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第七章
第二十二話 ロードリック視点
しおりを挟む「放してください!」
聞いた事のない切羽詰まった彼女の声に、一気に意識が覚醒した。状況を確認しようと寝ていたベッドを飛び起きる。
この屋敷には天来衆しかいない。彼らがクラリスをいくら気に食わなくても、私のすぐ傍で彼女を害する筈がない。
不吉な予感に耳鳴りがする。はやる心のままに廊下に出れば、彼女の声を聞いた使用人達も何事かと集まってきていた。
薄暗い廊下が伸び、守護聖人像の部屋だけが不気味に半開きになっている。そこから砂袋を蹴るような鈍い音が聞こえ、私は全身から一気に血の気が引く思いがした。
「どうしましたか!?」
像の消えた台。
風の吹き込む割られた窓。
そして、まるで赤子を守るように、聖人像を抱えたクラリス。
彼女を視界にとらえた瞬間、息をする事さえ出来なくなった。
無理矢理連れてこられた哀れな娘。けれど微笑みながら私の隣にいてくれる強い人間。
私の、大事な。
クラリスは酷く蹴りつけられていたのだろう。土のついた靴の痕を服に付け、苦痛に眉を寄せている。
けれど私の姿を見つけると、安心したように微笑んで言った。
「不審な男が……部屋に。でも、大丈夫です、聖人像は無事です」
私を安心させるように。自分の怪我など何もないかのように。誇らしげに聖人像を私へと掲げる。
激情が私を支配した。制御できない程の感情の嵐。凍り付いていた心臓が一気に灼熱の炎へと変わり、指先まで私を支配する。
「貴女が、無事ではないでしょう!?」
心のままに、傷ついている彼女を両腕に閉じ込めた。私の中に閉じ込めなければ、空気に溶けてしまう程儚いように見えて。
柔い彼女の体を抱き、消えていかないように縋りついた。伝わる彼女の熱だけが、心の穴を埋めていく。
何故人間は時に、自らを捨てて他者への献身を見せるのか。私には分からない。けれどそれが何よりも尊いものに思えた。
ハーヴィー様にもクラリスにも共通する、私が憧憬と崇拝の念を抱く人間の本質。
いつの間に、クラリスをこれほど大事に思っていたのだろう。けれど気付いてしまえば、それは私の心の真ん中に存在していた。
「ロードリック」
戸惑うような彼女の声に、現実が漸く目に入ってくる。小さなクラリスの体を横抱きにし、抱え上げた。
「直ぐに手当てを」
不審者の方は直ぐに使用人達が動いているだろう。任せておいても問題はない。
それよりも手の中のクラリスの容体が心配で仕方なかった。彼女の自室に移動し、ベッドにそっと横たえる。
「私は、大丈夫です」
「大丈夫かどうか、確認させてください」
クラリスは気丈にもそう言うが、大丈夫な訳がない。私は彼女から聖人像を受け取ると邪魔にならない場所へと置き、使用人達に最低限の指示を飛ばして下がらせた。
そして彼女の前に行き、戸惑うのを承知でこう言った。
「服を脱いでいただけますか」
やはり男性に肌を見せるのに抵抗があるのか、困ったように視線をさ迷わせた。
彼女は夫である私にも、決して自らそのような事を要求しない貞淑な女性である。
けれど自分の目でクラリスに何が起きたのか確認するまで、引く気はなかった。
「お願いします」
目を閉じて頭を下げると、諦めたのかクラリスが服を脱ぐ布の音が聞こえてくる。素直に従ってくれた事に安堵した。彼女の中で私は一定の信頼を得ているのだろう。
「……脱ぎました。背中を打っただけです」
目を開くと彼女は頼りなさげに脱いだ服を握りしめ、自分の前面を隠して恥ずかしそうに視線を下に向けていた。
初めて見る彼女の柔肌は屋敷での生活故に白く磨かれ、細い肩は男の視線を前に震えていた。
彼女は服を着ていた時よりも更に小さく壊れそうで……綺麗だった。
信頼に応えるためにすぐに背後に回り、目にしたものに言葉を一瞬失った。
どれだけの力で、このか弱い人を痛めつけたのだろう。白い背中の前面に、痛々しい赤い痣が散らばっている。これはその内青く変わり、動かすたびに酷い痛みを齎すに違いない。
「酷い痣だ」
自分が代わりに引き受けてやりたい。クラリスにあっていい怪我では無かった。
「貴女を守ると誓ったのに」
吸い込まれるように私の指は、彼女の背中をそっと撫でていた。滑らかな素肌は心地よく、それだけに痣の醜さが強調される。
「ごめんなさい。聖人像を守る事に必死で……直ぐに人を呼べばよかった」
「あれは確かに大事な形見です。けれど、生きている貴女の方がよほど大事だ」
「……はい」
自分はクラリスにハーヴィー様の面影を重ねて見ていると思っていた。彼の代わりに彼女を今度こそ守り抜くと思ったのは、確かにそれが出発点だったはずだ。
けれどもしもハーヴィー様が今この場にいて同じような怪我を負ったとしたら、私は同じように触れずにはいられない思いを抱いただろうか。
いや、それは無い。
何故。何が、彼と違う。
クラリスは流石に危険な事をしたと自覚したのか、意気消沈してしまっていた。
「軟膏を持ってきます。朝に医者に行きましょう」
「はい」
一先ず骨が折れているなどはなさそうである。屋敷に常備されている薬箱には、打ち身に効能のある薬が入っていた筈だ。
それを取りに部屋の外に出ると、ザラを含めた使用人達が心配そうに立っていた。
その目に人間に対する敵意が何もなくなっている事に気が付く。
「クラリス様はどうでしたか?」
「酷く背中を蹴られたようです。薬箱を持って来ていただけますか? 医者には明日連れていきます。今晩は気もたっていますし、落ち着かせましょう」
ザラに聞かれて答えれば、皆が痛々しい表情になる。クラリスが私の大事なものを守ろうとした献身を見て、彼女が我々を敵視する事は無いのだと気づいたのだろう。
誰かに利用される可能性は残っているが、それは彼女本人の意思ではありえない。
彼女が皆の意識を変えたのだ。この瞬間、クラリスは皆にとって守護する対象でしかなくなった。もう、虜囚ではない。
「不審者は捕らえられましたか?」
警備を担当する者に聞いてみたが、暗い表情で望んでいない答えを言った。
「いえ。逃げられました。素人ではありません」
「……そうですか」
薄々気が付いていた事である。書斎の部屋よりも、別の何かを得ようとしているようだった。つまり。
そこまで考えた所で、駆け足でザラが薬箱を持ってくるのが見えた。それを受け取り、クラリスを待たせないようにと直ぐに部屋に戻る。
「……う」
部屋のクラリスは苦痛に呻き、顔を歪ませていた。ああ、やはり無理をして耐えていたに違いない。
「クラリス、痛むのですか?」
どうにかしてやりたくて、肩をそっと撫でた。この痛みが落ち着くまでは軟膏を塗るのも辛いだろう。
「だ、だいじょうぶです」
「貴女は、いつも無理をする」
早くその痛みが去るようにと願いながら、そっと労わり続ける。やがて彼女の眉間に寄った皺が解けたのを見て、今なら大丈夫だろうと判断した。
「軟膏を塗りますので、少し我慢してください」
「……はい」
軟膏が触れると、冷たい感触に少し彼女の体が震えた。痛んだ場所に出来る限り苦痛を生まないよう、深く集中して塗り広げていく。
軟膏が服に付かないよう、布を上に押し当てる。止めるためには包帯を巻かねばならないだろう。
それを手にした所で、クラリスが顔を赤らめて私に聞く。
「ロードリック、包帯を巻くつもりですか?」
頷いて答えると、彼女は困った顔で私の処置を嫌がった。
「ザラさんを呼んでください」
包帯を巻くとなれば、その胸を当然隠し続ける訳にはいかなくなる。
ここが、私がクラリスに許される境界線なのだ。いつもならば私は彼女の意思を尊重してザラを呼んでいた。しかし。
「妻の看病です。私がします」
意識する前に口が勝手に動いていた。誰にも譲りたくない。この人を一番大事にする立場を。
クラリスのこんなにも弱弱しい姿を見るのは、私だけでいい。
何故、私は独占したいと思っているのだろう。
やはりハーヴィー様とクラリスに対する思いは、似ているようで違うのだ。
宝物を包むように丁寧に包帯を巻いていく。彼女が少しでも不快な思いをしないように、なるべく胸部に触れないように気を配った。けれど巻く時にどうしても彼女を抱きしめるような恰好になってしまう。
その瞬間、緊張したように固まるその清純さがどうにもいじらしくて堪らない。
やはり、この姿を誰にも見せる訳にはいかない。
私は彼女の望むものを叶えようと思っていた。けれど今は、それだけではとても足りない。
……何故。
考えている間に、気付けば包帯は巻き終わっていた。白い包帯に巻かれた彼女は恥ずかしそうに服を寄せ、後ろの私に横顔だけを向けて言う。
「ありがとうございました」
服に袖を通した彼女は漸く人心地ついたような顔で、いつもの表情に戻っていく。私はそれを惜しく思う。
不意に、この感情の名前が一体何であるのか気が付いてしまった。
「……クラリス」
薬箱に道具を片しながら、クラリスに語り掛ける。
「色々と、思い知りました」
この感情の名前は––––恋だ。
薬箱を閉じて私を見上げるクラリスを見る。今この瞬間を、何千年先まで覚えていられるように。
「大事にしますから。どうか、足早に駆けていく事だけは、止めてください」
私はきっと、彼女に泣かされるだろう。それでも動き出した心を抑える事は出来そうになかった。
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