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7月と瞳を開く女性画
7月と瞳を開く女性画 2
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本音とはいえ、あんな告白をした直後で、二人の関係がぎくしゃくしてしまうのではないかと恐れていたが、ヴェルナーさんが普段と同じように接してくれたので、わたしもまたいつもの調子を取り戻していった。
ヴェルナーさんはなんだか晴れやかな顔をしていた。まるで生まれ変わったような……なんて言うのは大げさだろうか。
ともあれ、彼は再び筆を執る決意をしたのだ。こんなに嬉しい事はない。
いつもの食堂でスープを口に運びながら、わたしは今までさりげなく避けていた話題に触れていた。
「やっぱり、ヴェルナーさんは風景画を描くつもりなんですか? 前にアトリエで見た風景画、とっても綺麗でした」
「いや、特には決めていない。気の向くままに制作してみようと思う」
ヴェルナーさんも、以前ならば言葉を濁していたであろうその問いに躊躇いなく答える。
「それじゃあ、いつかリンゴを作ってくれませんか? ヴェルナーさんの言うリンゴの角を見てみたいです」
「そうだな。機会があれば」
「ほんとですか!? 楽しみにしてます。あ、そうだ。後でカフェに行きませんか? わたしが奢りますからケーキを食べましょう」
「……カフェに行くのは構わないが、君にそんな事をさせるわけには……」
言いかけるヴェルナーさんを手で制す。
「前にヴェルナーさんがわたしにケーキをご馳走してくれたときに言ってましたよね。自己満足だって。今日はわたしが自己満足を得たいんです。ヴェルナーさんがまた絵を描くって決めた事が嬉しいからお祝いしたいんです。だからお願いします」
ヴェルナーさんは少しの間何か考えるようにわたしを眺めていたが
「わかった。そういう事なら受けることにしようか」
そう言って口元を僅かに綻ばせた。
食事を終えて戻ると、アトリエのドアの前に一人の男性が立っていた。
年はヴェルナーさんよりも上に見える。無造作に伸びた髪に険のある目つき。少しくたびれた様子で、布に包まれた平たい長方形の荷物を抱えていた。
男性はヴェルナーさんの姿を認めると、片手を上げる。
「よう、フェルディオ。久しぶりだな」
フェルディオ――ヴェルナーさんのファーストネームだ。彼をその名で呼ぶという事は、親しい間柄の人間なんだろうか。
ちらりとヴェルナーさんの様子を伺うと、彼は無言のまま、いつものように表情の見えない顔で男性に目を向けていた。相手が誰なのかわからないみたいだ。
男性はそんなヴェルナーさんを見て、唇の片方を吊り上げるように皮肉っぽい笑みを浮かべる。
「なんだ、まさか俺の事忘れちまったって言うんじゃないよな? 随分と薄情じゃないか。俺だよ、ディルクだよ」
その名を聞いた途端、ヴェルナーさんの身体が微かに震えたような気がした。
「今日はお前に頼み事があってさ。ここじゃなんだから家の中に入れてくれよ。いいだろ?」
ディルクと名乗った男性はやけに馴れ馴れしい。
わたしの視線に気付いたのか、その顔をこちらに向ける。そしてまじまじとわたしを眺めた後、ヴェルナーさんに問う。
「なあ、このこどもは一体なんなんだ? フェルディオ、まさかお前の子か? それにしちゃでかいな」
一体何を言い出すんだこの人は。失礼だな。
けれど、ヴェルナーさんはそれには答えず、先ほどから僅かに目を見開いた表情のまま、固まったように動かない。
どうしたんだろう。様子がおかしい。
「違いますよ。こどもじゃありません」
答えないヴェルナーさんの代わりに、わたしは思わず男性の前に飛び出していた。
「わたしはその、ヴェルナーさんに絵を習っている……ええと……そう、弟子、みたいなものです」
自分達の関係性を説明しようとしたら、ついそんな言葉が出てしまった。でも、実際似たようなものじゃないだろうか。
「へえ、弟子ねえ。フェルディオ、お前も偉くなったもんだな。弟子を持つなんてさ。ふうん。てっきりお前は――あ、いや、なんでもない」
その口調がなんだか癇に障る。何が言いたいんだろう。
ヴェルナーさんを見上げるが、彼は黙ったままだ。
「あの、ヴェルナーさん……?」
戸惑いながら声を掛けると、ヴェルナーさんは我に返ったように瞬きし、男性に向かって口を開く。
「……すまないが、帰ってくれないか。生憎と忙しいんだ」
冷たくあしらうその言葉を聞いて「あれ?」と思った。
相手は親しげに話しかけてくるものの、ヴェルナーさんは彼のことがあまり好きではないような雰囲気だ。
しかし男性はそれにもめげない。
「冷たい事言うなよ。お前がここに住んでるって事、やっと突き止めて、わざわざ訪ねてきたんだぜ。少しくらい話を聞いてくれたって良いじゃないか。お前だって、こんな家のまん前で揉め事を起こしたくないだろ?」
どういう意味だろう。まるで脅しみたいだ。
ヴェルナーさんはわたしを庇うように前に出て男性と対峙する。
「そんなに警戒するなって。何もしやしないよ。ちょっと困ったことが起きてさ。相談に乗って欲しいんだよ。それが済んだらすぐに帰からさ。なあ、頼むよ」
なおもしつこく食い下がる男性をヴェルナーさんはじっと見つめる。どちらも引き下がる気配は無い。
わたしはその張り詰めた空気に耐えられず、思わず口を挟む。
「あの、もしよろしければ、わたしがお話を伺いましょうか? お力になれるかはわかりませんけど……」
「あんたが……?」
男性は少しの間戸惑ったようにわたしの事を眺めていたが
「そうだな。フェルディオの弟子っていうなら何とかなるかもしれないな……わかった。あんたに頼もう。付いてきてくれ。人目のある場所じゃ話したくないんだ」
「わかりました……ヴェルナーさん、わたし、ちょっと行ってきますね。用事が済んだらすぐ戻ってきます」
そう告げて男性の後に続こうとしたとき
「待った」
ヴェルナーさんの声が背後から聞こえたので振り返る。
「……わかった。話を聞こう。中に入ってくれ」
ヴェルナーさんはそう告げるとアトリエのドアをあけた。
ヴェルナーさんはなんだか晴れやかな顔をしていた。まるで生まれ変わったような……なんて言うのは大げさだろうか。
ともあれ、彼は再び筆を執る決意をしたのだ。こんなに嬉しい事はない。
いつもの食堂でスープを口に運びながら、わたしは今までさりげなく避けていた話題に触れていた。
「やっぱり、ヴェルナーさんは風景画を描くつもりなんですか? 前にアトリエで見た風景画、とっても綺麗でした」
「いや、特には決めていない。気の向くままに制作してみようと思う」
ヴェルナーさんも、以前ならば言葉を濁していたであろうその問いに躊躇いなく答える。
「それじゃあ、いつかリンゴを作ってくれませんか? ヴェルナーさんの言うリンゴの角を見てみたいです」
「そうだな。機会があれば」
「ほんとですか!? 楽しみにしてます。あ、そうだ。後でカフェに行きませんか? わたしが奢りますからケーキを食べましょう」
「……カフェに行くのは構わないが、君にそんな事をさせるわけには……」
言いかけるヴェルナーさんを手で制す。
「前にヴェルナーさんがわたしにケーキをご馳走してくれたときに言ってましたよね。自己満足だって。今日はわたしが自己満足を得たいんです。ヴェルナーさんがまた絵を描くって決めた事が嬉しいからお祝いしたいんです。だからお願いします」
ヴェルナーさんは少しの間何か考えるようにわたしを眺めていたが
「わかった。そういう事なら受けることにしようか」
そう言って口元を僅かに綻ばせた。
食事を終えて戻ると、アトリエのドアの前に一人の男性が立っていた。
年はヴェルナーさんよりも上に見える。無造作に伸びた髪に険のある目つき。少しくたびれた様子で、布に包まれた平たい長方形の荷物を抱えていた。
男性はヴェルナーさんの姿を認めると、片手を上げる。
「よう、フェルディオ。久しぶりだな」
フェルディオ――ヴェルナーさんのファーストネームだ。彼をその名で呼ぶという事は、親しい間柄の人間なんだろうか。
ちらりとヴェルナーさんの様子を伺うと、彼は無言のまま、いつものように表情の見えない顔で男性に目を向けていた。相手が誰なのかわからないみたいだ。
男性はそんなヴェルナーさんを見て、唇の片方を吊り上げるように皮肉っぽい笑みを浮かべる。
「なんだ、まさか俺の事忘れちまったって言うんじゃないよな? 随分と薄情じゃないか。俺だよ、ディルクだよ」
その名を聞いた途端、ヴェルナーさんの身体が微かに震えたような気がした。
「今日はお前に頼み事があってさ。ここじゃなんだから家の中に入れてくれよ。いいだろ?」
ディルクと名乗った男性はやけに馴れ馴れしい。
わたしの視線に気付いたのか、その顔をこちらに向ける。そしてまじまじとわたしを眺めた後、ヴェルナーさんに問う。
「なあ、このこどもは一体なんなんだ? フェルディオ、まさかお前の子か? それにしちゃでかいな」
一体何を言い出すんだこの人は。失礼だな。
けれど、ヴェルナーさんはそれには答えず、先ほどから僅かに目を見開いた表情のまま、固まったように動かない。
どうしたんだろう。様子がおかしい。
「違いますよ。こどもじゃありません」
答えないヴェルナーさんの代わりに、わたしは思わず男性の前に飛び出していた。
「わたしはその、ヴェルナーさんに絵を習っている……ええと……そう、弟子、みたいなものです」
自分達の関係性を説明しようとしたら、ついそんな言葉が出てしまった。でも、実際似たようなものじゃないだろうか。
「へえ、弟子ねえ。フェルディオ、お前も偉くなったもんだな。弟子を持つなんてさ。ふうん。てっきりお前は――あ、いや、なんでもない」
その口調がなんだか癇に障る。何が言いたいんだろう。
ヴェルナーさんを見上げるが、彼は黙ったままだ。
「あの、ヴェルナーさん……?」
戸惑いながら声を掛けると、ヴェルナーさんは我に返ったように瞬きし、男性に向かって口を開く。
「……すまないが、帰ってくれないか。生憎と忙しいんだ」
冷たくあしらうその言葉を聞いて「あれ?」と思った。
相手は親しげに話しかけてくるものの、ヴェルナーさんは彼のことがあまり好きではないような雰囲気だ。
しかし男性はそれにもめげない。
「冷たい事言うなよ。お前がここに住んでるって事、やっと突き止めて、わざわざ訪ねてきたんだぜ。少しくらい話を聞いてくれたって良いじゃないか。お前だって、こんな家のまん前で揉め事を起こしたくないだろ?」
どういう意味だろう。まるで脅しみたいだ。
ヴェルナーさんはわたしを庇うように前に出て男性と対峙する。
「そんなに警戒するなって。何もしやしないよ。ちょっと困ったことが起きてさ。相談に乗って欲しいんだよ。それが済んだらすぐに帰からさ。なあ、頼むよ」
なおもしつこく食い下がる男性をヴェルナーさんはじっと見つめる。どちらも引き下がる気配は無い。
わたしはその張り詰めた空気に耐えられず、思わず口を挟む。
「あの、もしよろしければ、わたしがお話を伺いましょうか? お力になれるかはわかりませんけど……」
「あんたが……?」
男性は少しの間戸惑ったようにわたしの事を眺めていたが
「そうだな。フェルディオの弟子っていうなら何とかなるかもしれないな……わかった。あんたに頼もう。付いてきてくれ。人目のある場所じゃ話したくないんだ」
「わかりました……ヴェルナーさん、わたし、ちょっと行ってきますね。用事が済んだらすぐ戻ってきます」
そう告げて男性の後に続こうとしたとき
「待った」
ヴェルナーさんの声が背後から聞こえたので振り返る。
「……わかった。話を聞こう。中に入ってくれ」
ヴェルナーさんはそう告げるとアトリエのドアをあけた。
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