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7月と白い林檎
7月と白い林檎 6
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ぼんやりしたまま寮へと戻ったわたしは、ソファに腰掛けて、例の白いリンゴをずいぶんと長い間見つめていた。
いつだったか、リンゴの角がわからないとヴェルナーさんに言った事がある。白いリンゴがあればいいのに、とも。
あの時のわたしの言葉を彼は覚えていて、それでこの白い石膏のリンゴを作ってくれたのだ。もしかすると、あのやりとりの後に作っていてくれたのかもしれない。
けれど、直接渡してくれなかったのはどうしてなんだろう。今日だってわたしがアトリエに訪れるのを予想したかのように、白いリンゴを隣人に預けていった。出発をほんの数時間遅くするだけで直接渡す事だってできたのに。それもしないでどこかへ行ってしまった。
――わたし、ヴェルナーさんに嫌われちゃったのかな……
彼はもうわたしと顔を合わせたくなかったのかもしれない。わたしが余計な事をしなければ、エミールさんの作ったあのオブジェは壊れていなかったのだろうから。表面上は気にしていない風を装ってはいても、やはり心中穏やかではなかっただろう。だから、前々から作ってあったこのリンゴを、直接渡すことなく隣人に託したのではないか。複雑な想いを抱えた彼のせめてもの置き土産として。
でも、最後にひとめでも逢いたかった。
失意の中、手の中のリンゴを見つめながら、ふと、あることに気付いた。
このリンゴ、なんだか重い……? それに、冷たい。
その考えに至った瞬間、咄嗟にその白いリンゴを頬に押し付ける。そこが一番敏感でわかりやすいと思ったからだ。
暫くそのままでいた後にリンゴを離し、押し付けていたあたりを指で撫でる。わずかだが、そこにだけ湿り気が感じられた。
わたしは手の中のリンゴをゆっくりと回転させながらまじまじと見つめる。リンゴは汚れもなく真っ白だ。
普通に考えれば、このリンゴは石膏型から外した後に、表面の汚れを落とすために念入りに洗浄したはずだ。そのとき石膏が吸収した水分が、いまだ抜けきらずに残っているのだ。だから湿っていて、その分重い。
つまり、このリンゴが作られたのはごく最近のこと。粘土でリンゴを模刻して、それから石膏で型を取って……一体どれほどの手間が掛かったことだろう。
彼はあの風景画を完成させるよりも、このリンゴを作る事を優先してくれたのだ。未完成の絵を見られるのをあんなに嫌がっていたのに、それよりも、このリンゴを……
嫌悪している相手に、わざわざそんな事をしてくれるわけが無いではないか。それをこのリンゴが証明している。
わたしはその白いリンゴを胸に抱くように両手でそっと包む。とても大切なものを扱うように。
その時、ドアの開く音がした。クルトが戻ってきたのだ。
はっとして顔を向けると、彼は驚いたように目を瞠った。
「おい、どうしたんだ? どこか具合が悪いのか? それとも、またあの二年生に何かされたのか?」
答えようとして、自分が上手く声を出せない事に気付く。いつの間にか涙で頬が濡れていた。
隣に腰掛けたクルトは、心配そうにわたしの顔を覗き込む。
「……ヴェルナーさんが――ヴェルナーさんが……いなくなっちゃった……」
やっとそれだけ答えると、その言葉が急に現実感を伴いながらわたしに襲い掛かり、思わず嗚咽の声を漏らした。
わたしの様子に慌てたのか、クルトが取り繕うようにうわずった声をあげる。
「な、泣くなよ。何があったのか知らないけど、ええと、なんていうか……ほら、月並みな言葉だけど、生きてさえいれば、またいつか逢えるかもしれないだろう?」
いつかじゃ嫌だ。今すぐ逢いたいんだ。
心のなかで叫びながら、そこでふっと気がついた。
――ああ、そうだ。わたしはあの人のことが、好きだったんだ。
いつだったか、リンゴの角がわからないとヴェルナーさんに言った事がある。白いリンゴがあればいいのに、とも。
あの時のわたしの言葉を彼は覚えていて、それでこの白い石膏のリンゴを作ってくれたのだ。もしかすると、あのやりとりの後に作っていてくれたのかもしれない。
けれど、直接渡してくれなかったのはどうしてなんだろう。今日だってわたしがアトリエに訪れるのを予想したかのように、白いリンゴを隣人に預けていった。出発をほんの数時間遅くするだけで直接渡す事だってできたのに。それもしないでどこかへ行ってしまった。
――わたし、ヴェルナーさんに嫌われちゃったのかな……
彼はもうわたしと顔を合わせたくなかったのかもしれない。わたしが余計な事をしなければ、エミールさんの作ったあのオブジェは壊れていなかったのだろうから。表面上は気にしていない風を装ってはいても、やはり心中穏やかではなかっただろう。だから、前々から作ってあったこのリンゴを、直接渡すことなく隣人に託したのではないか。複雑な想いを抱えた彼のせめてもの置き土産として。
でも、最後にひとめでも逢いたかった。
失意の中、手の中のリンゴを見つめながら、ふと、あることに気付いた。
このリンゴ、なんだか重い……? それに、冷たい。
その考えに至った瞬間、咄嗟にその白いリンゴを頬に押し付ける。そこが一番敏感でわかりやすいと思ったからだ。
暫くそのままでいた後にリンゴを離し、押し付けていたあたりを指で撫でる。わずかだが、そこにだけ湿り気が感じられた。
わたしは手の中のリンゴをゆっくりと回転させながらまじまじと見つめる。リンゴは汚れもなく真っ白だ。
普通に考えれば、このリンゴは石膏型から外した後に、表面の汚れを落とすために念入りに洗浄したはずだ。そのとき石膏が吸収した水分が、いまだ抜けきらずに残っているのだ。だから湿っていて、その分重い。
つまり、このリンゴが作られたのはごく最近のこと。粘土でリンゴを模刻して、それから石膏で型を取って……一体どれほどの手間が掛かったことだろう。
彼はあの風景画を完成させるよりも、このリンゴを作る事を優先してくれたのだ。未完成の絵を見られるのをあんなに嫌がっていたのに、それよりも、このリンゴを……
嫌悪している相手に、わざわざそんな事をしてくれるわけが無いではないか。それをこのリンゴが証明している。
わたしはその白いリンゴを胸に抱くように両手でそっと包む。とても大切なものを扱うように。
その時、ドアの開く音がした。クルトが戻ってきたのだ。
はっとして顔を向けると、彼は驚いたように目を瞠った。
「おい、どうしたんだ? どこか具合が悪いのか? それとも、またあの二年生に何かされたのか?」
答えようとして、自分が上手く声を出せない事に気付く。いつの間にか涙で頬が濡れていた。
隣に腰掛けたクルトは、心配そうにわたしの顔を覗き込む。
「……ヴェルナーさんが――ヴェルナーさんが……いなくなっちゃった……」
やっとそれだけ答えると、その言葉が急に現実感を伴いながらわたしに襲い掛かり、思わず嗚咽の声を漏らした。
わたしの様子に慌てたのか、クルトが取り繕うようにうわずった声をあげる。
「な、泣くなよ。何があったのか知らないけど、ええと、なんていうか……ほら、月並みな言葉だけど、生きてさえいれば、またいつか逢えるかもしれないだろう?」
いつかじゃ嫌だ。今すぐ逢いたいんだ。
心のなかで叫びながら、そこでふっと気がついた。
――ああ、そうだ。わたしはあの人のことが、好きだったんだ。
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