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7月の入学
7月の入学 12
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それからフランツとテオの間に流れる空気は、傍目にもわかるほど険悪なものになった。食事中はおろか、自室でもまったく言葉を交わさない。まるでお互いがお互いを存在しないものとして扱っているようだ。重い空気に耐え切れないわたしが話しかけても、そっけない返事が返ってくるだけ。居心地悪いことこの上ない。思い切って二人に話し合いを勧めようかとも考えたが、そのたびにあの日のクルトの言葉が思い出されて、何もできずに時が過ぎていった。
その日の朝も、起床の鐘が鳴る少し前にわたしは目を覚ました。クルトはまだ眠っているようだ。起こさないように静かにクローゼットに歩み寄ると、中から制服を取り出し、扉の陰で素早く着替える。それから髪を束ねようとして、リボンを手に取る。そこでふと考えた。
髪にリボンなんて、やっぱり男の子っぽくないだろうか。性別を隠すためにはむしろ排除したほうがいいのかもしれない。これまでも何度かそんな事を思ったけれども、わたしにはそれができずにいた。きっと、わたしの中の「女の子」の部分が「男の子」として生きる事を拒否しているからだ。このリボンもそんなわたしの些細な反抗心の表れなのだ。
結局リボンで髪を結んでから、顔を洗うために寝室を出ると、ソファに横たわるフランツの姿が眼に入った。毛布から覗く顔がなんだか青白いような気がする。そっと近づいたつもりだが、気配を察したのかフランツが薄く目を開けた。
「ん……もう朝か」
そう言って大きく伸びをすると、ゆっくりと身体を起こす。
「おはようございます。フランツ、なんだか顔色が悪いですよ。大丈夫ですか?」
「……別に、普通」
そう言った途端、くしゃみをひとつする。風邪だろうか。なんにせよ、こんなところで寝ていては体調を崩しても仕方がない。
わたしはソファの空いている空間を探し、フランツの足元あたりに腰掛ける。
「最近眠れてます?」
「なんだよそれ。医者みたいな事言うんだな」
フランツはそう言って笑うが、その目は少し赤くなっていて、疲れているように見える。
いつまでこんな生活を続けるつもりなんだろう。いずれにしろ、今後も続くようでは身が持たない。クルトはああ言ったけれども、フランツのこんな姿を見てはやっぱり放っておけない。おせっかいで結構。同じ考え方を周囲に求めるなというのなら、自分ひとりでも行動してやろうじゃないか。
「ねえフランツ。こんな事言うのは差し出がましいとは思いますけど……テオと話し合ってみたらどうですか?」
「……人を泥棒扱いするような奴と話す事なんてねえよ」
フランツは不機嫌そうに顔を背ける。その気持ちも確かに判るが、わたしは食い下がる。
「でも、お互い何か誤解があったのかも……フランツも以前からテオと距離があったみたいだし、もしかしてそのせいでテオも頑なになってしまったとか……」
フランツは黙ったままだ。
「こんな生活続けていたら、いつか倒れちゃいますよ。話し合って、それでも上手くいかなかったら仕方がないです。駄目だった時は、わたしの寝室と取り替えてもいいですから。クルトに文句は言わせません。だから、お願いします……!」
フランツはしばらくの間無言でわたしを見つめていたが、やがて大きく一つ溜息を漏らす。
「お前さあ、誰かにおせっかいとか言われた事ないか?」
「……ええ、まあ」
やっぱり迷惑だったかな。余計な事を言ったのかも。軽い自己嫌悪に陥りつつわたしは俯く。
「なあ、また、あれやってくれよ」
「え?」
「お前の家に伝わる『よく眠れるおまじない』ってやつ」
「え、はい、いいですけど……」
急に何を言い出すんだろう。どうして今そんな話を?
訳もわからず困惑していると、起床を知らせる鐘の音が鳴り渡った。
「それじゃ、約束したからな。今日の夜だぞ。忘れんなよ」
フランツは立ち上がると、毛布を乱暴に丸めてソファに放り投げる。
「あの、フランツ……」
「顔洗うんだろ? 早く行けよ。ぼやぼやしてると朝飯に遅れるだろ」
そう言って、部屋の隅に積み上げてある荷物の中から制服を引っ張り出す。着替えようとしているのだと気づいて、わたしは慌てて部屋を出る。
はぐらかされてしまった? 結局、わたしの言葉はフランツに届かなかった? それともやっぱり、おせっかいが過ぎただろうか。
廊下に出たわたしは振り返って、閉じたドアをじっと見つめていた。
授業が終わった後、図書館で借りた本を抱えて寮に戻る。自室に入ろうとドアノブに手をかけた瞬間、中から微かに変な音が聞こえたような気がした。
何だろう? 何かが床に落ちる音?
ドアを押し開けて目の前に現れた光景を、わたしの頭はすぐには理解できなかった。
部屋に漂うコーヒーの香りが鼻をつく。
最初は靴が床に転がっているのかと思った。しかし、すぐにそうではないと気づく。誰かが床に横たわっているのだ。ソファとテーブルの間から覗く赤味掛かった髪には見覚えがあった。
フランツ……? どうして床に寝ているんだろう?
「フランツ! おい、しっかりしろ!」
その傍らで、クルトが叫んでいる。膝をついて屈みこみ、フランツの肩を揺すっているようだ。
テーブルの反対側にはテオが真っ青な顔で立っている。
明らかに尋常でない様子に、わたしは思わず手にしていた本を取り落とす。それが床に当たってばさりと音を立てると、クルトとテオがはっとしたようにこちらに視線を向ける。
先に口を開いたのはテオだった。
「ああ、ユーリ。今、フランツが急に倒れて……」
「え?」
状況を把握できないわたしの戸惑いを遮るように、クルトが声を上げる。
「フランツを保健室に連れて行くぞ。意識がないみたいだ。テオ、手伝ってくれ」
「で、でも、テーブルを片付けないと……」
「落ち着くんだ。今はそれどころじゃないだろう?」
そう言うとクルトはフランツを抱き起こし、その腕を自らの肩に回す。テオも反対側から支えると、二人で抱えるようにフランツの身体を持ち上げる。
「ユーリ、ドアを」
「は、はい」
急いでドアを開け放つと、フランツを抱えた二人は慌しく部屋を出て行った。
ふとひとり取り残された部屋を振り返ると、踏み荒らされてページに足跡の付いた本。床に転がる割れたカップ。テーブルの上にぶちまけられた黒い液体は、端から滴り落ちて絨毯に染みを作っていた。
その日の朝も、起床の鐘が鳴る少し前にわたしは目を覚ました。クルトはまだ眠っているようだ。起こさないように静かにクローゼットに歩み寄ると、中から制服を取り出し、扉の陰で素早く着替える。それから髪を束ねようとして、リボンを手に取る。そこでふと考えた。
髪にリボンなんて、やっぱり男の子っぽくないだろうか。性別を隠すためにはむしろ排除したほうがいいのかもしれない。これまでも何度かそんな事を思ったけれども、わたしにはそれができずにいた。きっと、わたしの中の「女の子」の部分が「男の子」として生きる事を拒否しているからだ。このリボンもそんなわたしの些細な反抗心の表れなのだ。
結局リボンで髪を結んでから、顔を洗うために寝室を出ると、ソファに横たわるフランツの姿が眼に入った。毛布から覗く顔がなんだか青白いような気がする。そっと近づいたつもりだが、気配を察したのかフランツが薄く目を開けた。
「ん……もう朝か」
そう言って大きく伸びをすると、ゆっくりと身体を起こす。
「おはようございます。フランツ、なんだか顔色が悪いですよ。大丈夫ですか?」
「……別に、普通」
そう言った途端、くしゃみをひとつする。風邪だろうか。なんにせよ、こんなところで寝ていては体調を崩しても仕方がない。
わたしはソファの空いている空間を探し、フランツの足元あたりに腰掛ける。
「最近眠れてます?」
「なんだよそれ。医者みたいな事言うんだな」
フランツはそう言って笑うが、その目は少し赤くなっていて、疲れているように見える。
いつまでこんな生活を続けるつもりなんだろう。いずれにしろ、今後も続くようでは身が持たない。クルトはああ言ったけれども、フランツのこんな姿を見てはやっぱり放っておけない。おせっかいで結構。同じ考え方を周囲に求めるなというのなら、自分ひとりでも行動してやろうじゃないか。
「ねえフランツ。こんな事言うのは差し出がましいとは思いますけど……テオと話し合ってみたらどうですか?」
「……人を泥棒扱いするような奴と話す事なんてねえよ」
フランツは不機嫌そうに顔を背ける。その気持ちも確かに判るが、わたしは食い下がる。
「でも、お互い何か誤解があったのかも……フランツも以前からテオと距離があったみたいだし、もしかしてそのせいでテオも頑なになってしまったとか……」
フランツは黙ったままだ。
「こんな生活続けていたら、いつか倒れちゃいますよ。話し合って、それでも上手くいかなかったら仕方がないです。駄目だった時は、わたしの寝室と取り替えてもいいですから。クルトに文句は言わせません。だから、お願いします……!」
フランツはしばらくの間無言でわたしを見つめていたが、やがて大きく一つ溜息を漏らす。
「お前さあ、誰かにおせっかいとか言われた事ないか?」
「……ええ、まあ」
やっぱり迷惑だったかな。余計な事を言ったのかも。軽い自己嫌悪に陥りつつわたしは俯く。
「なあ、また、あれやってくれよ」
「え?」
「お前の家に伝わる『よく眠れるおまじない』ってやつ」
「え、はい、いいですけど……」
急に何を言い出すんだろう。どうして今そんな話を?
訳もわからず困惑していると、起床を知らせる鐘の音が鳴り渡った。
「それじゃ、約束したからな。今日の夜だぞ。忘れんなよ」
フランツは立ち上がると、毛布を乱暴に丸めてソファに放り投げる。
「あの、フランツ……」
「顔洗うんだろ? 早く行けよ。ぼやぼやしてると朝飯に遅れるだろ」
そう言って、部屋の隅に積み上げてある荷物の中から制服を引っ張り出す。着替えようとしているのだと気づいて、わたしは慌てて部屋を出る。
はぐらかされてしまった? 結局、わたしの言葉はフランツに届かなかった? それともやっぱり、おせっかいが過ぎただろうか。
廊下に出たわたしは振り返って、閉じたドアをじっと見つめていた。
授業が終わった後、図書館で借りた本を抱えて寮に戻る。自室に入ろうとドアノブに手をかけた瞬間、中から微かに変な音が聞こえたような気がした。
何だろう? 何かが床に落ちる音?
ドアを押し開けて目の前に現れた光景を、わたしの頭はすぐには理解できなかった。
部屋に漂うコーヒーの香りが鼻をつく。
最初は靴が床に転がっているのかと思った。しかし、すぐにそうではないと気づく。誰かが床に横たわっているのだ。ソファとテーブルの間から覗く赤味掛かった髪には見覚えがあった。
フランツ……? どうして床に寝ているんだろう?
「フランツ! おい、しっかりしろ!」
その傍らで、クルトが叫んでいる。膝をついて屈みこみ、フランツの肩を揺すっているようだ。
テーブルの反対側にはテオが真っ青な顔で立っている。
明らかに尋常でない様子に、わたしは思わず手にしていた本を取り落とす。それが床に当たってばさりと音を立てると、クルトとテオがはっとしたようにこちらに視線を向ける。
先に口を開いたのはテオだった。
「ああ、ユーリ。今、フランツが急に倒れて……」
「え?」
状況を把握できないわたしの戸惑いを遮るように、クルトが声を上げる。
「フランツを保健室に連れて行くぞ。意識がないみたいだ。テオ、手伝ってくれ」
「で、でも、テーブルを片付けないと……」
「落ち着くんだ。今はそれどころじゃないだろう?」
そう言うとクルトはフランツを抱き起こし、その腕を自らの肩に回す。テオも反対側から支えると、二人で抱えるようにフランツの身体を持ち上げる。
「ユーリ、ドアを」
「は、はい」
急いでドアを開け放つと、フランツを抱えた二人は慌しく部屋を出て行った。
ふとひとり取り残された部屋を振り返ると、踏み荒らされてページに足跡の付いた本。床に転がる割れたカップ。テーブルの上にぶちまけられた黒い液体は、端から滴り落ちて絨毯に染みを作っていた。
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