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7月の入学
7月の入学 1
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「はぁ、やっと着いた」
窮屈な乗り合い馬車から石畳の地面へと降り、溜息と共にあたりを見回す。決して柔らかいとは言い難い椅子に長時間座っていたせいかお尻が痛い。新鮮な空気を取り入れるように、首に巻かれた白いマフラーを緩める。
西暦一八九七年。
ヨーロッパ中部に位置するエリストリア王国。わたしは学校へ通うため、そのエリストリアの地方都市アルヴァナへとやってきた。
目の前は大きな広場になっていて、今も馬車や大勢の人々が行き交っている。その周りを取り囲むように色々な屋台や高さのある石造りの建物が立ち並び、あたりはちょっとしたお祭りのように賑やかだ。
「わあ、噴水がある」
わたしは古びたトランクを携えて、広場の中心へと歩を進めると、きらきらと眩い光を振りまきながら噴き上がる水に思わず目を細める。周りでは小鳥が地面をついばんでいたりして、なんとも平和な光景だ。
近づいて水面を覗き込むと、自分の姿が映る。光沢のある藁のような色の中途半端な長さの金髪をリボンで束ね、男子用の制服に身を包んだ少女。その緑色の瞳が自信なさげな色を宿して見えるのは気のせいだろうか。無意識のうちに、左目の下にあるほくろのあたりに指で触れる。ゆらゆらと不規則に揺れる水面が、今の自分の心を表しているかのようだ。
その妙な不安感を追い払うように首を振り、水底に目を移すと、硬貨が何枚も沈んでいるのが見えた。十クラール銅貨に百クラール銀貨。その中でときおり特別な輝きを放つのは、なんと五百クラール銀貨……!
反射的に手を伸ばしそうになり、慌てて引っ込める。あぶない。落ちているお金を見ると、つい……しかし五百クラール銀貨なんて大金を投げ入れるとは、世の中には物好きな人もいるんだなあ。
「お前さん、クラウス学園の新入生かね」
顔を上げると、声の主は噴水の縁石に腰掛けた老紳士だった。
い、今の、見られてた?
一瞬焦るが、老紳士の表情が好意的なものだったので警戒心を解く。
でも、どうしてわかったんだろう。確かに制服を見れば、クラウス学園の生徒だというのは明白だが、新入生かどうかまで言い当てるなんて。
その疑問が顔に出ていたのか、老紳士は破顔する。
「長い事ここに住んでいる人間にとっては、噴水なんて見慣れているからね。この時期にそんな物珍しそうに噴水を眺めてる子は、新入生くらいだよ」
なるほど。とひとり頷いていると、彼は続ける。
「ああそうだ。この街に来た記念に教えてあげよう。この噴水の言い伝えを」
「言い伝え、ですか?」
「そう。噴水に背中を向けたままコインを投げて、見事水の中に入れる事ができれば願いが叶うと言われているんだよ」
なんだかどこかで聞いた事があるような……まあ、よくある類の伝承なんだろう。でも、どうしようかな。せっかくだから試してみようか。水底に沈む硬貨の量から考えるに、案外ご利益があるのかもしれないし。
財布から銅貨を一枚取り出し、噴水に背を向ける。
――どうか、これからの学園生活がうまくいきますように――
願いを込めてから、思い切ってうしろに放り投げる。周囲の騒音に紛れて硬貨の落ちる音は聞こえなかったが、噴水のほうを振り返ると、笑顔の老紳士が深く頷いた。
彼と別れ、学校へ向かうために歩き出す。これから入学する予定のクラウス学園は、一六歳から一八歳までの男子が通う三年制の学校らしい。神父様からは、わたしの性別を含めた素性が他者に知られる事の無いようにと重々言い含められていたが、女の子のわたしがそんな学校へ通うなんて、ここへきてもいまだ実感できずにいた。
確か簡単な地図を持ってきていたはずだ。制服のポケットをまさぐる。が、いくら探しても、ポケットの中には紙切れ一枚、綿埃ひとかけら入っていない。
まさか、なくした……? うそ、どうしよう……。
先ほどの老紳士に道を訪ねようか? そう思って引き返そうとした矢先、自分と同じクラウス学園の制服を着た少年の姿が目に入った。ちょうどいい具合にこちらに向かって歩いてくる。
同じ学校の生徒なら、校舎の場所だって知っているに違いない。よし、あの人に聞こう。
「あの……」
少年が近づいたところで声をかけるが、彼は何か考え事をしているのか、難しい顔をしたままこちらを見る事もなく、目の前を通り過ぎてしまった。
もしかして、聞こえなかったのかな……。
「あの、すみません!」
慌ててもう一度、先ほどより大きな声を出すと、少年はやっと気づいたのか、はっとしたように立ち止まり、訝しげな視線をこちらに向ける。背の高い少年だ。
「……なにか?」
「ええと、あなたもクラウス学園の生徒ですよね。すみませんが、学校までの道を教えてもらえませんか? 実は、地図をなくしてしまって……」
「ああ、なんだ。それならちょうどいい。俺も学校に向かうところだったし、案内しよう」
少年の表情がふっと緩んだかと思うと、にこりと微笑む。
不意にそこにだけ光が差し込んだように錯覚した。思わずその笑顔に見とれそうになり、慌てて我に返る。
「ええと、よろしくお願いします」
あたふたしながらも、目の前の少年をさりげなく観察する。
艶やかな黒髪に映える白い肌。形のいい眉にくっきりとした涼しげな目もと。透明度の高い紫水晶のような瞳には、先ほどまでの警戒心は見られない。その端正な顔立ちと物腰にはどことなく気品が漂い、生まれ育った環境が特別なのだと感じられる。
それにひきかえ自分はどうだろう。背だって高くないし、体つきだって貧相だ。そもそも性別が違うのだから当たり前なのだが。それでもなんとなくひとり気まずくなって、人差し指で頬を掻く。
と、唐突に、わたしのおなかから蛙の鳴き声のような音がした。思い返してみれば、今日は朝食以外口にしていない。無事学校に辿り着けそうだと判明して緊張が緩んだみたいだ。
ああ、おなか空いたなあ……。
すると目の前の少年が急にきょろきょろしだした。何かを探すように周囲の地面にしきりと目を向けている。
「どうかしました?」
「今、蛙の鳴き声がしなかったか? もしも踏んだら厄介だと思って。君にも聞こえただろう? ずいぶん大きな声だったし……」
この人は一体何を言い出すんだ。よりにもよって、わたしのおなかの音を本当に蛙の鳴き声と間違えるとは。しかも放っておけばいいものを、踏まないように気遣うだなんて、驚くべきお人よし。
急に恥ずかしさが襲ってきて顔が熱くなる。
できる事なら黙っていたかったが、いるはずのない蛙を探し続ける少年をこのまま放っておくわけにもいかず、意を決して口を開く。
「あの……たぶん、それはわたしのおなかの音です……」
噴水の見えるカフェの、屋外に並べられた白い円形のテーブルに、わたしたちは向かい合って座っていた。
「すみません。こんなところに寄り道してもらっちゃって……」
言いながらレモネードのグラスを傾ける。ほのかに黄色く色づいた液体には、薄切りにされたレモンが浮いていて涼しげだ。
わたしのおなかの蛙があまりにも哀れな鳴き声を発していたのか、学校へ向かう前にカフェに寄ろうと少年が提案してくれたのだ。なかなか気が利く優しい少年ではないか。
「そういえば、自己紹介がまだでしたね。わたしはユーリと言います。七月生まれだからこの名前で……単純ですよね。あはは」
わたしが名乗ると、少年はちらっと笑顔を見せて、飲んでいたカフェオレのカップを置いた。
「俺はクルト。クラウス学園の一年生になる」
「あ、それならわたしと同じです」
長身のせいか大人びて見えるから、てっきり上級生かと思った。でも、同級生なら気兼ねする必要もない。
すっかり安心しきって、ケーキの乗ったお皿を引き寄せフォークで切り分け口に運ぶ。
「わあ、このイチジクのタルトすごくおいしい! まったりとして、それでいてしつこくなく、上品な甘みが口に広がる……」
あ、レモネードがもうない。おかわりを頼もうかな……?
「ああ、きょうだい達にも食べさせてあげたいなあ。そうそう、わたしの家って大家族なんですよ。兄も姉も、弟も妹もいて」
調子よく喋っていると、わたしより少し年下であろう男の子が、クルトの後方から走ってくるのが目に入った。
「ちょうどあの男の子くらいの……」
言いかけたその時、当の男の子が何かに躓いた。あっと思う間もなく、その身体は豪快に前方へと投げ出される。
と、次の瞬間、男の子の周りにばらばらと何かが散らばる。こちらにもいくつか転がってきた。
「だ、大丈夫!?」
咄嗟に駆け寄ると、男の子はすぐに起き上がる。幸いにも怪我はなかったようだ。しかし安心したのもつかの間、男の子は素早く周囲を見回しながら
「に、人形が……」
焦ったような声を上げ、屈みこんで周りに散らばったものを拾い始めた。見れば、地面には雪だるまを少し縦長にしたような形の、手のひら大の人形がいくつも転がっていた。それらには色とりどりに着彩されていて、人形といっても玩具というより工芸品の類のようだ。
男の子は大きな袋をふたつ手にしている。どうやら転んだ拍子に袋の口が開いて、そこから人形達が飛び出してしまったらしい。
「俺達も手伝おう」
クルトの言葉に、三人で周囲に散らばった人形を拾い上げてはテーブルに並べてゆく。幸いにもどれひとつ割れたり欠けたりする事はなかったみたいだ。
「あの、ありがとうございます。助かりました」
男の子はお礼を述べるものの、何故かすぐに人形を袋に入れようとはせず、戸惑ったような視線をテーブルの上に注いでいる。
「どうかしたんですか?」
その態度が気になって尋ねると、男の子は一瞬目を泳がせた後、おずおずと話し始める。
「ええと、実は、この人形の置物はぼくの働いている工房で作っているもので、何軒かのお店にも卸していて……それで今、お店に新しい人形を卸して、古い人形を回収するっていう仕事の途中だったんですけど……さっき転んだ拍子に、ふたつに分けていた袋から人形がいっぺんに飛び出て……古い人形と新しい人形が混ざって、どっちがどっちだかわからなくなってしまったんです」」
「え?」
わたしは思わずテーブルの上に視線を向ける。そこには同じように着彩された木製の人形がずらりと並んでいる。
「それなら見た目でわかるんじゃないか? 古いほうは劣化しているはず……」
言いかけてクルトは口を噤んだ。少年もそれを察したのか首を振る。
「その……古い人形と言っても、あまり年月の経っていなくて、殆ど見た目に変化がないものもあるんです。見ての通り、色も同じだし……」
男の子の声が弱々しくなっていく。
「どうしよう……いくら見た目じゃわからないとはいえ、古い可能性のある人形をお店に渡したら親方に怒られるし、工房の評判も落とす事になっちゃう……」
その様子を見て、わたしははっとした。不意に弟の顔が思い浮かび、それが男の子の面影と重なる。まるで弟が泣き出しそうになっているかのように錯覚して、気がつけばわたしは自分の左目の下に指先で触れていた。それはわたしが考え事をする時の癖で、そうすると頭の中が澄んでいくような気がするのだ。
少しの間を置いてわたしは口を開く。
「この人形って、木でできているんですよね。何の木を使ってるかわかりますか?」
「ええと、確か、古い方が杉で、新しいほうはイチイだったはずです。今までは杉を使っていたんですけど、今回はイチイが安く仕入れられたので……」
それを聞いて一筋の光明が差した気がした。
「だったら、重さでわかるかもしれません。イチイのほうが杉より重いんですよ。だから、新しい人形の方が重いはずです」
それを聞いて男の子は目を丸くした。
「確かにそうかも……」
「このカフェで秤を借りたらどうでしょうか。それで確かめられるかもしれません」
「それなら俺が行ってくる」
クルトが秤を借りてきてくれたので、早速秤皿に人形を乗せていく。
どうかわたしの予測が当たっていますように……!
ひとつ、ふたつと重さを計っていくと、秤の目盛りを確認したクルトが驚いたようにわたしを見た。
「君の言った通りだ。人形の重さに差がある」
その言葉と共に、いつの間にかわたしたちの間に漂っていた緊張が、ふっと緩んだ気がした。
「これではっきりしましたね。予想通り、重いほうが新しい人形なんですよ」
わたしの言葉に、男の子はぱっと表情を明るくした。
「あの、本当にありがとうございました!」
男の子は何度も感謝の言葉を口にすると、去り際に工房の場所を教えてくれた。近くに来た際には是非立ち寄って欲しいとも。
わたしとクルトもほどなくカフェを後にする。
学校への道すがら、先ほどの男の子の笑顔を思い出して心がふわっと暖かくなるのを感じた。あの子、どことなく弟に似ていた。つい昨日まで一緒に過ごしていた弟の事を思い出し、なんだか懐かしい気分に浸っていると、隣を歩いていたクルトが口を開く。
「君は、いつもあんな調子なのか?」
「あんな調子って……?」
「ええと、だからその……さっきみたいに問題事を解決したりだとか」
「ああ、あれは偶然ですよ。人形が木製で、しかも違う種類でできていたからわかった事です。もしも石膏だったりしたらお手上げだったかも」
「ふうん……」
なぜかクルトは腑に落ちない様子で、曖昧な言葉を返したきり黙り込んでしまった。
どうしたんだろう。わたし、何か変な事言ったかな……。
ともあれ、あの男の子が傷つかずに済みそうでよかった。改めて安堵すると共に、なんだか急に疲労感と空腹感が襲ってきた。
ああ、甘いものが食べたい。とびっきり甘いお菓子が……。
窮屈な乗り合い馬車から石畳の地面へと降り、溜息と共にあたりを見回す。決して柔らかいとは言い難い椅子に長時間座っていたせいかお尻が痛い。新鮮な空気を取り入れるように、首に巻かれた白いマフラーを緩める。
西暦一八九七年。
ヨーロッパ中部に位置するエリストリア王国。わたしは学校へ通うため、そのエリストリアの地方都市アルヴァナへとやってきた。
目の前は大きな広場になっていて、今も馬車や大勢の人々が行き交っている。その周りを取り囲むように色々な屋台や高さのある石造りの建物が立ち並び、あたりはちょっとしたお祭りのように賑やかだ。
「わあ、噴水がある」
わたしは古びたトランクを携えて、広場の中心へと歩を進めると、きらきらと眩い光を振りまきながら噴き上がる水に思わず目を細める。周りでは小鳥が地面をついばんでいたりして、なんとも平和な光景だ。
近づいて水面を覗き込むと、自分の姿が映る。光沢のある藁のような色の中途半端な長さの金髪をリボンで束ね、男子用の制服に身を包んだ少女。その緑色の瞳が自信なさげな色を宿して見えるのは気のせいだろうか。無意識のうちに、左目の下にあるほくろのあたりに指で触れる。ゆらゆらと不規則に揺れる水面が、今の自分の心を表しているかのようだ。
その妙な不安感を追い払うように首を振り、水底に目を移すと、硬貨が何枚も沈んでいるのが見えた。十クラール銅貨に百クラール銀貨。その中でときおり特別な輝きを放つのは、なんと五百クラール銀貨……!
反射的に手を伸ばしそうになり、慌てて引っ込める。あぶない。落ちているお金を見ると、つい……しかし五百クラール銀貨なんて大金を投げ入れるとは、世の中には物好きな人もいるんだなあ。
「お前さん、クラウス学園の新入生かね」
顔を上げると、声の主は噴水の縁石に腰掛けた老紳士だった。
い、今の、見られてた?
一瞬焦るが、老紳士の表情が好意的なものだったので警戒心を解く。
でも、どうしてわかったんだろう。確かに制服を見れば、クラウス学園の生徒だというのは明白だが、新入生かどうかまで言い当てるなんて。
その疑問が顔に出ていたのか、老紳士は破顔する。
「長い事ここに住んでいる人間にとっては、噴水なんて見慣れているからね。この時期にそんな物珍しそうに噴水を眺めてる子は、新入生くらいだよ」
なるほど。とひとり頷いていると、彼は続ける。
「ああそうだ。この街に来た記念に教えてあげよう。この噴水の言い伝えを」
「言い伝え、ですか?」
「そう。噴水に背中を向けたままコインを投げて、見事水の中に入れる事ができれば願いが叶うと言われているんだよ」
なんだかどこかで聞いた事があるような……まあ、よくある類の伝承なんだろう。でも、どうしようかな。せっかくだから試してみようか。水底に沈む硬貨の量から考えるに、案外ご利益があるのかもしれないし。
財布から銅貨を一枚取り出し、噴水に背を向ける。
――どうか、これからの学園生活がうまくいきますように――
願いを込めてから、思い切ってうしろに放り投げる。周囲の騒音に紛れて硬貨の落ちる音は聞こえなかったが、噴水のほうを振り返ると、笑顔の老紳士が深く頷いた。
彼と別れ、学校へ向かうために歩き出す。これから入学する予定のクラウス学園は、一六歳から一八歳までの男子が通う三年制の学校らしい。神父様からは、わたしの性別を含めた素性が他者に知られる事の無いようにと重々言い含められていたが、女の子のわたしがそんな学校へ通うなんて、ここへきてもいまだ実感できずにいた。
確か簡単な地図を持ってきていたはずだ。制服のポケットをまさぐる。が、いくら探しても、ポケットの中には紙切れ一枚、綿埃ひとかけら入っていない。
まさか、なくした……? うそ、どうしよう……。
先ほどの老紳士に道を訪ねようか? そう思って引き返そうとした矢先、自分と同じクラウス学園の制服を着た少年の姿が目に入った。ちょうどいい具合にこちらに向かって歩いてくる。
同じ学校の生徒なら、校舎の場所だって知っているに違いない。よし、あの人に聞こう。
「あの……」
少年が近づいたところで声をかけるが、彼は何か考え事をしているのか、難しい顔をしたままこちらを見る事もなく、目の前を通り過ぎてしまった。
もしかして、聞こえなかったのかな……。
「あの、すみません!」
慌ててもう一度、先ほどより大きな声を出すと、少年はやっと気づいたのか、はっとしたように立ち止まり、訝しげな視線をこちらに向ける。背の高い少年だ。
「……なにか?」
「ええと、あなたもクラウス学園の生徒ですよね。すみませんが、学校までの道を教えてもらえませんか? 実は、地図をなくしてしまって……」
「ああ、なんだ。それならちょうどいい。俺も学校に向かうところだったし、案内しよう」
少年の表情がふっと緩んだかと思うと、にこりと微笑む。
不意にそこにだけ光が差し込んだように錯覚した。思わずその笑顔に見とれそうになり、慌てて我に返る。
「ええと、よろしくお願いします」
あたふたしながらも、目の前の少年をさりげなく観察する。
艶やかな黒髪に映える白い肌。形のいい眉にくっきりとした涼しげな目もと。透明度の高い紫水晶のような瞳には、先ほどまでの警戒心は見られない。その端正な顔立ちと物腰にはどことなく気品が漂い、生まれ育った環境が特別なのだと感じられる。
それにひきかえ自分はどうだろう。背だって高くないし、体つきだって貧相だ。そもそも性別が違うのだから当たり前なのだが。それでもなんとなくひとり気まずくなって、人差し指で頬を掻く。
と、唐突に、わたしのおなかから蛙の鳴き声のような音がした。思い返してみれば、今日は朝食以外口にしていない。無事学校に辿り着けそうだと判明して緊張が緩んだみたいだ。
ああ、おなか空いたなあ……。
すると目の前の少年が急にきょろきょろしだした。何かを探すように周囲の地面にしきりと目を向けている。
「どうかしました?」
「今、蛙の鳴き声がしなかったか? もしも踏んだら厄介だと思って。君にも聞こえただろう? ずいぶん大きな声だったし……」
この人は一体何を言い出すんだ。よりにもよって、わたしのおなかの音を本当に蛙の鳴き声と間違えるとは。しかも放っておけばいいものを、踏まないように気遣うだなんて、驚くべきお人よし。
急に恥ずかしさが襲ってきて顔が熱くなる。
できる事なら黙っていたかったが、いるはずのない蛙を探し続ける少年をこのまま放っておくわけにもいかず、意を決して口を開く。
「あの……たぶん、それはわたしのおなかの音です……」
噴水の見えるカフェの、屋外に並べられた白い円形のテーブルに、わたしたちは向かい合って座っていた。
「すみません。こんなところに寄り道してもらっちゃって……」
言いながらレモネードのグラスを傾ける。ほのかに黄色く色づいた液体には、薄切りにされたレモンが浮いていて涼しげだ。
わたしのおなかの蛙があまりにも哀れな鳴き声を発していたのか、学校へ向かう前にカフェに寄ろうと少年が提案してくれたのだ。なかなか気が利く優しい少年ではないか。
「そういえば、自己紹介がまだでしたね。わたしはユーリと言います。七月生まれだからこの名前で……単純ですよね。あはは」
わたしが名乗ると、少年はちらっと笑顔を見せて、飲んでいたカフェオレのカップを置いた。
「俺はクルト。クラウス学園の一年生になる」
「あ、それならわたしと同じです」
長身のせいか大人びて見えるから、てっきり上級生かと思った。でも、同級生なら気兼ねする必要もない。
すっかり安心しきって、ケーキの乗ったお皿を引き寄せフォークで切り分け口に運ぶ。
「わあ、このイチジクのタルトすごくおいしい! まったりとして、それでいてしつこくなく、上品な甘みが口に広がる……」
あ、レモネードがもうない。おかわりを頼もうかな……?
「ああ、きょうだい達にも食べさせてあげたいなあ。そうそう、わたしの家って大家族なんですよ。兄も姉も、弟も妹もいて」
調子よく喋っていると、わたしより少し年下であろう男の子が、クルトの後方から走ってくるのが目に入った。
「ちょうどあの男の子くらいの……」
言いかけたその時、当の男の子が何かに躓いた。あっと思う間もなく、その身体は豪快に前方へと投げ出される。
と、次の瞬間、男の子の周りにばらばらと何かが散らばる。こちらにもいくつか転がってきた。
「だ、大丈夫!?」
咄嗟に駆け寄ると、男の子はすぐに起き上がる。幸いにも怪我はなかったようだ。しかし安心したのもつかの間、男の子は素早く周囲を見回しながら
「に、人形が……」
焦ったような声を上げ、屈みこんで周りに散らばったものを拾い始めた。見れば、地面には雪だるまを少し縦長にしたような形の、手のひら大の人形がいくつも転がっていた。それらには色とりどりに着彩されていて、人形といっても玩具というより工芸品の類のようだ。
男の子は大きな袋をふたつ手にしている。どうやら転んだ拍子に袋の口が開いて、そこから人形達が飛び出してしまったらしい。
「俺達も手伝おう」
クルトの言葉に、三人で周囲に散らばった人形を拾い上げてはテーブルに並べてゆく。幸いにもどれひとつ割れたり欠けたりする事はなかったみたいだ。
「あの、ありがとうございます。助かりました」
男の子はお礼を述べるものの、何故かすぐに人形を袋に入れようとはせず、戸惑ったような視線をテーブルの上に注いでいる。
「どうかしたんですか?」
その態度が気になって尋ねると、男の子は一瞬目を泳がせた後、おずおずと話し始める。
「ええと、実は、この人形の置物はぼくの働いている工房で作っているもので、何軒かのお店にも卸していて……それで今、お店に新しい人形を卸して、古い人形を回収するっていう仕事の途中だったんですけど……さっき転んだ拍子に、ふたつに分けていた袋から人形がいっぺんに飛び出て……古い人形と新しい人形が混ざって、どっちがどっちだかわからなくなってしまったんです」」
「え?」
わたしは思わずテーブルの上に視線を向ける。そこには同じように着彩された木製の人形がずらりと並んでいる。
「それなら見た目でわかるんじゃないか? 古いほうは劣化しているはず……」
言いかけてクルトは口を噤んだ。少年もそれを察したのか首を振る。
「その……古い人形と言っても、あまり年月の経っていなくて、殆ど見た目に変化がないものもあるんです。見ての通り、色も同じだし……」
男の子の声が弱々しくなっていく。
「どうしよう……いくら見た目じゃわからないとはいえ、古い可能性のある人形をお店に渡したら親方に怒られるし、工房の評判も落とす事になっちゃう……」
その様子を見て、わたしははっとした。不意に弟の顔が思い浮かび、それが男の子の面影と重なる。まるで弟が泣き出しそうになっているかのように錯覚して、気がつけばわたしは自分の左目の下に指先で触れていた。それはわたしが考え事をする時の癖で、そうすると頭の中が澄んでいくような気がするのだ。
少しの間を置いてわたしは口を開く。
「この人形って、木でできているんですよね。何の木を使ってるかわかりますか?」
「ええと、確か、古い方が杉で、新しいほうはイチイだったはずです。今までは杉を使っていたんですけど、今回はイチイが安く仕入れられたので……」
それを聞いて一筋の光明が差した気がした。
「だったら、重さでわかるかもしれません。イチイのほうが杉より重いんですよ。だから、新しい人形の方が重いはずです」
それを聞いて男の子は目を丸くした。
「確かにそうかも……」
「このカフェで秤を借りたらどうでしょうか。それで確かめられるかもしれません」
「それなら俺が行ってくる」
クルトが秤を借りてきてくれたので、早速秤皿に人形を乗せていく。
どうかわたしの予測が当たっていますように……!
ひとつ、ふたつと重さを計っていくと、秤の目盛りを確認したクルトが驚いたようにわたしを見た。
「君の言った通りだ。人形の重さに差がある」
その言葉と共に、いつの間にかわたしたちの間に漂っていた緊張が、ふっと緩んだ気がした。
「これではっきりしましたね。予想通り、重いほうが新しい人形なんですよ」
わたしの言葉に、男の子はぱっと表情を明るくした。
「あの、本当にありがとうございました!」
男の子は何度も感謝の言葉を口にすると、去り際に工房の場所を教えてくれた。近くに来た際には是非立ち寄って欲しいとも。
わたしとクルトもほどなくカフェを後にする。
学校への道すがら、先ほどの男の子の笑顔を思い出して心がふわっと暖かくなるのを感じた。あの子、どことなく弟に似ていた。つい昨日まで一緒に過ごしていた弟の事を思い出し、なんだか懐かしい気分に浸っていると、隣を歩いていたクルトが口を開く。
「君は、いつもあんな調子なのか?」
「あんな調子って……?」
「ええと、だからその……さっきみたいに問題事を解決したりだとか」
「ああ、あれは偶然ですよ。人形が木製で、しかも違う種類でできていたからわかった事です。もしも石膏だったりしたらお手上げだったかも」
「ふうん……」
なぜかクルトは腑に落ちない様子で、曖昧な言葉を返したきり黙り込んでしまった。
どうしたんだろう。わたし、何か変な事言ったかな……。
ともあれ、あの男の子が傷つかずに済みそうでよかった。改めて安堵すると共に、なんだか急に疲労感と空腹感が襲ってきた。
ああ、甘いものが食べたい。とびっきり甘いお菓子が……。
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【完結】殿下、自由にさせていただきます。
なか
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