7月は男子校の探偵少女

金時るるの

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7月と鳥の心臓

7月と鳥の心臓 3

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 アトリエには約束の時間より少し早く着いた。ドアを叩くと、程なくしてヴェルナーさんが顔を出す。


「ヴェルナーさん、おはようございます。ユーリです」


 念のため自分の名前を名乗ると


「……ああ」


 それだけ答えた彼に、中に入るよう促される。
 こっそりと様子を探るが、まったく変化の見られないその表情から、先日の件が彼にどんな影響を及ぼしたのかを伺い知る事はできない。ヴェルナーさんがこれからも絵を描き続けるのかどうか、気になってはいたが直接聞く勇気もなかった。


「あの、絵を教えて頂けるという事で、これ、授業料の代わりになればと思って……」


 曖昧な空気を打ち破るように、途中で買ってきた果物の入った紙袋を渡す。
 なんだかこの人の前だと緊張してしまう。真顔のままほとんど表情が変わらないから、もしかして怒っているんじゃないかと不安になるのだ。
 孤児院にもそういうきょうだいは存在したが、ヴェルナーさんみたいな年上の男の人に対して同じような対応をするわけにはいかないだろうし……。
 ちらりと袋の中に視線を向けたヴェルナーさんは


「……そんな事、気にしなくてもいいのに……だが、ちょうどいい。今日はこれを使う事にしようか」


 そう言って、紙袋を持ち上げた。






 テーブルの上にはレンガが二つ。それを半分覆うように折りたたんだ布が掛けられ、その上にわたしの持ってきた林檎が載っている。それをモチーフにデッサンする事になったのだ。
 構図を決めて、何枚か重ねられた木炭紙がセットされたイーゼルの前に腰掛けると、わたしは木炭を手にして絵を描き始める。

 ヴェルナーさんはわたしの斜め後方に椅子を置き、そこで本を読んだりして時間を潰しながら、時々デッサンをチェックしてくれるらしい。今のところは彼自身が絵を描いたりという事はないみたいだ。その事に微かな失望の思いを抱きながらも、デッサンに集中しようとモチーフに目を向ける。
 それにしてもこれは緊張する……常に見られているわけではないとはいえ、あんな素晴らしい風景画を描くような絵の上手な画家が、ずっと自分の後ろにいるのだ。変な汗が出てきそうだ。
 そのせいなのかはわからないが、中々上手くモチーフの形が取れない。ただでさえ学校の美術の授業だって得意じゃないのに。
 描いたり消したりを繰り返していると、ヴェルナーさんが立ち上がり、棚から何かを持ってくる。


「これを貸そう。俺が昔使っていたスケールだ」

「……スケール?」


 手渡されたそれは、広げた掌くらいの大きさ。長方形の木枠の中に、黒い糸が格子状になるよう等間隔にぴんと張られている。


「その木枠を通してモチーフを覗くんだ」


 言われるままにスケールを顔の前方にかざすと、糸でできた黒いマス目の向こうにモチーフが見える。
 ヴェルナーさんの説明によると、そのスケールなるものは紙と同じ比率で作られていて、紙にも等間隔に線を描いて、それをスケールのマス目と照らし合わせることで、モチーフの正確な形が取りやすくなるらしい。 


「ただし、あまりこれに頼りすぎてもデッサン力が身に付かないから、ある程度慣れたら使わないほうがいい」


 言われた通りスケールからモチーフを覗きながら、紙に線を引いてゆく。確かに形が取りやすい。というか、見える通りに線を引いていくと、いつの間にかそれなりの形になっている。
 スケールに頼りすぎるのはよくないという言葉もわかる気がする。自分の目でモチーフを見て描くというよりも、スケールから見えた通りに線を引くという作業になっているのだ。しかも何も考えずともそれなりの形になる。これは人を堕落させる恐ろしい道具かもしれない。

 ともかく、そのおかげでなんとかモチーフの形は取れたものの、今度は質感が上手くいかない。林檎なんて棒の刺さったいびつなボールのようだ。
 もうデッサンを始めてからどれくらい経ったんだろう。そろそろおなかが空いてきた。
 わたしは傍らに置いてあった修正用のパンから耳の部分を剥がすと、丸めて口に放り込む。
 すると、背後から小さな忍び笑いが聞こえた。
 慌てて振り返ると、ヴェルナーさんが俯いて咳払いでもするように口元に手を当てていた。
 もしかして、今の見られていた? おなかが空いたからついやってしまったけれど……。


「あの、ヴェルナーさん、今の……」


 おそるおそる声を掛けると、ヴェルナーさんが顔を上げる。少し和らいだ目をこちらに向けて。


「……ああ、いや、同じ事をするんだなと思って」

「え?」

「……俺も昔よくやっていた……パンの耳」

「ほんとですか?」

「……ああ。冬はストーブで少し炙ると美味い」

「あ、それは確かにおいしそう!」


 なんだ。みんな食べているんじゃないか。やっぱりクルトが気にしすぎなのでは。


「クルトはやめろって言うんですよ。使い終わったら棄てるものなんだから、ゴミを食べているも同然だって」

「……まあ、そう考える人間もいるだろうな――そういえば」


 ヴェルナーさんが何かを思い出したように瞬きする。


「きみから貰った手紙。あれの住所を見て気づいたんだが、きみ達はクラウス学園の生徒なのか?」

「はい、そうです。クルトとは寮で一緒の部屋なんですよ」

「そうか……それならやはり俺の思い違いだったんだな」

「なにがですか?」


 問い返すとヴェルナーさんはちょっと目を逸らす。


「……気を悪くしないで欲しいんだが……初めてきみを見たとき、てっきり女の子かと……」

「え?」

「でも、服装は男の子そのものだったから、違うのではと思い直した」

「ええと……わたし、ときどき間違えられるんですよ。女の子みたいに愛らしいって事ですかね。あはは……」


 性別の事がばれたのかと一瞬焦ったが、彼の口振りから察するにそうではないようだ。
 しかし、よく考えたらヴェルナーさんは人の顔が判別できないはずだ。どこを見てわたしの事を女だと思ったんだろう。もしかして、その部分をもっと上手く隠すことができれば、今以上に性別を誤魔化せるのでは?
 そう思って尋ねてみる事にした。


「ヴェルナーさん。参考までにお聞きしたいんですが、わたしのどのあたりが女の子みたいだったんですか?」

「骨格だ」


 あ、それは自分ではどうしようもできない。


「……それもあって、君が本物の女性と入れ替わっていても判別できなかったんだが……」


 ヴェルナーさんはわたしの全身にちらっと目を走らせる。


「だが、男子校に女の子がいるわけがない。やはり俺の勘違いだ」


 よかった。ヴェルナーさんが疑り深い人じゃなくて。
 それにしても――と、わたしはヴェルナーさんの顔をちらりと見上げる。
 この人、案外普通に話してくれるんだな。無口で少し怖い人かと思っていたけれど、本当は違うのかも……。
 そんな事を思っていると、ヴェルナーさんが手にしていた本を閉じて椅子から立ち上がる。


「……そろそろ昼食にしよう。パンの耳だけでは足りないだろう?」






 ヴェルナーさんに連れられてアトリエを出る。暫く歩くと賑やかな市場にぶつかった。
 食品や日用品など、様々なものを扱う屋台がずらりと立ち並び、ひっきりなしに大勢の人が行き交う。
 この街にこんなところがあったなんて知らなかった。物珍しさに、ついきょろきょろと周りを見回してしまう。


「……そういえば、さっき――」


 隣を歩くヴェルナーさんが口を開く。


「林檎を描くのに苦戦していたようだが……」

「あ、わかりました? 簡単そうなのにすごく難しくて……全然林檎らしく見えないんです」

「角を探すといい」

「……かど? 角って、林檎の角ですか?」

「……そうだ。林檎の表面は滑らかな曲線を描いているように見えるが、その実、連続した角の集合体だ。絵にしろ彫刻にしろ、林檎の角を表現する事ができれば一層本物らしく見える」


 どうしよう。何を言っているのかわからない……林檎って丸いものじゃないのか。角って一体何の事なんだろう……。


「ええと……」


 どう答えていいかわからず曖昧に言葉を濁すと、ヴェルナーさんもそれを察してくれたようだ。


「……まあ、焦らなくていい。描いているうちにわかる事もあるし、わからなくてもいつの間にか描けている事もある」


 わたしは果物を売る屋台に目を向ける。山のように積みあがっているたくさんの林檎。確かにそれぞれ形は違うが、どれも丸くて角なんてあるように見えない。ヴェルナーさんには見えるんだろうか。不思議だ。
 前方に視線を戻そうとして、ふと、隣の屋台が気になった。雑貨や小物類を扱っているようだが、その中の一つの品に目が留まる。


「あの、ヴェルナーさん、これ……」


 わたしはヴェルナーさんを呼び止めようと振り返る。
 だが――


「あれ? ヴェルナーさん?」


 慌てて辺りを見回すも、どこにも彼の姿はなかった。


「え、うそ……」


 もしかして、はぐれてしまった……?
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