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第六章
第十八話
しおりを挟むハーヴィー様は非常に難しい立場だった。爵位を継ぐ筈の兄は生まれつき体が弱く、しかも兄の子供はその時まだいなかった。
彼らの父親は親族から養子を取るのを嫌い、それ故に次男のハーヴィー様は家を離れる事を許されなかったのだ。
けれどその雁字搦めの立場も彼は受け入れて、笑いながら親や兄から押し付けられる仕事をこなしていた。我々の山狩りへの参加も、その有象無象の仕事の一つだったのは私にとっては幸運だっただろう。
ハーヴィー様は自らの住まう古城に一族の者を招いてくれた。そこは古びて常に何処かが修理を必要としているような有様だったが、広さだけは十分にあった。
その一室で人に化ける練習をしていると、作業着のハーヴィー様が何処を直していたのか梯子を抱えて部屋に入ってくる。
そして形は人間に寄せたものの、自分の光を消しきれない私を見て困ったように笑った。
「本当にロードリックは一番下手なんだな」
一族の者は皆それなりに人に紛れる姿になったというのに、私は不器用でどうにもまだ失敗が続いていた。これをこなさねば外にも出られない。
「お恥ずかしい限りです。それより人手が必要なのでしたら、私にお申し付け下さい」
「ああこれか?」
そう言って自分の手に持った梯子を見せ、近場の壁に立てかける。
「北の塔の壁が少し崩れていてな。趣味みたいなものだから、気にしないでくれ」
ハーヴィー様はからから笑うと、疲れたように椅子に深く座り込んだ。
本当にそうなのだろうか。私は彼に恩を返したいと思うのに、ハーヴィー様は何でも自分でしてしまう。それがとても心苦しかった。
せめて紅茶を淹れてハーヴィー様の前に差し出せば、嬉しそうな顔をして口をつけてくれた。使用人の真似事をしてみても、全く足りないとしか思えない。
「ハーヴィー様、我々の為にお母様の遺品を一部売りに出したとお聞きしました」
私の言葉に彼の表情が苦いものに変わる。
「ダンか」
教えてくれた人を言い当て、大した事ではないとでもいうように片手をひらひらと振った。
「気にするな」
それは無理な話だ。次男であるハーヴィー様が自由に使える資金は限られている。我々の為に彼が持つ数少ない財産を手放してくれたのだろう。しかも今は亡き彼の母の遺品である。
こうして彼の善意を知る度に、私の心は締め付けられるように苦しくなった。
何故一族の為にこうも身を削ってくれるのだろう。我々は血縁のある一族以外は、利害関係が前提となるので、そんな人間の心理が理解出来ない。
ただハーヴィー様のその心に、むず痒く、またどうにも堪らない気持ちにさせられる。
どうすればいい。どうすればこの恩を返せる。どうすれば彼は喜んでくれる。
この地に来て初めて得た感情に振り回される。
それを解消する為に、導が欲しかった。
だから私は自分の心に従って、困ったように笑う彼に跪く。
「何か私に命じてください。貴方の恩に報いるために」
もしハーヴィー様が欲求を表したのであれば、私は迷いなくどんな困難でも身を捧げるだろう。
けれど切望したその願いは、あえなく却下された。
「迂闊にお前に言うと、永遠にやり続けそうだからなぁ。俺はお前を縛りたくないよ」
ああ、まただ。
彼が私を思いやってくれる程に、私の心は狼狽える。
これが全くの尊敬からなのか、崇拝からなのか、他の別の何かなのかも分からなかった。
「それを拘束とするか、導きとするかは私次第でしょう。ハーヴィー様。私にはそれが必要です」
「いつになくしつこいな。……そうか」
ハーヴィー様は食い下がる私に苦笑して、そしてふと気が付いたようだった。
「寿命の話でも何処かで聞いたのか?」
図星だった。知ってしまった人間の寿命は余りにも、余りにも短い。
それを知った瞬間から私には太い氷の刃が突き刺さって、今も血を滴らせている。
酷い焦燥感に苛まされて、何かをしなければ私自身が死んでしまうのではと思う程だった。
なのに当のその運命の上に生まれた人間は、平然な顔をして私を労わるのだ。
私は自分がどんな表情をしているのか自覚がなかったが、彼が眉を下げてハンカチを渡して来たのを見て、漸く泣いている事に気が付いた。
「……失礼を」
「俺からすれば、ロードリックの方が長すぎるんだがな。死に時に死ねない方が、哀れだろう」
そう言ってへらりと笑う彼を、涙を拭った後に瞬きすら惜しんで目に焼き付けた。
「まあ、そこまで言うなら何か考えておく。しかし、泣くとは」
後から思いかえせば、結局彼は私に何も命じてはくれなかった。
彼の言う通り、延々とその命令を守り続けるだろう私を哀れんだのか、それとも自分の死が本人が思うより早く来てしまった為かは分からない。
けれど彼の望みを聞き出す事が出来ていたならば、その後の時間は随分慰められたのにとは常々思う事である。
悲愴な顔をする私を慰めようとしたのか、ハーヴィー様は穏やかに笑みを浮かべて言った。
「知っているか? 人は生まれ変わるそうだ。死んであの世で記憶を洗い流し、再びこの世に生を受ける。だからまたロードリックとも会えるさ」
それはただの人間の妄想だった。長い時間を生きる我々は、死んだ者が二度と戻ってこないのを体感として知って
いる。
けれどそれが本当だったならどれほど良いだろう。時間に別れを強いられても、再会の希望を胸に生きていけるのだ。
だからハーヴィー様の言葉を否定せずに、まるであり得る未来だというように演じながら言う。
「では、お待ちしております。私を見つけて下さいますか?」
「はは、見つけるのは簡単そうだ」
「何故?」
「星屑の光がある」
「星屑の光?」
「お前の纏う光だよ」
「その頃には、もう少し上手くなっていますよ」
「どうかな」
からかうように笑う彼の笑みが浮かんで消えた。
全てが景色の中に紛れていってしまう。空間が暗転していく。何もかも分からなくなっていく。
「ハーヴィー様」
これが夢である事を自覚しつつ静かに問いかけた。
「……何処にもいないじゃないですか」
自分の声は余りにも弱弱しく、まるで疲れ果てた迷子のようだった。
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