7月は男子校の探偵少女

金時るるの

文字の大きさ
上 下
79 / 145
7月と瞳を開く女性画

7月と瞳を開く女性画 4

しおりを挟む
「本当か?」


 勢い込んで訪ねるディルクさんに対し、わたしは頷く。


「たぶん……原因は顔料です」

「顔料?」

「ええ、ある種の顔料は乾性油と混ざる事によって、時間が経つと透明化することがあるんです」


 わたしは絵を指差す。


「きっと、この絵の中の女性は元々目をあけていたんです。どんな事情があったのかはわかりませんが、後から目の部分だけを閉じているように描き直したんでしょう。その時修正に使用した顔料が、年月を経て透明化したために、下にあった目をあけている絵が浮き出てしまったんです。ディルクさんは独学で絵を学んだと言っていましたね。だから顔料の性質について把握していなかったんでしょう。それに、透明化するのには時間が掛かりますから、すぐには気付かないと思います」

「な……そんな単純なことで……?」


 ディルクさんは呆然と呟く。
 先ほどのヴェルナーさんの「冗談だろう?」という言葉。たぶんこの現象は、画家ならば当然知っているべき常識だったのではないか。だから彼はあんな反応をしたのだ。それをディルクさんは違う意味だと受け取ってしまったようだが。


「でも、おかしいですよね。あなたはさっき『最初から目は閉じていた』と言いました。それなら元の絵が浮き出るなんて事はありえません」

「だったら、やっぱり誰かが目を描き加えたんだろ?」

「いえ、わたしが思いついたのは別の可能性なんです」

「……一体何のことだ?」

「この絵を、あなた以外のだれかが描いたという可能性です」


 その言葉にディルクさんの顔色が変わったような気がした。ヴェルナーさんも微かに眉を顰めてこちらを見る。


「あなたは、この絵の女性の目が元々開いていたという事を知らなかったんです。なぜなら、この絵はあなたが描いたものではなかったから。あなたは目を閉じている絵が本来のものだと思っていたんでしょう。そうでなければ、元々の絵が浮き出ただけなのに『目が開いた』なんて騒いだりしないはずです」

「なにを馬鹿な……」


 ディルクさんが吐き捨てるように呟く。


「わたし、この絵を見たとき不思議に思ったことがあったんです。この女性は右手に何を持っているんだろうって」

「右手?」


 それまで黙って聞いていたヴェルナーさんが口を開く。
 

「ええ、絵には描かれていませんが、この女性、右腕を肩のあたりまで上げて、まるで何かを持っているように見えませんか? それを見つめるように視線も右手のほうへと向いています。そして、左手で胸を押さえるような仕草をしている……」

「……もしかして、『貞女ルクレティア』?」


 ヴェルナーさんの言葉にわたしは頷く。


「ローマ建国史に登場する、自らの胸を短剣で刺して命を絶った悲劇の女性、ルクレティア。しばしば絵のモチーフとしても好まれました。かつては貞淑の象徴として、結婚する花嫁にルクレティアの肖像画を贈る習慣もあったほどです。この絵も、そのルクレティアが自分の胸に刺した短剣を引き抜いた瞬間を描いたものなんじゃないかって思ったんです。そうだとしたら、本来この絵はもっと大きくて、右手の先の短剣まで描かれていたはず。それなら、この不自然に持ち上げられた右腕にも納得がいくし、視線の先に短剣があったんだろうという事も想像できます」


 わたしはディルクさんの顔を見つめる。
 

「あなたは別人が描いた絵を自作だと偽って、ルクレティアを描いたものだとわからないように、絵の一部だけを切り出して架空の女性像として売ったんです。でも、ルクレティアの目が開いた事を、どうして他の画家や画商に相談せずに、わざわざこの家まで尋ねてきたんでしょうか? 絵画に詳しい人物ならば顔料が透明化したものだとすぐに気付いたはずなのに。もしかして、この絵を絵画の流通に明るい人物に見られたくなかったんじゃありませんか? だから、今は絵を描いていないと言われているヴェルナーさんに相談しようとしたんでしょう。おそらく、この絵は――」


 わたしはそこではたと口を噤んだ。ディルクさんの瞳が冷たく光ったような気がしたからだ。なんとなく背中にぞくりとしたものを覚える。


「この絵が、なんだって?」


 ディルクさんがやけにゆっくりとした口調で問う。


「い、いえ、その、なんでもありません。きっと、わたしの思い違いです」


 慌てて首を振るが、ディルクさんは納得しないかのようにこちらに一歩近づく。


「思い違いでもいいさ。続きを聞かせてくれよ」

「で、でも、本当になんでもないんです」 

「言え!」


 不意にディルクさんが大きな声を上げたかと思うとわたしに掴みかかってきた。


「言え、言えよ! お前みたいなガキがなにを知ってるって言うんだ!」

「やめろ!」


 ヴェルナーさんが引き剝がそうと割って入るが、ディルクさんは信じられないほどの力でわたしの胸倉を掴み上げた。その勢いは凄まじく、わたしの踵は地面から浮き上がる。
 喉元を締め付けられ、苦しさにくぐもったうめき声が漏れた。必死でディルクさんの手を振り払おうとするがびくともしない。


「ディルク、今すぐその手を離すんだ!」


 ヴェルナーさんの怒鳴り声が聞こえたが、手が緩む様子はなく、ディルクさんは殺気に満ちた恐ろしい目でわたしを睨んでいた。


「うるさい! このガキもお前と同じようにしてやる!」
 

 次の瞬間、ヴェルナーさんがディルクさんを思い切り殴りつけた。
 その身体は吹っ飛び、わたしの襟元から手が離れる。その衝撃でわたしの身体は放り出され、頭を何かに強く打ち付けた。
 覚えているのはそこまでだった。視界に黒い幕が降りるように、わたしは自分の意識が薄れていくのを感じた。

しおりを挟む
感想 9

あなたにおすすめの小説

断腸の思いで王家に差し出した孫娘が婚約破棄されて帰ってきた

兎屋亀吉
恋愛
ある日王家主催のパーティに行くといって出かけた孫娘のエリカが泣きながら帰ってきた。買ったばかりのドレスは真っ赤なワインで汚され、左頬は腫れていた。話を聞くと王子に婚約を破棄され、取り巻きたちに酷いことをされたという。許せん。戦じゃ。この命燃え尽きようとも、必ずや王家を滅ぼしてみせようぞ。

舞姫【中編】

友秋
ミステリー
天涯孤独の少女は、夜の歓楽街で二人の男に拾われた。 三人の運命を変えた過去の事故と事件。 そこには、三人を繋ぐ思いもかけない縁(えにし)が隠れていた。 剣崎星児 29歳。故郷を大火の家族も何もかもを失い、夜の街で強く生きてきた。 兵藤保 28歳。星児の幼馴染。同じく、実姉以外の家族を失った。明晰な頭脳を持って星児の抱く野望と復讐の計画をサポートしてきた。 津田みちる 20歳。両親を事故で亡くし孤児となり、夜の街を彷徨っていた16歳の時、星児と保に拾われた。ストリップダンサーとしてのデビューを控える。 桑名麗子 保の姉。星児の彼女で、ストリップ劇場香蘭の元ダンサー。みちるの師匠。 亀岡 みちるの両親が亡くなった事故の事を調べている刑事。 津田(郡司)武 星児と保が追う謎多き男。 切り札にするつもりで拾った少女は、彼らにとっての急所となる。 大人になった少女の背中には、羽根が生える。 与り知らないところで生まれた禍根の渦に三人は巻き込まれていく。 彼らの行く手に待つものは。

今更気付いてももう遅い。

ユウキ
恋愛
ある晴れた日、卒業の季節に集まる面々は、一様に暗く。 今更真相に気付いても、後悔してももう遅い。何もかも、取り戻せないのです。

ダブルの謎

KT
ミステリー
舞台は、港町横浜。ある1人の男が水死した状態で見つかった。しかし、その水死したはずの男を捜査1課刑事の正行は、目撃してしまう。ついに事件は誰も予想がつかない状況に発展していく。真犯人は一体誰で、何のために、、 読み出したら止まらない、迫力満点短編ミステリー

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

セレナの居場所 ~下賜された側妃~

緑谷めい
恋愛
 後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~

おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。 どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。 そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。 その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。 その結果、様々な女性に迫られることになる。 元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。 「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」 今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。

【完結】殿下、自由にさせていただきます。

なか
恋愛
「出て行ってくれリルレット。王宮に君が住む必要はなくなった」  その言葉と同時に私の五年間に及ぶ初恋は終わりを告げた。  アルフレッド殿下の妃候補として選ばれ、心の底から喜んでいた私はもういない。  髪を綺麗だと言ってくれた口からは、私を貶める言葉しか出てこない。  見惚れてしまう程の笑みは、もう見せてもくれない。  私………貴方に嫌われた理由が分からないよ。  初夜を私一人だけにしたあの日から、貴方はどうして変わってしまったの?  恋心は砕かれた私は死さえ考えたが、過去に見知らぬ男性から渡された本をきっかけに騎士を目指す。  しかし、正騎士団は女人禁制。  故に私は男性と性別を偽って生きていく事を決めたのに……。  晴れて騎士となった私を待っていたのは、全てを見抜いて笑う副団長であった。     身分を明かせない私は、全てを知っている彼と秘密の恋をする事になる。    そして、騎士として王宮内で起きた変死事件やアルフレッドの奇行に大きく関わり、やがて王宮に蔓延る謎と対峙する。  これは、私の初恋が終わり。  僕として新たな人生を歩みだした話。  

処理中です...