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7月と白い林檎
7月と白い林檎 2
しおりを挟むお昼に馴染みの食堂で食事を済ませた帰り道。
「あの、わたしの勘違いかもしれませんが――」
そう前置きして、わたしは先ほど気になったことを口にする。
「もしかしてヴェルナーさん、最近絵を描いているんじゃありませんか? あ、絵と言ってもデッサンではなく、油絵とか水彩画とか、そういうものを」
ヴェルナーさんは一瞬言葉に詰まったようだが、すぐにいつもの調子で問い返す。
「……なぜ、そう思ったんだ?」
「さっき、ヴェルナーさんの顎の下に、赤い線のようなものが見えて……」
言われてヴェルナーさんが顎のあたりに手をやると、例の赤い線のある箇所に触れる。
「それ、治りかけの切り傷ですよね。もしかして、自分で髭を剃ろうとして誤って切ってしまったんじゃありませんか? 以前にも同じような事がありましたよね?」
そう。確か、明け方まで作業をして寝過ごした彼が、自分で髭を剃った際に頬まで切ってしまった事があった。あの時の事を思い出したのだ。
「それに、ヴェルナーさん、前に比べて少し痩せたみたいです。一度集中すると空腹も気にならなくなるんじゃありませんか? 一緒にデッサンしていたとき、お昼になっても気付かない事がありましたよね。そうして寝食を忘れて作品作りに没頭した結果、床屋に行く機会を逃してしまって、自分で髭を剃った。その時に顎の下を切ってしまったんじゃないかと」
「だが、それだけでどうして絵画だと断定したんだ? 粘土を使った彫刻の可能性だってある」
「それは、塑造台は使用されている様子は無かったし、ヴェルナーさんの手も荒れてはいなかったので……」
「手が……そうか」
彼は自分の手をまじまじと見つめながら、納得したように呟く。
素手で長時間水粘土を扱うのは、水仕事をするのと同じくらいに手が荒れやすいものだ。こまめに手入れをしなければすぐに乾燥したり、ひび割れたりする。けれど、先ほどのダンスで触れた彼の手にそんな様子は無く、なめらかで綺麗なものだった。
「だったら絵を描いているのかと思ったんです。それに、ヴェルナーさんだったら、いつも描いているようなデッサンなら、一枚仕上げるのに半日もあれば十分なはず。だから、それより時間を要する油彩画だとか水彩画なのかなと」
言い終えてヴェルナーさんの様子を窺う。
彼はしばらく逡巡する様子を見せた後
「君には敵わないな」
と呟いた。
「実は今、風景画を描いていて――」
「ええ!? どんな絵なんですか!? 見てみたいです!」
「それは……」
ヴェルナーさんはなぜか言い淀み、何か迷っているように頬に手を当てて考え込む仕草を見せる。
「あれ? そこまで教えてくれながら渋るんですか? ずるい。そんな事されたらこっちは生殺し状態ですよ」
「……教えるもなにも、俺が話すより先に、君が言い当ててしまったんじゃないか」
「……そうでしたっけ?」
わたしがとぼけると、ヴェルナーさんは黙りこんだ。
結果的に彼が絵を描いている事が判明した訳だが、もしかして触れられたくない話題だったのだろうか。
「あの、気が乗らないなら無理にとは言いませんから……」
「いや、気が乗らないというか……」
暫くの間のあと、ヴェルナーさんはぽつりと言った。
「……恥ずかしいんだ」
「恥ずかしい!?」
意外な言葉におうむ返しに問い返してしまった。
あんなに絵の上手い人が何を言っているのか。信じられない気持ちでぽかんと口が開きかけたものの、慌てて気を持ち直す。
「でも、デッサン画は普通に見せてくれますよね? あれは恥ずかしくないんですか?」
「……君は以前、芝居の練習をしていただろう?」
「え? ええ、はい。クリスマスの時ですね」
突然の問いに、戸惑いながらも答える。
「練習ならいくら失敗しても構わないが、本番となるとそうはいかない。大勢の人の目もあるし、些細な失敗も許されないだろう。俺にとってはデッサンがその『練習』みたいなもので、今描いている風景画は『本番』なんだ。誰かに見せるにはそれなりの覚悟が必要で、その結果酷評されたら怖いとも思っている。それに、制作途中の絵を見られるのは好きじゃないんだ」
確かにわたしだって下手な絵を見られることには抵抗がある。でも、ヴェルナーさんみたいな人でもそんな風に思ったりするなんて。
「けれど、これからは誰の目も気にせず、心の向くままに制作したいと思ったはずなのに、そんな考えに囚われてしまうなんて滑稽だな。まるで見習い時代に戻ったみたいだ」
「一度誰かに見せてしまえば案外気が楽になるかもしれませんよ。だから、わたしにだけこっそり見せてもらえませんか?」
ここぞとばかりに身を乗り出すわたしの言葉に、ヴェルナーさんは暫く考え込んでいたが
「……そうだな。今はまだ見せられないが、そのうち完成したら……」
「ほんとですか!? やったあ」
先日のパーティでは、残念ながら彼の描いたという肖像画を目にすることは叶わなかったが、代わりに風景画を見ることができるというのなら、それはそれで楽しみだ。
喜ぶわたしに対し、ヴェルナーさんは何故か目を伏せる。少しの沈黙の後
「やっぱり本当に見せないと駄目だろうか……」
なんだか自信なさげな言葉を口にした。もしかしてこれは、絵を晒すという行為が、わたしの想像する以上に彼にとっては恥ずかしい事なのかも。
でも、わたしだって、せっかくヴェルナーさんの絵を見る事が出来るかもしれないというのに、ここで諦めるわけにはいかない。一度は見せてくれると言ったのだから尚更だ。
「えー、たった今見せてくれるって約束したじゃないですか」
「……ああ、うん……そうだな。確かに約束したな……」
食い下がると、ヴェルナーさんは気乗りしないながらも案外あっさりと思い直したようだったが
「わかった。そのかわり、君の絵も見せてくれないか? デッサン以外の絵を」
急にそんな事を言われて焦ってしまった。
「そ、そんな、わたしの絵なんてヴェルナーさんのと比べたら、とても見れたものじゃないですよ。バラとペンペン草ほどに違うというか」
「一度誰かに見せてしまえば楽になるんだろう?」
そう言い返されて言葉に詰まる。
「そ、それは……」
「いつになっても構わない。君が俺の絵を見たいと言ってくれるように、俺も君の絵が見たいんだ」
「うう……わかりました。そこまで言うなら覚悟を決めます。でも、見ても笑わないでくださいね」
「ああ。楽しみにしている」
とは約束したものの、やっぱり自分の絵を見せるのには躊躇いがある。せめてもっと上手に描ければこんなに気後れしないだろうに。
というか、これまで絵を習ってきているにも関わらず、上達している気がまったくしない。そんな自分が誰かに見せても恥ずかしくないような絵を描ける日が訪れるんだろうか? そういうのって、やっぱり才能ってやつが必要なんじゃないのかな……
ふと気になって、横を歩くヴェルナーさんに尋ねる。
「ヴェルナーさんは、やっぱり小さい頃から絵が上手だったんですか? 周りからよく褒められたりとか」
「……いや、そうでもなかったように思う」
「えっ、ほんとに? 意外……」
ヴェルナーさんは昔の事を思い出そうとしているのか、頬に手を当て、遠くを見るように目を細める。
「ただ、絵を描く事自体は好きで、暇さえあればずっと絵を描いていたような気がする。時には割り当てられていた仕事をさぼってまで昆虫なんかをスケッチしていたり……」
あ、なんだか想像できる。絵を描いている間、周りの事が気にならなくなるのは子供の頃からだったのか。
「それを厄介だと思われたのか、早いうちに施設を出されて、とある画家のアトリエに引き取られた。画家は自由に使える弟子を欲しがっていたし、施設は働かずに絵ばかり描く子供は不要だったんだろう。そして俺は衣食の保障される場所を追い出されないよう必死だった。親のいない子供が一人で生きていくのは難しかったから。ある意味では全員の利害が一致していたわけだ。そうして画家である師匠の手伝いをしているうちに、仕事を覚えて……」
そこまで話したところで、ヴェルナーさんは我に返ったように瞬きした。
「……すまない。こんな話を聞かされても面白くないだろうな」
「いえ、とっても興味深かったです。わたしも諦めないで描き続ければ、いつか上手な絵を描けるようになるかなあ」
それにしても、これまでのヴェルナーさんの言動からなんとなく推察はしていたものの、こうして改めて聞かされると、彼とわたしの生い立ちは少し似ているような気がする。
もちろん、これまでに積み重ねた経験はまったく違うわけだが。それでも、なんとなく以前よりも親近感を覚えた。
「ところでヴェルナーさん、制作に集中したい気持ちもわかりますけど、食事もちゃんととってくださいね。もしも栄養失調で倒れた、なんて事になったら元も子もありませんから」
「……なるべく気をつける」
「本当に? どうも信用できないんですよねえ」
ちらりとヴェルナーさんの顔を見上げると、彼はなんだか居心地悪そうにしていたが、ふいに忍び笑いを漏らした。
何事かと首を傾げていると、ヴェルナーさんが目を細め、懐かしいものを思い出すように、視線を上向ける。
「俺がまだ見習いとして師匠のアトリエにいた頃、師匠の娘にもそんな風に叱られた事がある。芸術家は体力勝負だからと言って、まだ子供だった俺にも折を見ては食べ物を差し入れてくれた。ふと、それを思い出したんだ。久しぶりに、似たような事を君に言われたから」
やっぱり他の人からも同じような心配をされてたんだろうか。絵を描いている最中はそういう事に無頓着な感じがするし。
「親切な人だったんですね。ヴェルナーさんが独立するまで、その娘さんがお世話してくれたんですか?」
「……いや、それが、ある日突然、女だてらに芸術家になると言い出したかと思ったら、親である師匠の反対を押し切って家を飛び出して行って、それっきり……少なくともその後、俺は彼女に関する何かしらの話を耳にした事はないな」
ヴェルナーさんの話では、いまだ女性の社会的地位が低いのは芸術の世界でも変わらないらしく、たとえ素晴らしい作品を作っても、女性だからという理由だけで、不当に低い評価をされる事も少なくないとか。
うーん、理不尽だ……
「あ、でも、もしかしたらその人、外国にいるのかもしれませんよ。たとえば、この国と同じ公用語を使うドイツとかオーストリアだとかなら、言葉の壁も心配しなくていいし。そこで既に芸術家として認められているかも。よほどの有名画家でもない限り、他国の芸術家の情報なんて耳にする機会なんてありませんからね。わたしなんて国内の画家事情にさえ疎いですから」
希望も込めてそう言うと、
「……だとすれば、それに越した事はないんだが」
なんだか曖昧な返事が返ってきた。
やっぱり他の国でも女性が芸術家として成功するのは難しい事なのだろうか。
同じ女性として、どうしても幸せを願ってしまう。
「もしかしてその人、いまだにヴェルナーさんの食事の心配をしてたりして」
「……さすがに俺だって、あの頃みたいな子供じゃない」
「実際に食事を疎かにしてる人に言われても説得力ありませんよ」
おそらくヴェルナーさんは作品作りに没頭している最中は、空腹を感じる事もなく、食事をするという行為自体頭から抜け落ちているのだろう。
本人は自覚無しにそうしているのだから、今日のように忠告したとしても、また無自覚に同じことを繰り返すんじゃないだろうか。
今までもこんなふうにして絵を描いてきたのかな……これ以上こんな生活を続けて身体を壊さないか心配。
今日はパンの耳は少し我慢して、その分ヴェルナーさんに多めに食べてもらおう。
それと、今度からはつまみやすそうなお菓子とか、食べやすい保存食なんかも差し入れた方が良いのかな……
そんな事を考えていると、アトリエについた。
いつものようにヴェルナーさんが鍵を開けるのを待つ。
その時、彼が何かに気付いたように声を上げた。
「……妙だな。鍵が開いている」
「え?」
そんなはずはない。出掛ける際にヴェルナーさんが鍵をかけるところをわたしも見ていた。
まさか、誰かが浸入した……?
ヴェルナーさんは音もなくドアを開け、ゆっくりと家の中へと消えてゆく。
その後に続いて、おそるおそる室内に足を踏み入れたわたしは、目の前に広がる光景に、言葉を失った。
部屋の中が、めちゃくちゃに荒らされていたのだ。
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