百年の夜の先

松原塩

文字の大きさ
上 下
1 / 7

1

しおりを挟む
 百年前の後悔の続きが今、幕開く。



 遠く、聖歌が聞こえる。
 教会の日課である朝礼の時間だ。毎日同じ時間に聞こえてくる、聖人リシュタンベルジェルを讃える歌。
 しかしサリムは、教会で育てられていながら、十七歳になった今もその歌を一度も歌ったことがない。恐らくこれからも無いだろう。
 身寄りの無い子供が教会に引き取られたなら、大抵はそのまま神官見習いとして教育を受ける。その中で、今聞こえてくるような聖歌も習うのだろう。
 しかしサリムは神官にはならない。
 何故かは知らない。
 かの聖人を讃えるための朝礼に呼ばれたことなど一度も無い。同じ宿舎で暮らす神官やその見習いたちが日も昇らない内から起きだして清掃や朝礼を行っている間、サリムは部屋で寝具にくるまって眠っている。誰も起こしには来ないし、怒られたこともない。
 日が昇るころ勝手に起きだして、するべきこともないので気が向くままにしたいことをする。
 大抵は、サリムの世話係のような役割のクロティルドという少女が朝礼を終えて、朝食を持ってきてくれるのをぼんやりと待っている。それを食べたら庭に出て花壇の世話をする。勝手に部屋を出ると彼女に烈火のごとく叱られるので、外に出るときは必ず一言伝えることになっていた。
 庭いじりが趣味というわけでもなければ、植物を愛でるような情緒もない。ただサリムに許された活動がその程度しかなかった。
 教会の敷地より外に出たことはない。それだけは絶対にしてはならないと、固く禁じられていた。部屋の中に居ても、聖書を読むくらいしかやることがない。そこに記されているのは聖人がどのような人物でいかに素晴らしいかという賛美だけで、サリムにとって全く興味のない事柄だった。
 我らの魂の唯一の主であり救い主であるなどと読んでも、一切理解が追いつかないのだが、教会にはそれをありがたがる人間しかいない。理解できないし、する気もない。崇拝はしたい人達だけで勝手にしていれば幸せだ。それを周りに強制しなければ。
 聖都リシュタンベルグの中心に位置する、アルカデルト王国最大規模の教会内において、サリムは異質と言うより他無かった。
 嘘か真か、この教会の奥深くで今も聖人は老いることなく眠っているらしい。聖書に記されている情報から計算すると百歳は超えている。
 百年、美しいまま眠り続けている、それは本当に人間なのだろうか。教会が目の敵にしている魔物とはどう違うのだろう。
 神官に知られたら血相を変えて斬り殺されそうなことを考えながら、サリムはスコップを片手に花壇の前にしゃがみ込んでいた。雑草を抜くように言われていたが、見分けがつかないので、花がついていない草のあたりをまとめて掘り返す。
 神官と似た黒い詰襟の服を着て、背筋が凍るほどの美貌の少年がひとりしゃがみこみ土をいじっているというのは、奇妙な光景だった。薄茶の長い髪は、しゃがんでいると地面に先がかすってしまう。時折背後を通り過ぎていく神官やその見習いの視線を感じながらも、サリムは気にしない。彼は何をしていても結局目立つ。
 広い教会の中でも特に人通りの少ない場所の花壇を構っているのは、サリムが目立つことを厭ったためではない。世話係クロティルドのお達しだ。
 サリムは彼女より一歳上の十七歳だったが、神官であるクロティルドの方が、見習いですらないサリムより教会内において地位が上である。そうでなくとも、わざわざ反抗するほどの自主性を持ち合わせてはいなかった。
 彼は万事に対して興味が無い。
 神官見習いの身寄りの無い少年少女が自分の出自に疑問を抱いているのを横目に、サリムは自身のことにすら興味を抱かなかった。いつから、どうして教会に居るのか覚えてもいない。
「あら、お花のお世話をしているの?」
 ふいに影が落ちて、サリムは顔を上げた。太陽を背に、神官の黒い質素なワンピースを纏った女性が立っていた。
 サリムは無表情で頷いたが、隣に居た神官の女性が彼女に慌てて声をかける。
「やめなさいよ」
 そのままこそこそと喋る二人を、サリムは退屈そうに眺めた。潜めた声は聞こえずとも、ちらちらとサリムの顔を窺ってくる様子で、大体何を話しているのかは察しがつく。
 知らない相手にこのような態度をとられることにも、すっかり慣れてしまった。
 サリムの目は左右で色が違う。左が美しい宝石を思わせる翡翠色、右目は魔物のごとき金色をしていた。まるで魔物だと囁かれることには慣れていたが、サリムが腫れ物扱いを受ける理由はそれだけでは無いらしい。
 神官たちはサリム自身の知らない、彼の正体を知っている。それが忌避される要因だ。
 二人は、気まずそうにサリムの前から立ち去った。少年は再び視線を花壇に戻す。
 暫くそのまま作業を続けて、昼の鐘が鳴ったころサリムはようやく立ち上がった。スコップを片付けて汚れた手を水道で洗っていると、背後に人の気配を感じた。
 じっと背中に視線が注がれているのが分かる。けれど何を話しかけてくるでもない。どうやらサリムが手を洗い終わるのを待っているようだった。
 待たれているからといって焦るでもなく手を洗い、手を振って適当に水気を払う。それからやっと振り向けば、そこに立っていたのは金髪の少女だった。
 十四歳くらいに見える。背中に届くほどの長さの真っ直ぐの金髪。後頭部に黒いリボン。丸い水色の瞳が、サリムを見上げていた。地味な黒いワンピースは、教会ではよく見かける、珍しくない格好だ。
「よかったら、どうぞ」
 差し出してきた白いハンカチを受け取り、遠慮なく使う。無言で返し、その少女が何か切り出すのを待った。
 彼女のことは一度だけ見かけたことがある。
 多くの人間が生活する教会で、一度見かけたきりの人間など普通は忘れてしまう。しかし彼女だけは別だった。
 部屋の窓から、外を歩く彼女をたまたま目にした。サリムの視線に気付いたクロティルドが即座にカーテンを引いたが、あまりにあからさまな妨害に、逆に強い印象が残っている。
 その一瞬のことがよみがえり、ついでに彼女には絶対に会うなときつく言い含められていたことも思い出した。
 名前は何と言ったか。――ラシェルには、彼女には絶対に会わないように。そんな風に言われたような気がする。
「初めまして。カプドヴィエルの悪魔ってあなた?」
 聖書で見掛けたことのある大層な呼び名に首を振る。しかし少女は即座にそれを否定した。
「うそ。ここで一番綺麗な人がそうだって言われたわ。一目見れば分かるって。あなたでしょう」
 人探しをするにしては曖昧な条件だ。美の基準など人によって異なる。それでも少女はサリムこそが探し人であると確信しているようだった。
「お願い、一緒に来て欲しいの」
「どこへ?」
「こっちよ」
 少女が歩き出すのに、サリムは言われるがままに着いて行く。
 彼女は注意深く辺りを窺いながら、人に遭遇しないように気をつけて移動しているようだった。
 知られてはならない場所へ行こうとしているのだろうか。もしかしたら、彼女もサリムと同様に、サリムと会うことを禁じられているのかもしれない。
 そうだとしたら彼女は知っているのだろうか。なぜ会ってはならないのか。知った上で一体どこへ行こうというのか。
 彼女は教会の内部へ入ると、人気の無い廊下を選んで、足早に進んでいく。白い床を踏み、その小柄な背中を追いかけた。
 聞こえていた人々のざわめきは次第にかすかなものになり、廊下は薄暗くなっていく。窓の外には木が茂り、それが陽光を遮っていた。やがて人の気配が完全に途絶え、少女の控えめな足音と自分の靴音しか聞こえなくなる。
 普段滅多に使われないような場所でも掃き清めることはかかさず、教会内はどこも常に清潔に保たれている。そのはずだったが、今歩いている場所は長らく誰も足を踏み入れていないだろうと容易に分かるほど、埃っぽい。
 廊下の突き当りの階段を下りると、そこには扉があった。重そうな両開きの鉄の扉だ。白いペンキを塗って場に溶け込ませようと努力をしているようだが、完全に逆効果になっている。ペンキは剥げて下から鉄の色が見えていた。白い扉に鉄と錆がまだらになって、長い年月放置されているのが一目で分かる。
 取っ手には鈍い金色の錠がぶら下がり、その上から太い鎖で幾重にも戒められ、その鎖も錠で留められていた。少女は当たり前のように鍵を取り出し、いとも簡単に外してみせた。音が立たないように、外した鎖と錠前をそっと床に下ろす。
 彼女はためらいなくその扉を開けて進んで行ったが、サリムの足はその場に縫いとめられたように止まってしまった。
「どうしたの?」
 すぐに少女が扉を開けて顔を覗かせる。扉の向こうは真っ暗だった。
「ここには近寄るなって言われてる」
 いつ言われたのかは覚えていないが、外のほかにもう一箇所出入りを禁じられているのが、この扉だ。見るのも初めてのはずなのに、これがそうなのだと分かる。ここだけは何があっても絶対に立ち入ってはいけないと、覚えのない誰かの声が、頭の中でこだまする。
「誰に」
「わからない」
「じゃあきっと気のせいよ」
 首を振っても、少女は退かなかった。
「誰に言われたのかもわからないのに、わざわざ守る必要なんてないわ。大丈夫だから、一緒に来て」
 それ以上強く拒否する理由も見つからず、サリムは扉をくぐった。
 軋んだ音を立てて扉が閉まると、視界は闇に閉ざされる。
「暗いわね」
 少女の呟いた声がいやに反響して聞こえた。彼女が辺りを見回しているのが気配でわかったが、やはりサリムの目にも何も見えない。
「ごめんなさい、こんなに暗いなんて思ってなかったから、明かり持ってきてないの。気をつけてついてきて」
 申し訳なさそうな声の後、不安なのか恐る恐る歩き始める音が聞こえる。埃でざらつく壁に手をついて、サリムも後に続いた。
 二人とも無言で進んで行くとやがて段々と廊下は薄明るくなり、天井に張った蜘蛛の巣や、廊下の隅に積もった埃が、薄ぼんやりと視認できるようになってくる。
 廊下の先には広い空間があった。円形の広間のようで天井は高く、三階分くらいはありそうだ。その三階にあたるほどの高さの壁に窓が並んでおり、その幾何学模様を描くガラス越しに、昼の陽光が差し込んでくる。宙を舞う埃が反射してきらきらとして見えた。
 中央には祭壇のようなものがあった。腰ほどの高さの台の上に、白い布がかかっている。布の下には形からして大きな箱が隠れているようだが、それはちょうど柩ほどの大きさだった。
 少女がまっすぐにそれに近付いていくので、サリムも後に続く。
 白い布には金の糸で円形に、聖なる言葉が縫い取られて模様のようになっていた。床にも金色の文字があり、なにかの魔法陣のように祭壇をぐるりと囲んでいる。どちらも色がくすんでいた。
 少女が手を伸ばし、白い布を剥ぎ取ろうとするが、何かに弾かれたように引っ込める。彼女の水色の目が、サリムを振り仰いだ。
「これ取れる? 中を見てほしいの」
 彼女の隣に移動して、サリムは難なく布を剥ぎ取り、床に捨てた。現れたのはやはり黒塗りの柩だった。白い布に守られ鎮座していた柩は、まるで昨日作ったかのように傷みも汚れも見られない。床や布同様、柩の表面にも金色の文字が這い、円を描いていた。
 蓋に手をかける。釘で打ち付けられてもいないそれは、何の抵抗も無く簡単に開いた。
 柩と言う外観に違わず、中にはひとつの骸が横たわっている。
 当然とも言うべきことだったが、情動の極めて薄いサリムもその姿に息を呑んだ。
 蝋のような白い肌に、闇を凝縮したような黒色の長い髪。瞼を閉じ、胸の上で指を組むその青年は、たった今息を引き取ったばかりであるかのように美しい。血の気の無いなめらかな肌を見れば生きていないのは一目で分かるが、今にも動き出しそうだ。
 端正なその顔は、髪の色こそ違えど、サリムそのものだった。
 柩の中で眠っていたサリムの死体が瞼を開く。二人の、左右色違いの目が交わる。
 ひどく現実感が無かった。
 そっくりなのではない。柩の中の死体は紛れも無くサリムそのものだと、直感した。自分の死体と目が合うことなど、起こりえないというのに。
 戸惑いは一瞬で、気付けば目の前の翡翠と金の瞳は消え失せていた。
 サリムは茫然と立っていた。
 柩の中は空だった。何の痕跡も無く消え失せている。もしかしたら最初から中身は空だったのかもしれない。
 今のは白昼夢だったのか――そう考える暇さえなく、サリムの体に激しい痛みが走った。体内を襲う強い衝撃に、自分の体を抱き締めて膝をつく。
「どうしたの、大丈……」
 心配したような少女の声が、ガラスが割れる音に掻き消される。
 高いところにある全ての窓のガラスが割れ、凶器のきらめきを振りまきながら降り注ぐ。
 降り注ぐガラスの音も少女の悲鳴も、サリムの耳には入らない。暴力的なまでの熱が体の中でのたうっている。熱いのか痛いのか最早分からず、ただ苦痛に蹲る。
 高い窓から何か人型のものが飛び込んできたのが視界の端に映る。それを境に、サリムの意識は暗転した。



 振動を感じてゆっくり目を開くと、辺りは薄明るかった。
 視界に入るのはひたすらに木々だけだった。見たことの無い場所だが、当たり前だ。サリムは教会の外を知らない。つまりここは、教会の敷地の外だった。
「お目覚めですか」
 少年の声が間近で聞こえた。覚えの無い声に顔を上げると、至近距離から金色の双眸が見下ろしていた。
 そこでようやく、サリムは彼に抱きかかえられて運ばれていることに気付いた。少年の顔はサリムより幼いように見えるが、足取りに不安なところはなく、サリムのことを抱く腕の力は強い。
 くせの強くあちらこちらが跳ねた銀髪と、猫のように吊った金色の瞳が印象的だ。黒い瞳孔が縦長なのも、猫によく似ている。
 そんな人間居はしない。
 自分を抱えているのは人間ではなく魔物だ。気付いてもなお、サリムは別段取り乱すことはなかった。
「下ろして」
「お体はもう平気ですか」
 極めて無愛想な少年だが、その口調からは心配が滲み出ている。体を苛んでいた苦痛はもう感じられなかったのでひとつ頷いてみせると、彼は意外なほどあっさりとサリムを地面へと下ろした。非常に丁寧な所作だった。
 雑草の生えた土の上に自分の足で立つ。サリムは正面から少年をじっと見た。
 長くうねった銀髪を耳の下でひとつに結わい、結び目には黒い羽を何枚も重ねたような飾りがある。身に纏っているのは黒い軍服で、銀髪が良く映えた。腰には鞘に収まった剣を携えていた。
 彼の隣には、教会でサリムを誘った少女が立っている。銀髪の少年は、少女と同じ年の頃に見えた。
「誰?」
 当然の問いを口にすると、彼は胸に手を当てて、少しだけ眉を下げた。困ったような、寂しいような顔で。
「セルジュです」
 ついでとばかりに、少女も口を開く。
「私はことり」
 覚えていたものとは違う名乗りを上げられ、サリムは首を傾げた。
「ラシェルって聞いたけど」
「それは教会の人が勝手につけた名前。お父さんとお母さんは私のこと、ことりって呼んだわ」
「そう」
 よく分からないが、とにかく彼女はことりと呼ばれたいのだろうと判断して頷く。
 二人の目的が分からない。教会で暮らしていた少女が、魔物の隣で平然としているというのも、聞いたことがない。サリムの知る限り、教会の人間は皆誰もが魔物を厭い、憎んでいた。
 訝る目で魔物の少年を見る。
 セルジュは気を悪くした風でもなく、毅然とした表情で言った。
「お迎えに上がりました、我が君。帰りましょう」
「どこへ」
 教会から連れ出されて帰ろうと言われても、サリムには親類など居ないのだから、ほかに行くべき場所があるはずもない。しかしセルジュは顔を僅かな笑みに綻ばせた。
「あなたのあるべき場所です、サリム様」
 様を付けて呼ばれたことなど初めてだった。しかも相手は魔物だ。サリム自身でさえ知らない自分のことをよく知っているらしい口ぶりに戸惑っていると、セルジュは手を取って歩き始めた。後ろからことりも着いて来る。
 いくらも歩かない内に、進行方向の木々の陰に、誰かが座っているのが見えた。
 濃い灰色の髪をもつ青年だ。首筋から腕にかけて刺青のような模様があるのが、服の間から見える。彼は一行の姿に気付くと即座に立ち上がり、それからわざわざ跪いた。
「お待ち申し上げておりました、我らが主」
 恭しく告げると同時に、木々がまるで生き物のように蠢き、幕が開くように避けて道を作る。
 そうして視界の先に現れたのは、黒い門扉にとざされた、白い石造りの屋敷だった。規模で言えば、サリムの生活していたリシュタンベルグの教会には劣るものの、並ぶアーチ状の窓に、ところどころに彫刻のような装飾が施されており、まるで小さな城のような風情だった。壁面には蔦が這っていたが、そこに咲く花は建物を侵食しているというより、三人を歓迎しているようだった。
 絡む蔦が軋んだ音を立てて門扉を開く。
 驚いたのか見惚れているのか、ことりはその建物を見上げている。行きましょうと促しセルジュが歩き出すと、彼女はようやく我に返って後に続いた。

 屋敷の中はきちんと清掃されていたが、生活感は全く感じられない。長らく使われていなかったのだろう。
 セルジュは慣れた様子で廊下を進み、一室に二人を招き入れる。分厚いカーテンを開くと大きな窓からさっと日が差し込み、明かりを点けずとも室内は充分に明るかった。
「どうぞ」
 部屋の中央にある丸テーブルの椅子を当然のような顔をして引いたので、サリムも当然のような顔で座った。
「暫しお待ち下さい。お茶の用意をします」
「手伝うわ」
 そう言って二人は退室してしまい、サリムは早々に一人になった。目を放したら逃げ出すなどと考えてもいないのだろう。確かに諾々と着いて来たサリムに逃げ出すような自主性はなかったし、セルジュはきっとそれを重々承知していた。二人からは敵意も感じなかったので、ぼんやりと座って待つ。
 外からは小鳥の囀る声と葉擦れの音が聞こえてくる。もしかしたらこれは誘拐なのかもしれなかったが、ひどく穏やかだった。
 やがて二人が戻ってくる。紅茶の香りが漂う室内で、ようやくセルジュが本題に入った。
「人間たちがカプドヴィエルの悪魔と呼ぶ方のことをご存知ですか」
「うん」
 サリムは頷いた。聖書に記されていた名前だ。
 百年ほど昔、カプドヴィエルの地を支配する魔女と、それに加担した魔物が居た。類を見ない強さと美しさを持つその魔物は悪魔と呼ばれ恐れられた。国を破滅へ追い込もうとした悪魔を、聖人リシュタンベルジェルが聖なる力で封印したとか、そういう話だった。その後にカプドヴィエルは聖都リシュタンベルグと名を変え、生まれ変わったのだという。
「かのお方が人間どもの卑劣な手に落ちてから百年。我々はその復活を心待ちにしていました」
 セルジュの目は真剣に、サリムを見つめている。もう知っている話なのか、ことりは俯いてティーカップを両手で包み、波紋を見つめていた。
「サリム様」
 まるで祈りのような声だ。
「ずっと、再会する日を待ち望んでいました。サリム様」
 金色の瞳は嘘を吐いていない。
 十七年間、人間として育てられてきたサリムは、目を瞬いた。
 この話の流れでいくのなら、セルジュが待っていたというカプドヴィエルの悪魔というのは、サリムのことを指しているのだろう。そういえばことりもそのようなことを言っていた。
 何事にも無関心なサリムとは言え、聖書に名を残す悪魔であるなどと言われては、さすがに看過できない。
 眉根を寄せて首を傾げ、薄い表情ながらも疑念を表す。
「意味が分からない」
「かつてカプドヴィエルで魔物たちの王として君臨していたのが、あなたです、サリム様。長らく教会に封じられていた魂に器を宛がい、人間として育てようとした……あなたが魔物として復活することを恐れたからこそ、人間として生かそうとしたのでしょう」
 どこまでも真摯に響く声に、サリムはそれ以上問い詰めようとはしなかった。
 教会において自分が異質であることは分かっていたが、悪魔だと言われてすぐに納得などできない。だが目の前のセルジュはあくまで真面目な顔で、とてもからかっているようには見えなかった。
 彼の中ではそういうことになっているのだろう、という非常に半端で受け取り方によっては失礼な結論でサリムの内心はまとめられた。
「それで。俺に何をさせたいの?」
 こんな場所まで連れて来たからには何か目的があるのだろう。サリムが問いかけると、ことりが顔を上げた。
 セルジュが微笑んで言う。
「俺たちに付き合って下さい」
「どこまで」
 返した後に、そういう意味ではなかったかと気付き、言い直そうとした。しかしセルジュとことりの目は、真剣にサリムを見ていた。
 それぞれの口が開き、全く同じ言葉を紡ぐ。
「世界の終わりまで」



 月が沈みきらない、朝と呼ぶには些か早すぎる頃。
 部屋の大きな窓が開き、冷気を孕んだ風で重いカーテンが翻る。
 セルジュは即座に目を覚まし、ベッドから降りた。暗闇で金色の双眸が煌く。
「我らが主がいらしたってのは本当?」
 気さくな口調で問いかけながら、人影が窓から室内へと降り立った。気を張り詰めていたセルジュは、その声に緊張を解き、突然の来訪者へと足早に近付いた。
「イジドール。静かにしてくれ。サリム様のお休みの邪魔になる」
 セルジュが今まで寝ていた隣のベッドでは、サリムが寝息を立てていた。
 見知った青年を小声で窘めると、三白眼の彼、イジドールも声を潜める。
「そいつは失礼」
「もう聞きつけたのか」
「俺だけじゃないさ。みんな噂してる。……サリム様がお戻りになるってことは、ことりとはもうすぐお別れか」
 どこかしんみりとした口調が、暗い部屋に静かに溶ける。
 ことりは紛れも無く人間だが、魔物たちの間では有名だった。実際に会ったことはなくとも、彼女の存在を知っている魔物は多い。イジドールもその内の一人だった。
「可哀相だよなあ、あの子も」
「俺とことりの利害は一致している。何も問題は無い」
 同情するイジドールを、セルジュは冷ややかに切って捨てた。分かっていたことなのか、イジドールが諦めたような溜息を吐く。
「セルジュ、お前って本当に、サリム様が大好きだよなあ。昔から変わらない。何よりも誰よりもサリム様が一番大事」
「何が悪い」
 恥らうことも無く堂々と認めるセルジュの瞳は、いっそ冷酷にすら見えた。
「悪かないさ」
 そう言いながらも、イジドールは溜息を吐き出す。
 窓の外では、今やっと薄明るくなり始めた空で、月が沈もうとしていた。



 絶対に教会には帰らないように。
 三人で朝食を囲んだ席で、セルジュに強く念を押された。
 意識を失っている間に連れて来られたサリムには、例え帰りたくともここがどこかすら分からないのだが、一応理由を聞いてみると、セルジュは真面目な顔で言い切った。
「殺されます」
「なぜ?」
「教会から逃げたからです。あなたが逃げたということはすなわち、反逆の意思有りとみなされたでしょう。今頃恐らく血眼になって探しています。捕まれば殺されます」
 彼は大体いつでも、真剣なのか怒っているのか判別しがたい愛想のない顔をしている。その愛想のなさで告げられたあんまりな事態の説明に、さすがのサリムも、ろくでもないことに巻き込まれたのだと、ようやく気付いた。
 ことりは浮かない表情で、黙々とパンを千切って食べている。口を挟む気は無いらしい。
「どうしてそこまでするの」
「あなたを教会の外に出すというのは、悪魔を世に放つのと同じこと。と、あいつらは思っているはずです」
「そう」
 適当な相槌を打って、サリムはフォークを手にした。
 焼きたてのパンと、簡単な卵料理にサラダ。教会の朝食とほぼ変わらない質素な料理は、誰が用意したものだろう。屋敷の中には、テーブルを囲む三人以外の気配は無い。
「心配せずとも、俺がお守り致します。もうしばらくは、この屋敷でお過ごし下さい」
「もうしばらく、の後は、何があるの」
 それこそが、サリムが連れ出された理由だろう。
 セルジュの硬質な顔が、僅かに微笑む。
「あなたは何もしないで、ただ、おいで下されば、それでいいんです」
 それから食事はまるで通夜のように静かに進んだ。
 セルジュとことりはてっきり以前からの知り合いなのかと思っていたが、この様子を見ているとそんなことも無さそうだった。
 食器が立てる音のほかに、絶えず聞こえているのは雨が降る音だ。早朝から降り出した雨は、木々を濡らし、窓ガラスを伝って流れ落ちていく。天井からぶら下がる、俯いた花のような形をした照明が橙色の光で部屋を照らしているが、それでもなお薄暗い。
 一同が食事を終えると、セルジュが食器をまとめて運んでいった。手伝うとでも言いたげな素振りで立ち上がったことりは、何を思ったか結局その言葉は飲み込む。部屋からセルジュの姿が消えると、彼女はサリムの方を向いた。
「ちょっと話があるんだけど、いい?」
 二人は連れ立って部屋を出た。寝室や浴室、今使っていた小さな食堂など必要な部屋はセルジュから教えられていたが、それ以外は全く把握できていない。それはことりも同じようで、特に目的地はないらしく、あてどなく歩いているだけのようだった。
 廊下は薄暗い。歩くのに困るほどの暗さではないが、雨雲に覆われているにも関わらず、窓の外のほうが明るく見えるくらいだった。
 前を歩くことりの小さな背中で、金髪が揺れる。
「ことりは、セルジュとどこで知り合ったの」
 教会暮らしの少女が一体どこで魔物と知り合い、共謀するに至ったのか。不思議に思ったことをサリムは素直に訊ねた。
 彼から先に声をかけられるとは思っていなかったのか、ことりは立ち止まり、驚いた様子で振り返りった。
「……セルジュさんの方から私に会いに来たの。あなたを助けるの、協力して欲しいって。願ってもないことだったから、引き受けたわ」
「なぜ? 俺がカプドヴィエルの悪魔だったとして、ことりに何のいいことがあるの」
「素敵なことよ」
 ことりはにっこりと笑う。その顔には、年端もいかない少女には似つかわしくない、影があった。
「だけど、私も協力する前に、あなたがどんな人なのか知っておきたいなって思って。……こうして見てると、人形みたい。教会でもね、私あなたのことどうやって連れて行こうって考えてたんだけど、想像してたよりずっと素直についてきてくれたから、何だか拍子抜けしちゃった」
「君が、ついてくるよう言ったから」
「だからって、素直に従う道理なんてないでしょう」
「そうしないほうがよかった?」
 淡々と問い返すと、彼女は眉を下げて困ったような顔になった。
「……いいえ。下らないこと聞いた。ごめんなさい。あなたって、すごく変わった人ね」
 失礼な言いようだったが、サリムは別段不快ではなかった。悪意をもって罵られても不快に思うかどうか甚だ疑問だが、ことりは悪意もないのだから、それこそ不快に思うことはない。
「君は変じゃない? 教会の人間が魔物と仲良くするなんて」
「魔物だからって怖いと思ったりしないわ。人間の方がずっと怖い」
 穏やかだった唇を引き結んで、ことりは両手をぎゅっと包むようにして握り合わせた。
「そう」
 理由を訊ねることも、戸惑うこともせず、サリムはただ頷いた。サリムにとっては、恐怖という感情自体が遠い。それ以上聞いても理解できる気がしなかった。
 ことりの声が歌うように響く。
「……聖なる裁きこそ、魔物に許された唯一の救済、贖罪である。存在自体が罪深き魔の生は、己の穢れ過ちを知り、聖なる刃の前に跪き、与えられる罰に心より歓喜せよ」
 サリムも聞いたことのあるそれは、教会の人間が歌っていた聖歌の一節かもしれないし、もしかしたら聖書に記されていた言葉だったかもしれない。
 ことりは、ひどく馬鹿にするような顔で笑った。
「ばかみたいね。……ばかみたい」
 ほかに何も言えないというように繰り返し、彼女はまた歩き出した。ついてこいという意思は感じられず、サリムは暗い廊下で彼女の背中を見送った。その背中が見えなくなったころ、去り際のことりに関して、あれは馬鹿にしていたのではなく悲しんでいたのだ、と気付いた。
 妙に魔物に肩入れする少女と、妙にサリムを大事に扱う魔物。変な組み合わせだ、と思ったが、その中において何の危機感も抱かない自分こそが最も変なのだろう。サリムにもそのくらいの自覚はある。昔から妙に危機感も自主性も薄かった。
 立ち尽くしていても仕方がない。元来た廊下を戻り、階段を上る。ささやかな足音は、雨音に掻き消されて聞こえない。
 足元を見ていた顔をふと上げると、踊り場に人影があった。一瞬青年のように見えたが、瞬きすれば、そこに立っているのは少年だった。
 薄暗い中、金色の目だけが猫のような光をもってサリムを見下ろしている。
 驚きにサリムは足を止めた。セルジュの目が、瞬きすら忘れて、一心にサリムを見ている。サリムだけを見ている。
 雨音に包まれて、二人は暫く見つめ合った。セルジュが何も言わないので、サリムも何も言わず、ただ薄闇に光るその目を、見つめた。
 強い風に煽られ、一瞬だけ窓に吹き付ける雨音が強くなる。
 その音に我を取り戻したように、セルジュがびくりと震えた。
「セルジュ」
 名前を呼んでみれば、彼の肩が大袈裟に跳ねる。ともすれば怯えているようにも見えた。
「すみま、せん。なんだか、俺の前にあなたが居るのが、その……夢みたいで」
 声も震えている。薄暗い階段ではどんな顔をしているのかは分からない。湿気を多く含んだ空気は重く、肌がじっとりと湿る。
「そんなに喜ばれても、俺は何もできないよ」
 普通に喋ったつもりが、どこか突き放したような冷ややかな口調になってしまった。
一心に注がれる視線を受けながら、サリムは一段一段上ってセルジュに近付いていった。
「いいんです」
 どこか必死にすら聞こえる声で、彼は言った。
「何かを求めようなんて、そんなおこがましいこと、考えてもいません。ただあなたは、居て下さればいいんです」
 搾り出すような声で懇願されて、サリムの胸にほんの少しの興味が湧き上がる。
 彼がここまで縋りつく、彼の「サリム様」とは一体どのような人物……どのような魔物だったのだろうか。
 踊り場まで着くと、サリムはセルジュの瞳を間近から覗き込んだ。
「君の『サリム様』って、どんなひと?」
 セルジュは体を引くこともなく、動じずにサリムを見返す。
「お変わりありません。百年の昔も、今も、あなたはあなたのままです」
「俺にはそんな昔の記憶は無いよ」
「記憶など無くても、あなたは、俺の敬愛するサリム様です」
「そう」
 セルジュの外見は少年そのもので、サリムより少し背が低い。それなのに、彼と話していると、不意に彼の背が高く見えることがある。目の錯覚か、そうでなければ幻覚。ほんの瞬きほどの時間、小さな彼の姿に被って、青年の姿の彼が見える。
「セルジュは、『サリム様』の、どこがそんなに好きなの?」
 彼の口から語られる相手が、自分のことだという実感がない。それを隠しもしない発言にセルジュはどこか不服そうだったが、文句を口にすることはなかった。
「全てです。俺は俺の全てをかけて、あなたの全てをお慕いしています」
 口調に迷いはない。
 見知らぬ相手にここまで情熱を傾けられるというのも妙な気分で、サリムは自分で訊ねておきながら対応に困った。
 自分より少し低い位置にある頭を撫でてみると、彼は驚いたように目を見開き、戸惑いながらもはにかんだ。
 飼い主に懐く犬とはこんな感じかもしれない。少し可愛く思えた。



 サリムとラシェルの二人が揃って姿を消した。
 聖都リシュタンベルグの教会では、大変な騒ぎとなっていた。
 サリムの正体を知る高位の神官たちはすぐに招集され、緊急の会議が開かれる。その中で槍玉に挙げられたのは、サリムの世話係であるクロティルドだった。
 お前がきちんと見ていなかったからだと口々に非難され、己の失態を激しく悔いながらも、当のクロティルド自身でさえ怒り心頭に発していた。
 ひどく他律的で何を考えているのか全く分からない少年だった。抗う様子もなかったから油断していたといえば言い訳だが、事実教会の外に出たそうな素振りなど、彼は一度たりとも見せなかったというのに。
 何より、聖人の施した封印によって、彼は教会から離れられないはずだった。
「責任の追及は後にして頂けますか? 今は彼を見つけることが先決です!」
「しかしだな、クロティルド、事の重大性を……」
 恐らく捜索はしているのだろうが、一部の神官たちは、とにかく誰が責任をとるかという問題に拘っていた。これが神の子、聖人リシュタンベルジェルに仕える人間か。クロティルドの苛立ちは募る。クロティルドに責任を押し付けたいのはよく分かったから、その労力をぜひとも別の事に回してくれと思わずにはいられない。
「ラシェルまで共に連れ出すとは、何と周到な」
「しかしまさかあの封印が破られるとは」
「リシュタンベルジェル様直々の封印が……これは、由々しき事態ですな」
 場に集った神官は、クロティルドのような少女から、青年、老人まで様々だった。彼らは神官として長く仕えている者、もしくは手柄を立てて上り詰めた者たちだ。
 神官の立てられる手柄と言えば即ち、悪しき魔物に聖裁を与えることだ。大抵の神官は魔物と戦う為に戦闘訓練を受けている。
 クロティルドも訓練を受けているが、リシュタンベルグの教会から外に出ることはほとんどなかった。彼女の唯一にして最大の仕事は、サリムに万一のことがあった場合、彼に聖裁を与えることだった。
 教会の祝福を受けた剣によって罰を与え、悪しき魂を解放すること。それが聖裁だ。
「かの悪魔の魂を縛る封印が破られたのは、不思議なことではありません」
 突然会議室の扉が開き、騒がしい室内に凛とした声が割って入る。クロティルドとほとんど変わらない年齢の、少女の声だ。
 語られた内容の過激さに、部屋にいた誰もが一斉にそちらを向いた。
 聖人の施した封印が破られるのを当然だなどと言う不敬な発言は、信心を疑われてもおかしくない。
 しかし少女はいくつもの視線に突き刺されながら、全く怖じることなく続けた。
「我々人間は、聖人に畏敬の念を抱いています。それは魔物も同じこと。意識するしないは別として、心の奥底ではかの聖人を畏れているのです。それゆえに、聖人が神の力を借りて行う聖法が通用するのです」
 くせのない真っ直ぐな金茶色の髪に、幅広の黒いカチューシャをした少女だった。その鳶色の目には、口調そのままの苛烈な光が宿っている。彼女も神官らしく黒いワンピース姿だが、白いリボンやレースなどの飾り気があるものだった。その服装だけで、彼女がリシュタンベルグの神官ではないと分かる。
「つまり、聖人をこれっぽっちも信じちゃいない悪魔には、通用しないってことです」
 少女の言葉の後半を引き取ったのは、その後ろに立っていた長身の青年だった。前髪が長く目元にかかっているが、それでもなお人目を惹く容貌をしている。首の後ろで金髪をまとめているのは、大ぶりの黒いリボン。服は地味な神官の詰襟だというのに、彼の全体的な印象としてはなぜか妙に派手に見える男だった。
「アズナヴール、言い方を考えなさい」
 鳶色の目をした少女が青年を咎める。しかし彼は堪えた様子もなく、不謹慎に笑っていた。
「ニネット殿。わざわざお越しになられたのですか」
 嗄れた声が代表して尋ねると、少女は首肯した。
「王都アルケードの教会より、力をお貸しするために参りました」
 その言葉に、部屋中から、戸惑いと安堵の声が同時に漏れる。
 クロティルドは、突然現れた二人を、眉を顰めて見ていた。
 神官の立場としてはニネットの方が上位になるため、皆が彼女に優先して声をかけているが、実際に有名なのは彼女ではない。彼女が連れて来た青年、アズナヴールの方だ。
 非常に好戦的な性格の彼は、魔物を斃した功績で言えばかなりの上位になる。しかしその派手な容姿と、神官らしからぬ奇異な発言が目立つため、教会側は彼を持て余しているようだった。
 元は聖都の神官だった彼が王都に転属させられたのは、持て余すあまり厄介払いされたのだという噂まで流れているほどである。
「協力しますよ。我らが愛しきラヴィス様の為にね」
 青年がよく通る美声でもってそう言うと、室内は水を打ったように静まりかえり、次の瞬間騒然とした。
「アズナヴール! 控えなさい!」
 ニネットの厳しい叱責にも、青年は動じない。
 愛しきラヴィス様。そんな狂った言い回しをする人間を、クロティルドは初めて目にした。
 ラヴィスとは、ほかならぬ聖人リシュタンベルジェルの名前だ。ラヴィス・リシュタンベルジェル。一介の神官ごときが、恋人のような気軽さで呼んでいいものではない。
 助っ人が頼りになるのかどうか。頭を抱えたくなるクロティルドと、アズナヴールの視線が交わる。
 金髪の向こうで紫の瞳がにっこりと笑みを形作り、クロティルドの嫌な不安は増した。
「まあでも実際、俺はお役に立ちますよ」
「銀色の魔物を目撃したという報告が上がっています」
 これ以上アズナヴールに話をさせておけるかとばかりに、遮るようにニネットが喋り出す。それによってようやく、非常識な神官を非難する声は落ち着いた。
 ニネットの発言に対して、壮年の神官が気難しい顔で、手にしていた書類を捲る。
「何分昔のことですので、資料が少ないのですが……その銀色の魔物というのは恐らく、カプドヴィエルの悪魔の第一の忠臣と呼ばれていた、セルジュという魔物でしょう」
「その魔物がサリムの逃亡を手助けし、ラシェルをもさらって逃げたのでしょうね」
 頷くニネットの後ろから、青年が自信に満ち溢れた声を出す。
「俺の出番ですね。確実に聖裁を与えてやりましょう」
 青年の声は、笑っているのに背筋が薄ら寒くなる類のものだった。
 ニネットが、青年を迷惑そうに一瞥する。
「こんな人ですけれど、彼は戦いに於いては力になるはずです。……ラシェルについては」
 その問いには、誰もが険しい顔をした。
「場合にもよりますが……」
「カプドヴィエルの悪魔に利用されるくらいなら、その前に処分してしまうべきでしょう」
「致し方ありますまい」
「教会で大人しくしていれば良いものを」
「教会に反逆した悪魔の側にあれを置いておくなど、危険極まりない」
 ひとつの意思を紡ぎだすざわめきに、クロティルドは些か気分が悪くなる。とは言え、クロティルドも同じ意見だった。
 サリムの側にラシェルを置いておくなど、危険すぎる。悪魔が完全に復活する前に、どうあっても引き離さなければならない。
「クロティルド。サリムの聖裁は、お前に委ねるぞ」
 老人の声に、クロティルドは力強く頷いた。
 彼の魂を解放し、人間の器に入れて育てたのは教会の慈悲だ。本来の力が出せないように人間の器に入れ、教会を離れないように、彼の魂を聖人の封印で教会に縛り付けていた。
 教会で人間のように大人しくしているのなら、それで良かった。しかし反逆の意思があるのなら、放ってはおけない。
 かつてアルカデルト王国を滅亡の手前まで追い込んだ悪魔。
 必ず、葬り去らなければならない。



 教会から連れ出されて、何事もなく三日が過ぎた。穏やか過ぎるほどだ。
 ことりは年頃の少女らしく、サリムとセルジュに慣れてさえしまえば、よく喋るようになった。名前の通り、小鳥のように愛らしい少女だった。
 彼女は偶に、楽しげに両親の話をすることがあった。くすくすと笑いながら思い出を語ることりは幸せそうで、聞いているセルジュの顔も自然と綻んだ。サリムは大抵会話に混じるでもなく、二人をぼんやりと眺めていた。
「あとね、お母さんはお裁縫も得意だったの。綺麗な布を見つけたからって、私に服を作ってくれて……」
 和やかな語らいは、セルジュが突然立ち上がったことで中断した。
 彼は少女の話に緩めていた表情を一転きつく引き締め、窓の外へ鋭い眼光を投げる。
「どうしたの……?」
 ことりが不安そうな声を出す。セルジュは無言で部屋を出て行ったかと思うと、一本の剣を手に戻ってきた。
「もしも何かあったら、これを」
 差し出される重みを受け取りながら、サリムは訊ねる。
「何かって」
「わかりません。とりあえず見てきます。ここに居て下さい」
 屋敷で過ごす間も常に腰に提げていた剣の感触を確かめ、セルジュは窓を開けて飛び出していった。
 サリムは窓辺に寄って、外を見下ろす。二階だが、その程度の高さは魔物である彼には問題にはならないらしい。もう彼の姿は見えず、眼下には木が生い茂るばかりだ。
「何かしら」
 ことりも隣に並んで、不安げに外を見る。
 二人は暫くそのまま黙っていたが、不意にことりが口を開いた。
「ねえ、ここはあなたのお屋敷なんでしょう」
 突然の問いかけにサリムは面食らったが、セルジュの言動を思い出してひとつ頷いた。
 サリム自身にその記憶は無いが、いつかの食事時にセルジュが言っていたような気がする。ここはサリムが、かつて過ごしていた場所なのだと。
 ことりは水色の瞳で木々が茂る庭を見下ろしたまま、ささやかな声で呟いた。
「お願いがあるの。私が死んだら、ここに埋めてちょうだい。教会の用意したお墓に入るなんて、絶対にいや。死体がなくても、形だけでいいから、お願い」
 あまりにも突飛な申し出に、サリムはことりの顔をじっと見た。少女は庭から視線を外さない。少女に似つかわしくない憂いに満ちた表情は、ことりがよく見せるものだった。
「死ぬ予定があるの?」
 単刀直入に訊ねると、ことりはようやく顔を上げて、サリムの方を向いた。
「やだ、変な聞き方しないで……」
 寂しそうな顔で笑った後、彼女は囁くように言った。小さいけれど、その声はサリムの耳にはっきりと届いた。
「人はいつか死ぬものだわ」

 セルジュが庭を抜け門扉まで駆けていくと、そこには青年がぐったりとした様子で座り込んでいた。
「テオフィル! 大丈夫か」
 声をかけると、彼は呻き声を上げた。服はぼろぼろに破れ、血塗れになっている。
 灰色の髪の青年テオフィルは、ここで門番のようなことをしていてくれたはずだ。その彼がこんな姿になっているということは。血の気が引いた。
「馬鹿……なんで来た……、早く戻れ……」
「何があった」
 テオフィルの周囲では、困惑するように蔦が揺れ、あるいは彼の体にきつく巻きついて、止血の役割を果たしていた。失血のせいで白い顔で、掠れ声が切れ切れに訴える。
「教会のやつらが……。早く、あの方の元へ……」
「行かせないよ」
 ふっと風を感じて、セルジュは素早く飛び退いた。空を切る剣先が視界に入り、セルジュも反射的に剣を抜く。
「神官か……」
 剣を構え、セルジュは吐き捨てた。目の前には黒い服を纏った金髪の神官、アズナヴールが立っている。血で汚れているのは返り血か。至極楽しそうな顔をしているのが忌々しい。
「退け」
「断る」
 短いやりとりの後、二人は同時に踏み込んだ。

 隠す気も無い複数の荒々しい足音と、手当たり次第に次々と扉を開く音。それはサリムとことりの居る食堂へと近付いてきていた。どう考えてもセルジュのものではない。
 サリムは握っていた剣に視線を落とす。細身で装飾の少ないそれは、観賞用ではなく実用的なものだ。
「サリムさん……?」
 不安そうなことりの横をすり抜け、サリムは扉の前に立ち、剣を抜き放った。鞘を投げ捨て、同時に闖入者によって乱暴に扉が開かれる。
 相手が言葉を発するのも待たず、サリムは真っ先に足を踏み込んできた人間を斬り付けた。
 鮮血が飛び散る。
 全くの不意打ちを食らった人間は倒れて、床で鈍い音を立てた。黒い神官の服から、じわじわと血が広がっていく。
 部屋の温度が下がった。
「敵?」
 問答もなく斬り捨てておきながら、あくまで冷静な声を出すサリムに、扉の外に居た人間達は色めき立った。
「貴様……っ」
 手前に居た青年が血相を変え、手にした剣をサリムへ向け構えようとする。サリムはそれより早く、腕を振って刃から血を払い、手首を返してその青年の喉を切り裂いた。青年は呻きのようなものを漏らして、両手で喉を押さえる。指の間から血が吹き出した。
 サリムは剣を扱ったことが無かった。無いはずだった。しかし神官を前にした今、どう振る舞えばいいのか考えるまでもなく、体が勝手に動く。最初から知っていたように。
 容赦の無いやり方に、ことりが背後で悲鳴を押し殺していた。
「待て。我々は敵ではない。保護しに来たのだ」
「保護?」
 サリムの底冷えする瞳が、発言者を見据える。息を呑んだ青年の足元では、倒れた二名の神官を、ほかの神官が抱き起こしていた。
「お二人とも、大人しく教会に戻られよ。そうすれば我々は危害を加えない」
「ふうん」
 流されるままここにいるサリムはどうでもよさそうに頷いて、首を捻ってことりに顔を向け、意見を求める。怯えはなりを潜め、少女は決然としていた。
「戻らない。私達はもう、教会になんて戻らないわ」
 少女の声が強く言い切る。サリムは神官達に向かって肩をすくめた。
「だって」
「ならば、無理矢理にでも帰っていただきましょう」
 神官達の後ろから、聞き覚えのある声がする。道を譲られて姿を現したのは、金髪を細く二つに結んだ少女だった。ここに来るまで毎日見ていた顔。サリムの世話係だった、クロティルドだ。
 少女は細い腕で剣を抜き、切っ先をサリムに向けた。
「俺が帰ったらセルジュは」
「魔物には聖裁を」
 毅然とした声。サリムはセルジュの顔を思い浮かべて、少しだけ困ったような顔をした。
「それは駄目だ」
 飼い犬のように無条件に自分を慕う彼の、猫のような金色の目。
 今斬り捨てた神官に対しては何の感慨も湧かないが、セルジュが殺されるのは駄目だと、漠然と思う。
 何に執着したこともないサリムだったが、あの金色の目が、自分をまっすぐに求めてくるあの目を失うのは、困るのだ。サリムにとって、それは全く説明できない感情だった。
「魔物にとって聖裁こそが救いです。聖書にも書いてあったでしょう」
「書いてあったら何?」
 誰が書いたかも知らない書物の言いなりになる必要が分からず、首を傾げる。純粋にすら見えるその仕草に、クロティルドの声が苛立った。
「正義に逆らうというのですか」
「正義。聖書って正義なんだ」
「当然です! サリム、何故教会を裏切ったのですか」
 裏切った。言葉の意味が理解できず、サリムは何度か瞬きした。
 サリムはただ、言われるままについてきて、言われるままにここに居るだけだ。これまで、言われるまま教会の世話になって、言われるまま居室に押し込められていたのと、同じように。
 馬鹿にされていると捉えたのか、クロティルドの顔から感情が消える。
「おしゃべりは教会に戻ってからにしましょう」
 小さな体が部屋に滑り込み、サリムに向かってその細腕を振り上げる。振り下ろされる刃を刃で受けると、鋼のぶつかり合う甲高い音が響いた。
 鍛えられた少女は、細身からは想像できない力でサリムに挑みかかる。受け止める剣の一撃一撃が重かった。
 敵は彼女だけではない。神官達が部屋に一斉になだれ込み、サリムを取り囲んで次々に刃を振り翳す。刃を受け、神官達を次々と切り伏せるサリムの視界の端に、ことりの方へと駆けてゆく影が見えた。
「きゃっ……」
 ことりは小さな悲鳴を上げ、窓際へと後退る。
 サリムは、ことりの方へと向かった神官を後ろから斜めに切りつけた。
 同時に、腹部に激しい衝撃を感じて、痛みが体を貫く。思わず剣を取り落とした。
 喉の奥から生温かいものが込み上げてきて、堪えきれずに吐き出す。下を見れば、口元から流れ落ちた血が服を汚していた。更にその下、腹部からは、背後から貫通した剣の切っ先が見えている。
「サリムさん!」
 ことりの金切り声が聞こえるが、視界が暗くなってすぐに何も見えなくなる。
 ゆっくりと倒れていくサリムの前で、ことりは窓の外から伸びてきた腕に身をさらわれた。

 折れた剣先が、弧を描いて飛んでいく。
 使い物にならない得物を捨てて、短剣を取り出したアズナヴールの喉笛目掛け、セルジュは剣を振るうが、彼は身を捻ってそれを避けた。皮一枚だけ裂けた傷口から、血が滲む。
「小さいのにやるねえ」
 感心したように言われて、セルジュは眉根を寄せた。
「貴様の方が子供だ」
 アズナヴールは一瞬だけ不思議そうな顔をしたが、すぐにへらりとした笑みを浮かべた。
「そうか。お前魔物だもんな。見た目通りの年じゃないってことか」
 無駄口には取り合わず、セルジュは青年に斬り込む。
 こんなところで時間を浪費している暇はない。早く主のもとへ駆けつけなければならないのに。
 焦りはセルジュの剣の腕を鈍らせる。分かっていても、ようやく戻って来ようとしている主の危機と考えるだけで、心臓が嫌な音を立てた。
「っと……撤収だ」
 突然アズナヴールはそんなことを言い、セルジュから大きく距離を取ると、屋敷の方を振り仰いだ。そこからは、合図に使っているのであろう緑の煙が細く立ち上っていた。
「あんたのこと、殺せなくて残念だよ」
 にっこりと笑って最低の捨て台詞を残し、青年は木々の中へ飛び込んでいった。
「貴様……っ」
 男の下劣な発言に色をなすセルジュだが、追いかけたりはしなかった。今は一刻も早く主のもとへ戻らなければならない。
 嫌な予感を覚えながら、セルジュは屋敷へと取って返した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

〈完結〉【書籍化&コミカライズ・取り下げ予定】毒を飲めと言われたので飲みました。

ごろごろみかん。
恋愛
王妃シャリゼは、稀代の毒婦、と呼ばれている。 国中から批判された嫌われ者の王妃が、やっと処刑された。 悪は倒れ、国には平和が戻る……はずだった。

とまどいの花嫁は、夫から逃げられない

椎名さえら
恋愛
エラは、親が決めた婚約者からずっと冷淡に扱われ 初夜、夫は愛人の家へと行った。 戦争が起こり、夫は戦地へと赴いた。 「無事に戻ってきたら、お前とは離婚する」 と言い置いて。 やっと戦争が終わった後、エラのもとへ戻ってきた夫に 彼女は強い違和感を感じる。 夫はすっかり改心し、エラとは離婚しないと言い張り 突然彼女を溺愛し始めたからだ ______________________ ✴︎舞台のイメージはイギリス近代(ゆるゆる設定) ✴︎誤字脱字は優しくスルーしていただけると幸いです ✴︎なろうさんにも投稿しています 私の勝手なBGMは、懐かしすぎるけど鬼束ちひろ『月光』←名曲すぎ

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません

ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは 私に似た待望の男児だった。 なのに認められず、 不貞の濡れ衣を着せられ、 追い出されてしまった。 実家からも勘当され 息子と2人で生きていくことにした。 * 作り話です * 暇つぶしにどうぞ * 4万文字未満 * 完結保証付き * 少し大人表現あり

【完結】前世の不幸は神様のミスでした?異世界転生、条件通りなうえチート能力で幸せです

yun.
ファンタジー
~タイトル変更しました~ 旧タイトルに、もどしました。 日本に生まれ、直後に捨てられた。養護施設に暮らし、中学卒業後働く。 まともな職もなく、日雇いでしのぐ毎日。 劣悪な環境。上司にののしられ、仲のいい友人はいない。 日々の衣食住にも困る。 幸せ?生まれてこのかた一度もない。 ついに、死んだ。現場で鉄パイプの下敷きに・・・ 目覚めると、真っ白な世界。 目の前には神々しい人。 地球の神がサボった?だから幸せが1度もなかったと・・・ 短編→長編に変更しました。 R4.6.20 完結しました。 長らくお読みいただき、ありがとうございました。

夫が妹を第二夫人に迎えたので、英雄の妻の座を捨てます。

Nao*
恋愛
夫が英雄の称号を授かり、私は英雄の妻となった。 そして英雄は、何でも一つ願いを叶える事が出来る。 そんな夫が願ったのは、私の妹を第二夫人に迎えると言う信じられないものだった。 これまで夫の為に祈りを捧げて来たと言うのに、私は彼に手酷く裏切られたのだ──。 (1万字以上と少し長いので、短編集とは別にしてあります。)

婚約破棄されて辺境へ追放されました。でもステータスがほぼMAXだったので平気です!スローライフを楽しむぞっ♪

naturalsoft
恋愛
シオン・スカーレット公爵令嬢は転生者であった。夢だった剣と魔法の世界に転生し、剣の鍛錬と魔法の鍛錬と勉強をずっとしており、攻略者の好感度を上げなかったため、婚約破棄されました。 「あれ?ここって乙女ゲーの世界だったの?」 まっ、いいかっ! 持ち前の能天気さとポジティブ思考で、辺境へ追放されても元気に頑張って生きてます!

処理中です...