悪魔ならなおさら。そんな魔物によって穢された人間の血が繋がるのは避けなければなりません」
「理由があったら人を殺してもいいのね。だったら私が罪を問われるのもおかしいわ」
「そういう話をしているわけじゃない!」
ほとんど怒鳴るようにクロティルドが叫ぶ。室内の会話など聞こえていないかのような素振りで扉に立っていた見張りまでもが、あまりの怒気に体をびくつかせた。
「教会の行いは正しいのだと言っているの。身勝手な理由で、国民全てを危険に晒すような真似は、どんな理由があっても許されない」
「教会が正しいっていうのは誰が決めたの? 誰にとって正しいの」
ことりは淡々と問う。湖面色の瞳に揺らぎは無い。
静かだが強い口調で、クロティルドが言う。
「……あなたの考えは危険だわ。魔物に毒されすぎている」
「だから言ってるじゃない。私は人じゃなくて魔物なの。お父さんとお母さんと同じ、魔物なの。ずっとよ。死んでもそうなの」
「なら、私も神官として遠慮は要らないってことね」
クロティルドは一歩後ろに下がってことりから距離を取ると、腰に提げていた得物をすらりと抜いた。
剣を掲げる。刃がきらめき、磨きぬかれたそれはことりの顔を映した。鞘や柄には飾り気の無いものだが、刃自身が清廉な輝きを放っている。
毅然としていたことりが若干の動揺を見せた。
まだここで死ぬ訳にはいかない。
「聖人リシュタンベルジェル様が特別な祝福を授けて下さった剣よ。たとえ、悪魔と呼ばれる者でさえ、切り裂き、その罪を裁くことができる」
その刃のきらめきをことりにしっかりと見せ付けて、クロティルドは剣をしまった。ことりを脅しつけることだけが目的だったらしい。
「あなたを救い出すために、恐らくサリムと魔物が乗り込んでくるでしょう。それが……サリムとお別れの時よ」
クロティルドの顔は冷淡なようだったが、どこか辛そうにも見えた。ことりの知るところではないが、サリムの世話係として側についていたのだ、それなりに思うところがあるのだろう。
剣を手に勇ましく戦う神官であっても、クロティルドも少女に過ぎないのだから。
クロティルドが出て行ってすぐに、見張りの神官が交代した。捕まってすぐの頃は、見張りが定期的に交代する隙を狙って逃げ出そうとしていたことりだが、失敗に終わってしまい、なすすべも無く閉じ込められたままになっている。
このまま大人しくしていれば、ことりは暫く生かしておいては貰える。サリムとセルジュを誘き寄せるえさとして。
二人が乗り込んできてくれたなら、人間の神官くらい何とかなるだろうと思う一方で、自分が捕まっていることで迷惑はかけられないとも思う。
サリムが捕まった時に教会まで助けに行ったセルジュは、満身創痍で帰って来た。今回もそんなことになるかもしれない。第一、その時の傷もまだ癒えていないのだ。
ベッドに腰掛けて思案に暮れることりの側に、神官が寄ってくる。交代したばかりの見張りの神官だ。白い帽子を深く被った彼は、ことりの傍らにそっと屈んだ。何事かと身構えることりに、耳打ちしてくる。
「ことり様、私は味方です。セルジュ様の命で、随分前からここに潜入していました」
いかにも真面目そうな神官の言葉に驚いて、ことりは彼を見上げた。騒がないように、と神官が口の前に指を立てて示す。
疑うことはなかった。自分の事をことりと呼ぶのは、魔物か魔物寄りの人間だけだ。教会の人間なら、例外なくことりをラシェルと呼ぶ。神官に勝手に付けられた忌々しい名前。
「探し物をしていたんです。在り処を突き止めても、厳重に保管されていて、持ち出すことができなかったんですが……サリム様がおいでになることで保管場所から持ち出され、今は彼女が携帯しているようですね。私はこれをセルジュ様にお伝えします」
神官はしゃがんでことりと視線を合わせると、ことりの両手に自分のそれを重ね、実直な瞳でことりを見た。
「ことり様、私とここを抜け出しましょう。教会の手に落ちたままでは、サリム様やセルジュ様の足枷になりかねません」
こくりと頷いたことりは、すぐに顔を曇らせた。
「でも、外にも見張りがいるんでしょう」
「そうですね」
神官は辺りを見回す。部屋にひとつだけある窓は、腕も出せないほど少ししか開かないようになっている。叩き壊したりしたら、扉の外の見張りがすぐに気付き、騒ぎになるだろう。
神官は提げていた剣でシーツを引き裂き、適当な大きさで丸めた。何を始めるのかと見ていることりの前で、神官はトイレの扉を開けた。丸めたシーツをトイレに投げて、そのまま流してしまう。
「セルジュ様みたいに戦って抜け出した方が格好は良いんですけど、すみません。私はあまり戦い慣れてないんです」
情けなさそうに苦笑するが、聖都の教会という敵の本拠地とも言うべき場所に潜り込んでいるのだから、この青年の度胸も相当なものだろう。
彼は今度は出入り口の扉を開けた。
「すみません。トイレが壊れてしまったみたいなんですが」
「なんだって? どれ」
外の見張りの神官が中に入ってきて、シーツを流したせいで詰まって水が溢れているトイレを確認した。
「こりゃ駄目だな。仕方ない、外のトイレを使うといい」
「すみません、そうしてもらいます」
部屋から出られるようにとあっさり許可を取り、神官に促されてことりは部屋を出た。
水色のワンピースを着たままのことりは目立ち、誰もがちらりと視線を投げてくる。しかし側に神官が歩いているので、誰も不審には思っていないらしかった。
「そろそろ夕方の礼拝の時間ですね。恐らくその時の人混みに紛れて来るのではないかと思います。それまでどこかに身を隠して、お二人がまだ来ないようだったら、教会から抜け出しましょう」
「あなたも?」
「ええ。下町に行けば仲間が居ます。手助けして貰えるでしょう」
小さな声で会話をしながら、さりげなく辺りを見回す。神官達が慌しく行き来しているのは、礼拝の準備のためだけではなさそうだ。
もしこんな場所で戦うことになったら、礼拝に来た民間人まで巻き込むことになるのではないか。そんな心配をしている自分に気付き、ことりは自嘲的に笑った。
忙しそうにしている神官たちの間を縫って歩いていると、一人だけ妙にのんびりとした足取りの、金髪を黒いリボンでくくった青年が目に入った。鼻歌でも歌いだしそうな様子の彼は、周囲から浮いている。
神官と連れ立っていることりに目をとめた彼は、そのままのんびりとこちらに歩み寄ってきた。
「アズナヴール様」
神官が引きつったような声を上げた。アズナヴールは薄気味が悪いほどににこにことしている。
「どこに行くんですか?」
「いえ、その」
急に歯切れの悪くなる神官をことりは見上げる。この態度はアズナヴールのことが苦手なのか、それともやはりこの読めない笑顔のせいなのか。
神官が言い訳をするより早く、アズナヴールが言った。
「まあ、どこに行こうといいんですけどね」
「はあ」
気の抜けた返事をする神官を手で招いて、アズナヴールはそっと耳打ちした。囁きではあったが、それはことりにもぎりぎり聞こえるくらいの音量だった。
「ちなみに、神官は旧聖堂に魔物を追い込んで迎え討つつもりだ。隠れるならその近くにしたらいいんじゃないか。ただ、準備のために神官が大勢出入りしてるから、見つからないように気をつけて、できたら裏から回った方がいい」
ことりも神官も、驚いて長身の青年を見上げた。当の彼は底の読めない笑いを浮かべるばかりだ。
「安心しろよ、別に誰かに言ったりしない」
彼は確実に、神官が魔物に加担していることも、ことりがその神官と共に脱走を企てていることも気付いている。傍らに立つ神官の青年の態度からして、アズナヴールも魔物の味方ということは無いだろう。神官の服を纏った彼は間違いなく神官で、教会側の人間だ。
「どうして……?」
ことりがか細い声で囁くと、アズナヴールはとても嬉しそうににっこりと笑った。
「気にしないでいいよ。俺は、眠り姫の仰せのままに動いてるだけだから」
そのままアズナヴールは軽い足取りで歩いて行ってしまう。振り向きもせずに片手を振って。
二人はその背中を呆気にとられて見送った。ややあって、神官の疑わしげな声が聞こえてくる。
「どうしましょうか」
「今の人って、神官なのよね。何だか、変わった人だったけど……」
「王都の神官です。かなりの聖人信奉者のようですが、その、今のように少し言動がおかし……個性的で、敬遠されがちな人です」
気まずげな声に、ことりはアズナヴールの発言を思い出す。そういえば眠り姫がどうとか言っていた。ことりには何のことか分からないが、神官の中にいてあの態度では、目立って仕方ないだろう。ただでさえ容姿が目立っているというのに。
「信用していいのかしら」
あまり立ち止まっていると逆に目立ってしまうため、二人は歩き出した。いかにも怪しげなアズナヴールを信じて良いものか迷いつつも、足は自然と旧聖堂へ向かっていた。
教会の敷地の隅の方にある、今は使用されていない古い聖堂だ。まるで目隠しするように、周囲には木が生い茂っている。神官達の日課である朝の清掃ではここも掃除するのだが、陰々とした空気は払えない。木々の間にひっそりと佇む古ぼけた建物は、夕陽の橙色さえ枝葉に遮られて、妙に不安を煽られる。
茂る木々の裏に隠れるようにして、旧聖堂と、そこへ出入りする神官達を見ていたことりは、胸の前でぎゅっと手を握り合わせた。
小鳥と呼ばれた。
両親から。近隣に暮らしていた魔物達から。同じように小鳥と呼ばれた。
それはもしかしたら、小さな雛を拾って育てたというだけの、愛玩動物を可愛がるのと同じだったのかもしれない。
それでも、ことりは幸せだった。
可愛い小鳥、私達の子供。歌うように言って、優しく撫でてくれる温かな手。
もう二度と戻らない、温かな手。
ことりは幸せだった。
アルカデルト随一の規模を誇る、聖都リシュタンベルグの教会だけあって、夕方の礼拝の時間になると教会には多くの人間が訪れていた。門の前では門番が槍を片手に立っていたが、人波に紛れてしまえば神官の目につくこともない。紛れ込むことは容易かった。
セルジュは周囲に気を配りながら、サリムを伴ってさりげなく聖堂へと向かう人混みから外れていく。
一人の神官が、人の流れに逆らって二人に近付いて来た。瞬時にセルジュの金色の目が険しくなるが、それが誰なのか察して、警戒を解いた。
その神官はセルジュにちらりと視線を投げると、歩く速度は緩めず、擦れ違い様に軽くぶつかるようにして紙片を手渡してきた。
神官が十分遠ざかってから、紙片を手の平に隠すようにしてほんの一瞬目を走らせ、内容を確認してポケットにしまう。
目的のひとつであった、潜入していた者との接触を果たし、セルジュは第一の目的であることりの奪還へと頭を切り替えた。
聖堂へ視線をやれば、両開きの扉の前には左右にそれぞれ神官が立っている。聖堂ならば誰でも入ることができるが、他の建物ではそうはいかない。
サリム奪還に訪れた時は、動転して、作戦も何もなく正面から斬り込んでいった。自分を引きとめようとする門番も、向かってくる神官も全てを斬り捨てて、他人と自分の血にまみれながら。
彼は一人でどんな目にあっているのだろうか。命の危機に晒されても、もしかしたら抵抗すらしていないかもしれない。昔から頓着しない人だった。自分にも他人にも。そう考えれば焦る気持ちは止まらなかった。
今落ち着いて、どうやってことりを探すのかを考えていられるのは、サリムが側に居るからだ。側に居れば守ることができる。
ふと、先ほどとは違う神官が近付いてくることに気付き、セルジュは身構えた。しかし相手は戦う気はないようで、ある程度の距離を開けて立ち止まり、二人を見て厳かに言った。
「お待ちしておりました。このような場所で争うのは我々としても本位ではありません。場所を用意してあります。話し合いましょう」
話しかけてきた神官の後ろにも、数人の神官が控えている。周囲からも視線を感じた。
話し合いに応じる理由などないし、どうせ建前であるということも分かっていた。悪魔の目覚めを、教会がみすみす見逃すはずがない。そうでなくても、教会に入り込んだ魔物に対する教会の所業など決まりきっている。厳しい聖裁を授けることで、教会の力を示すのだ。そうして魔物を牽制し、同時に人々に教会の威光を知らしめる。
人間がまだ周囲に大勢居るこの状況で立ち回りを演じるのはやりにくいだろう。セルジュもそうだが、人間を傷付けられない神官達は尚更だ。
彼らは、被害が出ないようにサリムとセルジュを聖堂から引き離したいのだ。そして教会が用意した場所に招いて、そこで討つつもりなのだろう。
「分かりました」
意図が透けて見えているが、セルジュはそれに乗った。
ここで騒ぎを大きくしても逆にことりを捜すのに難航するだろうし、大人しく着いて行けば恐らくことりに対面くらいはさせてもらえる。罠にかかりに行くようなものだとしても、それに賭けるのが手っ取り早かった。
セルジュの探していた物も、神官の少女が所持しているという報告をもらった。神官の用意した交渉の場には、彼女も同席すると思わしい。
サリムとセルジュの二人は、神官の後に続き、人気の少ない敷地の奥の方へと歩いて行く。数人の神官が二人を取り囲むようにしてついているのが不愉快だった。
最早変装する意味もないので、セルジュはマントと帽子を外していつもの黒い軍服だけになった。邪魔だったのか、サリムも帽子を取る。
連れて行かれた先は、生い茂る木々に隠れるようにして建っている古びた聖堂だった。
両開きの扉を開けられて中に入る間も、神官達の視線が二人に突き刺さる。口では話し合いだなどと言いながら、敵意を隠すつもりもないようだった。
旧聖堂の中は広かった。長椅子の類は全て片付けられており、天井は高い。上の方には曲線的な模様を描く大きな窓があったが、周りを囲む木々のせいかほとんど光は入らない。壁にぐるりと等間隔で灯された明かりも、薄暗さを解消するには至らなかった。
旧聖堂の中央より少し奥に、複数の神官が立っていた。その中央に背筋を伸ばして立っているのはクロティルドだ。周囲の神官は男性ばかりで、一人だけぽつりと立つ少女は小柄に見えたが、彼女は誰よりも威圧感を放っていた。
重く軋んだ音を立てて扉が閉まる。
「案外、大人しく来たんですね。抵抗するかと思っていました。先だっては、我々の仲間の多くを傷つけられましたから」
「大人しくしているかどうかは、あなた方の対応次第です。ことりはどこですか」
クロティルドはいつもの黒いワンピースにベルトを締めて、質素な鞘に収まった剣を提げていた。セルジュの目がその武器を捉える。
あれが唯一、サリムの生を終わらせることのできる剣。
普通の武器ではサリムを殺めることはできないが、あれだけは特別だ。聖人が祝福を与えたのだという剣は、かつて悪魔と恐れられた魔物の命も絶つことができる。
しかし、それを用いたとしても、サリムの魂がついえることは無い。どの人間や魔物とも違う。彼の魂までを消滅させることは、誰にもできない。その筈だ。かつてカプドヴィエルの悪魔と呼ばれていた頃のサリムが殺された時にも、同様の武器が用いられ、それでも魂の消滅には至らなかった。
眠っている悪魔を目覚めさせるために不可欠の存在。それを目の前の少女が持っている。
「サリムとラシェルを誑かした主犯はあなたですね。二人を連れ出して、何を企んでいるんです。古の悪魔に仕えし、穢れし者よ」
蔑みも露わな言葉に、セルジュの語気も荒くなる。
「企むも何も、貴様らに奪われたものを取り戻そうとしているだけだ」
「人の形をしていても、どこまでも犬ね」
クロティルドが馬鹿にしたように笑った。
「話はそれだけか」
「あなた方が教会に楯突く気だという解釈で合っていれば、以上です」
そもそも話し合いなどする気はなかったのだろう。クロティルドが剣を抜くと、周りを取り囲んでいた神官達も一斉に武器を手にした。
「ことりはどこだ?」
自らも剣を取りながら問いかけると、クロティルドが顔をしかめる。
「さあ。まだ敷地内には居ると思いますけれど」
「逃がしたのか? 交渉材料がないのでは話し合いになりえないだろうに」
セルジュは殊更呆れた声を出した。話し合いだと言ってここまで連れて来たのだから、もう少し体裁くらい整える気はないのだろうか。何のために見えている罠にかかりに来たというのか。
「どちらにしても、やることは変わりませんから」
クロティルドが、宣誓でもするように、剣を高く掲げた。
「魔物に聖裁を」
少女の凛とした声を合図に、神官達が一斉にサリムとセルジュ目掛けて斬りこんで来る。
「サリム様!」
セルジュはサリムを気に掛けながらも、目の前に迫った二人を斬りつける。サリムは神官の振るった刃から身をかわし、ようやく剣を抜いたところだった。返しざまに、飛び込んできていた相手を切り裂く。薄暗い中でも、飛び散る血の赤が鮮やかに見えた。
背後から首筋へと迫った剣先を身を屈めてやりすごし、セルジュはそこから伸び上がるようにして振り向きざま斜めに刃を走らせる。神官の体が血しぶきと共に倒れ、後ろから現れた別の神官の腕を返す刀で跳ね飛ばす。別方向から振り下ろされる剣を身を捻って避ける。刃が身をかすめ、血が舞った。
人数が多い。セルジュが心配せずともサリムも応戦していたが、二人で斬っても斬っても次から次へと神官は飛び掛ってきて、一向に減らない。素早く刃を振るいながら視線をやると、クロティルドは高みの見物とばかりに、最初の立ち位置から一歩も動いていなかった。
恐らく彼女は、二人が消耗するのを待っているのだろう。
セルジュが動くたび、塞がりきっていない傷が痛む。四方から襲い来る刃に少しずつ身を刻まれ、傷は増していくが、それでも深刻なものは無い。
幸いだったのは、この場に一度斬り結んだことのある神官……アズナヴールが居ないことだ。この人数に加えて、彼まで相手をする自信は、セルジュにはなかった。彼の実力は確実に、他の神官とは一線を画している。
幾人もの神官を退けながらふと気付くと、セルジュはサリムと随分離れた位置に居た。二人の間には多くの神官が居る。意図的に引き離されていた。
良くない。セルジュは僅かに焦るが、サリムの側へは一向に近付けない。焦るほど太刀筋は荒くなり、セルジュの体にも傷が増えていった。
クロティルドの目が射抜くような強さで二人を見ている。
正面から振り下ろされた剣を弾き返した時、扉の開く鈍く軋む音がした。
「動くな!」
有無を言わさない鋭い声が飛び、セルジュは反射的に飛び退り距離を置く。
誰もが動きを止めて、刃だけは互いの敵に向けたまま、声を発したクロティルドを見て、彼女の視線を追って開いた扉を注視した。
そこにはたった今入ってきたと思わしい神官が立っており、片手で小柄な少女の腕を捕まえて、喉元にナイフを押し当てていた。
「ことり」
セルジュが小さく呟く。
「ごめんなさい」
彼女はサリムとセルジュの姿を見つけて、すぐに震える声で言った。蒼白な顔をしている。喉元に当てられた凶器に怯えているのではない。自分が捕まってしまったことで二人が窮地に立たされるであろうことを察していた。
ことりが捕らえられていて、セルジュとサリムは引き離され、神官に取り囲まれている。そしてこの場には、サリムの生を終わらせることのできる武器を持った、クロティルドが居る。
セルジュの顔から血の気が引いた。ことりよりも酷い顔色だった。頭の中に、この後の筋書きが一瞬で見えてしまった。想定していたものとは異なるが、セルジュの……セルジュとことりの目的は達成される。しかも、この状況から言えば、それが最も近道だった。
望み続けていたことだというのに、それが目の前で起こってしまうのかと思えば、セルジュは震えを抑えられなかった。
「彼女は外から、中の様子を窺っていました」
「せっかく逃げ出したというのに、わざわざ捕まりに来るとは殊勝なことね」
クロティルドが皮肉げに笑う。次の言葉は、聞かなくても予想がつくものだった。
「ラシェルの命が惜しければ、武器を捨てて投降なさい」
どうするのかと指示を仰ぐように、サリムがセルジュに視線を投げてくる。その姿は血に塗れているというのに、翡翠と金の瞳はどこまでも無垢に凪いでいた。顔を背けたくなるほどに。
「彼女の為にサリム様を引き渡しては、本末転倒でしょう」
サリムに返事をする代わりに、剣は下ろさずに言う。
「どうかしら。サリムさえこちらに渡してくれれば、あなたとラシェルのことは見逃してもいいわ。ラシェルさえ居れば、あなたにとってまた機会が巡ってくるでしょう。例え、今のサリムが居なくなっても」
今のサリムが、――サリムが死んでしまっても。
この場に立つサリムが、魔物だった頃の彼の魂を宿しているように、今の彼が死んでしまってもその魂とはまた巡り合えるだろう、と。
嘘も甚だしい。そんな可能性を、教会が残しておく筈が無い。サリムを始末したら、約束など簡単に反故にするに決まっていた。教会が魔物とまともに約束を交わすと思うこと自体が間違いだ。教会の言う悪であるところの魔物を裁くのは、どんなに卑怯なことをしようと彼らにとって正義になる。
「セルジュさん、私……ごめんなさい……」
無力に震えることりの声。セルジュはちらりとサリムを見てから視線を戻し、首を振った。
「――おいで、ことり」
右手で剣を構えたまま、左手を彼女に差し伸べる。サリムの視線を感じる。死んでしまいたいような気分だった。
神官が、ことりをセルジュに向かって突き飛ばす。同時に、サリムを取り囲んでいた神官達が、無抵抗な彼を取り押さえた。
ことりは神官の間を縫って走り、セルジュに飛び込むようにして縋りついた。頼りない両手で軍服をしっかりと握りながら、首を捻ってサリムの方を見る。
サリムは既に武器を手放して、両腕を神官に押さえられていた。クロティルドの甘言に惑わされたと思われても仕方のない状況だというのに、何の疑問も感じていないかのような顔をしている。
普段と何も変わらない無感動な目で、セルジュとことりを見ている。それがなにより居た堪れなかった。
神官達がセルジュの側から離れ、サリムの後ろを取り囲む位置に移動する。
誰よりも敬愛するサリムが、憎き神官達の手に落ちている。息が苦しい。
クロティルドが踏み出し、サリムの正面へと移動した。
彼女が剣を掲げる。セルジュの心臓が強く鳴った。震えが止まらない。
「セルジュさん……、どうして、助けてあげないの……?」
ことりは信じられないものを見るような顔をしていた。常にサリムを優先してきたセルジュが、彼を見殺しにするような行動を取るのが信じがたいのだろう。
「ことり、死ぬ覚悟はできていますか」
本当は瞬きの間でさえサリムから目を離すのは惜しかったが、セルジュはことりの目を見て言った。その湖面色にさざ波が走ったのは一瞬だけ。
怯えは消え失せ、彼女はセルジュから身を離す。
透き通るような表情で、ことりは囁くように小さく言った。
「今なのね」
セルジュが頷けば、彼女は仄かに笑みを湛えたようだった。
「あなたに会った時から、覚悟はできてる。私に力をくれてありがとう」
復讐するための力をくれて、ありがとう。そう微笑むことりに、セルジュは寂しげに笑いかけた。
「そうだ……逆はどうかしら。あなたが身を差し出せば、サリムの命だけは助けてもいいわ」
思いついたようにクロティルドが言った。優位を確信した言い方だ。
セルジュがいなければ、気力に乏しいサリムが自分から何らかの動きをするとは思えないからこその言葉だろう。セルジュ自身も同意できる。自分がいなければ、サリムは己のために積極的に何かをしようとはしないだろう。
あえて馬鹿にするように、セルジュは鼻で笑って見せる。
「俺がいなくなったら、誰がサリム様をお守りできるんです」
クロティルドは興ざめしたような顔つきになった。
「そのサリムを今見捨てようとしているのに、誰を守ると言うの? ……いいわ。魔物にまともな議論なんて無駄ね。最後に何か言っておくことは?」
クロティルドが、サリムとセルジュの二人に向かって声を投げてくる。
セルジュは何も言えなかった。
今にもサリムが殺されようとしていて、それを止めようとしていないこの状況では、何も言うことができない。
本当はすぐにでも飛び込んで行きたい。あるいは抵抗して下さいと言えば、サリムは自分から、神官の腕から逃れられるのかもしれない。彼はセルジュが何も言わないから、何もしないのだ。
望みがないから、自主性がない。生にさえ執着しない。
そんな彼が悲しくて、大切にしてあげたいのに。
大切なのに、セルジュはサリムを見殺しにする。
セルジュの望みを叶える為には、どうしてもそれが必要だった。
サリムの死が必要だった。
神官に取り押さえられたサリムの姿が、記憶の中の百年前の彼の姿と重なる。
あの時も彼は無抵抗だった。無抵抗で、今と全く同じように神官に両腕を拘束されて。後に聖女と呼ばれることになる女性の神官が剣を翳していた。
百年前は、無力な自分に歯噛みしながら、世界を呪うような気持ちで見ていた。腹部に負った怪我のせいで視界などほとんど霞んでいたが、それでも彼がその身に刃を受ける光景は瞼に焼き付いている。
今よりももっと大勢の神官に取り囲まれ、魔物の仲間達は次々に倒れ。けれどセルジュを地に縫い付けるような大怪我を負わせたのは、サリムの剣だった。彼に負わされた傷からはおびただしい量の血が流れ、セルジュは身動きがとれなかった。
地面に張り付いて首だけは前を向いて。何より大切なひとが目の前で殺されるのを、泣きながら目に焼き付けた。神官への憎悪と共に。
あの時の血に濡れたサリムの顔が、今のサリムと重なって見える。
セルジュへの抗議すら無い、翡翠と金の目が、真っ直ぐにこちらを見ている。
気が狂いそうになる。どうして自分はこんな思いをしてまでこんなことをしているのだろう。
助けたくともできなかった百年前とは違う。今は、そうしようと思えば動かすことのできる体がある。
助けられないのではない。助けないのだ。
サリムの目に、今自分はどう映っているのだろう。
軽蔑しているだろうか。裏切りを感じているだろうか。それともやはり、何も感じていないのだろうか。死の淵に立たされてなお。
「別れの言葉すら無いの? 魔物の考えることって、やっぱり分からないわね」
セルジュとことりは、息を殺すようにしてサリムを見ていた。
その一瞬は、永遠のようにも感じられた。
クロティルドの手が無慈悲に振り下ろされる。薄明かりを弾き返す鋭い金属がサリムの服を裂き、皮膚を破り、肉を断ち――彼は悲鳴ひとつ上げない。
目を逸らさず、瞬きすら惜しんで彼を見つめた。彼の白い頬にまで血が飛び散る。猛烈に吐き気がした。体がどうしようもなく震える。百年前と似た絶望感が体を取り巻く。
サリムの目から光が失われ、体から力が抜ける。支えていた神官が手を離すと、その体は無残にくずおれた。薄暗い床に血が広がっていく。長い髪に血が染みる。
彼の魂は決して滅びることはない。
わかっていても、目の前でその命が失われるというのは、何度経験しても耐え難い痛みをセルジュにもたらす。心臓が引き裂かれるようだった。
瞬きも忘れて目の前の光景を見つめる金の瞳から、ひとしずく涙が零れ落ちた。
大人が二人寝ても余るような広さのベッドで、サリムは起き上がる。アネルカが用意してくれた部屋は、邸内で最も広い客室だった。二つ並んだベッドの片方は空だ。
部屋を見回すと、窓際にセルジュが居た。細く開けられたカーテンの隙間から、月光が差し込んでいる。セルジュは体を丸めるようにして、窓枠に肘をついて顔を伏せていた。
サリムはそっとベッドから降りて、彼の傍らまで歩み寄る。
「何が悲しいの」
声をかけると、セルジュが勢いよく顔を上げた。彼らしくもなく、気配に気付かなかったらしい。
予想通り、彼の顔は涙で濡れていた。少なくとも百年以上生きているはずのセルジュが、今はひどく頼りなく、寄る辺ない少年にしか見えない。血塗れになってサリムを助けに来た時の勇ましさが嘘のようだった。
「申し訳ありません……」
泣いていたことを恥じるように、セルジュは俯いて顔を拭った。その手が小さく震えているのを見つけて、サリムは何の気無しに彼の涙で濡れた手を握る。
「俺は謝れって言った?」
「……申し訳ありません」
ささやかな月明かりが細く差し込むだけの暗い部屋に、短い沈黙が落ちる。
サリムが黙っているのは最初の問いに答えるのを待っているのだと気付き、セルジュはのろのろと口を開いた。
「あなたの死に顔が、頭から離れないんです」
サリムは左右色違いの目で、じっとセルジュを見つめる。
「およそ百年前、あなたが殺されるところを、俺は見ていました。地面に這いつくばって、何もできず、ただ見ていたんです。その時の光景が目に焼きついて……今も夢に見るんです」
震える声は段々と掠れていく。
「ま、またあなたが……いなくなってしまったらと思うと……俺は……」
落ち着かない息を吐きながら、セルジュは片手で顔を覆った。
今人間として生きているサリムには、悪魔と呼ばれていた頃の記憶は一切無く、そのころの話をされても実感がわかない。誰か別人の話をされているような気さえするが、セルジュはサリムこそが、間違いなく「敬愛するサリム様」だと信じている。
信じて、失うことを怖れて、泣いている。まだ死んでもいないのに。
サリムは微笑した。
瞬く間に日が過ぎ、ことりの誕生日が訪れる。アネルカは盛大に祝おうと提案したが、ことりがそれを頑なに拒んだ。ただ穏やかに誕生日を迎えられればそれで良いということだった。
水色のワンピースを纏ったことりは屈託無く笑って、年相応の少女らしく愛らしい。
ようやく迎えたこの日、ことりはセルジュと二人で、廊下で立ち話をしていた。セルジュは壁にもたれかかり、ことりは窓から外を見ている。何があるか分からず、できるだけサリムから離れたくないので、サリムの居る客室の前の廊下だ。
朝日に照らされる爽やかな若葉を見ながら、ことりは口を開く。
「私のわがままに付き合ってくれて、ありがとう」
「もういいんですか」
「うん。この服を着て、誕生日を迎えられた……私はもう、満足したわ」
薄青の空を眺める、ことりの横顔は寂しげだった。
ことりが誕生日を迎えるまで、と止まっていた計画が、これで動き出す。
それは本来ことりにとって残酷な計画だった。サリムの為にそれを企てたセルジュは、最初は強引にでも協力させるつもりだった。予想外だったのは、ことりが自ら協力を申し出たことだ。
サリムを救い出すにあたって、ことりの協力が必要不可欠だと知ったセルジュは、教会に忍び込み彼女に会いに行った。そうして出会った少女に、セルジュは計画を持ちかける。
かつてカプドヴィエルの悪魔として魂を封じられたサリムを救い出す。その手伝いをして欲しいと、計画の全てを伝えた。怯えて逃げられるくらいのことを想定していたセルジュの前で、ことりは笑った。
凄絶な顔だった。
お父さんとお母さんの、復讐ができるのね。そう言って、泣きそうなのか怒っているのか判別のつきがたい様子で、顔だけを笑みの形にしていた。
ただひとつ、協力する代わりに十五歳の誕生日まで待ってほしい、という条件を提示され、セルジュはそれを呑んだ。
短い期間とは言え教会で生活をしていたことりが、カプドヴィエルの悪魔の所業を知らないはずがない。それでも彼女は自らすすんでセルジュに加担した。
魔物に育てられた娘。
ことりはほんの一年前まで、魔物の両親と暮らしていた。人間であることりと両親の間には、当然血の繋がりは無い。捨て子であったことりを拾い、育てたのがそのつがいの魔物で、三人は本物の家族のように睦まじかった。
魔物が混血でもない人間の子を育てるというのは珍しいことで、ことりの名は魔物の間に知れ渡っている。
人でありながら魔物に育てられたことりは、魔物を相手に怖じることはなかった。ことりが魔物の味方である限り、彼らは優しい。
一年前、そんな日々に終止符を打ったのはリシュタンベルグの神官だった。
魔物は悪しきものであり、聖裁こそが彼らに与えられる唯一の救いである――神官達は、彼らの信じる正義を振り翳し魔物を屠り、人間の少女を魔物から救い出した。
救い出した、と思っているのは神官と教会だけで、本人は決してそうは思っていない。
その時から、ことりは教会を憎み続けていた。そんな彼女にとって、セルジュの申し出は正に願ったりだった。
共に過ごしていると、セルジュは情を移しそうになるが、それはあってはならないことだ。
セルジュはサリムの為に、誰よりも冷酷にならなければいけない。
サリムの為に。目の前で殺されたサリムを守れなかった自分の為に。今度こそ、大切なひとを失うことのないように。
「やはりケーキだけでも……、失礼」
扉を開けた後に、アネルカは忘れていたとばかりにノックした。それから言い直す。
「せっかく誕生日なのだから、ケーキだけでも用意してやりたいんだが、どうだろう」
それを聞く目的だけで、アネルカはサリムとセルジュの部屋を訪ねてきたらしい。ソファーに腰掛けていたセルジュはやや呆れたような顔をした。
「何で俺に聞くんですか」
「友人として意見を求めているんじゃないか。ことりはいらないと言うし」
「好きにしたらいいでしょう」
「何だ、冷たいやつだな。元々お前の友人だろう」
「そんなに長い付き合いでもないですよ」
「そうなのか?」
サリムは会話には全く興味を示さず、肘掛のある椅子に座って、分厚い本に視線を落としていた。本の内容にも興味があるわけではないが、時間つぶしにはなる。
「ところでことりはどこだ? 部屋に居ないみたいだが」
「知りませんよ。庭にでも……」
言いかけて、セルジュは立ち上がった。
先だって襲撃にあったばかりだ。ことりが一人で勝手な行動を取るとは思えない。
すぐに部屋を飛び出そうとしたセルジュだが、踏みとどまり、サリムに声をかけた。何が起こっているか分からない以上、彼を一人にはできない。
セルジュと別れ一人で廊下を歩いていたことりは、突然開いた扉に引っ張り込まれた。
「お静かに。危害は加えません」
閉められた扉の内側で、口を手の平に塞がれ、青年の声が聞こえた。自分を押さえている人物が黒い服を着ていることに気付いて、ことりはそれが何者であるのか悟った。
ことりが抵抗しないでいると、間もなく青年の腕から開放された。すぐに青年から身を離し、ことりは神官の黒い服を着た青年を睨み付けた。
頭に包帯を巻いた青年は、セルジュが縛って連れて来た神官だった。屋敷でも縛られたままで客室に放り込まれていると聞いていたが、今の彼はどう見ても自由の身だ。
「安心して下さい。私はあなたの味方です。私はリシュタンベルグの神官、デフロットと」
「神官が私の味方なんて、ばかなこと言わないでくれる」
いかにも神官らしく誠意を込めて名乗るのを、ことりは敵意に満ち満ちた刺々しい口調で遮った。神官が驚きの表情を浮かべているあたり、ことりは魔物に連れ去られたということにでもなっているのだろう。
いい迷惑だ。自分が教会側の人間だと思われているなど、不快でしかない。
「ラシェルさん? 私とここから脱出しましょう。不安に思わないでも大丈夫です」
久しぶりに呼ばれた名前に、不快感は募る。
ラシェルというのは、ことりが教会に保護された時に勝手につけられた名前だ。その名で呼ばれることに甘んじていたのは、大嫌いな神官に、両親のつけてくれた大切な名前で呼ばれたくなかったからにほかならない。
「いい加減にして。なんで教会の人って、そうやって人間は皆教会とか聖人を信じてるって思い込めるの? すごく不思議なんだけど」
少女から辛辣な言葉を浴びせかけられた神官デフロットは、複雑そうな顔をしていた。
「君が一緒に居るサリムという少年が、どれほど危険な存在か、君は知らないのでしょう。あれはかつてカプドヴィエルの悪魔と呼ばれた魔物の魂を持っています。魔女公主に仕え、大勢の魔物を率いて、このアルカデルトを滅ぼそうとした悪しき者です! このまま野放しにしていては、百年前の惨劇が繰り返されないとも限りません。百年前はリシュタンベルジェル様が封印されましたが、かの聖人も今は眠りに就いたまま……」
知っている情報を繰り返されたところで、意思が揺らぐはずは無い。
優しい湖面色の瞳を今は凍てつかせて、ことりはデフロットを睨み付けた。
「掃討作戦なんて言って魔物を虐殺するくせに、自分達が殺されたら惨劇? 自分が何を言っているのか、もう一回考えてみたら?」
ことりはぎゅっとワンピースを握り締めた。
本当なら一年前の今日は母の作ってくれたこのワンピースを着て、両親に祝福され、ささやかなごちそうを食べて過ごすはずだった。両親と笑って過ごすはずだった。そんな未来が叶わなくなってしまったのは、奪われたのは、誰のせいなのか……考えるだけで、ことりの胸は焼けるようだった。
ことりを捨てたのは人間なのに、その人間がことりから両親を奪った。ことりから何かを奪っていくのは、いつだって人間だ。
人間の味方である神官とことりとでは、永遠に分かり合えない。
「君は魔物の中で暮らして、混乱しているだけです。教会に戻れば分かるでしょう。我々人間は、人の中で生きていくことこそが幸せなのだと」
「私はもう幸せになんてなれない。私の幸せは教会に、あなたたちに奪われたの」
「そんなのは思い込みです。幸せになれないことなんてありません。過去を受け止めて、これからどう生きていくか、それが重要なのです」
「だからやりたいことをしているんじゃない」
どこまで行っても平行線のやりとりに焦れたデフロットは、深い溜息を吐いた。
「分かり合えないのは残念ですが……君もいずれ分かるでしょう」
デフロットが、ことりの背後にちらりと目配せする。気配に気付いた時には遅かった。口元に布を押し当てられ、やがてことりの体から力が抜けた。
刃物で切断された縄の切れ目を見て、セルジュが顔をしかめ、アネルカが額を押さえて溜息を吐いた。
「魔物を匿うことは我慢できても、神官を縛って閉じ込めておくことは我慢できない奴が居たみたいだな」
サリムとセルジュ、アネルカの三人は、神官を閉じ込めていたはずの部屋に集っていた。そこは既にもぬけの殻で、切断された縄が落ちているだけだ。
「今屋敷内を探させているが、まあ……無駄だろうな」
眺めていた縄をぽいと投げ捨てて、セルジュは苦々しい顔をする。
ようやくことりが誕生日を迎えた日にことりを連れて逃げるとは、この神官は全くタイミングが良いのか悪いのか。腹立たしいことこの上ない。
「逃げられたということは、この居場所もばれるということです。長居はできませんね」
「なあ、セルジュ」
アネルカはセルジュの袖を引いて、耳元に口を寄せた。
「やっぱり、やめることはできないのか? これでは……ことりが可哀相だ」
「ことりも望んだことです」
これから起こるであろうことを考えて顔を曇らせるアネルカを、短く切り捨てる。
サリムだけ、ことりが消えたことも、神官が逃げたことも全く気にならない様子で、窓の外にぼんやりと視線を投げていた。
慌しい足音がして、部屋に使用人の青年がかけこんでくる。彼は肩で息をしながら、アネルカに紙片を差し出した。
「玄関にこんなものが……」
「どれ」
アネルカは受け取った短い文章に目を通して、次にセルジュに渡した。持ってきた使用人は下がらせる。
そこにはご丁寧に、ことりは教会に連れて行く旨が記されていた。几帳面な文字で綴られた文を苦々しい顔で読み、紙片をアネルカに返す。
「我々を連れて行こうにも分が悪いから、ことりを人質に教会まで来いということですか」
「行くのか?」
「仕方ないでしょう。ことりが居なければ話になりません」
「敵の本拠地だぞ。お前、それで大怪我しといてまだ懲りないのか」
「懲りる懲りないじゃありません。取り返しに行かないことには、どうにもならないんですから」
セルジュとて幾度も訪れたい場所では無かったが、引き下がるわけにはいかない。
二人の言い合いは、礼拝を装った変装をして穏やかに侵入する、ということでひとまずの決着を見た。ただでさえ包帯の取れないセルジュが、正面から切り込んでいくのは得策ではない。
どちらにしろ荒っぽいことにはなるのだろうが。
サリムは白いシャツに黒いジャケットの、貴族めいた服に着替えさせられた。髪を結い上げて帽子を深く被れば、特徴的な瞳も鍔の影に隠れる。
セルジュは綺麗に繕ってもらった軍服を着込んだ。いつも通り剣を腰に提げ、袖口や服の内側に幾つかナイフをしまう。その上から地味なマントを羽織ってしまえば、装備は見えなくなる。サリム同様帽子で髪を隠し、できるだけ魔物の瞳が目立たないようにした。
リシュタンベルグの教会で過ごしていたサリムは顔を見られれば正体がばれてしまうが、聖都なだけに多くの人間が集まる礼拝の時間に紛れてしまえば、教会に入り込むことくらいはできるだろう。
「ご自分の身が危ない時は、躊躇わずに」
セルジュはそう言ってサリムにも剣を持たせた。
聖都の教会までは距離があるが、今出れば夕方の礼拝には間に合う。若い貴族とその従者のような格好で、二人はアネルカの屋敷を後にした。
移動に使う馬車は、またもアネルカが貸してくれた。
走る馬車の中は、単調な車輪の音が響く以外、静かなものだった。
セルジュは何か考え込む様子で黙り込み、セルジュが黙っていればサリムから喋り出すことはほとんど無い。
険しい顔で窓の外を見ていたかと思うと、セルジュの視線がサリムへと向けられた。真摯な光を宿した金色の双眸。これがサリムのためならば酷薄に煌き、人を傷付けることも厭わない残酷な色に変わる。
人をどれだけ傷付けようと、それがサリムの為であれば、躊躇いも後悔も無い。一方で、サリム一人を失うことを怖れ、夜中に一人で泣いている。そんなセルジュが、サリムは嫌いではなかった。
例え彼が血に塗れていても、恐ろしいなどと一度も思ったことはない。サリム一人の為だけに全てを捧げ、無垢なまでの気持ちを傾けられる。何を見ても心を動かすことのないサリムだが、彼のことは素直にかわいいと思えた。
ひたすらに自分のことを追いかけ、自分のためにその身を犠牲にする様が、かわいい。
例えばことりなら、自分の為に人が傷付くことは嫌がるだろうし、我が身を省みず危険に突き進む姿に眉をひそめ、心配しただろう。けれどサリムにはそういった感情の一切が欠落していた。
「サリム様。これから、あなたにとって辛いことがあるかもしれませんが……俺が、あなたのことを第一に考えて行動しているということだけは、忘れないでおいて下さい」
難しい顔をして何を考えていたかと思えば、セルジュは真剣にそう言った。
「何があるの」
「……いいえ」
サリムの質問に返事にならないような返事をして、セルジュの顔が曖昧な笑みに歪む。
自分の身に関わることであっても、別段興味があるわけではないサリムは、それ以上追求しなかった。
「……ことりは、恐らく無事でしょう。俺達を誘き寄せるのが目的なら、それまでは手出ししない筈です」
「そう」
サリムが興味を持つ話はごく少なく、会話は長く続かない。
いつもならそんな沈黙さえも居心地がいいというような様子のセルジュだが、今は違った。どことなく、彼は焦っている。
口を閉ざしていることが惜しいとでも言うように、何でもいいからと話題を探して、口を開く。その焦燥の正体が何か分からないまま、サリムは彼の声に耳を傾ける。
「サリム様は、カプドヴィエルに君臨していた頃の記憶は無いと存じておりますが、教会ではカプドヴィエルの悪魔がどのように言われているかご存知でしょうか」
「……魔女と共謀して、この国を破滅させようとしたんでしょう」
大まかなことくらいしか記憶にないが、とにかく聖書に出てくる悪しき魔物の筆頭のような扱いだった。何となく思い出して答えれば、セルジュは不服そうに言う。
「百年前、この国アルカデルトが崩壊の寸前まで追い込まれたのを、教会は全てカプドヴィエルの悪魔、あなたのせいだと言っています。本当の原因がどこにあったかも知らずに……いえ、全て分かった上で隠そうとしているのかもしれません」
セルジュは冴えない顔色で続ける。
「あなたが王国を破滅に追い込んだそもそもの原因は、人間達が聖人と崇める、あれにあったというのに」
百年前、魔女公主と呼ばれた女性の治める地があった。彼女は本来、アルカデルト王国の東方、カプドヴィエルの領主に過ぎなかったが、魔を統べる魔女であるとして、いつからかそうあだ名されるようになった。
やがて魔女公主はアルカデルトに反旗を翻した。魔女公主の配下の中でも主力として戦い、王国に壊滅的な被害をもたらした魔物は、カプドヴィエルの悪魔と呼ばれ、後の世にまで名を残すことになる。魔女公主と並ぶ、悪の名として。
神官でなくとも、国民なら誰もが知っているその話の半分は嘘だということを、アズナヴールは知っている。
ほかでもない、彼が敬愛してやまない聖人、リシュタンベルジェルから聞いた話である。
カプドヴィエルの悪魔が王国に壊滅的な被害をもたらしたのは本当だが、魔女公主が反旗を翻したというのは全くの嘘である。更に言えば、カプドヴィエルの悪魔は魔女公主の配下などではない。
カプドヴィエルの悪魔、サリムが魔女公主に従っていたとでも言おうものなら、途端にリシュタンベルジェルの機嫌は悪くなる。
人々が思い描く、王国の救世主の聖人の姿と、現実のリシュタンベルジェルの姿には、大きな隔たりがあった。
アズナヴールが初めて聖人にまみえたのは、まだ彼が十四歳の頃のことだった。子供達が中等部に通う年頃だが、身寄りのない子供として教会に引き取られたアズナヴールは、学校で教わるような勉強は、全て教会で教わった。教会にはアズナヴール以外にも親の無い子供は多く、勉学と同時に神官としての教養も身に着け、彼らはほとんどがそのまま神官になる。
幼い頃からの教育で、多くが心から聖人に仕える神官となる中、アズナヴールは例外だった。
周りに合わせて神官への道を歩んでいたが、信仰心は皆無に等しい。教育係の神官も手を焼く、捻くれた子供だった。
長じるにつれて、段々と講義を抜け出すことの多くなったアズナヴールは、ある時立ち入りを禁じられている部屋に忍び込んだ。いつもなら閉ざされている扉の鍵は開放され、扉守も見当たらない。隠されれば気になるもの。ただの好奇心で、アズナヴールは廊下を駆け、部屋へ潜り込んだ。
白い布が幾重にも垂れ下がっている部屋の中には、数人の神官が居た。
聞き耳を立ててみると、どうやら魔物の討伐に使用する武器の祝福を受けていたらしい。
力の強い魔物になると、ただの武器では致命傷を与えられない。聖人リシュタンベルジェルの祝福を受けた剣だけが、無敵とも呼べる効力を発揮するのだという。
室内では何らかの儀式が行われていたようだったが、アズナヴールが覗いた時にはもう終わっているらしかった。
無事に儀式が終わったことについて言葉を交わしている神官の声に混じって、清涼な笑い声が聞こえる。
「さあ、僕の為に思うまま殺しておいで。憎き魔物どもを」
聞いたことのないほど美しい声の囁き。そこに潜むのは、残酷な響きだった。
アズナヴールは即座に確信した。
これはリシュタンベルジェルの声だ。
聖人だと誰もが崇める人間の、清廉な声で紡がれた、誰もが抱く聖人像とはかけ離れた言葉に、アズナヴールは隠れていたことも忘れて、思わず吹き出した。
何が聖人だ。どう聞いたって性悪だ。あまりに可笑しくて、滅多にないほど笑い転げるアズナヴールは、すぐに神官達に見つかった。
高位の神官達に取り囲まれて事情を説明したが、最初は信じてはもらえなかった。神官達の中で聖人の声が聞こえるという人間が一人も居なかったのだから、不真面目な見習いの少年の言うことを戯言だと一笑に付したのも無理は無い。
しかしもしも事実ならば看過できるものではない。真偽を確かめるべきだと幾度か聖人の眠る部屋に入れられ、聖人しか知りえない話を聞いては神官に伝えると、やがては言い分を信じてもらえるようになった。
聖人は、部屋の奥で棺に入って眠っていた。部屋の奥、白い布をめくると白く塗られた棺があり、蓋部分は一面ガラスでできている。中には枯れない白い花が敷き詰められ、その中央に埋もれるようにして、一人の少年が指を組んで瞼を閉じていた。
着ている服は純白で、肌の色さえも雪のように白い中、波打つ長い髪だけが清浄な淡い金色の光を零している。
初めてその姿を目の当たりにした時には、アズナヴールは呼吸さえ忘れた。これが本当に生き物なのかと疑うほどの美がそこに横たわっていた。
彼がその長い睫に縁取られた瞼を開いて、滑らかな皮膚に覆われた体で動くところを見たい。猛烈な欲求に駆り立てられる一方で、標本のようにガラスの内側に納まっているその姿には、倒錯的な恍惚を感じさせられた。
最早彼の前では性別なども取るに足らない問題で、アズナヴールは眩暈さえ覚えた。
聖人と讃えられるに相応しい美を持ちながら、彼の言葉は歪んでいる。その不均衡さも含めて、心を奪われるには充分だった。
特例的に、聖人の眠る部屋への出入りを許されたアズナヴールは、逢瀬を求めて幾度も部屋を訪ねた。その度他の誰にも聞こえない声を聞く。歪んだ心から吐き出される言葉。
初めて毒を盛られて、生死の淵を彷徨ったのはその頃だ。
アズナヴールに聖人の声が聞こえると知っているのは、上位の神官のごく一部だけだった。その神官達の中では、アズナヴールを神聖視する者と、異端視する者とに分かれていた。
聖人に取り入ろうと、アズナヴールに何かと便宜を図る神官が居る一方で、極端に彼を疎み、過激とも思えるやり方で排除せんと画策する神官も少なくなかった。腕が立つアズナヴールに正面から勝負を仕掛けるような者はおらず、方法はもっぱら陰湿なもので、おかげで今ではすっかり毒物に体が慣れてしまった。
結局諍いの種にしかならないアズナヴールは持て余され、王都アルケードの教会へと移された。
それ以来酷い目に遭う回数は減ったが、比例して聖人に会う回数も激減する。アズナヴールは偶に用事でリシュタンベルグの教会に呼びつけられると、必ず聖人に会いに行った。
いつ会いに行っても聖人は美しく、そして性格は最低だ。
「そろそろかな」
珍しく機嫌の良さそうな声。今日も聖人の部屋に入り浸っていたアズナヴールは、自然と微笑む。
「何がです」
「決まっている。あの悪魔がよみがえるんだよ」
「カプドヴィエルの悪魔の魂なら、とっくに人の器に入っているでしょう」
「お前はばかだね。僕は悪魔がよみがえるって言っているでしょう。人の体なんかに納まってるだけのアレを、悪魔なんて呼ばないよ」
アズナヴールをばかだと詰る声さえも浮かれているようだった。
本当にこの人はどうしようもない。顔が益々綻んでしまう。
アズナヴールが知る限り、聖人リシュタンベルジェルほどの、カプドヴィエルの悪魔信奉者は居ない。人に紛れて暮らしているそこらの魔物よりよっぽどあの悪魔に耽溺している。
カプドヴィエルの悪魔に常に付き従っている忠臣の魔物とはアズナヴールも一度剣を交えたが、その魔物と聖人どちらの方がより悪魔に傾倒しているのかすら怪しい。
しかし聖人リシュタンベルジェルの気持ちはどこまでも歪んでいる。鳥を鳥籠に閉じ込めておきたいのならまだしも、聖人はその翼を叩き折ってでも鳥籠に閉じ込めておかなければ気が済まない。それで鳥が死んでも満足して眺めるのかもしれない。本当にどうしようもない。
聖人のそのような反吐が出るほど利己的で幼稚なところも、アズナヴールは非常に気に入っていた。聖人本人がその愚かさに気付いていないところも素晴らしい。
教会の祀る聖人がこれなのだから、おとなしく寝かせておきたいという教会の意向はアズナヴールにも理解できる。
「ということは」
「アレが悪魔としてよみがえるってことだよ。本当に楽しみ……」
くすくすと笑う声だけを聞いていれば愛らしい。しかしそんな朗らかな口調で歌うように喋っているのは、まともな神官なら卒倒しかねない内容の話だ。
「あの悪魔の居ない世界で起きていたってつまらないから、大人しく寝ていてあげてるけれど、分かってるね、ジード。あの悪魔が目覚めたら、僕を起こすのはお前の役目だよ」
聖人しか呼ばない己の名前を呼ばれて、アズナヴールは満足気に目を細めた。
十四歳の頃から憧れ続けた聖人の目覚めを、目にできる日が近い。しかもその眠りを覚ますという大役を、自分が仰せつかったのだ。これほどの喜びがあるだろうか。
「お任せ下さい」
悪魔に傾倒しすぎて、神官達により眠りにつかされた聖人。
その歪みこそを愛するアズナヴールは、これ以上ないほどの笑顔で答えた。
ことりとクロディルドの間には険悪な空気が漂っていた。
さらわれたことりが連れて来られたのは、教会に隣接する宿舎だ。そこでは、神官やその見習い達が生活している。サリムやことりが教会に居た時も、宿舎の一室を宛がわれていた。
ことりが今押し込められているのは、その宿舎の端の方に位置する客室だった。部屋の広さは、神官見習いの使う二人部屋と同程度だ。窓から陽の入る位置に机があり、あとは小さなクローゼットとベッド。部屋に三つある扉は浴室と手洗い、残るひとつが廊下へと繋がる出入り口になるのだが、その扉の前には常に神官が立っていた。見張りの神官が交代する時に、外にも見張りが立っているのが見えた。
手狭な部屋の中、ことりとクロティルドは向かい合って立っていた。目付きのきついクロティルドにじっと見られると必要以上に睨まれているように感じられ、自ずとことりも睨み返していた。
ことりは彼女を知っている。教会で暮らしている間、彼女は自分のことをいやに睨んでいた。直接話したことは無かったが、その目が印象的だった。
そして今はその目が真っ向から、ことりのことを見据えている。
「ご自分が何をしたのか、分かっていますか」
冷たい声には怒りが滲んでいる。
「あなたは人間でありながら魔物に加担しようとしていた。騙されていたとはいえ」
「騙されてなんていないわ。私が望んで協力したの」
毅然として言い返すと、クロティルドが眉を顰める。
「それが騙されていたってことよ。あの悪魔の臣下、あれの目的が成し遂げられていたらあなたは」
「知ってる。私がどうなるかなんて知ってるわ」
一方的に断定しようとするクロティルドをことりが遮る。
人間が苦手なことりだが、神官は特に大嫌いだ。両親を殺した神官。直接手を下した相手ではなくとも、神官であるというだけで憎い。もっと言うなら、教会を信仰している全ての人間が呪わしい。
神官がいなかったら、教会がなかったら、自分は両親と引き離されることもなかった。何事もなく誕生日を迎えて、母の作ってくれたこのワンピースを着て。笑顔に包まれて生きていけた筈だった。
もしもなど考えても仕方がないが、それでも考えずには居られない。
掃討作戦と言う名目で、山奥で暮らしていた両親は殺された。近場に隠れ住んでいた魔物達も皆殺されたたらしい。ことりにしてみれば、気のいい隣人だった。ことりが一番年下で、誰もがことりに優しかった。
可愛がってくれた皆は、神官によって皆殺しにされた。
憎くないはずがない。
ことりの帰る場所は永遠に奪われ、無理矢理教会に押し込まれた。
誰よりも忌むべき神官達と寝食を共にするのは耐え難い。
味方など一人も居ない場所で、ことりはそこから逃げ出すことばかり考えていた。そして復讐を夢想した。
教会を逃げ出して、下町の方へ逃げ、恐らく隠れ住んでいるであろう魔物に匿ってもらい、いずれは教会に復讐を。
魔物と暮らしていてもただの少女だったことりには、勿論そんな力は無い。魔物と戦う為に訓練を積んだ神官に適うはずが無い。それでも考えずには居られなかった。
両親の為に。あの時殺された優しい魔物達の為に。復讐を果たさなければ。
妄執ともいえる思いに取り憑かれ、しかしそうしていなければ、ことりは立っていることさえできなかった。いつか無念を晴らすのだと信じることだけが、ことりの支えだった。
血塗れの両親の姿が瞼に浮かぶのだ。
ついさっきまで笑っていた筈の優しい人たちが、苦悶の表情で絶命している。
その無念を晴らすまで、ことりの心は自由になれない。悲しみと憎しみで狂いそうだった。
「知っていてなぜ、人間であるあなたがそうまでして、魔物の味方などするんです」
「私の両親は魔物だわ。だから私だって魔物なのよ」
その言葉が嘘であることは、ことり自身が一番わかっている。もしことりが魔物だったなら、一人生き残ることなく、両親と共に逝けたのだから。一人生き残って、こんなにも何かを呪うこともなかった。
両親が大切に育ててくれた自分が、今では気が狂うほど憎むものがある。それは両親の優しさに背くようで胸が痛かった。
こんな風になってほしくて、ことりを育てたのではないだろうに。それでも、ことりにはもうそれ以外何もなかった。
ことりにとって、セルジュに出会えたことは本当に幸運だった。
彼はわざわざ教会に忍び込み、ことりに声をかけに来たのだ。忍び込んできた魔物を見て、ことりは真っ先に安堵した。人の群れで神経をすり減らして生活していたことりは、見も知らない相手であれど、魔物の方がずっと近い存在に感じた。
そしてセルジュは、ことりに復讐の手段を与えてくれた。
力ないことりが、教会に、人間に復讐できる唯一の方法。
たとえそれが残酷な結末をもたらそうと、是も非も無かった。ことりにならばそれができるのだと、ことりにしかできないのだと、教えてくれたセルジュには心の底から感謝した。
「愚かなことを。あなたの本当の両親は、人間の筈でしょう」
「知らないわ。だって見たことないもの。それにもう生きていないでしょう。穢れし血の聖女なんて」
「……知っていたの」
意外そうな顔をするクロティルドに、微笑んでみせる。ことりにとってはむしろ、彼女が知っていたことの方が驚きだった。
ことりの本当の両親の話は、セルジュが教えてくれたことだ。初めて会った時に聞かせてくれた。
母であった女は「穢れし血の聖女」と呼ばれる血を受け継いでいたのだという。
百年前、カプドヴィエルの悪魔を討った聖女だ。悪魔はその後聖人によって封印されたのだが、聖女はその戦いで悪魔の血を浴びて穢れを受けたと言われている。そのせいで一族は処刑の憂き目に遭ったが、ことりの母であった女は逃げ延びた一族の末裔だった。
しかしことりが生まれて間もない頃、教会に出自を突き止められてしまい、処刑される前にことりだけでも、と捨てられた。そこを魔物に拾われたらしい。
しかしその血を受け継いでいたことりだからこそ、セルジュに協力することができる。穢れし血を受け継いだ最後の娘である、ことりだからこそ。
「ああ、でも、そうしたら……生みの親も、育ての親も、教会に殺されたのね」
ふと思いついたようにことりが笑う。クロティルドは露骨に嫌そうな顔をした。
「何を笑っているの」
「だっておかしいもの。そんな教会の人に、何でお説教されなきゃいけないの? 全然分からない」
「私は教会の判断が間違っていたとは思わない。魔物は生まれながらに罪深く、あの悪魔ならなおさら。そんな魔物によって穢された人間の血が繋がるのは避けなければなりません」
「理由があったら人を殺してもいいのね。だったら私が罪を問われるのもおかしいわ」
「そういう話をしているわけじゃない!」
ほとんど怒鳴るようにクロティルドが叫ぶ。室内の会話など聞こえていないかのような素振りで扉に立っていた見張りまでもが、あまりの怒気に体をびくつかせた。
「教会の行いは正しいのだと言っているの。身勝手な理由で、国民全てを危険に晒すような真似は、どんな理由があっても許されない」
「教会が正しいっていうのは誰が決めたの? 誰にとって正しいの」
ことりは淡々と問う。湖面色の瞳に揺らぎは無い。
静かだが強い口調で、クロティルドが言う。
「……あなたの考えは危険だわ。魔物に毒されすぎている」
「だから言ってるじゃない。私は人じゃなくて魔物なの。お父さんとお母さんと同じ、魔物なの。ずっとよ。死んでもそうなの」
「なら、私も神官として遠慮は要らないってことね」
クロティルドは一歩後ろに下がってことりから距離を取ると、腰に提げていた得物をすらりと抜いた。
剣を掲げる。刃がきらめき、磨きぬかれたそれはことりの顔を映した。鞘や柄には飾り気の無いものだが、刃自身が清廉な輝きを放っている。
毅然としていたことりが若干の動揺を見せた。
まだここで死ぬ訳にはいかない。
「聖人リシュタンベルジェル様が特別な祝福を授けて下さった剣よ。たとえ、悪魔と呼ばれる者でさえ、切り裂き、その罪を裁くことができる」
その刃のきらめきをことりにしっかりと見せ付けて、クロティルドは剣をしまった。ことりを脅しつけることだけが目的だったらしい。
「あなたを救い出すために、恐らくサリムと魔物が乗り込んでくるでしょう。それが……サリムとお別れの時よ」
クロティルドの顔は冷淡なようだったが、どこか辛そうにも見えた。ことりの知るところではないが、サリムの世話係として側についていたのだ、それなりに思うところがあるのだろう。
剣を手に勇ましく戦う神官であっても、クロティルドも少女に過ぎないのだから。
クロティルドが出て行ってすぐに、見張りの神官が交代した。捕まってすぐの頃は、見張りが定期的に交代する隙を狙って逃げ出そうとしていたことりだが、失敗に終わってしまい、なすすべも無く閉じ込められたままになっている。
このまま大人しくしていれば、ことりは暫く生かしておいては貰える。サリムとセルジュを誘き寄せるえさとして。
二人が乗り込んできてくれたなら、人間の神官くらい何とかなるだろうと思う一方で、自分が捕まっていることで迷惑はかけられないとも思う。
サリムが捕まった時に教会まで助けに行ったセルジュは、満身創痍で帰って来た。今回もそんなことになるかもしれない。第一、その時の傷もまだ癒えていないのだ。
ベッドに腰掛けて思案に暮れることりの側に、神官が寄ってくる。交代したばかりの見張りの神官だ。白い帽子を深く被った彼は、ことりの傍らにそっと屈んだ。何事かと身構えることりに、耳打ちしてくる。
「ことり様、私は味方です。セルジュ様の命で、随分前からここに潜入していました」
いかにも真面目そうな神官の言葉に驚いて、ことりは彼を見上げた。騒がないように、と神官が口の前に指を立てて示す。
疑うことはなかった。自分の事をことりと呼ぶのは、魔物か魔物寄りの人間だけだ。教会の人間なら、例外なくことりをラシェルと呼ぶ。神官に勝手に付けられた忌々しい名前。
「探し物をしていたんです。在り処を突き止めても、厳重に保管されていて、持ち出すことができなかったんですが……サリム様がおいでになることで保管場所から持ち出され、今は彼女が携帯しているようですね。私はこれをセルジュ様にお伝えします」
神官はしゃがんでことりと視線を合わせると、ことりの両手に自分のそれを重ね、実直な瞳でことりを見た。
「ことり様、私とここを抜け出しましょう。教会の手に落ちたままでは、サリム様やセルジュ様の足枷になりかねません」
こくりと頷いたことりは、すぐに顔を曇らせた。
「でも、外にも見張りがいるんでしょう」
「そうですね」
神官は辺りを見回す。部屋にひとつだけある窓は、腕も出せないほど少ししか開かないようになっている。叩き壊したりしたら、扉の外の見張りがすぐに気付き、騒ぎになるだろう。
神官は提げていた剣でシーツを引き裂き、適当な大きさで丸めた。何を始めるのかと見ていることりの前で、神官はトイレの扉を開けた。丸めたシーツをトイレに投げて、そのまま流してしまう。
「セルジュ様みたいに戦って抜け出した方が格好は良いんですけど、すみません。私はあまり戦い慣れてないんです」
情けなさそうに苦笑するが、聖都の教会という敵の本拠地とも言うべき場所に潜り込んでいるのだから、この青年の度胸も相当なものだろう。
彼は今度は出入り口の扉を開けた。
「すみません。トイレが壊れてしまったみたいなんですが」
「なんだって? どれ」
外の見張りの神官が中に入ってきて、シーツを流したせいで詰まって水が溢れているトイレを確認した。
「こりゃ駄目だな。仕方ない、外のトイレを使うといい」
「すみません、そうしてもらいます」
部屋から出られるようにとあっさり許可を取り、神官に促されてことりは部屋を出た。
水色のワンピースを着たままのことりは目立ち、誰もがちらりと視線を投げてくる。しかし側に神官が歩いているので、誰も不審には思っていないらしかった。
「そろそろ夕方の礼拝の時間ですね。恐らくその時の人混みに紛れて来るのではないかと思います。それまでどこかに身を隠して、お二人がまだ来ないようだったら、教会から抜け出しましょう」
「あなたも?」
「ええ。下町に行けば仲間が居ます。手助けして貰えるでしょう」
小さな声で会話をしながら、さりげなく辺りを見回す。神官達が慌しく行き来しているのは、礼拝の準備のためだけではなさそうだ。
もしこんな場所で戦うことになったら、礼拝に来た民間人まで巻き込むことになるのではないか。そんな心配をしている自分に気付き、ことりは自嘲的に笑った。
忙しそうにしている神官たちの間を縫って歩いていると、一人だけ妙にのんびりとした足取りの、金髪を黒いリボンでくくった青年が目に入った。鼻歌でも歌いだしそうな様子の彼は、周囲から浮いている。
神官と連れ立っていることりに目をとめた彼は、そのままのんびりとこちらに歩み寄ってきた。
「アズナヴール様」
神官が引きつったような声を上げた。アズナヴールは薄気味が悪いほどににこにことしている。
「どこに行くんですか?」
「いえ、その」
急に歯切れの悪くなる神官をことりは見上げる。この態度はアズナヴールのことが苦手なのか、それともやはりこの読めない笑顔のせいなのか。
神官が言い訳をするより早く、アズナヴールが言った。
「まあ、どこに行こうといいんですけどね」
「はあ」
気の抜けた返事をする神官を手で招いて、アズナヴールはそっと耳打ちした。囁きではあったが、それはことりにもぎりぎり聞こえるくらいの音量だった。
「ちなみに、神官は旧聖堂に魔物を追い込んで迎え討つつもりだ。隠れるならその近くにしたらいいんじゃないか。ただ、準備のために神官が大勢出入りしてるから、見つからないように気をつけて、できたら裏から回った方がいい」
ことりも神官も、驚いて長身の青年を見上げた。当の彼は底の読めない笑いを浮かべるばかりだ。
「安心しろよ、別に誰かに言ったりしない」
彼は確実に、神官が魔物に加担していることも、ことりがその神官と共に脱走を企てていることも気付いている。傍らに立つ神官の青年の態度からして、アズナヴールも魔物の味方ということは無いだろう。神官の服を纏った彼は間違いなく神官で、教会側の人間だ。
「どうして……?」
ことりがか細い声で囁くと、アズナヴールはとても嬉しそうににっこりと笑った。
「気にしないでいいよ。俺は、眠り姫の仰せのままに動いてるだけだから」
そのままアズナヴールは軽い足取りで歩いて行ってしまう。振り向きもせずに片手を振って。
二人はその背中を呆気にとられて見送った。ややあって、神官の疑わしげな声が聞こえてくる。
「どうしましょうか」
「今の人って、神官なのよね。何だか、変わった人だったけど……」
「王都の神官です。かなりの聖人信奉者のようですが、その、今のように少し言動がおかし……個性的で、敬遠されがちな人です」
気まずげな声に、ことりはアズナヴールの発言を思い出す。そういえば眠り姫がどうとか言っていた。ことりには何のことか分からないが、神官の中にいてあの態度では、目立って仕方ないだろう。ただでさえ容姿が目立っているというのに。
「信用していいのかしら」
あまり立ち止まっていると逆に目立ってしまうため、二人は歩き出した。いかにも怪しげなアズナヴールを信じて良いものか迷いつつも、足は自然と旧聖堂へ向かっていた。
教会の敷地の隅の方にある、今は使用されていない古い聖堂だ。まるで目隠しするように、周囲には木が生い茂っている。神官達の日課である朝の清掃ではここも掃除するのだが、陰々とした空気は払えない。木々の間にひっそりと佇む古ぼけた建物は、夕陽の橙色さえ枝葉に遮られて、妙に不安を煽られる。
茂る木々の裏に隠れるようにして、旧聖堂と、そこへ出入りする神官達を見ていたことりは、胸の前でぎゅっと手を握り合わせた。
小鳥と呼ばれた。
両親から。近隣に暮らしていた魔物達から。同じように小鳥と呼ばれた。
それはもしかしたら、小さな雛を拾って育てたというだけの、愛玩動物を可愛がるのと同じだったのかもしれない。
それでも、ことりは幸せだった。
可愛い小鳥、私達の子供。歌うように言って、優しく撫でてくれる温かな手。
もう二度と戻らない、温かな手。
ことりは幸せだった。
アルカデルト随一の規模を誇る、聖都リシュタンベルグの教会だけあって、夕方の礼拝の時間になると教会には多くの人間が訪れていた。門の前では門番が槍を片手に立っていたが、人波に紛れてしまえば神官の目につくこともない。紛れ込むことは容易かった。
セルジュは周囲に気を配りながら、サリムを伴ってさりげなく聖堂へと向かう人混みから外れていく。
一人の神官が、人の流れに逆らって二人に近付いて来た。瞬時にセルジュの金色の目が険しくなるが、それが誰なのか察して、警戒を解いた。
その神官はセルジュにちらりと視線を投げると、歩く速度は緩めず、擦れ違い様に軽くぶつかるようにして紙片を手渡してきた。
神官が十分遠ざかってから、紙片を手の平に隠すようにしてほんの一瞬目を走らせ、内容を確認してポケットにしまう。
目的のひとつであった、潜入していた者との接触を果たし、セルジュは第一の目的であることりの奪還へと頭を切り替えた。
聖堂へ視線をやれば、両開きの扉の前には左右にそれぞれ神官が立っている。聖堂ならば誰でも入ることができるが、他の建物ではそうはいかない。
サリム奪還に訪れた時は、動転して、作戦も何もなく正面から斬り込んでいった。自分を引きとめようとする門番も、向かってくる神官も全てを斬り捨てて、他人と自分の血にまみれながら。
彼は一人でどんな目にあっているのだろうか。命の危機に晒されても、もしかしたら抵抗すらしていないかもしれない。昔から頓着しない人だった。自分にも他人にも。そう考えれば焦る気持ちは止まらなかった。
今落ち着いて、どうやってことりを探すのかを考えていられるのは、サリムが側に居るからだ。側に居れば守ることができる。
ふと、先ほどとは違う神官が近付いてくることに気付き、セルジュは身構えた。しかし相手は戦う気はないようで、ある程度の距離を開けて立ち止まり、二人を見て厳かに言った。
「お待ちしておりました。このような場所で争うのは我々としても本位ではありません。場所を用意してあります。話し合いましょう」
話しかけてきた神官の後ろにも、数人の神官が控えている。周囲からも視線を感じた。
話し合いに応じる理由などないし、どうせ建前であるということも分かっていた。悪魔の目覚めを、教会がみすみす見逃すはずがない。そうでなくても、教会に入り込んだ魔物に対する教会の所業など決まりきっている。厳しい聖裁を授けることで、教会の力を示すのだ。そうして魔物を牽制し、同時に人々に教会の威光を知らしめる。
人間がまだ周囲に大勢居るこの状況で立ち回りを演じるのはやりにくいだろう。セルジュもそうだが、人間を傷付けられない神官達は尚更だ。
彼らは、被害が出ないようにサリムとセルジュを聖堂から引き離したいのだ。そして教会が用意した場所に招いて、そこで討つつもりなのだろう。
「分かりました」
意図が透けて見えているが、セルジュはそれに乗った。
ここで騒ぎを大きくしても逆にことりを捜すのに難航するだろうし、大人しく着いて行けば恐らくことりに対面くらいはさせてもらえる。罠にかかりに行くようなものだとしても、それに賭けるのが手っ取り早かった。
セルジュの探していた物も、神官の少女が所持しているという報告をもらった。神官の用意した交渉の場には、彼女も同席すると思わしい。
サリムとセルジュの二人は、神官の後に続き、人気の少ない敷地の奥の方へと歩いて行く。数人の神官が二人を取り囲むようにしてついているのが不愉快だった。
最早変装する意味もないので、セルジュはマントと帽子を外していつもの黒い軍服だけになった。邪魔だったのか、サリムも帽子を取る。
連れて行かれた先は、生い茂る木々に隠れるようにして建っている古びた聖堂だった。
両開きの扉を開けられて中に入る間も、神官達の視線が二人に突き刺さる。口では話し合いだなどと言いながら、敵意を隠すつもりもないようだった。
旧聖堂の中は広かった。長椅子の類は全て片付けられており、天井は高い。上の方には曲線的な模様を描く大きな窓があったが、周りを囲む木々のせいかほとんど光は入らない。壁にぐるりと等間隔で灯された明かりも、薄暗さを解消するには至らなかった。
旧聖堂の中央より少し奥に、複数の神官が立っていた。その中央に背筋を伸ばして立っているのはクロティルドだ。周囲の神官は男性ばかりで、一人だけぽつりと立つ少女は小柄に見えたが、彼女は誰よりも威圧感を放っていた。
重く軋んだ音を立てて扉が閉まる。
「案外、大人しく来たんですね。抵抗するかと思っていました。先だっては、我々の仲間の多くを傷つけられましたから」
「大人しくしているかどうかは、あなた方の対応次第です。ことりはどこですか」
クロティルドはいつもの黒いワンピースにベルトを締めて、質素な鞘に収まった剣を提げていた。セルジュの目がその武器を捉える。
あれが唯一、サリムの生を終わらせることのできる剣。
普通の武器ではサリムを殺めることはできないが、あれだけは特別だ。聖人が祝福を与えたのだという剣は、かつて悪魔と恐れられた魔物の命も絶つことができる。
しかし、それを用いたとしても、サリムの魂がついえることは無い。どの人間や魔物とも違う。彼の魂までを消滅させることは、誰にもできない。その筈だ。かつてカプドヴィエルの悪魔と呼ばれていた頃のサリムが殺された時にも、同様の武器が用いられ、それでも魂の消滅には至らなかった。
眠っている悪魔を目覚めさせるために不可欠の存在。それを目の前の少女が持っている。
「サリムとラシェルを誑かした主犯はあなたですね。二人を連れ出して、何を企んでいるんです。古の悪魔に仕えし、穢れし者よ」
蔑みも露わな言葉に、セルジュの語気も荒くなる。
「企むも何も、貴様らに奪われたものを取り戻そうとしているだけだ」
「人の形をしていても、どこまでも犬ね」
クロティルドが馬鹿にしたように笑った。
「話はそれだけか」
「あなた方が教会に楯突く気だという解釈で合っていれば、以上です」
そもそも話し合いなどする気はなかったのだろう。クロティルドが剣を抜くと、周りを取り囲んでいた神官達も一斉に武器を手にした。
「ことりはどこだ?」
自らも剣を取りながら問いかけると、クロティルドが顔をしかめる。
「さあ。まだ敷地内には居ると思いますけれど」
「逃がしたのか? 交渉材料がないのでは話し合いになりえないだろうに」
セルジュは殊更呆れた声を出した。話し合いだと言ってここまで連れて来たのだから、もう少し体裁くらい整える気はないのだろうか。何のために見えている罠にかかりに来たというのか。
「どちらにしても、やることは変わりませんから」
クロティルドが、宣誓でもするように、剣を高く掲げた。
「魔物に聖裁を」
少女の凛とした声を合図に、神官達が一斉にサリムとセルジュ目掛けて斬りこんで来る。
「サリム様!」
セルジュはサリムを気に掛けながらも、目の前に迫った二人を斬りつける。サリムは神官の振るった刃から身をかわし、ようやく剣を抜いたところだった。返しざまに、飛び込んできていた相手を切り裂く。薄暗い中でも、飛び散る血の赤が鮮やかに見えた。
背後から首筋へと迫った剣先を身を屈めてやりすごし、セルジュはそこから伸び上がるようにして振り向きざま斜めに刃を走らせる。神官の体が血しぶきと共に倒れ、後ろから現れた別の神官の腕を返す刀で跳ね飛ばす。別方向から振り下ろされる剣を身を捻って避ける。刃が身をかすめ、血が舞った。
人数が多い。セルジュが心配せずともサリムも応戦していたが、二人で斬っても斬っても次から次へと神官は飛び掛ってきて、一向に減らない。素早く刃を振るいながら視線をやると、クロティルドは高みの見物とばかりに、最初の立ち位置から一歩も動いていなかった。
恐らく彼女は、二人が消耗するのを待っているのだろう。
セルジュが動くたび、塞がりきっていない傷が痛む。四方から襲い来る刃に少しずつ身を刻まれ、傷は増していくが、それでも深刻なものは無い。
幸いだったのは、この場に一度斬り結んだことのある神官……アズナヴールが居ないことだ。この人数に加えて、彼まで相手をする自信は、セルジュにはなかった。彼の実力は確実に、他の神官とは一線を画している。
幾人もの神官を退けながらふと気付くと、セルジュはサリムと随分離れた位置に居た。二人の間には多くの神官が居る。意図的に引き離されていた。
良くない。セルジュは僅かに焦るが、サリムの側へは一向に近付けない。焦るほど太刀筋は荒くなり、セルジュの体にも傷が増えていった。
クロティルドの目が射抜くような強さで二人を見ている。
正面から振り下ろされた剣を弾き返した時、扉の開く鈍く軋む音がした。
「動くな!」
有無を言わさない鋭い声が飛び、セルジュは反射的に飛び退り距離を置く。
誰もが動きを止めて、刃だけは互いの敵に向けたまま、声を発したクロティルドを見て、彼女の視線を追って開いた扉を注視した。
そこにはたった今入ってきたと思わしい神官が立っており、片手で小柄な少女の腕を捕まえて、喉元にナイフを押し当てていた。
「ことり」
セルジュが小さく呟く。
「ごめんなさい」
彼女はサリムとセルジュの姿を見つけて、すぐに震える声で言った。蒼白な顔をしている。喉元に当てられた凶器に怯えているのではない。自分が捕まってしまったことで二人が窮地に立たされるであろうことを察していた。
ことりが捕らえられていて、セルジュとサリムは引き離され、神官に取り囲まれている。そしてこの場には、サリムの生を終わらせることのできる武器を持った、クロティルドが居る。
セルジュの顔から血の気が引いた。ことりよりも酷い顔色だった。頭の中に、この後の筋書きが一瞬で見えてしまった。想定していたものとは異なるが、セルジュの……セルジュとことりの目的は達成される。しかも、この状況から言えば、それが最も近道だった。
望み続けていたことだというのに、それが目の前で起こってしまうのかと思えば、セルジュは震えを抑えられなかった。
「彼女は外から、中の様子を窺っていました」
「せっかく逃げ出したというのに、わざわざ捕まりに来るとは殊勝なことね」
クロティルドが皮肉げに笑う。次の言葉は、聞かなくても予想がつくものだった。
「ラシェルの命が惜しければ、武器を捨てて投降なさい」
どうするのかと指示を仰ぐように、サリムがセルジュに視線を投げてくる。その姿は血に塗れているというのに、翡翠と金の瞳はどこまでも無垢に凪いでいた。顔を背けたくなるほどに。
「彼女の為にサリム様を引き渡しては、本末転倒でしょう」
サリムに返事をする代わりに、剣は下ろさずに言う。
「どうかしら。サリムさえこちらに渡してくれれば、あなたとラシェルのことは見逃してもいいわ。ラシェルさえ居れば、あなたにとってまた機会が巡ってくるでしょう。例え、今のサリムが居なくなっても」
今のサリムが、――サリムが死んでしまっても。
この場に立つサリムが、魔物だった頃の彼の魂を宿しているように、今の彼が死んでしまってもその魂とはまた巡り合えるだろう、と。
嘘も甚だしい。そんな可能性を、教会が残しておく筈が無い。サリムを始末したら、約束など簡単に反故にするに決まっていた。教会が魔物とまともに約束を交わすと思うこと自体が間違いだ。教会の言う悪であるところの魔物を裁くのは、どんなに卑怯なことをしようと彼らにとって正義になる。
「セルジュさん、私……ごめんなさい……」
無力に震えることりの声。セルジュはちらりとサリムを見てから視線を戻し、首を振った。
「――おいで、ことり」
右手で剣を構えたまま、左手を彼女に差し伸べる。サリムの視線を感じる。死んでしまいたいような気分だった。
神官が、ことりをセルジュに向かって突き飛ばす。同時に、サリムを取り囲んでいた神官達が、無抵抗な彼を取り押さえた。
ことりは神官の間を縫って走り、セルジュに飛び込むようにして縋りついた。頼りない両手で軍服をしっかりと握りながら、首を捻ってサリムの方を見る。
サリムは既に武器を手放して、両腕を神官に押さえられていた。クロティルドの甘言に惑わされたと思われても仕方のない状況だというのに、何の疑問も感じていないかのような顔をしている。
普段と何も変わらない無感動な目で、セルジュとことりを見ている。それがなにより居た堪れなかった。
神官達がセルジュの側から離れ、サリムの後ろを取り囲む位置に移動する。
誰よりも敬愛するサリムが、憎き神官達の手に落ちている。息が苦しい。
クロティルドが踏み出し、サリムの正面へと移動した。
彼女が剣を掲げる。セルジュの心臓が強く鳴った。震えが止まらない。
「セルジュさん……、どうして、助けてあげないの……?」
ことりは信じられないものを見るような顔をしていた。常にサリムを優先してきたセルジュが、彼を見殺しにするような行動を取るのが信じがたいのだろう。
「ことり、死ぬ覚悟はできていますか」
本当は瞬きの間でさえサリムから目を離すのは惜しかったが、セルジュはことりの目を見て言った。その湖面色にさざ波が走ったのは一瞬だけ。
怯えは消え失せ、彼女はセルジュから身を離す。
透き通るような表情で、ことりは囁くように小さく言った。
「今なのね」
セルジュが頷けば、彼女は仄かに笑みを湛えたようだった。
「あなたに会った時から、覚悟はできてる。私に力をくれてありがとう」
復讐するための力をくれて、ありがとう。そう微笑むことりに、セルジュは寂しげに笑いかけた。
「そうだ……逆はどうかしら。あなたが身を差し出せば、サリムの命だけは助けてもいいわ」
思いついたようにクロティルドが言った。優位を確信した言い方だ。
セルジュがいなければ、気力に乏しいサリムが自分から何らかの動きをするとは思えないからこその言葉だろう。セルジュ自身も同意できる。自分がいなければ、サリムは己のために積極的に何かをしようとはしないだろう。
あえて馬鹿にするように、セルジュは鼻で笑って見せる。
「俺がいなくなったら、誰がサリム様をお守りできるんです」
クロティルドは興ざめしたような顔つきになった。
「そのサリムを今見捨てようとしているのに、誰を守ると言うの? ……いいわ。魔物にまともな議論なんて無駄ね。最後に何か言っておくことは?」
クロティルドが、サリムとセルジュの二人に向かって声を投げてくる。
セルジュは何も言えなかった。
今にもサリムが殺されようとしていて、それを止めようとしていないこの状況では、何も言うことができない。
本当はすぐにでも飛び込んで行きたい。あるいは抵抗して下さいと言えば、サリムは自分から、神官の腕から逃れられるのかもしれない。彼はセルジュが何も言わないから、何もしないのだ。
望みがないから、自主性がない。生にさえ執着しない。
そんな彼が悲しくて、大切にしてあげたいのに。
大切なのに、セルジュはサリムを見殺しにする。
セルジュの望みを叶える為には、どうしてもそれが必要だった。
サリムの死が必要だった。
神官に取り押さえられたサリムの姿が、記憶の中の百年前の彼の姿と重なる。
あの時も彼は無抵抗だった。無抵抗で、今と全く同じように神官に両腕を拘束されて。後に聖女と呼ばれることになる女性の神官が剣を翳していた。
百年前は、無力な自分に歯噛みしながら、世界を呪うような気持ちで見ていた。腹部に負った怪我のせいで視界などほとんど霞んでいたが、それでも彼がその身に刃を受ける光景は瞼に焼き付いている。
今よりももっと大勢の神官に取り囲まれ、魔物の仲間達は次々に倒れ。けれどセルジュを地に縫い付けるような大怪我を負わせたのは、サリムの剣だった。彼に負わされた傷からはおびただしい量の血が流れ、セルジュは身動きがとれなかった。
地面に張り付いて首だけは前を向いて。何より大切なひとが目の前で殺されるのを、泣きながら目に焼き付けた。神官への憎悪と共に。
あの時の血に濡れたサリムの顔が、今のサリムと重なって見える。
セルジュへの抗議すら無い、翡翠と金の目が、真っ直ぐにこちらを見ている。
気が狂いそうになる。どうして自分はこんな思いをしてまでこんなことをしているのだろう。
助けたくともできなかった百年前とは違う。今は、そうしようと思えば動かすことのできる体がある。
助けられないのではない。助けないのだ。
サリムの目に、今自分はどう映っているのだろう。
軽蔑しているだろうか。裏切りを感じているだろうか。それともやはり、何も感じていないのだろうか。死の淵に立たされてなお。
「別れの言葉すら無いの? 魔物の考えることって、やっぱり分からないわね」
セルジュとことりは、息を殺すようにしてサリムを見ていた。
その一瞬は、永遠のようにも感じられた。
クロティルドの手が無慈悲に振り下ろされる。薄明かりを弾き返す鋭い金属がサリムの服を裂き、皮膚を破り、肉を断ち――彼は悲鳴ひとつ上げない。
目を逸らさず、瞬きすら惜しんで彼を見つめた。彼の白い頬にまで血が飛び散る。猛烈に吐き気がした。体がどうしようもなく震える。百年前と似た絶望感が体を取り巻く。
サリムの目から光が失われ、体から力が抜ける。支えていた神官が手を離すと、その体は無残にくずおれた。薄暗い床に血が広がっていく。長い髪に血が染みる。
彼の魂は決して滅びることはない。
わかっていても、目の前でその命が失われるというのは、何度経験しても耐え難い痛みをセルジュにもたらす。心臓が引き裂かれるようだった。
瞬きも忘れて目の前の光景を見つめる金の瞳から、ひとしずく涙が零れ落ちた。
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