18 / 23
モブ、そう在ることに抗いたくなる
しおりを挟む
夏休みが終わったばかりで身体がまだ制服にも馴染んでいないのに、私も周りのみんなも朝っぱらから体操着を着て、各々の椅子を持ってグラウンドへと向かっていた。残念ながらここ数日は夏休みのどの日よりも太陽燦々、そしてその勢いのまま私の祈りも虚しく、無事体育祭当日になってしまったのである。
うちのクラスの体育祭委員である真麟は、昨日なんかはSiriに「明日の天気は?」と確認して、にっこにこだった。残りの体育祭委員――即ちひーわも五央も真麟ほどではないにせよ、ここ数日は浮かれていたように思う。しかしそれ以外のクラスメイト——恐らく体育が好きそうな運動部の人とかも、正直みんな雨を祈っていたと思う。だって、
「暑すぎる!!!! 頭おかしいでしょ⁉︎」
夢がこう叫んでいるように、もう本当にあり得ないくらい暑いのである。
「さっき窓から見たんだけど、グラウンド陽炎揺らめいてるもんね。もうさながら砂漠よ」
と私はまだ開会式すら始まっていないのに既に噴き出てきた汗をタオルで拭う。でもこのタオルも直にじっとりと生温くなり、意味がなくなるんだろうな、と思うともう嫌になってくる。
勿論去年私は体育祭委員だったから、その大変さなんかもわかっている。いかに当人たちにとって今日という日が大事な日か。でも元々運動があまり好きじゃない上に、こんなにあっつい中グラウンドにずっと居なくちゃいけないのは時代錯誤だと思うのだ。どうしてもやりたいならいっそ冬にやってくれ。そう夢に言ったら、「冬に外で汗かいた後その汗が冷えて、また汗かいてって繰り返すのは絶対風邪ひく」と一蹴されてしまった。それもそうだ。
「春は花粉、夏は暑くて、秋はこれ以上後にすると学祭も控えてて、冬は寒い。どうすりゃいいのよ」
「やらない」
「本当そう思う、真麟たちには悪いけど」
体育祭委員たちが開会式の準備でみんな居ないのを良いことに、言いたい放題しながら、私たちはグラウンドの自分たちのクラスの三角コーンが置いてある枠の中でも、なるべく涼しそうに思える場所に二人椅子を並べた。
◆
開会式やラジオ体操をした後、最初は一年生の百メートル走なので、私たちは各々のミニ扇風機を最大風量にし、こっそり膝に置いたスマホで、かき氷を削るASMR動画の映像だけをただ見ている。本来は授業中のスマホ使用は禁止だが、こういうイベント時は写真を撮ったりしたいだろう、との配慮で黙認されているのだ。勿論私たちも自分の友達が出れば写真や動画を撮るが、一年生にはただの一人も知り合いが居ないのでどうしようもない。
「これが学祭の後だったら、学祭委員の後輩と仲良くなったりしてたかもだけどね」
と私が言うと、
「確かに~。そうすれば少しは暑くても応援する気になったかも」
と夢も同意してくれた。本当にこの学校は縦の繋がりが希薄すぎるから、全校生徒イベントみたいなものの、退屈な待ち時間が長過ぎる。もういっそ学年ごとでやれば、体育館に収まったりしないだろうか。あそこも大概暑いが、直射日光が無い分幾らかはここよりはマシだろう。
こうやって頭はまだギリ回っているけれど、口に出す元気はもうない。これがそのうち頭の中もぼーっとしてきて、ある種の集団催眠みたいなのにかかったようになって、全員最後の結果発表では泣いて喜んだり悔しがったりするのだ。正直狂っている、が、もれなく私も夢もそうなった側である。多分催眠術や洗脳にかかり易いタイプなんだと思うから、気をつけて生きていきたい。
そんなことを考えているうちに、動画は南極のペンギンドキュメンタリー物に変わっており、夢は、
「お母さんの羽毛暑すぎるよ……」
とうなされていた。馬鹿じゃないの、と私は夢からスマホを奪い、映像を知らない大人が氷入りの水風呂に入る動画に切り替えた。
◆
一年生の百メートル走、三年生の玉入れが終わった後は、全学年が参加する騎馬戦である。学年、男女ごとに予選をし、各予選に残った三チームが決勝に進むのだが、本当に頭がおかしいと思うのは、決勝は男女混合なのである。流石に高校生の体格差で男女総当たりは無理があると思うのだが、意外にも女子も健闘するし、体育祭委員の時見た過去の記録によれば、四年前の学祭では金銀銅全てのメダルが三年女子チームに贈呈されていた。なので一、二を争う盛り上がる競技と言えよう。ちなみにこの後、午前の最後の競技となる二年の百メートル走があるのだが、信じられないくらい盛り上がらない。なんで騎馬戦を午前最後にしないのか、と多分全員が思っているが、プログラムを変える話し合いが面倒で全校生徒が妥協している状態である。それにもし仮にこの学校の生徒が学年の垣根を越えて体育祭について話し合わないといけないのなら、多分撤廃の方向に向かうと思う。あるから面倒なんだ、やりたいやつだけ公民館とかでやれば良いじゃん? となるに違いない。桜森はある意味独立独歩な校風なところがあるので、実際球技大会は廃止され、毎年冬にサッカー部によって非公式球技大会が行われている。去年は私と夢も、得点係として参加した。あーあ、去年頑張って体育祭もああいうシステムにしていれば、今頃こんなクソ暑い思いはしなくて済んだかもしれないのか。
そんなことを考えていたらあっという間に二年女子の出番だとアナウンスがかかり、競技スタートの空砲が鳴り響く。私たちは夢を騎手に、私と、隣のクラスで去年は同じクラスだった紗々と水瀬を騎馬にして組み、勿論しっかりと敗北した。決して手を抜いたわけではない、ただ全員運動神経が特段良いわけでもなく、ついでに騎手の夢が「突き指してピアノ弾けなくなったら困る」と言うので好戦的ではなかった。それだけだ。
一方男子側、ひーわが騎手で、五央とクラスメイトの関くんと津南のチームは関くん以外は運動が好きなのと、ひーわがこういうちょこまかとした身のこなしをするのが得意なので決勝までしっかりと生き残っていた。関くんは生徒会役員なので、大っぴらに口には出せないだろうが、決勝進出が決まった時のあの嫌そうな顔は、夢のカメラにばっちり収まっている。絶対後で見せに行ってやろう。
「二年男子の決勝進出組は、ひーわのとこと、誰あれ知らん……と、あ、真中くん騎馬チームも居るね」
となんの気なしに夢が言う。
「サッカー部率高いな」
なんて私も普通に返すけど、実際ちょっと複雑である。
別れてからも颯とは何度か顔を合わせているし、今も普通に挨拶したり世間話したりするという関係ではあるんだけど……夏休み明け、教室が遠くて殆ど遭遇していない。
大体、「俺はひかるのこと好きだから、迷走して帰ってくる先が俺のとこだと良いなって思っておいて待ってるよ」と言われた人の前で一体どんな顔をするのが正解なんだろう。そう言われて正直嬉しかったけれど、好意なんて誰から向けられてもある程度嬉しいと思ってしまう気がする。
そしてこうまで言われて、ひーわと五央を応援するのもなんだか薄情な気もする。でも純粋に友達と考えたら、友達が二人居るチームの方をより熱心に応援してもおかしくはないかな? そもそも両方等しく応援すれば良いのか? うーん。
「ひかる、ひかる」
私が一人考え込んでいると、夢に肩を叩かれる。
「私たちが応援すべきは、ひーわと五央でも真中くんでもないよ」
そうして夢が指を差した先には、騎馬の上にピシッと姿勢良く、本物の騎士のように跨る真麟が居た。
「真麟じゃん! そういえば私、自分の出番終わって疲れすぎてて、誰が残ったかなんて全く見てなかったや」
「ふふ、見て、しかも真麟の下も全員陸上部」
「勝ちに来てるね真麟」
「真麟、去年も決勝残ってたらしいけど男子にボコボコにされたから、今年は復讐に燃えてるんだって。二年女子他の二組も陸上部なんだけど、なんか戦術組んであって実質一部隊らしい」
「体育祭の騎馬戦で周辺国と同盟組むって流石すぎる」
「でしょ? だから私たち一組女子は、男子なんか応援してる場合じゃないってことよ」
そう言って今度は、背中を叩かれる。
「前行こ、もうすぐ始まる!」
夢に連れられ私は、颯もひーわも五央も全員通り過ぎて、真麟の居るスタート位置へと向かった。
◆
試合開始時と同じようにピストルの音が鳴り、手練ればかりだからか、或いは見所が多い故の体感の問題なのかはわからないが、予選の時よりもあっという間に試合は終了した。
結果はしっかりと真麟のチームが一位。なんと真燐と同盟を組んでいた、いわば捨て身チームも三位。二位は三年男子の陸上部チームらしく、今年は陸上部が制覇した。ひーわチームも颯チームも中盤真ん中でわちゃわちゃしている時に帽子を取られたようで、残念ながらその瞬間は私の目でも夢カメラでも捉えることが出来なかった。
真麟の周りにはたくさんの女子が集い、お祭り騒ぎだ。体育祭委員によるヒーローインタビューが終わっても、特に陸上部女子の興奮は冷めやらぬ、と言った感じである。私たちも隙間を縫って「おめでとう」を伝え、真麟から「ありがとう!」と二人まとめてのハグをもらった。ちなみにこれは全くの余談だが、あんなに汗をかいているはずなのに真麟からハグされた瞬間なんか花みたいな良い匂いがしたのは、あれは一体なんなんだろう。
頭が暑さでやられているからかそんなことを考えながらも、私たちは音の歪んだアナウンスに従い整列し、すでにくたくたの身体に鞭打ってなんとか百メートルを走り切った。
そうして無事百メートル走も終了し、私と夢は五央とひーわを探す。体育祭委員も昼休憩は原則校内でとることなっているはずだし、多分戻ってくると思うんだけど。
「あ、居た! おーい」
と入場門付近で五央の背中を見つけ声をかけたものの、その隣にひーわが居ることまでは想定内だが、その正面にはさらに颯まで居た。よく考えてみれば、まあそりゃあ居てもおかしくない。百メートル走ってからそのまま一緒に体育祭委員の仕事の確認に戻って、というのはむしろ当然の流れまである。
私は一瞬「うお」という顔をしてしまったけれどそれをしっかりと引き締め、三人の元へと向かう。いつの間にか夢も私の後ろで「おつ~」なんて言いながら手を振っている。
「三人ともおつかれ~」
と私が近寄ると、ひーわがケラケラ笑いながら、
「でもひかるも夢も真麟のことしか応援してなかったよね」
と百メートル走のことなんかすっかり忘れているのか、騎馬戦の話をしながらこちらに寄ってきてくれる。それに合わせて笑いながら五央と颯もこちらに近付いてきて、側から見れば結構和やかな雰囲気に見えるだろう。
「そりゃそうでしょ、真麟は結果も残してくれたしね」
と夢はとびっきりの笑顔で辛辣な一言を浴びせる。
「実際まさか真麟にやられるとは思ってなかったし、普通に油断してた」と五央。
「あの子陸上部の次期キャプテンの子でしょ? めちゃくちゃ運動出来るとは聞いてたけど、化け物だったわ」と颯。
私はなんだか自分のことのように誇らしくなって、
「あれで真麟勉強も出来るんだよ、すごくない?」
とつい自慢してしまう。ちなみに私自身は運動は勿論、勉強も真麟には及ばない。
「あ、ねえお昼、二人はどうするのかな? って聞きにきたの。教室戻る?」
夢がそう本題に入ると、すかさずひーわが、
「戻る! 俺クーラーボックスに午後用のメンツ控えさせてるし」
と何やら訳のわからないことを言う。
「俺もタオル替えたいし、っていうか俺ら別にもう本部行かなきゃ行けない用事ないから戻るよ、な」
と五央もひーわに同意した後、颯の方を向く。やっぱりこの二人、しっかり仲良くなってるな。
そして颯も「うん、俺も戻るよ」と言ったので、そのまま私たちは五人で校舎へと向かったのだった。
◆
私たちの一組は一番階段に近い教室で、そこから順に二組、三組、と並んでいて、廊下突き当たり一番奥が颯の六組である。だから六組の前をあまり一組の人が通ることはないし、さらに言うと六組の奥には非常階段に続くドアがあって、五組六組の人はそこから出入りしている人も多いので、必然的にあまり遭遇しなくなる。昇降口に繋がっているわけではないので、上履きと外靴を履き替えることは出来ないが、グラウンドさえ通らなければ多少は上履きで外に出ても許される風潮があるので、校舎裏の自販機を使いたい人なんかはしょっちゅう利用しているらしい。ちなみに遅刻ギリギリの時は、取り敢えず非常階段から靴下で教室に入りそのまま一限をやり過ごし、授業終わりに昇降口に上履きを取りに行くというテクニックもあるそうだ。本当にめちゃくちゃな学校である。
昇降口に到着する前に非常階段前も通るのだが、そこにはいくつものスニーカーが並べられていて、なかなか珍しい絵面だった。各学年の六組の物だろうか。
「真中くんは昇降口からで良いの?」
と夢がいじるが、颯は、
「俺一回、教室戻る前に職員室寄らなきゃだから、どうせ昇降口側来なきゃなんだよな」
と心底残念そうに語る。やっぱりみんなちょっとおかしいんじゃないか、それとも六組になるとああなってしまうのだろうか。
なんて、各々くだらない話をしながらだらだら昇降口まで周り、そこで私たちは職員室へ向かう颯と解散した。
それから何を話したかも覚えていないようなことをだらだら話しながら階段を登り、有難いことに階段から一番近い一組の締め切られている教室のドアを開けると、なんと寒いくらい冷房が効いていて、頭の中でさっき見たペンギンの親子の動画がリプレイされる。まあこの教室がさながら南極ってくらい冷やされている分、もしかしたら実際の南極の氷は少しずつ溶けているのかもしれない。でも今日だけは許して欲しい。だって私たち、さっきまでサハラ砂漠に居たんです。
「うちのクラスのエアコンって、こんなに温度上がるんだな」
と五央が感動していると、関くんが、
「生徒会室にあった資料でエアコンの型番見て、昨日ヤマダ電機で対応リモコン買ってきたんだよ。いや~赤外線リモコンで一台ずつ動かせるやつで良かった」
と嬉しそうにリモコンを振っている。いくら体育祭の時は基本先生が教室に来ることがないからって、すごい度胸である。しかも絶対うちのクラスで一番真面目であろう関くんなのに。
「しかも関くん、ちゃんとタイマーセットしてくれたたんだよ。だから教室入った瞬間めっちゃ涼しくて、感動で泣いたわ」
と関くんの次くらいに真面目であろう真麟もこんな様子である。でも今日に限っては真麟は誰よりも動いていたし、関くんも巻き込まれて決勝まで残ってしまっていたし、いつもよりちょっと電気を使って涼むくらい、神様も南極の皆さまも許してくれるだろう。
そうしてそれにちゃっかり御相伴という形で、私たち一組はキンキンに冷えた教室でお昼ご飯に舌鼓を打った。ちなみに椅子は全部グラウンドにあるので、全員地べたに直座りである。
「なんか床に座って食べるだけで新鮮だね。今度レジャーシート持ってくるから、ピクニックごっこしない?」
「だったらもうちょっと涼しくなってから普通になんか木陰とかでピクニックすれば良いんじゃない?」
「それは面倒い」
なんて夢とひーわの小気味よい掛け合いを聞きながら、私は「いただきます」とお弁当箱を開け、早速夏休み明け最高傑作の出来の玉子焼きを頬張る。うま。我ながらかなり薄く綺麗に巻けたし、これは夢にも一個あげよう、と蓋に一つ避けていると、隣でフリーズしている五央が目に入った。
声に出して良いのかわからないから、目線で「どうしたの?」と問うと、一瞬五央の肩が跳ね、そしてばつの悪そうな顔をする。さっぱり意味がわからずぽかんとしている私に、五央は観念したようにそっと鞄から、夢とひーわには隠すように何かを取り出す。
「なにそれ?」
と言いそれに私は顔を近付けて——絶句した。五央の手にはあのフリクションが握られていたのである。
私は慌ててスマホを取り出し、五央に『ばっかじゃないのどういうこと?』とラインをする。
するとすぐに通知が鳴り、『昨日エマの家で書類の保護者欄の記入とか諸々やってもらってる待ち時間に課題やってたんだけどミスって、消しゴム貸してって言ったらこれ渡されてそのまま持って帰ってきたっぽい』『やばい』と五央らしからぬ頭の悪そうな返事が帰ってきた。大体こんな物騒なものを消しゴム代わりに使うな、と言ってやりたいが、残念ながら今それを言っても何の解決にもならない。なので私は、ただ一言、『神に祈れ』とだけ送り、スマホをの画面を閉じた。そもそも食事をしながらスマホを弄るのはマナー違反だし、どうにもならないことを考えても仕方がない。対策が出来ることなら考えようもあるが、これに関してはもう、ことが起こってしまったらどうにかする、というスタンスを取るしか方策はない。だってこのフリクションと居る時って、常識の範囲外のことしか起こらないんだもん。
私は五央に向かって「頑張れ」の意を込めてガッツポーズをし、大きく頷いてから、「夢~」と夢に声をかけ自信作の玉子焼きを押し売りした。起こるかわからないことに悩むより、目の前の玉子焼きを褒めて欲しいのだ。
夢は期待通り「ひかる天才じゃん、めっちゃ卵が薄くてふわふわで美味しい!」と大絶賛してくれた。そしてひーわも「俺も欲しい!」と名乗りを上げてくれる。普段は玉子焼きは二切れしか入れてこないんだけど、今日は成功したので倍の四切れも入れてきた甲斐があった。
「お! 本当だ! おばあちゃんちの玉子焼きくらい美味い!」
とひーわからも恐らくひーわの中での最大級の賛辞をもらった後、私は五央にも、
「食べたい?」
とドヤ顔で聞く。とは言え五央って和食にどれくらい耐性があるのかよくわからない。放課後寄るようなところって、大抵ファストフードやファミレスみたいに和食じゃないところが多いので、よく考えてみれば五央が食べているのを見たことがある和食って、エマの家で頂いた最高級であろうものか、せいぜいてりやきバーガーくらいだ。でもてりやきってそもそも海外受け良いらしいし、和食に括るのはかなり暴論である。
でも私の思いに反して、五央は「え、いいの?」と嬉しそうな顔である。あれか、やらかしたから貰えないと思っていたのだろうか。それとこれとは話は別だし、私は称賛してもらいたいという下心しかないので全然あげる。蓋に玉子焼きを乗っけて……あ、五央ってパンだけだから箸もフォークもないじゃん。今日私のお弁当、ピックも使ってないし。
「素手で行く? 箸貸す? 食べさす?」
「いや流石にその三択は素手で行くだろ」
と五央は蓋からひょいっと玉子焼きを取り、それを一口で頬張った。ってことは多分玉子焼き初見じゃないな、と一安心。
「どう?」
とドキドキしながら聞くと、
「うま」
とたった二文字だけ返ってくる。
「五央……食レポ力ゼロじゃん」
と呆れた顔を作ってみたけど、多分私の顔はニヤついていたと思う。だって食べ物を食べて五央がこんなに幸せそうな顔をしているところを、初めて見たのだ。
それはどうやら夢とひーわも同じようで、二人とも田舎のおばあちゃんみたいな表情で五央を眺めていた。
「ま、みんなこれで午後も頑張ってな。ところで午後イチの競技なんだっけ?」
と私は我ながら下手くそな照れ隠しで、話を終わらせてしまったが、「うん」とみんな言ってくれたので、なんだか余計に恥ずかしくなった。
ちなみに午後イチの競技は、一年生の障害物競争だそう。
「あれ地味に大変だったよね、網の中潜るのとか、みんなヘアセット気合い入れてたからブチギレだったじゃん」
と私は去年の体育祭に想いを馳せる。去年は今より髪が短く、今の夢より少し長いくらいだった私は、髪全体を緩く巻いてから少しだけ髪を取って頭の上に小さく二つお団子を作る、くまヘアならぬメンダコヘアをしていたのだ。しかしせっかくセットしてきたのに、ぶっつけ本番で行われた障害物競走に網を潜る箇所があり、女子たちはみんなブチギレたものだった。ただ幸いにも巻き髪命のギャルの子がヘアアイロンを持ってきていたため、みんな順番にそれを借り、ある程度は髪をセットし直すことが出来た。しかもラインあみだくじで順番を決め、一人ずつグラウンドから離脱することで、先生にもバレないしかなり迅速に全員髪型を復旧出来るという最高の作戦を遂行出来たのだ。去年の体育祭もなんだかんだ盛り上がったとはいえ、ハイライトとなったら完全にあのヘアセットリレーを無事やり遂げ、ゴールテープを切った瞬間だろう。
「なつかしー! 私あの後借りた愛由架のコテめっちゃ使いやすくて、アマゾンで買ったもん。今も使ってる」
「まじか、すごい行動力だな」
「愛由架に聞いたらドンキで二千五百円だったって言っててさ、ちょうど新しいの買おうか悩んでて、でも安いのじゃまた失敗するかなって思ってたとこだったから、買いじゃん! って」
夢のこういう物怖じしないところと、フットワークが軽いところ、すごく憧れるんだよなあ。でもこれを本人に言うといつも、「何それ~、反射で生きてるだけだよ」と照れながら動揺して、コケそうになったり持っている物を落としそうになったりしているから、少なくともこれからまだ運動をしなくちゃならない今日は、余計なことを言うのはやめておこう、と私は「使いやすくて安くて壊れないのはコスパ最強すぎだね」と、ヘアアイロンだけを褒めておくに留めておいた。
◆
午後ときたら、綱引きに参加さえすれば私たちの出場する競技はおしまいだ。中には部活対抗リレーに出る人も居るし、最後にクラス対抗リレーも控えて居るのだが、私は運動が苦手ではないとはいえ、別にすこぶる得意なわけでもないので代表には選ばれていない。そもそも部活には入っていないし。ひーわや颯もサッカー部の部活対抗リレーは三年が出るし、陸上部も人数的に三年しか出なさそうだから応援する相手がいるわけでもなく、多分ここからしばらく暇になるだろう。あ、今のうちにトイレでも行っておこうかな。
「夢、ちょっと私お手洗い行ってくるけどどうする?」
「うーん、多分ひかるもっかいくらい行きそうだし、そのとき着いてく」
「りょーかい」
なんてやり取りをして、私は一人しんと静まり返った校舎へと入った。
一階、昇降口の近くにはトイレはない。職員室の奥か、階段を登っていつも使っている二階の二年の教室の前のトイレを使うか。距離的には同じくらい。階段を登らない分職員トイレの方が楽だけど、体育祭の日でも職員室には電話番の先生が居るらしいからなんか通るの緊張するなあ。面倒だけど二階に行くか、と私は手扇で自分をあおぎながら階段を登る。
そうしてトイレに行き、トイレの前の水道で首に水をかけなけなしの涼しさを獲ようとし、あ、そういえば教室さっきまで冷房ガンガンだったよな、と思い返す。閉めっぱなしだろうし、もしかしたらまだ冷気の名残くらいはあるかもしれない。少なくとも恐らくあの砂漠と化した校庭よりは涼しい。
頼む! と言う思いで教室のドアを開けると、予想は的中し、そこはさながら楽園だった。
「っしゃあ~」
と小声で歓声をあげこれ以上冷気が漏れないように慌てて扉を閉めると――「あ」――目の前には五央が居た。
「やばくないこれ?」
と私が言うと、察しの良い五央もすぐに気付く。
「フリクションのある状態で……これって二人っきり扱いになるよな」
「多分」
「逃げよう」
しかしそうはいかないのが世の常である。
教室の薄汚れたタイルの床が、私と五央が居る辺りを起点にほんのり水色がかった透明なガラスのようなものに変わっていく。このひんやり具合といい、きっとこれは氷だ。
「ああああやっちゃったよもう!」
そしてそれは壁や天井にも広がり、あっという間に教室は氷の部屋となった。
「すこーしも寒くないわ」
とやけくそで私が歌うと、「なんそれ?」と五央から無慈悲に返される。
「アナ雪だよ」
「あ~、俺日本語版観たことないんだよ」
「うわあ……五央が帰国子女だったのすっかり忘れてたわ」
そんな与太話をしながら、でもこれってそれだよね? と私は思いつまりあの映画のストーリー通りなら……。
「もしかして校庭もこうなってる?」
と慌てて窓の外に目をやる。が、氷越しに見える限りでは校庭は何の混乱も変わりもなさそうである。
「五央、氷漬けなのこの部屋だけっぽい。ってことは多分違う気がする」
「まあだろうな。そもそも今までだって俺たちに関係のあることが起きてたじゃん。だから俺かひかるに何か思い当たる節があるんじゃない?」
「ふうむ」
正直はっきり関係があったのはエマのナイトと五央のバスだけで、ピィちゃんや目覚まし時計はあんまりない気がしなくもない。けど解決にエマや五央の思い出や暮らしが……とまで考えて、あ、これ私は関係ないんじゃないか? と思い至る。
それを五央に話すと、「まあサンプル少ないけど……俺の可能性が高いかもな」となにやら思い当たる節でもないか考えているようだったが、その表情を見る限り何もピンとくるような出来事はないようだった。うーん。わからない。こうなったら取り敢えずピィちゃんのときみたいに、対処療法をするしかないだろう。
「取り敢えず溶かしてみようか。この教室が単に氷漬けになってる場合はそれで一応は解決するよね」
「でもさ、氷漬けっていうかタイル自体が氷に変わっている気がしない? その場合下手したら床抜けるよな」
「うーん。じゃあ取り敢えず全体的に溶かすんじゃなくて、ロッカーの上とか、最悪穴が空いても危なくないところだけ溶かしてみる?」
「そうだな。それなら穴が空いてもガムテとかで補強出来るし」
ガムテで補強はちょっといい加減すぎやしないだろうかと思ったけれど、本当にごくごく小さな穴ならなんとかなるかもしれない。少し考えて、大変申し訳ないが私たちの身内で唯一ロッカーが一番上の段のひーわのスペースを借りて、そこの氷を溶かしてみることにする。
「はんだごてみたいなので溶かすのが一番安全そうだけど、中学のとき以来使ってないからどんなのか全然思い出せないや……。なんか身近なもので良い案ある?」
と私が五央に訊ねると五央は、
「マッチとかライターじゃ駄目かな?」
と苦笑いで答えてくる。もうその顔が答えだろう。駄目に決まってるってわかってるじゃん。アルミみたいなロッカーも溶けそうだし、壁とかに火が燃え移ったら大惨事だ。
「うーん。カイロじゃ氷を溶かすには至らないし……。仕方ない、削るか」
と私は五央に「フリクション貸して」と手を出しフリクションを要求し、受け取ったそれでアイスピックみたいなものを描く。正直昔図工で使ったキリやバーベキューで使う肉を刺す金属の串との違いがよくわからないが、まあ尖っていてある程度強度があればなんとかなるだろう。
私は「ひーわ、ごめん」と薄っぺらい謝罪の言葉を唱えながら彼のロッカーの上をガンガンとアイスピックで突き刺す。小さな氷の粉が飛んで涼しげだ。なんだかかき氷が食べたくなってきた。
「うわあ、なんか殺人鬼みたい」
と五央がウルトラ失礼なことを言ってきたけれど無視して、私は無心でガンガンと一点にアイスピックを振りかざし続ける。そうするとものの一分くらいでなんとなく削ったときの感覚が変わってきた。
「お、五央、見て見て」
そう私が指差した小さい穴の中には、しっかりとアルミのロッカーが見えていた。
「おー、じゃあこれ、見た目に反して氷漬けになってるだけってことか」
「そうみたい。透明に見えるのなんでだろうね」
「魔法の氷だから? うーん。わからないな」
なんにせよ溶かしてしまえば良いとなれば、話は簡単である。
「じゃあ残念だけど、エアコンの温度上げようか」
「ていうかエアコン自体切れば良いんじゃね?」
「確かに」
今度は関くんに「ごめん」とさっきひーわに言ったときよりは幾らか真剣に謝罪しながら、勝手に机の中を漁らせていただく。てか関くん、今日なんの教科もないはずなのに机の中教科書とノートでパンパンで、意外な一面を見てしまった気持ちだ。そしてその教科書とノートの後ろに隠すようにして、エアコンのリモコンはしまわれていた。
「えい!」
と涼しさへの未練を振り払うようにエアコンの電源ボタンを押すと、何やら電子音が鳴って教室がほんの少しさっきまでより静かになる。気にもしていなかったけど、エアコンのモーター音が鳴っていたのだろう。私はまた関くんの席を漁り、さっきと同じ位置にリモコンを戻す。よし、取り敢えず後ろのロッカーのところにずっと突っ立っている五央の元へと戻ろうか、と一歩踏み出して、「あれ?」と私はおかしなことに気付く。
「ねえ五央、ちょっとこっち来て」
「なんで?」
「良いから」
と無理矢理五央を私の居る関くんの席の辺りまで来させる。
「来たけども」
「やっぱりおかしい」
「何が?」
「五央さ、めっちゃ普通に歩いてるよね」
「え? あ」
そう、今この教室は床が一面氷、即ちスケートリンクみたいなものなのに、室内を歩くことしか考えられていない、靴のなかでも雑魚キャラの区分であろう上履きで、普通に歩けてしまっているのだ。
「良いスニーカーとかだったら滑らないのもあるかもしれないけど、上履きで歩きにくくもないっておかしいよね」
「そうだよな……。っていうか温度が上がってきてるはずなのに溶けて水になってる気配もないし」
「窓の結露とかこの床が冷たく感じたのとかって、もしかして全部純粋なエアコンパワーだったのかな」
「じゃあエアコンを消した意味は」
「多分ない」
そう言うと私はまたまた関くんの机を漁り、エアコンの電源を入れる。まだこの教室が暑いことはないが、しかし恐ろしいことにこの一瞬でもうキンキンに冷えた部屋ではなくなっていた。そのうち他のクラスメイトが来るとも限らないし、一刻も早くキンキンを取り戻したいところなのである。
「でもさ、溶かせば元に戻るんじゃないんなら、これどうすりゃ良いんだ? 全部削ってたら次の競技に間に合わないし」
「だよねえ……。最悪他のクラスを参考に新しい床を上から描くって手もあるけど……」
あるけど、やりたくない。大体小さな目覚まし時計一つ複製するのにとんでもなく苦労したのだから、この教室中を全部元通り描くなんて不可能だ。
「フローズン……じゃなくてアナ雪って最後、どうやって雪を溶かしたんだっけ?」
五央がそう一瞬言い淀んだのを聞いて、そういえばディズニー映画の英題って結構邦題とは違うらしい、という雑学を思い出す。こういうとき、五央って本当にイギリスで暮らしてたんだなあ、と不思議な気持ちになる。
「えっとね、確か溶かすっていうよりかは魔法を解いた感じだったかな」
「それだ」
「それ?」
「魔法を解けば良いんだよ」
まあ確かに両手を掲げて元に戻ればそれに越したことはない。でも私は魔法使いじゃない……よね?
「もしかして私が普段やってることって魔法使いみたいなもん?」
「そうでしょ。フリクションを杖代わりにしてる魔法使いだよ。魔女の宅急便のキキが箒の代わりにデッキブラシで空飛んだみたいに」
と、言われても、どうしても魔法を解くなんてそんなことが出来る気がしない。大体そんな自由自在に何か出来たらチート過ぎる。
「まあ他に思いつくこともないし、取り敢えずやってみてよ。もしあれなら……そうだな、雪の結晶の付いた魔法の杖とか描いてみたら良いんじゃない?」
「そんな適当な……」
念のため『アナと雪の女王 魔法の杖』と調べると、本当に雪の結晶のモチーフが付いた魔法の杖のおもちゃが引っかかる。実在するってことは、知らないだけで続編とかでは魔法の杖でエルサが何かする、或いは魔法が使えないはずのアナが杖の力で魔法を使うシーンでもあるんだろうか。そう思うとほんの少し自分にも出来そうな気がするので、私って単純だ。
「そもそもフリクションも絵力というよりは想像力が大事なんでしょ? 色付けとかも出来るくらいだし。それの応用でいけるかもしれないじゃん」
「あっ五央それだ!」
それである。肝心なことを忘れていた。
「五央、このフリクション、なんでも消せるじゃん」
杖を出すまでもない。魔法で現れたものなら、きっと魔法のフリクションで消せる。そう思い、まず足元の床をフリクションの後ろ側、ゴム状の部分で擦る。するとさっき一生懸命ロッカーの上を削ったのが馬鹿らしくなるくらい、あっさりと透明な氷のような部分は消え、いつも通りの床が顔を見せた。
「おおおお! すっげ! フリクションの消す機能、消しゴムくらいの気持ちで使ってたからすっかり忘れてた」
「でもこれじゃあ全部擦り終わる頃には私の腕、なくなっちゃう」
「そこでさっき俺が言った想像力じゃない?」
「結局フリクションを杖にするってこと?」
「違う違う。ひかる、アップルペンシル……じゃなくても、ペンタブって使ったことある?」
「あるよ。電気屋さんの見本の機械でだけど」
「あれってペン自体はおんなじ形状のままで、設定で画面上でのペン先とか消しゴムの大きさ変えられるじゃん。だから消しゴムをめっちゃ大きくしたつもりで消せばあっという間に消せるんじゃないかな?」
「あー、なんとなくわかる……ような……取り敢えずやってみる」
とはいえデジタルイラストにはあまり詳しくないので、思い浮かべやすい身近なものとしてプリクラの落書きを思い浮かべる。あれ、小学生の頃は色々文字書いたりスタンプ押したりするのが流行ってたんだよね。当然その分消しゴムを使うことも多かったわけで、デコ自体は上手く行ったのに書いた文字が気に入らず、一番大きいサイズの消しゴムで全部消したりしたこともある。視界をプリ機の画面として、そんな感じで氷みたいな部分を擦ればきっと消える。最初にエマと会った日、空中に文字を書くことも出来たし、その逆が出来ないわけがない。根拠のない自信だけど、このフリクションが関わる件に限ってはその自信があると上手くいくのだ。だからきっと今回も出来る。
そう思いながら逆さにしたフリクションを動かすと――氷のような壁や地面のブロックは消え、見慣れたいつもの風景が戻って来た。
「おおー」
と五央が控えめに拍手するのを横目で見ながら、私はあっという間に教室を元の姿へと戻していく。
「なんか出来たね」
あまりにあっさりとした簡単な解決方法に拍子抜けしてしまい、私はもうこんな間抜けなことしか言えない。けれど五央は楽しそうに、
「こう側から見るだけだとさ、杖振って魔法で氷消してるみたいにしか見えなくて、なんかすげー! みたいな気持ちで見てたよ」
と笑う。
「エアゴシゴシしてただけだよ?」
「でも魔法の杖もほら、一振りじゃなくって波線とか丸とか結構色々なぞるパターンもあるじゃん。それっぽかった」
「ふうん」
「もしかしたら本当の魔法使いも、そうやって杖を使ってたのかもしれないな」
五央はそう言ったけど、本当の魔法使いってなんだろう。今私が起こしたことは、魔法とは何が違うのだろうか。魔法だとしたら、私だけがフリクションを操って魔法を使うことが出来るのだから、それはもう本当の魔法使いと言っても過言ではないんじゃないだろうか。そんなことを思いながら、私は手に持ったままのフリクションでまるで授業中にするノートの落書きみたいに、米印のような雪の結晶を空に描く。透き通って、そして窓から入る太陽の光を反射させてキラキラと輝くそれは、私の想像通りふわふわと羽のように浮いているので、私はふぅーっとそれを五央の元へと吹き飛ばしてみる。
「これって雪? それともさっきの氷みたいにイミテーション?」
と五央が手を出すと、その結晶は導かれるように五央のその手のひらへと着地する。
「確かめてみなよ」
と私が言うと、五央はそっとその手のひらを握る。
「冷たい」
そうして五央が手を開くと、そこには数滴の水だけが残されていた。
「雪だ」
「そうみたいだね」
なんで私はこんなことをしたんだろう。これは、必要がないのにまるでこのフリクションの魔法を五央に見せつけるみたいだった。
本当の魔法使い。知ってる。私はこの本物の雪とは違う、所詮偽物の魔法使いだ。だってこのフリクションはエマの物で、元を辿ればエマと五央のおじいちゃんの物。つまりはエマと五央には所縁があるものだけれど、私はただたまたま使えただけであって、これが私の物になることは絶対にない。このフリクションは私以外の人だって本当なら消せないものを消すことが出来るけど、私はこのフリクションがないと何も起こすことが出来ない。私はフリクションにとって、代わりのある魔法の杖みたいなものなのだ。多少他の杖より性能が良いだけの。
「五央、これ、ありがと。エマに返せる日までちゃんと学校持ってこないで家に置いといてね」
そう言って私は、フリクションを五央に返す。そして五央はそのうち、フリクションを本当の持ち主のエマに返す。
どうしてこのフリクションは私の物じゃないんだろう。どうしてこのフリクションで私は文字が書けるんだろう。
瞬き三回分くらいの時間考えて、そして視線を窓の外に落とす。赤と白のお手玉みたいなものが飛び交っていて、あ、玉入れだ、とすぐにピンとくる。玉入れは確か、三年生の競技だっけ。
「ちょっと待ってやば、ねえ次って一年の百メートル走で、それ終わったら綱引きじゃない?」
五央も体育祭委員だからわかっていると思うが、スムーズな進行のために自分の出番の一つ前の競技が始まったら、入場門に待機列を作り始めないといけないのだ。
「あ、俺一年の百メートル走、点数計算係だ」
皆あまり意識していないが、この体育祭も一応対抗戦ということになっていて、体育祭委員は得点を数えなければいけないのである。中でも百メートル走は、第一コース一組、第二コース二組……と六クラス一斉にスタートするのだけどその順位を記録して、一位は三点、二位は二点、三位は一点、と点数を振り分けていかなければならない。それを二百人以上分やるので、去年の体育祭委員の本部では、「九番目の組の三位って何組の人だっけ⁉︎」「四回連続で一位二位三位のクラスが一緒なことある? メモミスったかも!」等の悲鳴が上がっていた。こんなところで油売っている場合じゃない。早く本部テントで精神統一しておくべきだ。
「急いで戻ろ!」
そう言ったのは五央か私か。
何はともあれ、フリクションのことなんか考えている場合ではない、それだけは間違いなく、私も五央も猛ダッシュで階段を下り砂漠のように暑いグラウンドへと向かうのだった。
うちのクラスの体育祭委員である真麟は、昨日なんかはSiriに「明日の天気は?」と確認して、にっこにこだった。残りの体育祭委員――即ちひーわも五央も真麟ほどではないにせよ、ここ数日は浮かれていたように思う。しかしそれ以外のクラスメイト——恐らく体育が好きそうな運動部の人とかも、正直みんな雨を祈っていたと思う。だって、
「暑すぎる!!!! 頭おかしいでしょ⁉︎」
夢がこう叫んでいるように、もう本当にあり得ないくらい暑いのである。
「さっき窓から見たんだけど、グラウンド陽炎揺らめいてるもんね。もうさながら砂漠よ」
と私はまだ開会式すら始まっていないのに既に噴き出てきた汗をタオルで拭う。でもこのタオルも直にじっとりと生温くなり、意味がなくなるんだろうな、と思うともう嫌になってくる。
勿論去年私は体育祭委員だったから、その大変さなんかもわかっている。いかに当人たちにとって今日という日が大事な日か。でも元々運動があまり好きじゃない上に、こんなにあっつい中グラウンドにずっと居なくちゃいけないのは時代錯誤だと思うのだ。どうしてもやりたいならいっそ冬にやってくれ。そう夢に言ったら、「冬に外で汗かいた後その汗が冷えて、また汗かいてって繰り返すのは絶対風邪ひく」と一蹴されてしまった。それもそうだ。
「春は花粉、夏は暑くて、秋はこれ以上後にすると学祭も控えてて、冬は寒い。どうすりゃいいのよ」
「やらない」
「本当そう思う、真麟たちには悪いけど」
体育祭委員たちが開会式の準備でみんな居ないのを良いことに、言いたい放題しながら、私たちはグラウンドの自分たちのクラスの三角コーンが置いてある枠の中でも、なるべく涼しそうに思える場所に二人椅子を並べた。
◆
開会式やラジオ体操をした後、最初は一年生の百メートル走なので、私たちは各々のミニ扇風機を最大風量にし、こっそり膝に置いたスマホで、かき氷を削るASMR動画の映像だけをただ見ている。本来は授業中のスマホ使用は禁止だが、こういうイベント時は写真を撮ったりしたいだろう、との配慮で黙認されているのだ。勿論私たちも自分の友達が出れば写真や動画を撮るが、一年生にはただの一人も知り合いが居ないのでどうしようもない。
「これが学祭の後だったら、学祭委員の後輩と仲良くなったりしてたかもだけどね」
と私が言うと、
「確かに~。そうすれば少しは暑くても応援する気になったかも」
と夢も同意してくれた。本当にこの学校は縦の繋がりが希薄すぎるから、全校生徒イベントみたいなものの、退屈な待ち時間が長過ぎる。もういっそ学年ごとでやれば、体育館に収まったりしないだろうか。あそこも大概暑いが、直射日光が無い分幾らかはここよりはマシだろう。
こうやって頭はまだギリ回っているけれど、口に出す元気はもうない。これがそのうち頭の中もぼーっとしてきて、ある種の集団催眠みたいなのにかかったようになって、全員最後の結果発表では泣いて喜んだり悔しがったりするのだ。正直狂っている、が、もれなく私も夢もそうなった側である。多分催眠術や洗脳にかかり易いタイプなんだと思うから、気をつけて生きていきたい。
そんなことを考えているうちに、動画は南極のペンギンドキュメンタリー物に変わっており、夢は、
「お母さんの羽毛暑すぎるよ……」
とうなされていた。馬鹿じゃないの、と私は夢からスマホを奪い、映像を知らない大人が氷入りの水風呂に入る動画に切り替えた。
◆
一年生の百メートル走、三年生の玉入れが終わった後は、全学年が参加する騎馬戦である。学年、男女ごとに予選をし、各予選に残った三チームが決勝に進むのだが、本当に頭がおかしいと思うのは、決勝は男女混合なのである。流石に高校生の体格差で男女総当たりは無理があると思うのだが、意外にも女子も健闘するし、体育祭委員の時見た過去の記録によれば、四年前の学祭では金銀銅全てのメダルが三年女子チームに贈呈されていた。なので一、二を争う盛り上がる競技と言えよう。ちなみにこの後、午前の最後の競技となる二年の百メートル走があるのだが、信じられないくらい盛り上がらない。なんで騎馬戦を午前最後にしないのか、と多分全員が思っているが、プログラムを変える話し合いが面倒で全校生徒が妥協している状態である。それにもし仮にこの学校の生徒が学年の垣根を越えて体育祭について話し合わないといけないのなら、多分撤廃の方向に向かうと思う。あるから面倒なんだ、やりたいやつだけ公民館とかでやれば良いじゃん? となるに違いない。桜森はある意味独立独歩な校風なところがあるので、実際球技大会は廃止され、毎年冬にサッカー部によって非公式球技大会が行われている。去年は私と夢も、得点係として参加した。あーあ、去年頑張って体育祭もああいうシステムにしていれば、今頃こんなクソ暑い思いはしなくて済んだかもしれないのか。
そんなことを考えていたらあっという間に二年女子の出番だとアナウンスがかかり、競技スタートの空砲が鳴り響く。私たちは夢を騎手に、私と、隣のクラスで去年は同じクラスだった紗々と水瀬を騎馬にして組み、勿論しっかりと敗北した。決して手を抜いたわけではない、ただ全員運動神経が特段良いわけでもなく、ついでに騎手の夢が「突き指してピアノ弾けなくなったら困る」と言うので好戦的ではなかった。それだけだ。
一方男子側、ひーわが騎手で、五央とクラスメイトの関くんと津南のチームは関くん以外は運動が好きなのと、ひーわがこういうちょこまかとした身のこなしをするのが得意なので決勝までしっかりと生き残っていた。関くんは生徒会役員なので、大っぴらに口には出せないだろうが、決勝進出が決まった時のあの嫌そうな顔は、夢のカメラにばっちり収まっている。絶対後で見せに行ってやろう。
「二年男子の決勝進出組は、ひーわのとこと、誰あれ知らん……と、あ、真中くん騎馬チームも居るね」
となんの気なしに夢が言う。
「サッカー部率高いな」
なんて私も普通に返すけど、実際ちょっと複雑である。
別れてからも颯とは何度か顔を合わせているし、今も普通に挨拶したり世間話したりするという関係ではあるんだけど……夏休み明け、教室が遠くて殆ど遭遇していない。
大体、「俺はひかるのこと好きだから、迷走して帰ってくる先が俺のとこだと良いなって思っておいて待ってるよ」と言われた人の前で一体どんな顔をするのが正解なんだろう。そう言われて正直嬉しかったけれど、好意なんて誰から向けられてもある程度嬉しいと思ってしまう気がする。
そしてこうまで言われて、ひーわと五央を応援するのもなんだか薄情な気もする。でも純粋に友達と考えたら、友達が二人居るチームの方をより熱心に応援してもおかしくはないかな? そもそも両方等しく応援すれば良いのか? うーん。
「ひかる、ひかる」
私が一人考え込んでいると、夢に肩を叩かれる。
「私たちが応援すべきは、ひーわと五央でも真中くんでもないよ」
そうして夢が指を差した先には、騎馬の上にピシッと姿勢良く、本物の騎士のように跨る真麟が居た。
「真麟じゃん! そういえば私、自分の出番終わって疲れすぎてて、誰が残ったかなんて全く見てなかったや」
「ふふ、見て、しかも真麟の下も全員陸上部」
「勝ちに来てるね真麟」
「真麟、去年も決勝残ってたらしいけど男子にボコボコにされたから、今年は復讐に燃えてるんだって。二年女子他の二組も陸上部なんだけど、なんか戦術組んであって実質一部隊らしい」
「体育祭の騎馬戦で周辺国と同盟組むって流石すぎる」
「でしょ? だから私たち一組女子は、男子なんか応援してる場合じゃないってことよ」
そう言って今度は、背中を叩かれる。
「前行こ、もうすぐ始まる!」
夢に連れられ私は、颯もひーわも五央も全員通り過ぎて、真麟の居るスタート位置へと向かった。
◆
試合開始時と同じようにピストルの音が鳴り、手練ればかりだからか、或いは見所が多い故の体感の問題なのかはわからないが、予選の時よりもあっという間に試合は終了した。
結果はしっかりと真麟のチームが一位。なんと真燐と同盟を組んでいた、いわば捨て身チームも三位。二位は三年男子の陸上部チームらしく、今年は陸上部が制覇した。ひーわチームも颯チームも中盤真ん中でわちゃわちゃしている時に帽子を取られたようで、残念ながらその瞬間は私の目でも夢カメラでも捉えることが出来なかった。
真麟の周りにはたくさんの女子が集い、お祭り騒ぎだ。体育祭委員によるヒーローインタビューが終わっても、特に陸上部女子の興奮は冷めやらぬ、と言った感じである。私たちも隙間を縫って「おめでとう」を伝え、真麟から「ありがとう!」と二人まとめてのハグをもらった。ちなみにこれは全くの余談だが、あんなに汗をかいているはずなのに真麟からハグされた瞬間なんか花みたいな良い匂いがしたのは、あれは一体なんなんだろう。
頭が暑さでやられているからかそんなことを考えながらも、私たちは音の歪んだアナウンスに従い整列し、すでにくたくたの身体に鞭打ってなんとか百メートルを走り切った。
そうして無事百メートル走も終了し、私と夢は五央とひーわを探す。体育祭委員も昼休憩は原則校内でとることなっているはずだし、多分戻ってくると思うんだけど。
「あ、居た! おーい」
と入場門付近で五央の背中を見つけ声をかけたものの、その隣にひーわが居ることまでは想定内だが、その正面にはさらに颯まで居た。よく考えてみれば、まあそりゃあ居てもおかしくない。百メートル走ってからそのまま一緒に体育祭委員の仕事の確認に戻って、というのはむしろ当然の流れまである。
私は一瞬「うお」という顔をしてしまったけれどそれをしっかりと引き締め、三人の元へと向かう。いつの間にか夢も私の後ろで「おつ~」なんて言いながら手を振っている。
「三人ともおつかれ~」
と私が近寄ると、ひーわがケラケラ笑いながら、
「でもひかるも夢も真麟のことしか応援してなかったよね」
と百メートル走のことなんかすっかり忘れているのか、騎馬戦の話をしながらこちらに寄ってきてくれる。それに合わせて笑いながら五央と颯もこちらに近付いてきて、側から見れば結構和やかな雰囲気に見えるだろう。
「そりゃそうでしょ、真麟は結果も残してくれたしね」
と夢はとびっきりの笑顔で辛辣な一言を浴びせる。
「実際まさか真麟にやられるとは思ってなかったし、普通に油断してた」と五央。
「あの子陸上部の次期キャプテンの子でしょ? めちゃくちゃ運動出来るとは聞いてたけど、化け物だったわ」と颯。
私はなんだか自分のことのように誇らしくなって、
「あれで真麟勉強も出来るんだよ、すごくない?」
とつい自慢してしまう。ちなみに私自身は運動は勿論、勉強も真麟には及ばない。
「あ、ねえお昼、二人はどうするのかな? って聞きにきたの。教室戻る?」
夢がそう本題に入ると、すかさずひーわが、
「戻る! 俺クーラーボックスに午後用のメンツ控えさせてるし」
と何やら訳のわからないことを言う。
「俺もタオル替えたいし、っていうか俺ら別にもう本部行かなきゃ行けない用事ないから戻るよ、な」
と五央もひーわに同意した後、颯の方を向く。やっぱりこの二人、しっかり仲良くなってるな。
そして颯も「うん、俺も戻るよ」と言ったので、そのまま私たちは五人で校舎へと向かったのだった。
◆
私たちの一組は一番階段に近い教室で、そこから順に二組、三組、と並んでいて、廊下突き当たり一番奥が颯の六組である。だから六組の前をあまり一組の人が通ることはないし、さらに言うと六組の奥には非常階段に続くドアがあって、五組六組の人はそこから出入りしている人も多いので、必然的にあまり遭遇しなくなる。昇降口に繋がっているわけではないので、上履きと外靴を履き替えることは出来ないが、グラウンドさえ通らなければ多少は上履きで外に出ても許される風潮があるので、校舎裏の自販機を使いたい人なんかはしょっちゅう利用しているらしい。ちなみに遅刻ギリギリの時は、取り敢えず非常階段から靴下で教室に入りそのまま一限をやり過ごし、授業終わりに昇降口に上履きを取りに行くというテクニックもあるそうだ。本当にめちゃくちゃな学校である。
昇降口に到着する前に非常階段前も通るのだが、そこにはいくつものスニーカーが並べられていて、なかなか珍しい絵面だった。各学年の六組の物だろうか。
「真中くんは昇降口からで良いの?」
と夢がいじるが、颯は、
「俺一回、教室戻る前に職員室寄らなきゃだから、どうせ昇降口側来なきゃなんだよな」
と心底残念そうに語る。やっぱりみんなちょっとおかしいんじゃないか、それとも六組になるとああなってしまうのだろうか。
なんて、各々くだらない話をしながらだらだら昇降口まで周り、そこで私たちは職員室へ向かう颯と解散した。
それから何を話したかも覚えていないようなことをだらだら話しながら階段を登り、有難いことに階段から一番近い一組の締め切られている教室のドアを開けると、なんと寒いくらい冷房が効いていて、頭の中でさっき見たペンギンの親子の動画がリプレイされる。まあこの教室がさながら南極ってくらい冷やされている分、もしかしたら実際の南極の氷は少しずつ溶けているのかもしれない。でも今日だけは許して欲しい。だって私たち、さっきまでサハラ砂漠に居たんです。
「うちのクラスのエアコンって、こんなに温度上がるんだな」
と五央が感動していると、関くんが、
「生徒会室にあった資料でエアコンの型番見て、昨日ヤマダ電機で対応リモコン買ってきたんだよ。いや~赤外線リモコンで一台ずつ動かせるやつで良かった」
と嬉しそうにリモコンを振っている。いくら体育祭の時は基本先生が教室に来ることがないからって、すごい度胸である。しかも絶対うちのクラスで一番真面目であろう関くんなのに。
「しかも関くん、ちゃんとタイマーセットしてくれたたんだよ。だから教室入った瞬間めっちゃ涼しくて、感動で泣いたわ」
と関くんの次くらいに真面目であろう真麟もこんな様子である。でも今日に限っては真麟は誰よりも動いていたし、関くんも巻き込まれて決勝まで残ってしまっていたし、いつもよりちょっと電気を使って涼むくらい、神様も南極の皆さまも許してくれるだろう。
そうしてそれにちゃっかり御相伴という形で、私たち一組はキンキンに冷えた教室でお昼ご飯に舌鼓を打った。ちなみに椅子は全部グラウンドにあるので、全員地べたに直座りである。
「なんか床に座って食べるだけで新鮮だね。今度レジャーシート持ってくるから、ピクニックごっこしない?」
「だったらもうちょっと涼しくなってから普通になんか木陰とかでピクニックすれば良いんじゃない?」
「それは面倒い」
なんて夢とひーわの小気味よい掛け合いを聞きながら、私は「いただきます」とお弁当箱を開け、早速夏休み明け最高傑作の出来の玉子焼きを頬張る。うま。我ながらかなり薄く綺麗に巻けたし、これは夢にも一個あげよう、と蓋に一つ避けていると、隣でフリーズしている五央が目に入った。
声に出して良いのかわからないから、目線で「どうしたの?」と問うと、一瞬五央の肩が跳ね、そしてばつの悪そうな顔をする。さっぱり意味がわからずぽかんとしている私に、五央は観念したようにそっと鞄から、夢とひーわには隠すように何かを取り出す。
「なにそれ?」
と言いそれに私は顔を近付けて——絶句した。五央の手にはあのフリクションが握られていたのである。
私は慌ててスマホを取り出し、五央に『ばっかじゃないのどういうこと?』とラインをする。
するとすぐに通知が鳴り、『昨日エマの家で書類の保護者欄の記入とか諸々やってもらってる待ち時間に課題やってたんだけどミスって、消しゴム貸してって言ったらこれ渡されてそのまま持って帰ってきたっぽい』『やばい』と五央らしからぬ頭の悪そうな返事が帰ってきた。大体こんな物騒なものを消しゴム代わりに使うな、と言ってやりたいが、残念ながら今それを言っても何の解決にもならない。なので私は、ただ一言、『神に祈れ』とだけ送り、スマホをの画面を閉じた。そもそも食事をしながらスマホを弄るのはマナー違反だし、どうにもならないことを考えても仕方がない。対策が出来ることなら考えようもあるが、これに関してはもう、ことが起こってしまったらどうにかする、というスタンスを取るしか方策はない。だってこのフリクションと居る時って、常識の範囲外のことしか起こらないんだもん。
私は五央に向かって「頑張れ」の意を込めてガッツポーズをし、大きく頷いてから、「夢~」と夢に声をかけ自信作の玉子焼きを押し売りした。起こるかわからないことに悩むより、目の前の玉子焼きを褒めて欲しいのだ。
夢は期待通り「ひかる天才じゃん、めっちゃ卵が薄くてふわふわで美味しい!」と大絶賛してくれた。そしてひーわも「俺も欲しい!」と名乗りを上げてくれる。普段は玉子焼きは二切れしか入れてこないんだけど、今日は成功したので倍の四切れも入れてきた甲斐があった。
「お! 本当だ! おばあちゃんちの玉子焼きくらい美味い!」
とひーわからも恐らくひーわの中での最大級の賛辞をもらった後、私は五央にも、
「食べたい?」
とドヤ顔で聞く。とは言え五央って和食にどれくらい耐性があるのかよくわからない。放課後寄るようなところって、大抵ファストフードやファミレスみたいに和食じゃないところが多いので、よく考えてみれば五央が食べているのを見たことがある和食って、エマの家で頂いた最高級であろうものか、せいぜいてりやきバーガーくらいだ。でもてりやきってそもそも海外受け良いらしいし、和食に括るのはかなり暴論である。
でも私の思いに反して、五央は「え、いいの?」と嬉しそうな顔である。あれか、やらかしたから貰えないと思っていたのだろうか。それとこれとは話は別だし、私は称賛してもらいたいという下心しかないので全然あげる。蓋に玉子焼きを乗っけて……あ、五央ってパンだけだから箸もフォークもないじゃん。今日私のお弁当、ピックも使ってないし。
「素手で行く? 箸貸す? 食べさす?」
「いや流石にその三択は素手で行くだろ」
と五央は蓋からひょいっと玉子焼きを取り、それを一口で頬張った。ってことは多分玉子焼き初見じゃないな、と一安心。
「どう?」
とドキドキしながら聞くと、
「うま」
とたった二文字だけ返ってくる。
「五央……食レポ力ゼロじゃん」
と呆れた顔を作ってみたけど、多分私の顔はニヤついていたと思う。だって食べ物を食べて五央がこんなに幸せそうな顔をしているところを、初めて見たのだ。
それはどうやら夢とひーわも同じようで、二人とも田舎のおばあちゃんみたいな表情で五央を眺めていた。
「ま、みんなこれで午後も頑張ってな。ところで午後イチの競技なんだっけ?」
と私は我ながら下手くそな照れ隠しで、話を終わらせてしまったが、「うん」とみんな言ってくれたので、なんだか余計に恥ずかしくなった。
ちなみに午後イチの競技は、一年生の障害物競争だそう。
「あれ地味に大変だったよね、網の中潜るのとか、みんなヘアセット気合い入れてたからブチギレだったじゃん」
と私は去年の体育祭に想いを馳せる。去年は今より髪が短く、今の夢より少し長いくらいだった私は、髪全体を緩く巻いてから少しだけ髪を取って頭の上に小さく二つお団子を作る、くまヘアならぬメンダコヘアをしていたのだ。しかしせっかくセットしてきたのに、ぶっつけ本番で行われた障害物競走に網を潜る箇所があり、女子たちはみんなブチギレたものだった。ただ幸いにも巻き髪命のギャルの子がヘアアイロンを持ってきていたため、みんな順番にそれを借り、ある程度は髪をセットし直すことが出来た。しかもラインあみだくじで順番を決め、一人ずつグラウンドから離脱することで、先生にもバレないしかなり迅速に全員髪型を復旧出来るという最高の作戦を遂行出来たのだ。去年の体育祭もなんだかんだ盛り上がったとはいえ、ハイライトとなったら完全にあのヘアセットリレーを無事やり遂げ、ゴールテープを切った瞬間だろう。
「なつかしー! 私あの後借りた愛由架のコテめっちゃ使いやすくて、アマゾンで買ったもん。今も使ってる」
「まじか、すごい行動力だな」
「愛由架に聞いたらドンキで二千五百円だったって言っててさ、ちょうど新しいの買おうか悩んでて、でも安いのじゃまた失敗するかなって思ってたとこだったから、買いじゃん! って」
夢のこういう物怖じしないところと、フットワークが軽いところ、すごく憧れるんだよなあ。でもこれを本人に言うといつも、「何それ~、反射で生きてるだけだよ」と照れながら動揺して、コケそうになったり持っている物を落としそうになったりしているから、少なくともこれからまだ運動をしなくちゃならない今日は、余計なことを言うのはやめておこう、と私は「使いやすくて安くて壊れないのはコスパ最強すぎだね」と、ヘアアイロンだけを褒めておくに留めておいた。
◆
午後ときたら、綱引きに参加さえすれば私たちの出場する競技はおしまいだ。中には部活対抗リレーに出る人も居るし、最後にクラス対抗リレーも控えて居るのだが、私は運動が苦手ではないとはいえ、別にすこぶる得意なわけでもないので代表には選ばれていない。そもそも部活には入っていないし。ひーわや颯もサッカー部の部活対抗リレーは三年が出るし、陸上部も人数的に三年しか出なさそうだから応援する相手がいるわけでもなく、多分ここからしばらく暇になるだろう。あ、今のうちにトイレでも行っておこうかな。
「夢、ちょっと私お手洗い行ってくるけどどうする?」
「うーん、多分ひかるもっかいくらい行きそうだし、そのとき着いてく」
「りょーかい」
なんてやり取りをして、私は一人しんと静まり返った校舎へと入った。
一階、昇降口の近くにはトイレはない。職員室の奥か、階段を登っていつも使っている二階の二年の教室の前のトイレを使うか。距離的には同じくらい。階段を登らない分職員トイレの方が楽だけど、体育祭の日でも職員室には電話番の先生が居るらしいからなんか通るの緊張するなあ。面倒だけど二階に行くか、と私は手扇で自分をあおぎながら階段を登る。
そうしてトイレに行き、トイレの前の水道で首に水をかけなけなしの涼しさを獲ようとし、あ、そういえば教室さっきまで冷房ガンガンだったよな、と思い返す。閉めっぱなしだろうし、もしかしたらまだ冷気の名残くらいはあるかもしれない。少なくとも恐らくあの砂漠と化した校庭よりは涼しい。
頼む! と言う思いで教室のドアを開けると、予想は的中し、そこはさながら楽園だった。
「っしゃあ~」
と小声で歓声をあげこれ以上冷気が漏れないように慌てて扉を閉めると――「あ」――目の前には五央が居た。
「やばくないこれ?」
と私が言うと、察しの良い五央もすぐに気付く。
「フリクションのある状態で……これって二人っきり扱いになるよな」
「多分」
「逃げよう」
しかしそうはいかないのが世の常である。
教室の薄汚れたタイルの床が、私と五央が居る辺りを起点にほんのり水色がかった透明なガラスのようなものに変わっていく。このひんやり具合といい、きっとこれは氷だ。
「ああああやっちゃったよもう!」
そしてそれは壁や天井にも広がり、あっという間に教室は氷の部屋となった。
「すこーしも寒くないわ」
とやけくそで私が歌うと、「なんそれ?」と五央から無慈悲に返される。
「アナ雪だよ」
「あ~、俺日本語版観たことないんだよ」
「うわあ……五央が帰国子女だったのすっかり忘れてたわ」
そんな与太話をしながら、でもこれってそれだよね? と私は思いつまりあの映画のストーリー通りなら……。
「もしかして校庭もこうなってる?」
と慌てて窓の外に目をやる。が、氷越しに見える限りでは校庭は何の混乱も変わりもなさそうである。
「五央、氷漬けなのこの部屋だけっぽい。ってことは多分違う気がする」
「まあだろうな。そもそも今までだって俺たちに関係のあることが起きてたじゃん。だから俺かひかるに何か思い当たる節があるんじゃない?」
「ふうむ」
正直はっきり関係があったのはエマのナイトと五央のバスだけで、ピィちゃんや目覚まし時計はあんまりない気がしなくもない。けど解決にエマや五央の思い出や暮らしが……とまで考えて、あ、これ私は関係ないんじゃないか? と思い至る。
それを五央に話すと、「まあサンプル少ないけど……俺の可能性が高いかもな」となにやら思い当たる節でもないか考えているようだったが、その表情を見る限り何もピンとくるような出来事はないようだった。うーん。わからない。こうなったら取り敢えずピィちゃんのときみたいに、対処療法をするしかないだろう。
「取り敢えず溶かしてみようか。この教室が単に氷漬けになってる場合はそれで一応は解決するよね」
「でもさ、氷漬けっていうかタイル自体が氷に変わっている気がしない? その場合下手したら床抜けるよな」
「うーん。じゃあ取り敢えず全体的に溶かすんじゃなくて、ロッカーの上とか、最悪穴が空いても危なくないところだけ溶かしてみる?」
「そうだな。それなら穴が空いてもガムテとかで補強出来るし」
ガムテで補強はちょっといい加減すぎやしないだろうかと思ったけれど、本当にごくごく小さな穴ならなんとかなるかもしれない。少し考えて、大変申し訳ないが私たちの身内で唯一ロッカーが一番上の段のひーわのスペースを借りて、そこの氷を溶かしてみることにする。
「はんだごてみたいなので溶かすのが一番安全そうだけど、中学のとき以来使ってないからどんなのか全然思い出せないや……。なんか身近なもので良い案ある?」
と私が五央に訊ねると五央は、
「マッチとかライターじゃ駄目かな?」
と苦笑いで答えてくる。もうその顔が答えだろう。駄目に決まってるってわかってるじゃん。アルミみたいなロッカーも溶けそうだし、壁とかに火が燃え移ったら大惨事だ。
「うーん。カイロじゃ氷を溶かすには至らないし……。仕方ない、削るか」
と私は五央に「フリクション貸して」と手を出しフリクションを要求し、受け取ったそれでアイスピックみたいなものを描く。正直昔図工で使ったキリやバーベキューで使う肉を刺す金属の串との違いがよくわからないが、まあ尖っていてある程度強度があればなんとかなるだろう。
私は「ひーわ、ごめん」と薄っぺらい謝罪の言葉を唱えながら彼のロッカーの上をガンガンとアイスピックで突き刺す。小さな氷の粉が飛んで涼しげだ。なんだかかき氷が食べたくなってきた。
「うわあ、なんか殺人鬼みたい」
と五央がウルトラ失礼なことを言ってきたけれど無視して、私は無心でガンガンと一点にアイスピックを振りかざし続ける。そうするとものの一分くらいでなんとなく削ったときの感覚が変わってきた。
「お、五央、見て見て」
そう私が指差した小さい穴の中には、しっかりとアルミのロッカーが見えていた。
「おー、じゃあこれ、見た目に反して氷漬けになってるだけってことか」
「そうみたい。透明に見えるのなんでだろうね」
「魔法の氷だから? うーん。わからないな」
なんにせよ溶かしてしまえば良いとなれば、話は簡単である。
「じゃあ残念だけど、エアコンの温度上げようか」
「ていうかエアコン自体切れば良いんじゃね?」
「確かに」
今度は関くんに「ごめん」とさっきひーわに言ったときよりは幾らか真剣に謝罪しながら、勝手に机の中を漁らせていただく。てか関くん、今日なんの教科もないはずなのに机の中教科書とノートでパンパンで、意外な一面を見てしまった気持ちだ。そしてその教科書とノートの後ろに隠すようにして、エアコンのリモコンはしまわれていた。
「えい!」
と涼しさへの未練を振り払うようにエアコンの電源ボタンを押すと、何やら電子音が鳴って教室がほんの少しさっきまでより静かになる。気にもしていなかったけど、エアコンのモーター音が鳴っていたのだろう。私はまた関くんの席を漁り、さっきと同じ位置にリモコンを戻す。よし、取り敢えず後ろのロッカーのところにずっと突っ立っている五央の元へと戻ろうか、と一歩踏み出して、「あれ?」と私はおかしなことに気付く。
「ねえ五央、ちょっとこっち来て」
「なんで?」
「良いから」
と無理矢理五央を私の居る関くんの席の辺りまで来させる。
「来たけども」
「やっぱりおかしい」
「何が?」
「五央さ、めっちゃ普通に歩いてるよね」
「え? あ」
そう、今この教室は床が一面氷、即ちスケートリンクみたいなものなのに、室内を歩くことしか考えられていない、靴のなかでも雑魚キャラの区分であろう上履きで、普通に歩けてしまっているのだ。
「良いスニーカーとかだったら滑らないのもあるかもしれないけど、上履きで歩きにくくもないっておかしいよね」
「そうだよな……。っていうか温度が上がってきてるはずなのに溶けて水になってる気配もないし」
「窓の結露とかこの床が冷たく感じたのとかって、もしかして全部純粋なエアコンパワーだったのかな」
「じゃあエアコンを消した意味は」
「多分ない」
そう言うと私はまたまた関くんの机を漁り、エアコンの電源を入れる。まだこの教室が暑いことはないが、しかし恐ろしいことにこの一瞬でもうキンキンに冷えた部屋ではなくなっていた。そのうち他のクラスメイトが来るとも限らないし、一刻も早くキンキンを取り戻したいところなのである。
「でもさ、溶かせば元に戻るんじゃないんなら、これどうすりゃ良いんだ? 全部削ってたら次の競技に間に合わないし」
「だよねえ……。最悪他のクラスを参考に新しい床を上から描くって手もあるけど……」
あるけど、やりたくない。大体小さな目覚まし時計一つ複製するのにとんでもなく苦労したのだから、この教室中を全部元通り描くなんて不可能だ。
「フローズン……じゃなくてアナ雪って最後、どうやって雪を溶かしたんだっけ?」
五央がそう一瞬言い淀んだのを聞いて、そういえばディズニー映画の英題って結構邦題とは違うらしい、という雑学を思い出す。こういうとき、五央って本当にイギリスで暮らしてたんだなあ、と不思議な気持ちになる。
「えっとね、確か溶かすっていうよりかは魔法を解いた感じだったかな」
「それだ」
「それ?」
「魔法を解けば良いんだよ」
まあ確かに両手を掲げて元に戻ればそれに越したことはない。でも私は魔法使いじゃない……よね?
「もしかして私が普段やってることって魔法使いみたいなもん?」
「そうでしょ。フリクションを杖代わりにしてる魔法使いだよ。魔女の宅急便のキキが箒の代わりにデッキブラシで空飛んだみたいに」
と、言われても、どうしても魔法を解くなんてそんなことが出来る気がしない。大体そんな自由自在に何か出来たらチート過ぎる。
「まあ他に思いつくこともないし、取り敢えずやってみてよ。もしあれなら……そうだな、雪の結晶の付いた魔法の杖とか描いてみたら良いんじゃない?」
「そんな適当な……」
念のため『アナと雪の女王 魔法の杖』と調べると、本当に雪の結晶のモチーフが付いた魔法の杖のおもちゃが引っかかる。実在するってことは、知らないだけで続編とかでは魔法の杖でエルサが何かする、或いは魔法が使えないはずのアナが杖の力で魔法を使うシーンでもあるんだろうか。そう思うとほんの少し自分にも出来そうな気がするので、私って単純だ。
「そもそもフリクションも絵力というよりは想像力が大事なんでしょ? 色付けとかも出来るくらいだし。それの応用でいけるかもしれないじゃん」
「あっ五央それだ!」
それである。肝心なことを忘れていた。
「五央、このフリクション、なんでも消せるじゃん」
杖を出すまでもない。魔法で現れたものなら、きっと魔法のフリクションで消せる。そう思い、まず足元の床をフリクションの後ろ側、ゴム状の部分で擦る。するとさっき一生懸命ロッカーの上を削ったのが馬鹿らしくなるくらい、あっさりと透明な氷のような部分は消え、いつも通りの床が顔を見せた。
「おおおお! すっげ! フリクションの消す機能、消しゴムくらいの気持ちで使ってたからすっかり忘れてた」
「でもこれじゃあ全部擦り終わる頃には私の腕、なくなっちゃう」
「そこでさっき俺が言った想像力じゃない?」
「結局フリクションを杖にするってこと?」
「違う違う。ひかる、アップルペンシル……じゃなくても、ペンタブって使ったことある?」
「あるよ。電気屋さんの見本の機械でだけど」
「あれってペン自体はおんなじ形状のままで、設定で画面上でのペン先とか消しゴムの大きさ変えられるじゃん。だから消しゴムをめっちゃ大きくしたつもりで消せばあっという間に消せるんじゃないかな?」
「あー、なんとなくわかる……ような……取り敢えずやってみる」
とはいえデジタルイラストにはあまり詳しくないので、思い浮かべやすい身近なものとしてプリクラの落書きを思い浮かべる。あれ、小学生の頃は色々文字書いたりスタンプ押したりするのが流行ってたんだよね。当然その分消しゴムを使うことも多かったわけで、デコ自体は上手く行ったのに書いた文字が気に入らず、一番大きいサイズの消しゴムで全部消したりしたこともある。視界をプリ機の画面として、そんな感じで氷みたいな部分を擦ればきっと消える。最初にエマと会った日、空中に文字を書くことも出来たし、その逆が出来ないわけがない。根拠のない自信だけど、このフリクションが関わる件に限ってはその自信があると上手くいくのだ。だからきっと今回も出来る。
そう思いながら逆さにしたフリクションを動かすと――氷のような壁や地面のブロックは消え、見慣れたいつもの風景が戻って来た。
「おおー」
と五央が控えめに拍手するのを横目で見ながら、私はあっという間に教室を元の姿へと戻していく。
「なんか出来たね」
あまりにあっさりとした簡単な解決方法に拍子抜けしてしまい、私はもうこんな間抜けなことしか言えない。けれど五央は楽しそうに、
「こう側から見るだけだとさ、杖振って魔法で氷消してるみたいにしか見えなくて、なんかすげー! みたいな気持ちで見てたよ」
と笑う。
「エアゴシゴシしてただけだよ?」
「でも魔法の杖もほら、一振りじゃなくって波線とか丸とか結構色々なぞるパターンもあるじゃん。それっぽかった」
「ふうん」
「もしかしたら本当の魔法使いも、そうやって杖を使ってたのかもしれないな」
五央はそう言ったけど、本当の魔法使いってなんだろう。今私が起こしたことは、魔法とは何が違うのだろうか。魔法だとしたら、私だけがフリクションを操って魔法を使うことが出来るのだから、それはもう本当の魔法使いと言っても過言ではないんじゃないだろうか。そんなことを思いながら、私は手に持ったままのフリクションでまるで授業中にするノートの落書きみたいに、米印のような雪の結晶を空に描く。透き通って、そして窓から入る太陽の光を反射させてキラキラと輝くそれは、私の想像通りふわふわと羽のように浮いているので、私はふぅーっとそれを五央の元へと吹き飛ばしてみる。
「これって雪? それともさっきの氷みたいにイミテーション?」
と五央が手を出すと、その結晶は導かれるように五央のその手のひらへと着地する。
「確かめてみなよ」
と私が言うと、五央はそっとその手のひらを握る。
「冷たい」
そうして五央が手を開くと、そこには数滴の水だけが残されていた。
「雪だ」
「そうみたいだね」
なんで私はこんなことをしたんだろう。これは、必要がないのにまるでこのフリクションの魔法を五央に見せつけるみたいだった。
本当の魔法使い。知ってる。私はこの本物の雪とは違う、所詮偽物の魔法使いだ。だってこのフリクションはエマの物で、元を辿ればエマと五央のおじいちゃんの物。つまりはエマと五央には所縁があるものだけれど、私はただたまたま使えただけであって、これが私の物になることは絶対にない。このフリクションは私以外の人だって本当なら消せないものを消すことが出来るけど、私はこのフリクションがないと何も起こすことが出来ない。私はフリクションにとって、代わりのある魔法の杖みたいなものなのだ。多少他の杖より性能が良いだけの。
「五央、これ、ありがと。エマに返せる日までちゃんと学校持ってこないで家に置いといてね」
そう言って私は、フリクションを五央に返す。そして五央はそのうち、フリクションを本当の持ち主のエマに返す。
どうしてこのフリクションは私の物じゃないんだろう。どうしてこのフリクションで私は文字が書けるんだろう。
瞬き三回分くらいの時間考えて、そして視線を窓の外に落とす。赤と白のお手玉みたいなものが飛び交っていて、あ、玉入れだ、とすぐにピンとくる。玉入れは確か、三年生の競技だっけ。
「ちょっと待ってやば、ねえ次って一年の百メートル走で、それ終わったら綱引きじゃない?」
五央も体育祭委員だからわかっていると思うが、スムーズな進行のために自分の出番の一つ前の競技が始まったら、入場門に待機列を作り始めないといけないのだ。
「あ、俺一年の百メートル走、点数計算係だ」
皆あまり意識していないが、この体育祭も一応対抗戦ということになっていて、体育祭委員は得点を数えなければいけないのである。中でも百メートル走は、第一コース一組、第二コース二組……と六クラス一斉にスタートするのだけどその順位を記録して、一位は三点、二位は二点、三位は一点、と点数を振り分けていかなければならない。それを二百人以上分やるので、去年の体育祭委員の本部では、「九番目の組の三位って何組の人だっけ⁉︎」「四回連続で一位二位三位のクラスが一緒なことある? メモミスったかも!」等の悲鳴が上がっていた。こんなところで油売っている場合じゃない。早く本部テントで精神統一しておくべきだ。
「急いで戻ろ!」
そう言ったのは五央か私か。
何はともあれ、フリクションのことなんか考えている場合ではない、それだけは間違いなく、私も五央も猛ダッシュで階段を下り砂漠のように暑いグラウンドへと向かうのだった。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
やくびょう神とおせっかい天使
倉希あさし
青春
一希児雄(はじめきじお)名義で執筆。疫病神と呼ばれた少女・神崎りこは、誰も不幸に見舞われないよう独り寂しく過ごしていた。ある日、同じクラスの少女・明星アイリがりこに話しかけてきた。アイリに不幸が訪れないよう避け続けるりこだったが…。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/youth.png?id=ad9871afe441980cc37c)
隣の優等生は、デブ活に命を捧げたいっ
椎名 富比路
青春
女子高生の尾村いすゞは、実家が大衆食堂をやっている。
クラスの隣の席の優等生細江《ほそえ》 桃亜《ももあ》が、「デブ活がしたい」と言ってきた。
桃亜は学生の身でありながら、アプリ制作会社で就職前提のバイトをしている。
だが、連日の学業と激務によって、常に腹を減らしていた。
料理の腕を磨くため、いすゞは桃亜に協力をする。
無敵のイエスマン
春海
青春
主人公の赤崎智也は、イエスマンを貫いて人間関係を完璧に築き上げ、他生徒の誰からも敵視されることなく高校生活を送っていた。敵がいない、敵無し、つまり無敵のイエスマンだ。赤崎は小学生の頃に、いじめられていた初恋の女の子をかばったことで、代わりに自分がいじめられ、二度とあんな目に遭いたくないと思い、無敵のイエスマンという人格を作り上げた。しかし、赤崎は自分がかばった女の子と再会し、彼女は赤崎の人格を変えようとする。そして、赤崎と彼女の勝負が始まる。赤崎が無敵のイエスマンを続けられるか、彼女が無敵のイエスマンである赤崎を変えられるか。これは、無敵のイエスマンの悲哀と恋と救いの物語。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/youth.png?id=ad9871afe441980cc37c)
隣人の女性がDVされてたから助けてみたら、なぜかその人(年下の女子大生)と同棲することになった(なんで?)
チドリ正明@不労所得発売中!!
青春
マンションの隣の部屋から女性の悲鳴と男性の怒鳴り声が聞こえた。
主人公 時田宗利(ときたむねとし)の判断は早かった。迷わず訪問し時間を稼ぎ、確証が取れた段階で警察に通報。DV男を現行犯でとっちめることに成功した。
ちっぽけな勇気と小心者が持つ単なる親切心でやった宗利は日常に戻る。
しかし、しばらくして宗時は見覚えのある女性が部屋の前にしゃがみ込んでいる姿を発見した。
その女性はDVを受けていたあの時の隣人だった。
「頼れる人がいないんです……私と一緒に暮らしてくれませんか?」
これはDVから女性を守ったことで始まる新たな恋物語。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/youth.png?id=ad9871afe441980cc37c)
ファンファーレ!
ほしのことば
青春
♡完結まで毎日投稿♡
高校2年生の初夏、ユキは余命1年だと申告された。思えば、今まで「なんとなく」で生きてきた人生。延命治療も勧められたが、ユキは治療はせず、残りの人生を全力で生きることを決意した。
友情・恋愛・行事・学業…。
今まで適当にこなしてきただけの毎日を全力で過ごすことで、ユキの「生」に関する気持ちは段々と動いていく。
主人公のユキの心情を軸に、ユキが全力で生きることで起きる周りの心情の変化も描く。
誰もが感じたことのある青春時代の悩みや感動が、きっとあなたの心に寄り添う作品。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/youth.png?id=ad9871afe441980cc37c)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/youth.png?id=ad9871afe441980cc37c)
:Δ第1話更新Δ:【不定期連載】拳で語れ-ナグリ屋、始めました。-
北斗
青春
【あらすじ】
家なし職なし金なし!前科ありの借金まみれのクズ男、ナグリ屋に就職?!
借金取りに追われている中、公園で見つけた謎の紙切れ。そこにはどうやら怪しげな求人情報が。
我にも縋る思いで面接に行った結果、そこには奇抜な髪形をした強面の大男!!
まずは仕事場についてこいと言われるも...意外な光景が...!
【主人公】
滝たき 健斗けんと
いろいろあって家なし職なし金なし前科ありの借金まみれとなったクズ男。いつか芽吹くことを信じているが...。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる