7月は男子校の探偵少女

金時るるの

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7月と瞳を開く女性画

7月と瞳を開く女性画 6

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 わたしは唖然とする。
 突き落とされた? あの人に?
 ヴェルナーさんは言葉を補うように話を続ける。


「だが、確証はなかった。覚えているのは、あの時俺は誰かに背中を押され、傍にディルクがいたということだ。今思えば彼の嫉妬だったんだろう。あの頃、俺は仕事に恵まれていて、彼はそうではなかった」

「ど、どうして今まで黙っていたんですか?」

「目撃者もなく、突き落とされたという証拠がなかった。頭を打ってから俺はしばらくの間意識を失っていて……目覚めた後、ディルクが既に根回しをしていたのか、俺が自分で誤って落ちたという事になっていて……それに俺はそれどころではなかった。周りの人間の顔が認識できなくなっていて、まるで知らない場所にでも放り込まれたようだった。誰が味方で誰が敵なのかもわからずに、疑心暗鬼に陥ってしまって……気付けば俺のことは事故という事で処理されていたが、その頃にはどうでもよくなっていた。それよりも、俺にとっては絵が描けなくなるかもしれないという事のほうが重要だったんだ」

「そんな……」

「だが、さっきのディルクの言葉。君に掴みかかりながら、俺と同じようにしてやると言った。それはつまり、俺のように絵を描けないようにしてやる、という意味だろう。あの言葉で、あの出来事も彼の仕業だとはっきりわかった。それで、君まで俺のようになってしまうのではと思ったら、頭に血が上って……」


 そうか。だから、わたしが目覚めたときに「顔はわかるか?」なんて言ったのだ。頭を打ったわたしがヴェルナーさんと同じように他人の顔が認識できなくなったのではと考えて……
 彼が苦しむ原因となった男が目の前に現れたのだ。心穏やかでいられたはずが無い。何も知らなかったとはいえ、やすやすとあの男を受け入れてしまった自分を呪いたい気分だった。

 それにしてもディルクという男はどうかしている。嫉妬でヴェルナーさんを突き落としておきながら、何食わぬ顔で再び彼の前に現れた。はっきり言って異常だ。
 あのままヴェルナーさんが助けに入ってくれなければ自分はどうなっていたんだろう。絵が描けないように腕の一本でも折られていたのかもしれない。そう思うと寒気がした。
 マフラーを引き上げようと首元に手をやった瞬間、わたしはぎくりとした。
 マフラーがない。ベッドに寝かせられる際に外されてしまったんだろうか? 頭の痛みを堪えて辺りを見回すと、枕の傍に見覚えのある白いマフラーが置かれているのが目に入り、慌てて首に巻く。


「ヴェルナーさん、あの人の事、どうするつもりですか?」

「……そうだな。あの絵が盗品である疑いがある以上、警察に伝えるべきだろう。それに、君の怪我の事もある」


 それを聞いて血の気が引いた。
 気付けば頭の痛みも忘れ、身を乗り出していた。
 

「あ、あの、ヴェルナーさん、この件にわたしが関わっている事は、警察には伏せてもらえませんか? お願いします」


 警察に話すとなれば、当然わたしも事情を聞かれるはずだ。その時に身元を調べられて、わたしの素性が明らかになってしまうかもしれない。性別や年齢が違えば言い逃れできるとクルトは言っていたが、はたして警察相手でもそれが通用するだろうか。
 もしも、それが元で退学なんて事になったら、孤児院は、みんなはどうなってしまうのか。
 それを考えると冷静ではいられなかった。


「身勝手な事を言っている自覚はあります。でも、でもわたし、この事を警察に知られたくないんです」


 縋りつくように懇願すると、その勢いに押されたのか、ヴェルナーさんが僅かに身を引く。
 逃すまいと咄嗟に彼の上着の袖を掴むと、その瞳が戸惑ったように揺れる。
 だが、わたしは引くわけにはいかなかった。孤児院の行く末が掛かっているのだ。必死にもなる。


「ヴェルナーさん、お願いします……! もしも、これが原因で退学になんてなったりしたら、わたし……!」

「……退学? 君は巻き込まれた、いわば被害者だというのに? それに、絵画の盗難を見抜いたのならば、咎められるどころか賞賛に値すると思うが」

「それは……」


 言い訳が思い浮かばずにわたしは口を噤む。
 

「……君がそんなにもかたくなに警察を拒む理由は――」


 そこまで言いかけて、ふとヴェルナーさんは逡巡するように黙り込み、じっとわたしをみつめる。少しの沈黙の後、彼は口を開く。


「……わかった。君の事は伏せて話をしてみよう。うまく誤魔化せるか保障はできないが……」

「ほ、ほんとですか?」


 ヴェルナーさんは頷く。 


「……君にも何か事情があるんだろう。俺が立ち入ることの出来ない事情が」


 その言葉に罪悪感を覚えた。ヴェルナーさんはわたしの事情を知らずともこうして協力してくれる。でも、それは都合よく彼を利用していることにならないだろうか?  
 本当の事を話そうか。
 一瞬そんな考えが浮かび、慌てて打ち消す。
 一時的な感情に流されてはいけない。真実を話したとして、その後で彼が今までと同じように接してくれるとは限らないではないか。もしかすると、厄介ごとはごめんだとばかりに距離を置かれてしまうかもしれない。
 そんな可能性について考えてしまう自分がどうしようもなく嫌だったが、だからと言ってそれが間違いであることを証明するために真実を話す勇気もない。


「ありがとうございます……」


 ただ、俯いてそうお礼を言う事しかできなかった。



 結局その日は絵を描くどころではなく「怪我人を一人で帰らせるわけにはいかない」と言うヴェルナーさんに学校まで送ってもらった。
 大袈裟じゃないかとも思ったが、反面ありがたい気持ちもあった。あんな事があった後でひとりで帰るのは少し心細かったからだ。
 校門のところでヴェルナーさんにお礼を言って、自宅へと帰る彼を見送る。
 その背中が完全に見えなくなった後、わたしは頭に巻かれていた包帯をこっそり解いた。
 まだ少し痛む頭に手をやる。既に血は止まっていたが、ぶつけたところが少し腫れて熱を持っていた。でも、この分ならヴェルナーさんから聞いた通り、たいした事はないみたいだ。
 クルトには今日の事は黙っておこう。包帯なんて巻いている姿を見られたら、きっと理由を問い詰められて怒られるに違いないから。
 わたしは証拠を隠滅するように、包帯を丸めてポケットに突っ込んだ。
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