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鈴谷なつ

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紬の想い、侑の決意

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 紬の母は玄関の外に立っていた。きょろきょろと心配そうに辺りを見回しているのが、遠目からでも分かる。当然、娘の帰宅にもいち早く気づき、紬の母は駆け寄ってくる。

「紬! あなたこんな夜遅くに家を飛び出すなんて……心配したじゃない!」
「ごめんなさい」

 意外なことに、紬は素直に謝罪の言葉を口にした。家出の原因は間違いなく母親の行動にあり、紬もケンカするつもりだと言っていた。しかし心配をかけてしまったことはちゃんと反省しているらしい。
 紬の母はすぐに侑の方を見やり、深く頭を下げた。

「うちの娘がご迷惑をおかけしてすみません。わざわざ家まで送っていただいてありがとうございました」
「いえ、迷惑とかじゃないです。俺が勝手に駆けつけただけなので」

 驚いたように紬と侑を見比べた後、紬の母は「そうだとしてもありがとうございます」とお礼の言葉を繰り返す。
 そんな母の腕を引き、紬が家に入ろうと声を上げた。

「ケンカの立会人をしてもらうから、真島くんにもうちに上がってもらうからね」
「えっ? 今お客様に出せるお菓子なんてあったかしら」

 首を傾げて呟く紬の母親の姿は、紬が何かに悩んでいるときに見せる顔とよく似ていた。紬はきっと母親似なのだろう。
 侑が長居はしないので、と口にすると、紬の母は戸惑いながらも頷いた。
 これから親子ゲンカをすることが確定しているのに、部外者を家に招き入れるのは抵抗があるようだった。しかも時刻はもう夜遅く、未成年が出歩いていい時間をとっくに過ぎているのだから当然のことだろう。

 紬の家は来客を予想していたのではないかと疑うくらいすみずみまで掃除が行き届いていた。案内されたリビングには花瓶が置かれていて、オレンジの花が飾られている。
 侑の家でも母がガーデニングをしているが、家の中に花を飾るという習慣はない。おしゃれな家だな、と侑はぼんやりと考えた。

 水色のグラスに麦茶を注ぎ、紬の母が侑の前にグラスを置く。それから侑の保護者に連絡をさせてほしい、と紬の母は言った。最初は戸惑ったが、親の立場からしたら当然なのかもしれない。

 侑が自分のスマートフォンで母に電話をかけ、軽く事情を説明した後に紬の母にスマートフォンを渡す。紬の母は丁寧に謝罪をした後、車でご自宅までお送りしますので、と言っていた。
 侑は紬と違って男だし、自転車で来ているのでそこまで気を遣わなくていいのに、と思ってしまう。しかし電話を切った紬の母は侑の視線に気づき、「うちの車は自転車一台くらい乗せられるから安心して」と笑った。
 そんな心配をしていたわけではないのだが、気づいたら侑は「よろしくお願いします」と答えていた。もしかしたら、紬の母の見せた笑顔が、紬の笑い方に似ていたせいかもしれない。侑はたぶん、紬の笑顔に弱いのだ。


 朝日家の親子ゲンカは、遠慮がちに始まった。侑という部外者がいることを、二人が意識しているせいだろう。最初はなんとも控えめな口ゲンカだった。

「お、お母さんはひどいと思う。私が頑張って書いてきた小説のノート、床に投げつけたりして……」
「それは……前にも言ったじゃない。お母さんは紬が小説を書くのには反対なの」
「私が小説を書いたからってお母さんに迷惑かけてないよ」
「紬を心配して言ってるのよ」

 ケンカの立会人とは言ったものの、侑は横から口を出すつもりはなかった。なるべく紬が自分の考えていることを伝えられた方がいい。そして紬の母の本音も、しっかりと聞いた方がいいと思うからだ。
 もちろん殴り合いになるようなら止めに入るし、あまりに一方的な話になるようなら声をかけるかもしれない。しかし侑が口を挟む必要のないまま、平穏に親子ゲンカが収束するならば、それが一番理想的だ。

「心配って何? 小説を書くことの、何がいけないの?」
「お母さんは編集としてたくさんプロの作家と会ってきたから言ってるの。才能があっても続けることが難しい職業なのよ」
「だからお母さんには迷惑かけないってば! 成人して周りが働いているような年になって、お母さんにお金を無心したりしない」
「そういうことを言ってるんじゃないわよ。プロの作家として生計を立てていける人なんてほんの一握りなの。紬が思っているより現実は甘くないの」

 だんだんと紬の母の声が尖ってくる。紬も怒った顔で母親を睨みつけている。
 侑はどんな気持ちで聞いていればいいのか分からず、黙って静かに話を聞いていた。
 紬が再び「だから迷惑はかけないって言ってるじゃん」と言う。その声には明らかに苛立ちが含まれていた。

「学校に通って勉強しながらとか、仕事しながらだって執筆はできるよ! もちろん時間は少なくなるけど、デビューできるまではちゃんとアルバイトとか、正社員でも残業の少ない仕事とか選べば……」
「お母さんはお金の心配だけをしてるんじゃないわよ。確かに兼業作家は多いし、在学中にデビューする人もいる。でも、紬にそんな体力がある?」

 紬の母の問いかけに、紬が唇を噛んだ。紬はあまり体力には自信がないのかもしれない。
 母の言葉はまだ続いた。

「睡眠時間を削って執筆をして。最初は楽しいかもしれないけど、なかなか結果が出ずに、体力は削られてストレスはたまる。そんな状況に耐えられるの?」
「…………体力は、確かにないと思うから、これから考える。食生活とか、身体を動かすとか、対策するよ」
「精神面はどうするつもり? 努力したからって必ず結果がついてくるわけじゃないわよ」

 最初は理不尽に思えた紬の母の言葉が、少しずつ侑にも理解できてきた。言葉足らずで理由なく紬の夢を反対しているように見えていたけれど、すごく単純な話だった。
 ただ、紬のことを心配しているのだ。

 編集者として実際に多くの作家を見てきたからこそ知っている、プロの作家の大変さ。デビューできるかどうか、売れるか売れないか、そういう結果の面だけではない。
 結果が出るまでの間、もしくは出てから先もずっと付きまとうであろう、健康やメンタル面の問題。きっと紬の母が一番心配しているのは、夢を追うことで紬自身が壊れてしまわないか、ということなのだ。

 紬は少しの間黙り込んでいた。それから考えをまとめたようで、再び口を開く。

「もちろん結果が出なかったら落ち込むと思う。公募に出して、賞が獲れなくて、それどころか一次審査すら通過しなくて凹んだりもすると思うよ。でも、それも全部無駄じゃないって、私は思うから」

 紬の母は眉を寄せる。構わず紬は言葉を続けた。

「結果はもちろん出したい。私の小説が、本として出版されるのは夢だよ。絶対に叶えるって思ってる」
「…………」
「でも、評価されなかったからといって…………結果が出なかったからって、私は自分の努力を否定したりしない!」

 その言葉に息を飲んだのは、他の誰でもなく、立会人である侑だった。

「好きなことのために頑張っても、結果が出なかったらその時間は無駄になるの?」
「それは…………」
「あんなに努力してもデビューできなかったんだねって将来誰かに笑われたとしたって、私は後悔しない。努力することは恥ずかしくないもん。挑戦する前に諦める方がもっとかっこ悪いでしょ…………!」

 侑の心臓がうるさく騒ぎ出す。
 そうだ、侑は逃げ出した。もしもリハビリをして、それでも膝が治らなかったら? 動けるようになっても、試合に出られなかったら? 一年でレギュラーを勝ち取った侑が、リハビリをしている間に実力を追い抜かれ、自分だけ取り残されてしまったら?

 本当は侑も分かっていた。きっと、誰も侑のことを笑ったりしない。膝の手術をしてリハビリに励むことも。練習に戻った侑の実力が一年の頃より劣っていたって、誰も笑わない。
 侑が勝手に思っていただけだ。せっかく手術をしてリハビリを頑張っても、試合に出られなければ意味がない、と。
 サッカーができなくなった、なんて嘘だ。まだサッカーをする道はあるのに、侑が自分で塞いでいたのだ。努力をする人はかっこいい。恥ずかしいことなんかじゃない。侑も知っていたはずなのに、いつのまにか結果ばかりを追い求めて、向き合うことから逃げてしまった。

 怒っているはずなのに、紬の目は不思議なことにきらきらと輝いていた。紬の母は何も言い返さない。しばらく黙って娘の顔を見つめていたが、大きなため息と共にごめんなさい、と謝罪の言葉を口にした。

「紬の覚悟を舐めてたわ。あなたの大事なノート、投げつけたりしてごめんなさい」
「…………お母さん、じゃあ……」
「そうね。紬が小説を書くこと、もう反対しない」

 紬の表情が明るくなり、嬉しそうに侑の方を見る。しかし侑はなんだか自分が恥ずかしく思えて、紬と目が合わせられなかった。

「でもお母さんは、紬の夢より紬の方が大事だから。それは覚えておいて」
「………………?」
「紬が小説を書くことで、体調とかメンタルの調子が崩れて病気になるようなことがあったら、お母さんは容赦なく紬から紙とペンを取り上げるからね」

 母親の言葉に、紬は目を瞬かせる。それから紬は嬉しそうな声で、「頼りになるお母さんだ」と笑うのだった。


 結局ケンカの立ち合いといっても、侑は何もせずに終わってしまった。それでもなぜか朝日親子からは感謝され、帰りは紬の母が約束通り車で送ってくれた。
 紬も一緒に行く、と声を上げたが、「お母さんは真島くんと話があるから」と言って、帰り道は紬の母と侑が車内で二人きりの状態だ。侑は人見知りではないし、大人と話すことにも抵抗はないが、正直とても気まずい。

「遅くまでごめんなさいね。真島くんのお母さん、心配してないかしら」
「これから帰るよって連絡したし、大丈夫ですよ。俺は夜中に一人でコンビニに出かけたりもしますし」
「それは危ないんじゃないの?」
「一応男なので、大丈夫かと…………」

 サッカーをやっていたときは、夜にランニングをすることが日課だったくらいだ。母も最初の頃こそ心配していたが、今では夜遅くに出かけても「お土産よろしくね」と笑って見送ってくれる。
 紬の母は少し黙った後、真島くんも文芸部なのよね? と訊ねてきた。

「あ、はい。とはいっても、まだ何も書いたことはないんです。最近入ったばっかりで、活字に慣れたり、朝日さん…………紬さんの小説のデータ化を手伝ったり、それくらいで」
「紬ったら迷惑ばっかりかけて……。娘をいつもありがとうございます」
「いや、全然! 俺の方が助けられてばっかりですよ!」

 実際に侑は文芸部に入るまで、本などまともに読んだこともなかった。読書の楽しさを少し知ることができたのは間違いなく紬のおかげだ。
 それに、今日の親子ゲンカだって。
 紬を心配する気持ちでついてきたのに、結局侑が背中を押してもらっている。紬にそんなつもりはなかったとしても、侑は紬に助けられているのだ。

「…………真島くんは、紬の彼氏?」
「えっ!? ち、違います……! まだ告白とかしてないですし……!」
「あら、じゃあやっぱり紬のこと好きなの? あの子やるわね。こんなにかっこいい子に惚れられるなんて…………」

 紬の母はどうやら侑の反応を見て面白がっているようだった。恥ずかしくて堪らないが、強く言い返すこともできず、侑の顔は赤く染まるばかりだ。
 しかしあれだけ紬のことを心配していたのに、紬の母は侑の好意に気づいても牽制してこない。それどころか受け入れているようにすら見える。もしかして母視点から見ると、よほど侑の恋は実りそうにないのだろうか。だから安心して笑っていられる。そう考えると辻褄が合ってしまう。
 モヤモヤした気持ちを抱える侑に、紬の母は笑いながら言った。

「真島くん、紬のこと、よろしくお願いします」
「へ…………? 反対とか、しないんですか? いや、付き合ってるわけじゃないですけど……」
「付き合ってもいない同じ部活の女の子が、家出したって聞いて迷わず家を飛び出してくる男の子よ? 反対する理由がないわよ」

 ただの同じ部活の女の子。しかも付き合いの年月でいえば三ヶ月にも満たない。そんな女の子のために後先考えず家を飛び出したのだから、ほとんど告白しているようなものだろう。
 しかしその考えなしの侑の行動を、紬の母はどうやら好意的に捉えてくれたらしい。熱い頰を手であおぎながら、侑は窓の外を見る。もう侑の家の近所まで来ていた。

「ここで大丈夫です。家、もう目の前なんで」
「そうなの? お母さんに挨拶できるかしら」
「声かけてきます」

 侑がシートベルトを外し、車を降りる。家の鍵を開けて母を呼ぶと、その間に紬の母が自転車を車からおろしてくれていた。

「あら、先程はわざわざお電話ありがとうございます。うちの息子がご迷惑をおかけしてすみません……!」
「とんでもないです。むしろ真島くんはうちの無鉄砲な娘を止めてくれて。ありがとうございます、後日またお礼をさせてください」

 侑と紬のそれぞれの母親同士が会話をしているのは、なんだか不思議な光景だった。
 紬の母は最後にもう一度侑にお礼を言って、車に乗って来た道を戻っていく。車が見えなくなるまで見送った後、侑の母は誇らしげに笑った。

「侑にも大事な女の子ができたのね。朝日さんのお母さんのお話聞いてて、お母さん嬉しくなっちゃった」
「なに、急に……。別に彼女とかじゃないよ、普通に部活の友達」

 好きな人の母親にからかわれるのもなかなか恥ずかしかったが、実の親に指摘されるのはもっと恥ずかしい。侑はそっぽ向いてぶっきらぼうに誤魔化し、それから母に呼びかけた。

「母さん。話変わるけど、ちょっと相談」
「あらなに? もっと侑のお友達の話聞きたかったのに」
「俺、膝の手術したい。ダメかな」

 侑の母は目を見開いた。驚きに数秒固まった後、侑の母の目にはじわりと涙が滲んでいく。ずっと見守っていれくれたが、母は侑のことを相当心配してくれていたのだろう。当たり前じゃない、と答えた母の目からは、大粒の涙がこぼれた。

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