果ての光~軍人侯爵の秘密と強制結婚の幸福~

百花

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第九章

第三十二話

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「どうでしたか?」

 問いかけると、ロードリックは手にしたままの書類を私に向けて突き出して来た。

「……貴女も読んでくれますか?」

 口で説明しないのは多分、ロードリックの胸の中でまだ整理が付いていないからだと思った。
 白皙の頬は硬直して、まるで表情が読めない。ただ眼だけが落ち着かなさを表していて、彼の内心の嵐が垣間見えるようだった。
 重量以上の重みのある書類を、ぺらりと捲る。
 四百年前の事であるのに、教会や役所に残された僅かな記録を頼りに、ハーヴィーの子孫を見つけ出す事は出来たようだった。
 文字列に目を通せば、子孫達が辿った歴史がぼんやりと浮かび上がってくる。昔の事は記録が少なかったが、最近の事柄になるにつれて報告が詳細になっていく。
 子沢山な家系では無かったようだ。まるで細い糸のように、僅かな血縁だけがその命を繋いでいく。
 特に裕福になった期間もなく、寧ろ暮らしぶりは平民以下。時代によって住む土地や職業をあちこち変えて、何とか生き延びている。
 騙されて家を奪われる事も。借金を背負わされる事も。戦争で身体が不自由になる事も。
もしもロードリックがハーヴィーの遺言に直ぐに気が付いていれば、しなくて良かった苦労だろう。
 それをどんな気持ちで読み続けていたのか。想像して胸が締め付けられたように苦しくなった。
 唇を噛み締め、続きに目を向ける。
 今にも途絶えそうな程細々としたその血統は、最後はドリアーヌ・ラブレーという一人の女性で終わっていた。
 彼女は漁師町へと嫁いだが、その姑から酷い扱いを受けていたようだ。近隣住人にも聞こえる程の罵声が毎夜響き、寒々しい夜に外にほおっておかれる姿も度々目撃されている。
 頼りになるはずの夫は漁業の為家を空ける事が多く、嫁いだ余所者の立場だったので誰にも頼る事が出来ずに暮らしていた。
 そんな生活が四年ほど続き、そしてとうとう幼い一人娘を胸に抱いて……荒れ狂う海に身を投げた。
 それが、あれほどロードリックが求めたハーヴィーの血統のあまりに惨い最後であった。
 報告書の形式ばった文字からでさえ、伝わってくる彼女の不幸に言葉を失う。
 ほんの十何年か前の出来事だった。四百年もの時間から考えれば、手を伸ばせば届きそうな時間。
 私は最後の頁を捲り終え、書類を元通りに戻して机の上に静かに置いた。
 隣に座るロードリックには暗い影がおちていて、余りに静かなその様子に何て声をかければいいのかが分からない。

「間に合いませんでした」

 悲痛な声だった。悔やみ、悲しみ、今彼が泣いていないのが不思議なぐらいだ。
 適切な言葉が見つからなくて、俯き加減に座る彼の背中をそっと撫でる事しか出来ない。

「あれほどの時間があったというのに。私は何一つ、何一つこの方達の為に出来なかった」

 ロードリックの手に痛々しい程の力が籠る。

「とんだ無能だ。大恩を受けていながら、ハーヴィー様を守る事も出来ず、ご子孫にも気づかず」
「……ロードリックのせいじゃ、ないわ」
「ならば一体何故、これほど苦しいのですか!?」

 目を見開き、コントロールできない感情を全て私に叩きつけてくる。ロードリックがこれほど声を荒げる所を始めて見た。

「責めてくださいクラリス。私は今、自分を罰したくて堪らない」

 ロードリックは唇を戦慄かせ、傍から見たら私を罵倒しているようにも見えるような険しい顔で私を睨みつけた。
 けれどそれが何よりも私に甘えているのだと、分かってしまう。
 ロードリックは私を誘惑しながらも、心を許すのをちゃんと待ってくれる人だった。けれど今の彼に、果たしてその余裕があるだろうか。

 もしかしたら、これが最後の彼の一線かもしれない。

 そんな予感を感じつつも、打ちひしがれたロードリックを放っておく事が出来なかった。
 腕を伸ばし、眉間に皺を寄せたロードリックの両頬を手で包む。

「会った事は無いけれど。多分、ハーヴィー様が何て言うかは分かるわ」

 間近に見る彼の眉間の皺が、少しずつ薄くなっていく。

「『ロードリック。自分を責めるな』……枷になりたかった訳じゃあ、無いと思うから」

 彼の顔から険しさが抜け、果てない時を生きたのに、まるで少年のような幼い表情になる。
 そして呆然とした後、少し疲れたように私の胸に凭れ掛かった。

「苦しいんです。クラリス」
「……はい」
「希望や期待が、失望や後悔に変わって。私の心を穿っていく」

 私はロードリックの頭を抱えるように抱きしめた。

「あれほど望んだ私の感情なのに。荒れ狂って、手に負えない。……壊れてしまいそうなほど。混沌が私の中にある」
「……ロードリック」

 迷う。かける言葉を探す。

「傍にいるわ」

 多分、それが最後の引き金だった。
 ロードリックは顔を上げると、獲物を狙う獣のように鋭い目つきで私を見た。その強い視線に体が硬直する。

「埋めてください。貴女が」

 不意に、彼に強く抱きしめられた。いや、抱え上げられたのだ。
 急に高くなった視点に驚いて、ロードリックにしがみつく。

「ロードリック?」

 突然の行動に驚いて呼びかけてみるも、胸に顔を摺り寄せられるだけでその手が緩む事がない。
 どうしたのか分からず、降ろしてほしいものの暴れてロードリックに怪我をさせる訳にもいかない。
 戸惑っている内に、ロードリックは私を抱えたまま歩き出した。

「どうしたの? ロードリック?」

 がっしりと私を抱えた腕は、流石軍人である。鍛えられているのか不安定な要素がまるでない。

「待って、止まって」

 見慣れた廊下の景色は彼が歩くほどに流れていき、随分短く感じられてしまう。
 向かう先が彼の寝室である事に気が付き、慌てた声で制止するのに聞いてくれる素振りがなかった。
 不味い予感がする。

「お願い。待って」

 今の今まで、紳士として私に危害を全く加えなかったこの人が、今はまるで別人のように私の声を聞いてくれない。

「待ちません」

 気を変えるつもりが無いのが分かるような、隙のない返事だった。

「もう、待ちません」

 私に自分の気持ちを理解させるかのように繰り返す。
 二の句が継げなくなって、動けなくなってしまった。そうしている間にも彼は自室の扉を片手で開く。
 ロードリックの部屋は彼の几帳面な性格が出ているのか、物が少なく全てが狂いなく片付けられていた。
 彼がこの家に住み始めてから変わる事の無かっただろう無機質な部屋に、私という異常が添えられる。
 寝台の上に乗せられてしまえば、彼の思惑から逃れる事は不可能だった。
 彼本来の金の目が、揺れて獣のようにこちらを見る。

「嫌なら、泣いて悲鳴を上げて化け物だと罵って逃げて下さい」

 そんな事、出来るはずない。
 そうしてしまえば、この人が粉々に砕けるのだと分かっているのに、出来るはずがない。
 顔が近づいたかと思ったら、深く寝台に押し付けるようなキスをされた。
 逃れようとしても、何処までもその口が追ってくる。
 擦れ合う布の音が余りにも象徴的に聞こえ、頭がおかしくなりそうだ。
 息が苦しくなる程長い間口づけられて、漸く離れたと思ったらロードリックの妖艶に笑う顔が見える。

「……駄目でしょう。そんな顔をしては。付け入れられてしまいますよ」

 いつも礼儀正しい彼の内側に隠された獣。
 その美しさに魅入らされる。
 そんな顔って、どんな顔? 分からない。
 ただ全身が熱くて、未知の刺激に震えて戸惑っている。
 駄目なのに。こんなに深く入り込んでは、後々彼を傷つけてしまうのに。

「私は、貴女がいないと駄目みたいです」

 まるで私の体は先を期待するかのように動かない。そんな私を馬鹿にするでもなく、嘘のように優しい顔をしてロードリックは言った。

「どうか、私の本当の妻になって下さい」

 そしてロードリックは私の全てを奪っていった。
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