81 / 145
7月と瞳を開く女性画
7月と瞳を開く女性画 6
しおりを挟む
わたしは唖然とする。
突き落とされた? あの人に?
ヴェルナーさんは言葉を補うように話を続ける。
「だが、確証はなかった。覚えているのは、あの時俺は誰かに背中を押され、傍にディルクがいたということだ。今思えば彼の嫉妬だったんだろう。あの頃、俺は仕事に恵まれていて、彼はそうではなかった」
「ど、どうして今まで黙っていたんですか?」
「目撃者もなく、突き落とされたという証拠がなかった。頭を打ってから俺はしばらくの間意識を失っていて……目覚めた後、ディルクが既に根回しをしていたのか、俺が自分で誤って落ちたという事になっていて……それに俺はそれどころではなかった。周りの人間の顔が認識できなくなっていて、まるで知らない場所にでも放り込まれたようだった。誰が味方で誰が敵なのかもわからずに、疑心暗鬼に陥ってしまって……気付けば俺のことは事故という事で処理されていたが、その頃にはどうでもよくなっていた。それよりも、俺にとっては絵が描けなくなるかもしれないという事のほうが重要だったんだ」
「そんな……」
「だが、さっきのディルクの言葉。君に掴みかかりながら、俺と同じようにしてやると言った。それはつまり、俺のように絵を描けないようにしてやる、という意味だろう。あの言葉で、あの出来事も彼の仕業だとはっきりわかった。それで、君まで俺のようになってしまうのではと思ったら、頭に血が上って……」
そうか。だから、わたしが目覚めたときに「顔はわかるか?」なんて言ったのだ。頭を打ったわたしがヴェルナーさんと同じように他人の顔が認識できなくなったのではと考えて……
彼が苦しむ原因となった男が目の前に現れたのだ。心穏やかでいられたはずが無い。何も知らなかったとはいえ、やすやすとあの男を受け入れてしまった自分を呪いたい気分だった。
それにしてもディルクという男はどうかしている。嫉妬でヴェルナーさんを突き落としておきながら、何食わぬ顔で再び彼の前に現れた。はっきり言って異常だ。
あのままヴェルナーさんが助けに入ってくれなければ自分はどうなっていたんだろう。絵が描けないように腕の一本でも折られていたのかもしれない。そう思うと寒気がした。
マフラーを引き上げようと首元に手をやった瞬間、わたしはぎくりとした。
マフラーがない。ベッドに寝かせられる際に外されてしまったんだろうか? 頭の痛みを堪えて辺りを見回すと、枕の傍に見覚えのある白いマフラーが置かれているのが目に入り、慌てて首に巻く。
「ヴェルナーさん、あの人の事、どうするつもりですか?」
「……そうだな。あの絵が盗品である疑いがある以上、警察に伝えるべきだろう。それに、君の怪我の事もある」
それを聞いて血の気が引いた。
気付けば頭の痛みも忘れ、身を乗り出していた。
「あ、あの、ヴェルナーさん、この件にわたしが関わっている事は、警察には伏せてもらえませんか? お願いします」
警察に話すとなれば、当然わたしも事情を聞かれるはずだ。その時に身元を調べられて、わたしの素性が明らかになってしまうかもしれない。性別や年齢が違えば言い逃れできるとクルトは言っていたが、はたして警察相手でもそれが通用するだろうか。
もしも、それが元で退学なんて事になったら、孤児院は、みんなはどうなってしまうのか。
それを考えると冷静ではいられなかった。
「身勝手な事を言っている自覚はあります。でも、でもわたし、この事を警察に知られたくないんです」
縋りつくように懇願すると、その勢いに押されたのか、ヴェルナーさんが僅かに身を引く。
逃すまいと咄嗟に彼の上着の袖を掴むと、その瞳が戸惑ったように揺れる。
だが、わたしは引くわけにはいかなかった。孤児院の行く末が掛かっているのだ。必死にもなる。
「ヴェルナーさん、お願いします……! もしも、これが原因で退学になんてなったりしたら、わたし……!」
「……退学? 君は巻き込まれた、いわば被害者だというのに? それに、絵画の盗難を見抜いたのならば、咎められるどころか賞賛に値すると思うが」
「それは……」
言い訳が思い浮かばずにわたしは口を噤む。
「……君がそんなにもかたくなに警察を拒む理由は――」
そこまで言いかけて、ふとヴェルナーさんは逡巡するように黙り込み、じっとわたしをみつめる。少しの沈黙の後、彼は口を開く。
「……わかった。君の事は伏せて話をしてみよう。うまく誤魔化せるか保障はできないが……」
「ほ、ほんとですか?」
ヴェルナーさんは頷く。
「……君にも何か事情があるんだろう。俺が立ち入ることの出来ない事情が」
その言葉に罪悪感を覚えた。ヴェルナーさんはわたしの事情を知らずともこうして協力してくれる。でも、それは都合よく彼を利用していることにならないだろうか?
本当の事を話そうか。
一瞬そんな考えが浮かび、慌てて打ち消す。
一時的な感情に流されてはいけない。真実を話したとして、その後で彼が今までと同じように接してくれるとは限らないではないか。もしかすると、厄介ごとはごめんだとばかりに距離を置かれてしまうかもしれない。
そんな可能性について考えてしまう自分がどうしようもなく嫌だったが、だからと言ってそれが間違いであることを証明するために真実を話す勇気もない。
「ありがとうございます……」
ただ、俯いてそうお礼を言う事しかできなかった。
結局その日は絵を描くどころではなく「怪我人を一人で帰らせるわけにはいかない」と言うヴェルナーさんに学校まで送ってもらった。
大袈裟じゃないかとも思ったが、反面ありがたい気持ちもあった。あんな事があった後でひとりで帰るのは少し心細かったからだ。
校門のところでヴェルナーさんにお礼を言って、自宅へと帰る彼を見送る。
その背中が完全に見えなくなった後、わたしは頭に巻かれていた包帯をこっそり解いた。
まだ少し痛む頭に手をやる。既に血は止まっていたが、ぶつけたところが少し腫れて熱を持っていた。でも、この分ならヴェルナーさんから聞いた通り、たいした事はないみたいだ。
クルトには今日の事は黙っておこう。包帯なんて巻いている姿を見られたら、きっと理由を問い詰められて怒られるに違いないから。
わたしは証拠を隠滅するように、包帯を丸めてポケットに突っ込んだ。
突き落とされた? あの人に?
ヴェルナーさんは言葉を補うように話を続ける。
「だが、確証はなかった。覚えているのは、あの時俺は誰かに背中を押され、傍にディルクがいたということだ。今思えば彼の嫉妬だったんだろう。あの頃、俺は仕事に恵まれていて、彼はそうではなかった」
「ど、どうして今まで黙っていたんですか?」
「目撃者もなく、突き落とされたという証拠がなかった。頭を打ってから俺はしばらくの間意識を失っていて……目覚めた後、ディルクが既に根回しをしていたのか、俺が自分で誤って落ちたという事になっていて……それに俺はそれどころではなかった。周りの人間の顔が認識できなくなっていて、まるで知らない場所にでも放り込まれたようだった。誰が味方で誰が敵なのかもわからずに、疑心暗鬼に陥ってしまって……気付けば俺のことは事故という事で処理されていたが、その頃にはどうでもよくなっていた。それよりも、俺にとっては絵が描けなくなるかもしれないという事のほうが重要だったんだ」
「そんな……」
「だが、さっきのディルクの言葉。君に掴みかかりながら、俺と同じようにしてやると言った。それはつまり、俺のように絵を描けないようにしてやる、という意味だろう。あの言葉で、あの出来事も彼の仕業だとはっきりわかった。それで、君まで俺のようになってしまうのではと思ったら、頭に血が上って……」
そうか。だから、わたしが目覚めたときに「顔はわかるか?」なんて言ったのだ。頭を打ったわたしがヴェルナーさんと同じように他人の顔が認識できなくなったのではと考えて……
彼が苦しむ原因となった男が目の前に現れたのだ。心穏やかでいられたはずが無い。何も知らなかったとはいえ、やすやすとあの男を受け入れてしまった自分を呪いたい気分だった。
それにしてもディルクという男はどうかしている。嫉妬でヴェルナーさんを突き落としておきながら、何食わぬ顔で再び彼の前に現れた。はっきり言って異常だ。
あのままヴェルナーさんが助けに入ってくれなければ自分はどうなっていたんだろう。絵が描けないように腕の一本でも折られていたのかもしれない。そう思うと寒気がした。
マフラーを引き上げようと首元に手をやった瞬間、わたしはぎくりとした。
マフラーがない。ベッドに寝かせられる際に外されてしまったんだろうか? 頭の痛みを堪えて辺りを見回すと、枕の傍に見覚えのある白いマフラーが置かれているのが目に入り、慌てて首に巻く。
「ヴェルナーさん、あの人の事、どうするつもりですか?」
「……そうだな。あの絵が盗品である疑いがある以上、警察に伝えるべきだろう。それに、君の怪我の事もある」
それを聞いて血の気が引いた。
気付けば頭の痛みも忘れ、身を乗り出していた。
「あ、あの、ヴェルナーさん、この件にわたしが関わっている事は、警察には伏せてもらえませんか? お願いします」
警察に話すとなれば、当然わたしも事情を聞かれるはずだ。その時に身元を調べられて、わたしの素性が明らかになってしまうかもしれない。性別や年齢が違えば言い逃れできるとクルトは言っていたが、はたして警察相手でもそれが通用するだろうか。
もしも、それが元で退学なんて事になったら、孤児院は、みんなはどうなってしまうのか。
それを考えると冷静ではいられなかった。
「身勝手な事を言っている自覚はあります。でも、でもわたし、この事を警察に知られたくないんです」
縋りつくように懇願すると、その勢いに押されたのか、ヴェルナーさんが僅かに身を引く。
逃すまいと咄嗟に彼の上着の袖を掴むと、その瞳が戸惑ったように揺れる。
だが、わたしは引くわけにはいかなかった。孤児院の行く末が掛かっているのだ。必死にもなる。
「ヴェルナーさん、お願いします……! もしも、これが原因で退学になんてなったりしたら、わたし……!」
「……退学? 君は巻き込まれた、いわば被害者だというのに? それに、絵画の盗難を見抜いたのならば、咎められるどころか賞賛に値すると思うが」
「それは……」
言い訳が思い浮かばずにわたしは口を噤む。
「……君がそんなにもかたくなに警察を拒む理由は――」
そこまで言いかけて、ふとヴェルナーさんは逡巡するように黙り込み、じっとわたしをみつめる。少しの沈黙の後、彼は口を開く。
「……わかった。君の事は伏せて話をしてみよう。うまく誤魔化せるか保障はできないが……」
「ほ、ほんとですか?」
ヴェルナーさんは頷く。
「……君にも何か事情があるんだろう。俺が立ち入ることの出来ない事情が」
その言葉に罪悪感を覚えた。ヴェルナーさんはわたしの事情を知らずともこうして協力してくれる。でも、それは都合よく彼を利用していることにならないだろうか?
本当の事を話そうか。
一瞬そんな考えが浮かび、慌てて打ち消す。
一時的な感情に流されてはいけない。真実を話したとして、その後で彼が今までと同じように接してくれるとは限らないではないか。もしかすると、厄介ごとはごめんだとばかりに距離を置かれてしまうかもしれない。
そんな可能性について考えてしまう自分がどうしようもなく嫌だったが、だからと言ってそれが間違いであることを証明するために真実を話す勇気もない。
「ありがとうございます……」
ただ、俯いてそうお礼を言う事しかできなかった。
結局その日は絵を描くどころではなく「怪我人を一人で帰らせるわけにはいかない」と言うヴェルナーさんに学校まで送ってもらった。
大袈裟じゃないかとも思ったが、反面ありがたい気持ちもあった。あんな事があった後でひとりで帰るのは少し心細かったからだ。
校門のところでヴェルナーさんにお礼を言って、自宅へと帰る彼を見送る。
その背中が完全に見えなくなった後、わたしは頭に巻かれていた包帯をこっそり解いた。
まだ少し痛む頭に手をやる。既に血は止まっていたが、ぶつけたところが少し腫れて熱を持っていた。でも、この分ならヴェルナーさんから聞いた通り、たいした事はないみたいだ。
クルトには今日の事は黙っておこう。包帯なんて巻いている姿を見られたら、きっと理由を問い詰められて怒られるに違いないから。
わたしは証拠を隠滅するように、包帯を丸めてポケットに突っ込んだ。
0
お気に入りに追加
175
あなたにおすすめの小説

断腸の思いで王家に差し出した孫娘が婚約破棄されて帰ってきた
兎屋亀吉
恋愛
ある日王家主催のパーティに行くといって出かけた孫娘のエリカが泣きながら帰ってきた。買ったばかりのドレスは真っ赤なワインで汚され、左頬は腫れていた。話を聞くと王子に婚約を破棄され、取り巻きたちに酷いことをされたという。許せん。戦じゃ。この命燃え尽きようとも、必ずや王家を滅ぼしてみせようぞ。

セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

【完結】殿下、自由にさせていただきます。
なか
恋愛
「出て行ってくれリルレット。王宮に君が住む必要はなくなった」
その言葉と同時に私の五年間に及ぶ初恋は終わりを告げた。
アルフレッド殿下の妃候補として選ばれ、心の底から喜んでいた私はもういない。
髪を綺麗だと言ってくれた口からは、私を貶める言葉しか出てこない。
見惚れてしまう程の笑みは、もう見せてもくれない。
私………貴方に嫌われた理由が分からないよ。
初夜を私一人だけにしたあの日から、貴方はどうして変わってしまったの?
恋心は砕かれた私は死さえ考えたが、過去に見知らぬ男性から渡された本をきっかけに騎士を目指す。
しかし、正騎士団は女人禁制。
故に私は男性と性別を偽って生きていく事を決めたのに……。
晴れて騎士となった私を待っていたのは、全てを見抜いて笑う副団長であった。
身分を明かせない私は、全てを知っている彼と秘密の恋をする事になる。
そして、騎士として王宮内で起きた変死事件やアルフレッドの奇行に大きく関わり、やがて王宮に蔓延る謎と対峙する。
これは、私の初恋が終わり。
僕として新たな人生を歩みだした話。
【完結】捨ててください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
ずっと貴方の側にいた。
でも、あの人と再会してから貴方は私ではなく、あの人を見つめるようになった。
分かっている。
貴方は私の事を愛していない。
私は貴方の側にいるだけで良かったのに。
貴方が、あの人の側へ行きたいと悩んでいる事が私に伝わってくる。
もういいの。
ありがとう貴方。
もう私の事は、、、
捨ててください。
続編投稿しました。
初回完結6月25日
第2回目完結7月18日
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
ダブルの謎
KT
ミステリー
舞台は、港町横浜。ある1人の男が水死した状態で見つかった。しかし、その水死したはずの男を捜査1課刑事の正行は、目撃してしまう。ついに事件は誰も予想がつかない状況に発展していく。真犯人は一体誰で、何のために、、 読み出したら止まらない、迫力満点短編ミステリー
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる