果ての光~軍人侯爵の秘密と強制結婚の幸福~

百花

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第七章

第二十一話

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 それは小さな違和感だった。月光が差し込む真夜中の事である。何故だか胸騒ぎがして、ベッドで寝ていた私は目が覚めたのだ。
 普段は寝入ってしまったら朝まで起きないのに。何故今日に限って目が覚めてしまったのだろうと首を傾げつつ、また眠る為に目を閉じてみる。

 ……カタ、

 何処か部屋の外から、何かを動かすような小さな音がした。それは気のせいだろうと思えるような音なのに、何故だか胸が不安に騒く。
 すっかり目が覚めてしまって、このまま大人しく眠る事が出来なそうである。

 少しだけ、部屋の外を見てみようかな。

 扉を開く音でも家の人達を起こしてしまう可能性がある為、夜中に部屋を出る事など滅多にない。
 それでもこの日は音の正体がどうしても気になり、ベッドから身を起こしてそろりと扉の方へ足音を消しながら移動した。
 恐らく使用人の誰かなのだろう。勤勉な彼らは夜でも偶に見回りをしている。扉を開けて何もなければいいし、使用人の誰かの姿を確認できればそれでいい。
 扉をそっと開くと、暗い廊下がいつものように静かにあるだけである。

 よかった。気のせいだった。

 そして部屋に戻ろうとして、夜目で見えづらいが扉の一つが僅かに開いていることに気が付いた。
 守護聖人像の部屋だ。
 急に心臓が荒々しく拍動する。それでもこの時、まだ家の中の人であるかもしれないと考えていた。それだけ私の周りは安全で、不穏な気配など何もなかったのである。
 慣らされた安全が、危機感を甘くしている事に気が付かない。誰か呼べばいいのに、この時私は愚かにもそっと忍び足で自分の目で何が起きているのかを確かめようとしてしまった。
 僅かに出来た隙間から部屋の中を覗くと、ぼんやりとした人影が中で何かをしていた。
 その背丈から、ロードリックではない事を一瞬で判断する。この部屋に、彼と私以外は入る筈がない。
そして部屋の中にある物はたった一つしかなく、それに気づいた瞬間沸騰したように熱くなった。

「放しなさい!」

 部屋の中に飛びこみ、不審な男が手に持った聖人像を取り返そうと掴みかかる。男は全身黒い服を着て、顔も布を巻いて全てを隠していた。
 これは、ロードリックの大切な物なのだ。私が唯一、彼に直接任された大事な仕事。
 決して、誰にも渡してはいけない。
 女性の力の無さをこれほど悔やんだことはない。私は振りほどこうとする男に必死でしがみつき、聖人像を取り返そうと全力を振り絞る。
 普段の私からは考えられないような力を振り絞り、漸くその聖人像が自分の胸に引き寄せられたかと思った瞬間……全力で蹴り飛ばされた。

「う、」

 壁に背中が強く打ち付けられ、痛みで息が出来ない。それでも聖人像を抱えて全身で守ろうとする。
 その男は数度私を強く蹴りつけどうにか奪おうとしていたが、音を聞いて何事かと人が集まる声が聞こえたのだろう。
 舌打ちすると、割れて鍵の開けられていた窓から素早く逃走した。

「どうしましたか!?」

 ロードリックが青ざめた顔で部屋に駆け込んできてくれた。その背後に、複数の使用人達の姿も見える。
 私は彼の姿に安心し、ほっとして床に転がったまま頭を持ち上げた。

「不審な男が……部屋に。でも、大丈夫です、聖人像は無事です」

 ロードリックを安心させたくて、抱えていた聖人像を彼に捧げるように持ち上げる。
 喜んでくれると思った。
 なのになんで、そんな泣きそうな顔をする?
 ロードリックは出された聖人像を受け取らない。ただ唇を引き絞り、切ないような、耐え切れないような目を私に向けた。

「貴女が、無事ではないでしょう!?」

 そして痛いほどの力で私を両腕で抱きしめた。
 全身に彼の温かさを感じる。何が起きたのか、一瞬分からなかった。彼の柔らかい髪を顔で感じ、背中に回された手で彼に包まれたことを知る。
 労わるような優しい抱擁ではない。それは消えていくものを引き留めようとするかのような、そんな必死なものだった。

 なんで、こんな抱きしめ方をするの。

 だってロードリックはいつだって穏やかで優しくて……私を家族として大事にしてくれていた。
 けれどこれは違う。こんな抱き方は、家族愛なんかじゃない。
 私はいつの間にか、彼が引いていた線の内側に入っていた事を知った。
 目頭が熱くなり、泣きそうになる。
 少し前ならば何も考えず、喜んでいられただろう。けれど今は、嬉しいのに苦しい。

「ロードリック」

 堪らず呼びかけると、彼ははっとして私を横抱きにして抱え上げた。

「直ぐに手当てを」

 そう言って慌てたように足早に私を自室へと運んでくれる。そっとベッドの上に私を横たえた。

「私は、大丈夫です」

「大丈夫かどうか、確認させてください」

 冷静な彼がいつになく動揺しているようだった。私から守護聖人像を受け取ると、机の上にそのまま置いて放置する。
 そして部屋の入口で様子を窺っていた使用人達に不審者についての指示を飛ばすと、部屋を下がらせた。
 長として私以上に大事な事があるように思えたのに、ロードリックは気にもしていない様子で私の傍に戻る。そして酷く真面目な表情で私に言った。

「服を脱いでいただけますか」

 これは、怪我の確認の為なのだろう。それは分かっている。
 けれど今まで肌を見せた事はなく、躊躇して目をさ迷わせてしまう。いつまでも動かずにいると、ロードリックは目を強く閉じて私に頭を下げた。

「お願いします」

 彼の真剣な様子に私を心配してくれているのだけが分かり、諦めておずおずと服を緩めた。上半身の服を脱ぎ、怪我のない前面を脱いだ服で隠す。

「……脱ぎました。背中を打っただけです」

 するとロードリックは閉じていた目を開けて、私の背中側へと回る。貧相な体が、部屋の明かりに照らされて彼に見られている。
 私は恥ずかしさに耐えるために俯き、彼の表情を見ないようにした。
 自分がどんな怪我をしているのか、見ていないから分からない。けれど沈黙の中、背中が熱を持って痛むのを眉を寄せて堪えた。

「酷い痣だ」

 それはまるで、自分が怪我をしたかのような苦しそうな声だった。

「貴女を守ると誓ったのに」

 痣を避けて確かめるように、そっと彼の指が私の背中を撫でていく。それがまるでガラス細工のように大切にされているようで、落ち着かない気持ちになる。

「ごめんなさい。聖人像を守る事に必死で……直ぐに人を呼べばよかった」

「あれは確かに大事な形見です。けれど、生きている貴女の方がよほど大事だ」

「……はい」

 彼に労わられて、今更ながら自分がかなり危険な事をしたのだと自覚してきた。蹴られるだけで済んだのは単なる幸運でしかない。

「軟膏を持ってきます。朝に医者に行きましょう」

「はい」

 彼はそう言うと、私を残して部屋の外に出て行く。彼がいなくなった部屋で、気持ちを落ち着けるために服に顔を埋めた。

 私の事が、大事だって。

 嬉しい。嬉しくて、温かくて、苦しい。

 私がちゃんと彼の内側にいることを知って、こんなにも喜んでしまっている。
 背中が痛みを増してきて針を刺す様に私を苛むが、それが罪人に与えられた罰のようにも思えた。

「……う」

 少し動かしただけで、酷い痛みが走る。顔を歪めて堪えていると、薬箱を持って戻って来たロードリックに見られてしまった。

「クラリス、痛むのですか?」

 私の苦しい表情を見て顔色を変え、急いで彼が駆け寄る。そして私の肩を撫でて気を紛らわそうとした。

「だ、だいじょうぶです」

「貴女は、いつも無理をする」

 そう言って痛みが和らぐまでずっと撫で続けてくれた。彼の手が私の肌を動くたび、そのささやかな熱が私の頭を酔わせていく。

「軟膏を塗りますので、少し我慢してください」

「……はい」

 冷たい感触を背中に感じる。ゆっくりと優しく丁寧に、痛む場所にロードリックは自分の手でそれを塗り込んでくれた。
 軟膏を塗って終わりかと思ったら、布を軟膏の上に押し当てられる。そして包帯を取り出した所で、彼がやろうとしている事に気が付く。

「ロードリック、包帯を巻くつもりですか?」

 当然服に隠した胸にもその手で包帯を回すだろう。それはいくら何でも恥ずかしい。

「ザラさんを呼んでください」

 彼はその意味を正確に理解しただろうに、いつものように私の願いを聞いてはくれなかった。

「妻の看病です。私がします」

 妻。

 それはいつも、私がこだわっているだけかと思っていた。ロードリックにとって、家族としての意味以上ではないと。
 けれど今は、確かに特別な響きで彼から発せられた。その意味は?
 ロードリックは静かに包帯を私に巻き始めた。丁寧に、大事なものを包むように。
 服を置いて露わになった胸を、少しずつ包帯が隠していく。抱きしめるような動作でさえあるのに、欲の色はその手つきにはない。それが尚更、どれだけ大切に思ってくれているかの証明ようだった。
 やがて巻き終わると、最後に解けないよう端を処理され漸く服を着る事を許された。

「ありがとうございました」

 漸く肌を隠すことが出来て、ほっとする。男の人の前であんな恰好をする事に、たとえ治療だったとしても平然としていられない。

「……クラリス」

 薬箱に道具をしまいながら、ロードリックが静かに私に言った。

「色々と、思い知りました」

 隣で薬箱を閉じ、その目が私に向けられる。ハーヴィーの話を語った時と同じような、強くて切ない目だ。
 彼の墓場での余りにも寂しい光景が胸によぎり、私は息が詰まる。

「大事にしますから。どうか、足早に駆けていく事だけは、止めてください」

 どうしてこの人は、また傷つくと分かっていて人間を内側に入れてしまえるのだろう。
 どうして私は、この人を傷つけると分かっていて突き放せないのだろう。

 その理由は、とても近い所にある気がした。
 私は色々な事から目を逸らし、ただ静かに頷く事しかできなかった。

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