死んだ星の名前

松原塩

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 眠っているアレクシスにノヴァが嚙みついたあの日から、二人の間には微妙な空気が漂っていた。その出来事に触れようとはしないが、二人きりでただならない雰囲気になるようなことは自然と避けている。
 アレクシスは早くノヴァと触れ合いたい、求められたいと思っているが、彼を暴走させて、悲しませるようなことにはなりたくない。そう思うと、どうにも動きにくかった。
 何も進展がないまま、気が付けば季節は夏の盛りを迎え、襟の高い服を着て隠していた噛み痕もすっかり治ってしまった。開け放した窓から執務室に流れ込む風もなまぬるい。
「アレクシス様!」
 気もそぞろに書類にサインをしていると、いつになく上機嫌のノヴァに声を掛けられる。たった今訪れた誰かに呼ばれて廊下で短く話していた彼は、その人物から受け取ったらしい絵画のようなものを手にしていた。
「何だ」
 顔を上げ、長い金髪を耳にかける。ノヴァは、手にしていた肖像画をアレクシスに掲げて見せた。
「ご覧ください。婚約のお話が持ち上がっておりまして」
 つまりこれがその相手だろう。薄桃のドレスを身に纏った、栗色の髪の少女。画家の手によって多分に美化されたであろう、愛らしい乙女の大きな瞳がこちらを見ていた。
「は?」
 思ったよりも強張った声が出た。
「お前、おれにこの女と結婚しろと言っているのか?」
 そんなに笑顔で。信じられない気持ちのまま問いかけると、ノヴァはきょとんとした。
「殿下、相手が誰であろうと構わないというようなことを仰っていませんでしたか?」
「そんな話をしたか?」
 アレクシスの記憶には無いが、したとしたら、ノヴァがまだシリウスだと気付いていなかった頃の話に違いない。確かにあの頃は、アレクシスは自暴自棄で、シリウスでないのなら結婚相手などどうでもいいと思っていた。
 だが、シリウスが、ノヴァが居る今となっては話は別だ。ノヴァ以外と睦み合うなど考えたくもなかった。
「殿下は酔っていらしたので、覚えていらっしゃらないのかもしれません。どうですか。美しいお嬢さんでしょう」
「おれよりもか?」
 傲慢に訊ねれば、ノヴァは押し黙った。
「突き返しておけ」
 冷ややかに切って捨てる。
「アレクシス様」
「おれは好いた相手に、別の人間との縁談を勧められて許せるほど寛大ではない」
「アレクシス様。そうは言われても、いつかは女性と結婚して、お世継ぎを」
 苛立ちも露わにペンを机に叩き付け、立ち上がる。つかつかとノヴァのもとまで歩み寄ると、少しだけ高い位置にある黒い目を、きつく睨み付けた。
「酔ったおれの戯言は覚えていて、寝台でのおれの睦言は覚えてもいないのか。おれは、お前だけが欲しい。王位など知ったことか。今すぐにだって、お前と駆け落ちしてやっても構わんのだぞ」
 ノヴァは複雑そうな顔をしていた。
 彼のためを思って、いくらか遠慮していたことがばからしくなってくる。
 ノヴァが不本意にアレクシスを傷付ける事態にならないようにと、慮ってやっていたのに。
 アレクシスは、考えを改めることにした。
「もういいから、それを片付けろ。それから、ロロを呼べ。二人きりで話がある」
「二人きりで、ですか? ……私に聞かれたら困るお話でしょうか」
「お前を落とす相談を聞きたいのか? おれは別に構わんが」
「……失礼しました」
 ノヴァがすごすごと下がり、そうして呼ばれてきたロロと、アレクシスは応接間で向かい合っていた。
 ロロはいつもの黒いローブを纏い、フードの下から恐る恐るといった調子でアレクシスの顔を窺ってくる。用意された紅茶には手を付けようとしなかった。ドアの外にはノヴァが居るが、人払いされた室内はロロと二人きりだ。
「あの……、何のご用でしょうか」
「忙しいところすまない。以前、お前のマスターと顔を合わせたのだが」
「マスターと!?」
 ロロがテーブルに手をついて立ち上がる。手がカップにぶつかって、紅茶が小さく跳ねた。常にないほどの取り乱し方だった。
「えっ、えっ!? いつですか、あっ、あの、ノヴァさんの部屋に行った日ですか? 僕、部屋から帰った記憶がないから、あの時ですね? も、申し訳ありません、何かされませんでしたか? 大丈夫でしたか?」
 ひどく焦って矢継ぎ早に質問してくる。どんな関係なのか分からないが、あのマスターを相手に苦労しているのだろうと思わされた。
 魔法使いであるロロに魔力を与えているというマスター。ノヴァを化け物として生かした張本人。マスターもまた化け物であるのなら、マスターのことを知ればノヴァのことも分かるのではないかと考えたのだ。
「べつに何もされていない。大丈夫だ」
「あっ……。よかったです」
 ほっと安堵の息を吐いて、ロロが椅子に座りなおす。
「そのマスターについて、聞きたいことがある。分からなければ答えなくて構わない」
「はい」
「マスターとは人間と異なる生態のようだが……、性欲はあるのか?」
 ロロの顔から面白いほどに血の気が引いて、唇がわなないた。わたわたと、用をなさない両手が動いている。
「なっ、あっ、やっぱりマスターに何か、何かされて……」
「されていない。言葉を交わしただけだ。お前の心配するようなことは何も無かった」
 重ねて否定してやると、ロロは青い顔のままで、ためらいがちに訊ねてきた。
「……では、もしかして、違ったらすみません。……その、おそば近くに仕えている男に、何か……、されましたか……?」
「何もされないから聞いている」
 照れるでもなく答えて、紅茶をひとくち飲む。ロロはしばらく固まった後、露骨にうろたえた。
「えっ? ……えっ? それ、僕が聞いていい話ですか?」
 察しのいい少年だった。何もされないから、化け物にも性欲はあるのかと聞いている。つまり、王子殿下は護衛騎士に何かされたいのだと言っていることを理解していた。
「お前以外にこんな話ができる相手はいないだろう。それでどうなんだ」
「……その、殿下の近くに仕える男が、マスターと同じ体であるなら、ありあまるくらいあると思いますよ……」
 遠回しな言い方だが、アレクシスもロロも、ノヴァが化け物であると気付かないふりを続けているから仕方がない。
 アレクシスはなるほど、と頷いた。
「では、お膳立てしても何も起こらないのなら、あの男が忍耐強すぎるだけという話か。よく分かった」
「殿下。あの、やっぱりそういう話は僕が聞いていい話じゃないとは思うんですが……、それ以外でしたら、僕にできることがあれば、何でも仰って下さい。あの人に関してはマスターが勝手にやったことですが、せっかく助かったなら、良いように生きてほしいと思うので……」
 うまく言えませんが……ともごもごとしているロロに、アレクシスは席を立って、ふっと笑いかけた。
「同感だ。せっかく命があるのなら、あいつだって望むように生きられるべきだ。ありがとう」
 そして、彼の望みとアレクシスの望みが重なればいいと思う。
 ノヴァはアレクシスの将来のために身を引こうとする。それがあるべき正しい姿で、アレクシスの幸せなのだと思っている。身を焦がす恋にふたをして、どうして幸せになどなれるだろうか。
 アレクシスのためを思うのなら、恋の炎の中で手に手を取って、一緒に踊ってほしい。共に焼け死ぬその日まで。



 暑いから避暑地に行く。体のいい言い訳で、ノヴァと旅行がしたかっただけだ。
 いつも顔を合わせる良く見知った侍従たちのいない、涼しい湖畔の別荘であれば、ノヴァも少しは開放的な気分になるのではないかという思惑だ。
 別荘を管理している少数の使用人たちと、ノヴァ以外に連れてきた数人の近衛騎士。普段よりずっと人の気配が少なくて、アレクシスもいつになくのんびりとした気分になる。ここで一週間ほど過ごす予定だ。
 到着した頃には夕方になっていて、湖に面した涼しいテラスで夕食をとった。新鮮な魚を使った料理は、王都ではなかなか食べられない。料理によく合う白ワインのグラスを傾け、アレクシスは良い気分だった。そもそもシリウスを失ってからは何を食べても砂を噛むようなもので、食事を愉しめるようになったのが最近の話だ。
 どうせならノヴァと食事をしたいところだが、さすがにほかの騎士たちの手前、一人だけ特別扱いするのも気が引ける。明日からは騎士たちにも同じ食事を用意するようにと料理人に申し付けるだけにとどめた。向かい合って食事をすることが無理でも、ノヴァにも、ほかの騎士たちにも、ここでくらい良いものを食べてほしい。
 だんだんと藍に沈む夕刻のテラスで、風が吹き抜け、木々が鳴る。湖面に走るさざ波が、別荘に灯る明かりを反射していた。
「ノヴァ。一緒に飲まないか」
 ワイングラスを掲げると、傍らに立つ騎士から苦笑が返ってくる。
「職務中ですので」
「では夜ならいいだろう」
 日中はノヴァが騎士として警護するが、夜間はほかの騎士が交代してドアの外を守る。その時間ならどうだと打診するが、ノヴァの顔色は芳しくなかった。
「困ります」
「なぜだ」
「私もあまり酒に強い方ではありませんので……」
 分かっているから誘ったのだが、アレクシスは物分かりのいい顔で頷いた。
「分かった。では、夜にまた飲むから、おれのつまみになってくれ」
「私がつまみですか?」
「そうだ」
 いまいち得心がいかない様子のノヴァは、はぁ、と生返事をした。

 呆れるほど自制心が強いくせして、笑ってしまうほどアレクシスに油断している。ノヴァはそういう男だった。
 夜、約束通りアレクシスはノヴァを部屋に招いてワインを飲んだ。ソファに向かい合って座り、軽装になったノヴァを眺めながらグラスを傾ける。二杯目を注がせようとしたところで、ノヴァに難色を示された。
「アレクシス様は、お酒にとても弱くていらっしゃる。いけません」
「べつに、少しくらい飲みすぎたっていいだろう。ここにはお前しかいないのだし」
「私がいます」
「酔ったおれの姿を見て何か不都合があるのか」
 皮肉めいた笑みを浮かべてやれば、ノヴァは一拍の間をおいて、アレクシスの問いかけが聞こえなかったかのように流した。
「明日に響きますよ」
「では」
 アレクシスはグラスにワインを注いで、ノヴァに差し出した。
「おれの代わりに、お前が飲んでくれ」
「……アレクシス様」
 ノヴァは、頭痛がするときのような顔で、指で額を押さえた。
「何だ。おれはもっと飲みたいのに、だめだと言うのはお前だろう。好きな方を選ぶといい」
 テーブルにグラスを置くと、ややあってから、ノヴァが渋々グラスに手を伸ばしてくる。思った通りの行動に、アレクシスはふ、と笑った。
「さすがおれの騎士は、おれの願いを叶えてくれる」
「……こんなことでお褒め頂きたくはありません」
 言うことを聞こうとしないアレクシスに、ノヴァはいささかむっとした様子でワインに口を付けた。一息に飲み干そうとしている間に彼の隣に移動して、テーブルに戻されたグラスに即座に次を注ぐ。
「アレクシス様」
「どうした?」
 非難の滲む視線を寄越してくるノヴァに、アレクシスはボトルを持ったまま余裕の笑みを返す。
「私は酒に強くありません」
「仕方ない、ではおれが飲んでやろう。残してはもったいない」
 そう言ってやれば、ノヴァは眉間に深く皺を刻みながらも、ゆっくりグラスを空にする。
 あとは繰り返すだけだった。
 四杯目が入ったグラスを口に当てたまま飲もうとしないので、横からノヴァの顔を窺えば、彼は赤くなった顔で寝入りそうにぼんやりとしていた。その手からグラスを抜き取ってテーブルに戻したところで、筋肉のしっかりとついた重い体がアレクシスにもたれかかる。
「アレク……」
 かすれた囁きが懐かしい愛称を呼ぶのに、心臓が跳ねた。次いで横からぎゅうと抱きすくめられる。ノヴァを酔わせてやろうと思ってはいたが、こんなことをされるとは思っていなかった。酒でうっすらと色付いていたアレクシスの頬に、血色が増す。
「かわいい、俺のアレク……」
 酔いで舌ったらずになった甘い声が、耳元で囁く。彼が騎士に叙任されてから、アレクシスにこんな風に気安い口調で喋ることなどなかった。それに、幼い頃ですら、こんなに直接的なことを言われたことなどない。
「もっと、言ってくれ」
 求める声が上擦る。ノヴァの笑う吐息が耳朶をくすぐった。
「アレク……、かわいい、かわいいよ、俺のアレク」
 俺のアレク、と呼ばれる度に、胸がぎゅっとなる。
 彼は本当に、アレクシスのことを好きでいてくれたのだ。アレクシスばかりが求めている気持ちになって、不安や焦りを感じていたが、こんなにも愛されている。
 ずっとこのまま、ノヴァの腕の中に居たい。アレクシスは陶然として、身動きがとれなかった。
「おれのことを、そんな風に思ってくれていたのか」
「ん……。いつも思ってる。かわいい俺のアレク。ずっとそばに居たい。そばで俺が守るよ。ずっと好きだよ。ずっと好き……」
 酒のせいで体温が上がった腕から熱が伝わって、アレクシスの体まで火照らせる。
 今ならねだれば口付けくらいはしてくれるのではないか、いや酔ったところを襲うような真似なんていけない。熱に浮かされた頭で、欲望を抑え込む。
「ノヴァ。何かおれに、望むことはないか」
 首をひねって、間近にあるノヴァの顔を見れば、彼はとろりと潤んだ目で、不思議そうにアレクシスを見ていた。
「ずっと、元気で、幸せでいてほしい……」
「そうじゃない」
 酔って理性の箍が外れた状態で、真っ先に出てくる願い事がそれか。ノヴァの忠誠心は呆れるほどに本物だ。けれどそれは、アレクシスの求めている答えではない。
「おれに何かしてほしいことは無いか? なんだってしてやる」
 もう一度問いかければ、ノヴァの黒い目がじっとアレクシスを見詰めた。
「アレク……」
 そのままソファに押し倒される。覚束ない手つきで、アレクシスのシャツのボタンが上からひとつひとつ外されていった。胸がはだけられて、このうるさい鼓動が聞こえてしまうのではないかと心配する。
 身を屈めたノヴァの額が、アレクシスの胸に押し当てられた。
「……欲しい……」
 どうしよう。このまま流されてしまいたい。けれど、酔いに任せて一線を越えてしまったら、翌朝きっとノヴァは後悔し、己を責めるだろう。そんなことをさせるわけにはいかない。でももう少しだけ。
 葛藤するアレクシスの体に覆いかぶさるノヴァが、不意にずしりと重みを増す。安らかな呼吸が聞こえてきて、この肩透かしには覚えがあった。
「うそだろうお前」
 アレクシスの上で穏やかな寝息を立てる男に、信じられない気持ちで呟く。
 寝入ってしまった体は重く、ソファの上という狭い場所では簡単には抜け出せそうにない。まさか床に転がすわけにもいかない。密着したまま、昂ってしまった体はどうすればいいのか。
 もう知らない。精々目を覚ました時に困るといい。
 拗ねるようなやけっぱちの気持ちで、アレクシスはノヴァの体を抱き締めて、瞼を閉じた。

 目が覚めるとベッドの上だった。鳥のさえずりが聞こえる。服は昨夜のままで、しかし胸元はきっちりボタンがとめられていた。
 ベッドから抜け出して部屋を見回すが、ノヴァの姿が見当たらない。部屋のドアを開いて頭だけ廊下に出すと、すぐに傍らに立っているノヴァを見付けた。
「ノヴァ。おはよう」
「おはようございます」
 いつもよりぼそぼそと喋るノヴァは、憔悴した顔つきをしている。ここで昨晩のことに言及して使用人に聞き耳を立てられるのも憚られて、ノヴァを部屋に招き入れた。
 ドアを閉じた途端、ノヴァが深々と頭を下げてくる。
「申し訳ございませんでした。酒に酔っていたとはいえ、無礼なまねをしました」
 かなり酔っていたようだが、しっかりと記憶は残っているらしい。アレクシスは意地悪く笑った。
「おれは嬉しかったが。素面で言ってくれても構わんぞ」
「ご冗談を」
「なに? 冗談だったのか?」
「そういうわけではあ、りま、せ……」
 勢い込んで返しながら、アレクシスがにやにやとしていることに気付くと口を閉ざす。
「からかわないでください」
「からかわれたのは、おれなのだろう? ああ、昨夜のお前はあんなに、おれをかわいがってくれたのに……」
 落胆したと俯いて見せれば、勢い余ったノヴァがアレクシスの両肩をがしっと掴み、すぐに我に返ってぱっと放した。
「あっ、あなたを押し倒してしまったところまでは覚えているのですが、私はほかに何かしてしまいましたかっ?」
 必死の形相だった。アレクシスは顔を上げて、呆れ顔でノヴァの頬をつまみ、なじる。
「残念ながらお前はそのまま寝てしまった。おれに期待させるだけ期待させておいて。ひどい男だ。お前の我慢の限界は、いつになったら来るんだ?」
 ノヴァが安堵の息を吐く。何も無かったことに安心されるのは極めて不本意で、憮然としてしまう。
「殿下。私はあなたの騎士でありたいのです。騎士でいさせてください」
 懇願にも似た声。誠実な騎士の言葉だった。アレクシスは宥めるように言う。
「お前はずっとおれの騎士だ。お前がおれに何をしたとしても、それは変わらない」
 だから早く諦めてくれ。内心呟いた言葉が聞こえたかのように、ノヴァが困ったような笑みを浮かべた。
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