私がいなければ。

月見 初音

文字の大きさ
上 下
2 / 12
第1章 根拠のない期待

第1話

しおりを挟む
昔の母は明るくて優しい人だった。
そしてとても美しい人だった。
その美しさは全く遺伝せず、私は平々凡々な容姿をしているけれど。

父親については何も知らなかった。
母は断固として口にしようとしなかったし、私もそれほど気になったわけではなかったからだ。
それに私達の暮らしていた街は場所は貧民街で、片親のいない子は当たり前だった。
母が初めて隣町に連れて行ってくれた時に、賑やかな街を見て多くの子に両親がいるものだと知った。

母は料理屋で働いていたが、給料はとても安かった。
だからまともな家に住めず、毎日の食事にも困るような生活をしていた。

けれど母は毎日必ず、私に食べるものを持って帰ってきた。

その持ち前の明るさと優れた容姿を存分に発揮して、値段をまけてもらったり、只で食材を貰ったりしていたらしい。
よく、母と1つのパンを分け合ったものだ。
最初は私だけにパンを食べさせようとするものだから、慌てて半分に割って母に渡すと

「アグネスは本当にいい子ね。きっと誰よりも優しい素敵な女性になるわ」

と言って、眩しい太陽のような笑顔で頭を撫でてくれた。
寂れた街で母娘だけで生活していくのは決して楽ではなかったが、それでも私は間違いなく幸せだった。

けれどそんな日常は長くは続かなかった。

私の7歳の誕生日、それが不幸の始まりだった。
母は毎年私の誕生日には、なんとか給料を貯めて、国で3つ目に栄えた隣町でプレゼントを買って渡してくれていた。

私は例年と同じように、わくわくしながら家で母の帰りを待っていた。
毎年必ず日が暮れる前に帰ってくるのに、その年は日が落ちて窓の外が暗くなっても帰ってこなかった。

夜が更けて睡魔に襲われ始めたとき、家にひとつだけの扉が静かに開いた。
覚束ない足取りで入ってきたのは、帰りを待ち望んでいた母だった。
いつもは帰ってくるとにっこりと笑顔を見せて「ただいま」と言ってくれるのに、その日は一言も喋らず、俯いていて顔も見えなかった。

明らかに異常な様子の母に戸惑い、母に駆け寄りスカートの裾を掴んで話しかけようとしたその時、頰に衝撃が走った。

気がついたら視界には黄ばんだ天井しか映っておらず、何が起きたのか確認する前に、聞いたことのない母の罵声が部屋に響いた。

「触るんじゃないわよ!汚らしい!!」

驚いてじんじんと痛む頰を押さえてなんとか起き上がり、声の方に顔を向けると憎悪で顔を歪ませた母と目があった。

「え…、お…かあさん…?」

何が起きているのか理解できず、ただただ呆然と母を見つめることしか出来なかった。

「あんたさえいなければ...!私が…!!」

母の言っていることの意味は全くわからなかった。
その日は日が明けるまでずっと、意味の分からないことを言われて殴られ続けた。
意識が遠のいて死んでしまうような気がしたけれど、抵抗することができなかった。
私を殴りながら、母は泣いていたから。

その日は初めて暴力を受けた日だった。
そして、優しい母と話した最後の日。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

私は心を捨てました 〜「お前なんかどうでもいい」と言ったあなた、どうして今更なのですか?〜

月橋りら
恋愛
私に婚約の打診をしてきたのは、ルイス・フォン・ラグリー侯爵子息。 だが、彼には幼い頃から大切に想う少女がいたーー。 「お前なんかどうでもいい」 そうあなたが言ったから。 私は心を捨てたのに。 あなたはいきなり許しを乞うてきた。 そして優しくしてくるようになった。 ーー私が想いを捨てた後で。 どうして今更なのですかーー。 *この小説はカクヨム様、エブリスタ様でも連載しております。

記憶がないなら私は……

しがと
恋愛
ずっと好きでようやく付き合えた彼が記憶を無くしてしまった。しかも私のことだけ。そして彼は以前好きだった女性に私の目の前で抱きついてしまう。もう諦めなければいけない、と彼のことを忘れる決意をしたが……。  *全4話

【完結】私を忘れてしまった貴方に、憎まれています

高瀬船
恋愛
夜会会場で突然意識を失うように倒れてしまった自分の旦那であるアーヴィング様を急いで邸へ連れて戻った。 そうして、医者の診察が終わり、体に異常は無い、と言われて安心したのも束の間。 最愛の旦那様は、目が覚めると綺麗さっぱりと私の事を忘れてしまっており、私と結婚した事も、お互い愛を育んだ事を忘れ。 何故か、私を憎しみの籠った瞳で見つめるのです。 優しかったアーヴィング様が、突然見知らぬ男性になってしまったかのようで、冷たくあしらわれ、憎まれ、私の心は日が経つにつれて疲弊して行く一方となってしまったのです。

記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話

甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。 王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。 その時、王子の元に一通の手紙が届いた。 そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。 王子は絶望感に苛まれ後悔をする。

あなたへの恋心を消し去りました

恋愛
 私には両親に決められた素敵な婚約者がいる。  私は彼のことが大好き。少し顔を見るだけで幸せな気持ちになる。  だけど、彼には私の気持ちが重いみたい。  今、彼には憧れの人がいる。その人は大人びた雰囲気をもつ二つ上の先輩。  彼は心は自由でいたい言っていた。  その女性と話す時、私には見せない楽しそうな笑顔を向ける貴方を見て、胸が張り裂けそうになる。  友人たちは言う。お互いに干渉しない割り切った夫婦のほうが気が楽だって……。  だから私は彼が自由になれるように、魔女にこの激しい気持ちを封印してもらったの。 ※このお話はハッピーエンドではありません。 ※短いお話でサクサクと進めたいと思います。

いっそあなたに憎まれたい

石河 翠
恋愛
主人公が愛した男には、すでに身分違いの平民の恋人がいた。 貴族の娘であり、正妻であるはずの彼女は、誰も来ない離れの窓から幸せそうな彼らを覗き見ることしかできない。 愛されることもなく、夫婦の営みすらない白い結婚。 三年が過ぎ、義両親からは石女(うまずめ)の烙印を押され、とうとう離縁されることになる。 そして彼女は結婚生活最後の日に、ひとりの神父と過ごすことを選ぶ。 誰にも言えなかった胸の内を、ひっそりと「彼」に明かすために。 これは婚約破棄もできず、悪役令嬢にもドアマットヒロインにもなれなかった、ひとりの愚かな女のお話。 この作品は小説家になろうにも投稿しております。 扉絵は、汐の音様に描いていただきました。ありがとうございます。

【完結】ええと?あなたはどなたでしたか?

ここ
恋愛
アリサの婚約者ミゲルは、婚約のときから、平凡なアリサが気に入らなかった。 アリサはそれに気づいていたが、政略結婚に逆らえない。 15歳と16歳になった2人。ミゲルには恋人ができていた。マーシャという綺麗な令嬢だ。邪魔なアリサにこわい思いをさせて、婚約解消をねらうが、事態は思わぬ方向に。

あなたの側にいられたら、それだけで

椎名さえら
恋愛
目を覚ましたとき、すべての記憶が失われていた。 私の名前は、どうやらアデルと言うらしい。 傍らにいた男性はエリオットと名乗り、甲斐甲斐しく面倒をみてくれる。 彼は一体誰? そして私は……? アデルの記憶が戻るとき、すべての真実がわかる。 _____________________________ 私らしい作品になっているかと思います。 ご都合主義ですが、雰囲気を楽しんでいただければ嬉しいです。 ※私の商業2周年記念にネップリで配布した短編小説になります ※表紙イラストは 由乃嶋 眞亊先生に有償依頼いたしました(投稿の許可を得ています)

処理中です...