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第八章
第二十五話
しおりを挟む私は庭園のベンチに座り、つい先日の出来事を反芻していた。
あの不審者が侵入してきた事件からロードリックの態度が変わったのに、薄々気が付いていた。
帰宅すればいの一番に私の顔を見に来る。怪我の手当を他人に任せたがらない。僅かな時間を惜しんで、共にいようとする。
不味い予感がするのだ。そして極めつけがハーヴィーの遺言の発見である。
ロードリックは酷く取り乱し、そして私に縋りついて来た。
偶々傍にいたのが私だけだったからとはとても思えない態度だった。ただ真っすぐな、突き刺すような熱が確かに私に向けられてきた。
愛していると、口に出せればどれだけ幸せだろう。
けれどその取り乱しようを見てどうして言える。
私は彼を置いて逝く。愛し返せばその分だけロードリックは苦しむことになる。彼が苦しむ時、私は隣にはいられないのだ。
彼の両腕を振り払う事も出来ず、ただ黙って微笑みを返すのが精いっぱいだった。
いっそ嫌われてしまいたい。そんな事さえ考えて、重い溜息を吐いた。
「よお」
振り向くと、コリンがいつもの作業着で私に近づいてくるのが見えた。彼も随分気さくに接してくれるようになったと思う。
「大手柄だったらしいな。……の割には、随分暗い顔しているが」
「大手柄?」
「ハーヴィー様の遺言、見つけたんだろ?」
言いながら、どっかりと私の隣に座ってくる。
「……確かに、見つけたけれど」
そんな胸を張るような事のつもりはない。本当に私はただ、好奇心で動かしただけなのだから。
しかしそんな私に対して、コリンは片眉を上げて言った。
「分かってねぇんだな。どれだけロードリック様がそれを欲していたのか」
「少しは分かるわ。だって、凄く取り乱していたから」
「分かってねぇ。形見一つであれだけ大事にしていたんだ。それが生身の血統ともなれば、親のように守るだろうよ。例え悪人でも、死ぬまで善き人となるように諭すだろうな。そして看取る。それは俺達が守り、最後まで生きてしまうあの人の支えになる」
「私と、随分受け入れ方が違うわね。同じ人間なのに」
「そりゃそうだ。ハーヴィー様は、ロードリック様にとって主人みたいなものだからな。主人の子供に手は出さんだろ。純粋な敬愛で守り抜くに違いない。それなら、良いんだ」
そこで少し言葉を切り、私に責めるような視線を向けた。
「でも、アンタは違う」
私はロードリックの妻だ。だからきっと子供を持つ事は出来ない。死後に何も彼に残せない。傷つけるだけの存在だった。
「最近のロードリック様の態度。……分かっているんだろ?」
ロードリックは私への好意を隠そうとしない。長く共にいた天来衆の皆は、もうロードリックの態度の変化に気が付いている。
彼の線の内側に入るという、罪を私は犯した。
怠慢していたと思う。私は積極的に彼に嫌われる努力をしなかったのだから。
甘く考えていた。彼のような優秀で、誰をも選べるような人が私を選ぶ筈がないと。
「……どうして、私なのかしら」
困り果て、小さく零した私の言葉にコリンが難しい顔をして答えてくれた。
「ハーヴィー様に似てる。俺でさえそう思うんだから、傍にいるロードリック様は尚更そう思うだろうな」
コリンの言葉が深く胸に刺さった。私はハーヴィーの代わりなのかもしれない。
しかしだとしたら、本物のハーヴィーの血統が見つかれば私から心が離れるだろうか。
想像して胸が苦しくなる。本当は彼に愛していると言ってしまいたい。そして猫のように体を摺り寄せて、甘えさせて欲しいと願っている。
しかしロードリックが後で味わう苦しみを考えれば、そんな事出来なかった。
「見つかるかしら。ハーヴィー様の血統」
「さあな。諜報のやつらは死に物狂いで探しているが」
遠くない内に見つけ出してくるかもしれない。そうなればいいと、心から願った。
「私……どうすればいい?」
こんな事相談できる相手など、隣にいるコリンぐらいしか思い浮かばない。ザラさんはきっと思いを返せばいいと言うだろう。けれど私は、どうしても彼を苦しめたくないのだ。
コリンならば同じ思いを抱いている。救いを求めて彼を見れば、眉を寄せて真剣に考えてくれているようだった。
やがて考えを纏めたようで、真剣な表情で口を開いた。
「昔、人間の庭師をしていた事がある。俺だって突然植物の知識を得られた訳じゃないからな。人間に弟子入りして、修行してたんだ。その時、ある夫婦の家で一匹の犬が飼われていた」
コリンは人間が嫌いだとばかり思っていたが、思い返せば私がロードリックの傍にいるからだと言っていた。全く無関係の人間ならば、特に悪感情がないのかもしれない。
「若くて、確か犬種はキャバリアだったか。でもその犬は直ぐに馬に蹴られて死んじまった。夫婦は嘆き悲しみ、しばらくしてまた新しい犬を飼った。似たようなキャバリアだった」
話の先が分からないながらも、相槌を打って話を聞く。
「二匹目の犬は長生きした。寿命と言える年齢まで生きて、看取られて死んだ。今度は夫婦は犬を飼わなかった。クラリス、俺はアンタが二匹目の犬なんじゃないかと思う」
犬に例えられたけれども嫌な気分にはならなかった。それは多分、コリンの言うのも一理あると思ったからだ。
恐らくその夫婦は一匹目の時に味わった苦しみを、同じような犬を飼う事で晴らしたに違いない。
「ハーヴィー様は若くして亡くなった。その時の後悔を含めて、ロードリック様はアンタを大事にしているんじゃないか?」
なら、あの私を見る熱は恋愛ではなく過去の主人への敬愛だったのか。まるで愛されているのかと思う程、大事にしてくれているのは全部ハーヴィーに捧げたものなのだ。
苦しくて寂しいが、ロードリックが後で寂しい思いをするよりは余程いい。
「じゃあ……長生きすれば良いってこと?」
「ああ。ハーヴィー様の思いを昇華できるように。でも、ハーヴィー様を超えないように。思いが深くなる程、後の苦しみも大きくなる」
ならばやはり、私は彼に思いを伝えるべきではないのだろう。
私よりも長い間ロードリックを見つめて来たコリンの言葉だ。恐らくそう的外れではない。
「頑張るわ。しわくちゃのおばあちゃんになれるように」
出来る事を教えてもらい、両手を握りしめて前を向く。
「そうしてくれ」
口の端だけで笑うコリンの顔はまるで兄のようで、今や私を嫌いではない事が伝わってくる。ロードリックが大事すぎるから、私に複雑な感情を持っているだけなのだ。
それは随分と心を軽くしてくれる言葉だった。
「でも、もしも……」
不意にコリンの口調が重くなる。異変を感じて彼の様子を窺っていると、やがて決意したかのように口を開いた。
「もしも俺が思うのと違ったとしたら。あの方がそれから逃れられないのだとしたら。いっその事、最後は全て壊していってくれ」
「な……何を言ってるの?」
これまでの彼の言い分とはまるで逆ではないか。驚いて彼を見るが、それは思いつめたような真剣な表情だった。
「ロードリック様が人間と同じように死さえ望む程に絶望したなら、俺はその望みを叶えるだろう。それがどれほど、我々の本能に逆らうものだったとしても」
「そんな事、望んでなんかないわ」
「ああ、そうだな。俺だって……」
そこまで言って、彼は苦々しい表情で舌打ちをした。
「チッ、俺も随分人間に感化されちまった」
そしてくしゃりと私の頭を撫で言った。
「忘れろ」
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