7月は男子校の探偵少女

金時るるの

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7月と瞳を開く女性画

7月と瞳を開く女性画 1

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 休暇中でも日曜日の習慣はいつもと同じだった。ヴェルナーさんには学校に残ることを伝え、その間も絵を教えてくれるよう頼んだのだ。
 その日も時間通りにアトリエを訪れたわたしはドアを叩く。
 暫くしてヴェルナーさんが出てきたが、その顔を見てわたしは心臓が止まりそうになった


「ヴェルナーさん、そ、その顔……!」


 彼の頬のあたりに、鋭い刃物で切ったような傷があり、今もそこから鮮血が滲み出ている。見ているだけで痛々しい。


「……ああ」


 ヴェルナーさんは言われて思い出したといった様子で頬に手を当てる。


「今日は寝過ごしてしまって、床屋へ行く暇がなかった。だから自分で髭を剃ろうとして……さっき確かめた時には血は止まっていたはずなんだが」

「そ、そんな危ない事やめてください……!」


 自分の顔も認識出来ないはずなのに、随分と無茶をする。
 

「髭なら一日くらいそのままでも特に問題はないと思うんですが……」


 そう言うとヴェルナーさんは首を振る。


「俺は、考える時に頬に手を当てる癖があって……髭があると落ち着かないんだ」

「ええと、それなら、また寝過ごすような事があれば、その時はわたしがここに来てから床屋に行ってください。その間留守番してますから。とにかく今はその傷を手当てしないと。薬箱ありますか?」


 そうしてヴェルナーさんを椅子に座らせると、頬の傷に薬を塗り、絆創膏を貼る。
 かなり目立つが仕方が無い。数日はこれで辛抱してもらおう。


「ヴェルナーさん、終わりましたよ」

「……すまない」


 声を掛けるとヴェルナーさんはどこか上の空で絆創膏の上から頬を撫でた。

 薬箱を片付けながら、わたしは先程からこのアトリエに漂うにおいが気になっていた。
 油絵を描くときに使う溶き油の特徴的なにおい。
 もしもヴェルナーさんが絵を描いていたというのなら、カンバスがあるかと思ったが、それも見当たらない。
 まさか、火薬のにおいの時のように、これも幻臭なんだろうか。


「どうかしたのか?」


 においの発生源を探してきょろきょろしていると、ヴェルナーさんに声を掛けられた。


「いえ、その、溶き油みたいなにおいがするような気がして……」

「……ああ、そうか」


 ヴェルナーさんは少しの間何かを考えるように黙り込んだが、やがて部屋の隅に置かれた塑像台を指差す。


「あれに色を塗っていた……寝過ごしたのも明け方近くまでその作業をしていたからだ」
 

 近寄ってみると、塑像台には古紙が敷かれ、その上には両手に乗るくらいの大きさの塊が載っていた。
 この形、どこかで見た事がある。まるで鳥が蹲っているみたいな――
 そこまで考えてわたしははっとした。


「まさか、これってエミールさんの作った……」


 ヴェルナーさんを振り返ると、彼はこちらを見て頷いた。


「以前に君と一緒に取った型を使って、石膏で複製した。それに着色したんだ。油絵の具を使ったから、においの原因はそれだろう」


 その石膏の物体は、年月を経た金属のような色をして、確かな存在感と共にそこにあった。
 

「きれい……」


 不思議な色のオブジェに、わたしは息をひそめて見入ってしまう。
 どれくらいそうしていただろうか、不意に沈黙を破るようにヴェルナーさんの静かな声がした。


「……君に謝ろうと思っていた」


 その声にわたしは顔を上げてヴェルナーさんを見る。すると彼は一瞬目を逸らす。


「俺は、つい最近まで、君とエミールを、その――混同していたのかもしれない。君が――エミールに似ていたから」

「え……?」

「以前、雨の日に君がドアの前で濡れた衣服を拭いていたことがあるだろう? あの姿を見て、一瞬エミールがいるのかと思った。彼も君のように、雨の日にあそこで同じように濡れた身体を拭いていたから。でも、そんな事があるわけがない。あの時我に返ると同時に、俺は君とエミールを同一視していることに気付いたんだ」


 そうだ、思い返せばあの日、確かに彼はわたしを見て驚いたような顔をしていた。あれは黒猫に気を取られたわけではなく、わたしの事をエミールさんと見間違えたからだった……?


「俺のことを馴れ馴れしいと思っただろう? 君が絵を習うためにここを訪ねてきた時も、たいして面識もなかったのに鈴を贈ったりして。思えば、あの時既に俺は君にエミールの面影を重ねていたのかもしれない」

「そんな……」

「君に、今までの無礼を詫びたくて……すまなかった」


 突然の告白に、彼のわたしは暫く言葉の意味を反芻していたが、やがて口を開く。
 

「どうして、わざわざそんな事を告白するんですか……? わたしは無礼だなんて思わなかったし、ずっと黙っていても何も問題はなかったのに……」

「俺の自己満足……かもしれない」


 ヴェルナーさんは床に視線を落としたまま続ける。


「それに君を巻き込むのはすまないと思う。だが、どうしても告白せずにはいられなかった。でなければ、君の事もエミールの事も侮辱しているような気がして……その石膏に色を塗ったのも、過去と決別したかったんだ。未完成だったそれを、ひとつの作品として完成させれば、俺の未練も断ち切れるんじゃないかと思って」

「そんな――そんなの……未練があってあたりまえじゃないですか。エミールさんは、ヴェルナーさんにとって大切な人だったんでしょう? そんな人の事を簡単に忘れられるわけありません」


 そうは言いながらも、わたしは動揺していた。
 今まで自分に向けられていたヴェルナーさんの言葉や笑顔。あれらは本当は彼の思い出の中に存在するエミールさんに向けられていたものだったんだろうか? 彼は、本当はわたしの事を見てはいなかったんだろうか? もしかして、わたしが絵を習いたいという申し出を了承したことも……? 

 でも、それなら納得できる。なんといってもわたしはヴェルナーさんの秘密を暴いた張本人なのだ。普通そんな相手に絵を教えるなんてできるだろうか? あれらも全てわたしにエミールさんの面影を重ねていた結果だとすれば……

 そこまで考えて胸が痛んだ。
 でも、ヴェルナーさんを責める事はできない。わたしだって彼の事を――
 わたしは拳をきつく握り締める。
 彼がこうしてわたしに向き合って本心を曝け出してくれているのなら、自分だけが口を噤んだままでいるのはあまりにも不誠実ではないか。ヴェルナーさんの様子を見るに、彼だってこの告白をするのにはよほどの躊躇いがあっただろうに。
 わたしはヴェルナーさんに向き直ると、深く呼吸してから切り出す。


「……わたしも、ヴェルナーさんに謝らなければいけないことがあります」


 そう言う自分の声は、少し震えていた。


「わたしが絵を教えて欲しいなんて頼んだこと、変だと思いませんでしたか? ろくに面識も無かったのに、そんなずうずうしいお願いをして」


 ヴェルナーさんが顔を上げる。一瞬視線がかち合ったような気がした。そんな事ありえないはずなのに。
 

「わたしには、兄みたいに慕っている人がいました。その人は画家を目指していて――でも、わたしのせいで絵を描く事が難しくなって……わたし自身、最近までその事を忘れていました。でも、無意識のうちにヴェルナーさんのことをその人に重ねていたんだと思います。その人も、ヴェルナーさんも、わたしが余計なことをしなければ今でも絵を描いていたかもしれないのにって……それで、わたし、あんな手紙を書いたんです。ヴェルナーさんには絵を描く事をやめてほしくなくて。わたしが絵を習っているうちは、少なくともヴェルナーさんは芸術から離れたりしないんじゃないかと思って」


 自分のせいで彼らの人生は変わってしまったのだ。あの日の、暖炉の炎のように激しく燃えるようだったおにいちゃんの瞳、夕日の照り返しを受けて光ったヴェルナーさんの瞳。ふたつの光景が交互に蘇り、強い後悔と悲しみが押し寄せる。

 せめて、ヴェルナーさんには立ち直って欲しかった。あの人のようにはなって欲しくなかった。
 だが、それは自身の贖罪のためにヴェルナーさんをあの人の身代わりにしているようなもので、あまりにも身勝手ではないか。
 堪え切れずに、わたしの目からは涙が溢れてきた。
 泣き顔を隠すように俯くと、頭上からヴェルナーさんの静かな声が聞こえた。


「……あの日の俺の言葉を、君はまだ気にしていたんだな……」


 わたしはそれに答えられなかった。確かに自分がこんな事をしたのは、彼の「絵を描くのをやめる」という言葉がきっかけだったからだ。
 でも、それを素直に伝えたら、彼は余計気に病んでしまうだろう。


「……わたしのこと、軽蔑したでしょう?」

「なぜ?」

「だって、わたしの本当の目的は、絵を習うことじゃなく、ヴェルナーさんに近づくことだったんですよ。ヴェルナーさんにあの人みたいになって欲しくなかったから……勿論、ヴェルナーさんがあの人みたいになるとは限らないし、あの人と同じように考えること自体間違ってるって、今ならわかります……! それでも、何もせずにはいられなかったんです! そんなわたしの身勝手で、ヴェルナーさんを中途半端に芸術に縛り付けるなんて最低ですよね。本当はヴェルナーさんは、もう、絵を描く事から離れたいと思っているのかもしれないのに……さっき『過去と決別したかった』って言ってましたよね。それって、エミールさんの事だけじゃなくて――」

「……そうじゃない」


 その言葉にわたしは顔を上げる。


「決別したかったのは、絵を描きたくて仕方のないくせに、それを諦めようとしていたひねくれた自分からだ。今思えば、俺は心の底では、ずっと諦めきれていなかった。絵を描くのをやめるなんて言ってからも……ただ、俺は臆病になっていた。肖像画を描けなくなった俺が、他に出来ることなんてあるだろうかと疑心にとらわれていた。だが、君と一緒に土のケーキを作ったあの日、君は俺の作ったケーキを見てお腹を鳴らしただろう? あの時、本当に嬉しかった。俺が誰かの本能を揺さぶるものを作れたんだと」

「それじゃあ、ヴェルナーさん……」


 ヴェルナーさんは頷くと塑像台の上のオブジェを指差す。


「これを作ろうと思ったのは、あの出来事がきっかけだ。そして今日やっと完成させることが出来た。どんな色にしようか、画材は何を使おうか。考えるのも、実際に着色するのも、とても楽しかった。この気持ちでもう一度何かを創作したい。肖像画でなくても、いや、絵でなくてもいい。彫刻でも、それこそ毛糸のマフラーでも。今日、改めてそう思ったんだ。そしてそれを決断させてくれたのは、思い出の中のエミールでもない。ユーリ、君だ。君のおかげで、俺はそんな気持ちになれたんだ。感謝している。ありがとう」


 そう言って柔らかく微笑んだ。その笑顔は、エミールさんの描いたあの似顔絵と同じだった。
 それを見て確信した。この人はおにいちゃんとは違う。おにいちゃんと違って、再び純粋な気持ちで芸術と向き合おうとしているんだ。
 二人を同じように考えたりして、自分はなんて愚かだったんだろう。


「ヴェルナーさん、わたし……わたしも、今までの自分と決別します。ヴェルナーさんとあの人を同じように考えたりしません。だから、これからも絵を教えてもらえますか……?」

「ああ、勿論だ」


 その言葉に、心の底から安堵した。
 ヴェルナーさんが差し出してくれたハンカチを受け取り涙を拭う。
 嬉しいはずなのに、涙が止まってくれなかった。静かなアトリエにわたしのすすり泣きの声だけが響く。

 その時、唐突にわたしのお腹が鳴った。

 馬鹿馬鹿。何でこんなときに鳴るんだ。もう消えてしまいたい……
 俯くわたしの頭上から、ヴェルナーさんの忍び笑いが聞こえた。


「気が済むまで泣けばいい。涙が止まったら、顔を洗って昼食にしよう。その後は……一緒にデッサンをしようか」


 その言葉にわたしは涙を流しながら頷いた。


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