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言い過ぎました
しおりを挟む二人きりになれる場所を探して歩いた。どこか静かで人目がないところ。侑の頭に一番に浮かんだのは文芸部の部室だったが、紗枝を傷つけてしまいそうだったのでやめた。違う場所を探すしかない。
紗枝はすっかり元気を失っていて、侑に手を引かれてやっと歩いているような状態だった。ずっと後ろからはすすり泣く声が聞こえている。
校内放送でまもなく終業式が始まるというアナウンスが聞こえてきた。式が始まれば教室や部室棟には誰も入ってこないだろうと考え、侑は近くの空き教室に入った。紗枝を窓際の椅子に座らせ、窓を全開にする。閉めたままのカーテンがひらひらとなびき、涼しい風が教室内に入ってきた。
「落ち着いた?」
侑の問いかけに、紗枝は力なく頷いた。それからか細い声で、きらわないで、と呟いた。
言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。それが「嫌わないでほしい」という意味だと気づき、侑は驚いてしまう。気の強い紗枝がそんなことを言うなんて、想像していなかったのだ。
「嫌いになんてならないよ」
「本当…………?」
「ん、本当」
侑に嫌われることがよっぽどこわかったのだろうか。侑の言葉を聞いて、紗枝は再び涙をこぼし始めた。どうやら今度は安堵の涙らしい。よかった、と何度も繰り返す紗枝に、侑はなるべく優しい口調で呼びかけた。
「紗枝。なんであんなことしたの」
一年間紗枝と付き合ってきて、初めての出来事だ。他の女の子と侑の関係を深読みして、紗枝がヤキモチをやくことはよくあった。でも紗枝は必ず、侑本人に不安を吐き出してくれていた。だから今までは紗枝にしっかりと説明をして、誤解を解くことができた。
でも今回は違う。何を思ったか、紗枝は直接怒鳴り込みに行ってしまった。冷静に話し合えるのなら、それでもいいかもしれない。しかし紗枝は紬を床に押し倒して、一方的に怒鳴りつけた。
もしかしたら紬に怪我をさせてしまったかもしれない。そうでなくても、こわい思いはさせてしまったはずだ。いくら同性とはいえ、無理矢理押し倒されて怒鳴られるというのは、恐怖を感じるに違いない。
紗枝は侑の質問には答えなかった。答えられない、といった方が正しいのかもしれない。泣きながら「ごめんなさい」と繰り返すばかりで、理由を話そうとはしなかった。
たぶん、いつもの嫉妬とは訳が違うんだろうな。
侑は心の中で呟く。紗枝が紬に怒鳴っていた内容は、焦っていたせいであまり覚えていない。しかしサッカーの話をしていたのはうっすらと記憶に残っている。
「俺がサッカーをやめたのは、朝日さんのせいじゃないよ。膝が使えなくなったからだ。それは紗枝だって知ってるよね」
「…………うん」
「じゃあなんで朝日さんにサッカーの話をしたの?」
侑の問いかけに、紗枝はまた泣き出しそうな顔をした。口を開いては閉じ、それを何度か繰り返した後、ためらいがちな声で紗枝は呟く。
「侑が…………ずっと怪我のことで、悩んでて……」
「…………うん」
「手術はしたくないみたいだったけど……でも、サッカーをやりたがってたでしょ……? グラウンドが視界に入ってくると辛そうで、でも羨ましそうな顔してたから……」
紗枝の言っていることは間違いじゃない。確かに侑はサッカーができなくなって、苦しかった。今まで通り変わらずサッカーができているチームメイトが、羨ましくて堪らなかった。練習がハードだと嘆く声が聞こえてくれば、じゃあ代わってくれよ! と言ってやりたくなるくらい。
「でも昨日、侑が文芸部に入った、って聞いて……。楽しいって言ってて、こわくなったの…………。もう侑はスポーツの世界には戻らないんじゃないかって……。サッカーしてるときの侑が大好きだったのに。今はこわくて手術ができなくても、侑ならいつかサッカーをもう一度始めるって思ってたのに…………その希望を、壊された気がして……」
初めて聞く紗枝の本心に、侑は何も言えなかった。
紗枝はずっと信じてくれていたのだ。侑が必ず手術とリハビリを乗り越えて、もう一度サッカーをする、と。侑はそれくらい、サッカーが大好きなはずだ、と。
それなのに侑は、また自分のことしか見えていなかった。ずっと自分のことばかり考えて、紗枝の気持ちを汲み取れなかった。心配し応援してくれる紗枝の気持ちを、踏み躙ってしまった。
文芸部に入ったことを、侑は後悔していない。しかし、もしも侑が普段からもっと紗枝と会話をしていたら。気持ちを理解しようと歩み寄っていたら、距離を置くようなことにはならなかったはずだ。文芸部に入ることだって、きっと事前に相談していた。
「紗枝の気持ちは嬉しいよ。でもさ、もし不安とか不満を抱いたなら、紗枝は俺に直接ぶつけるべきだったと思う」
侑が不甲斐なかったことは確かだ。
でも同時に、紗枝が部外者である紬に感情の矛先を向けてしまったのも、やはり間違いなのだ。
「…………俺さ、紗枝のこと好きだって思ってた。でもたぶん、俺の気持ちと紗枝が俺を好きだって言ってくれる気持ちが、釣り合ってないんだ」
「……………………侑、それって……どういう、」
紗枝の声は震えていた。何を言われるのか、すでに理解しているみたいに。
侑はまっすぐに紗枝の目を見つめる。そして、その言葉を口にした。
「俺たち、別れよう」
開け放った窓から、涼しい風が吹き込んでくる。場違いなほど爽やかな風だった。
やだよ、と紗枝は何度も繰り返した。別れたくない、もうこんなことしないから、嫌いにならないでと縋りついてくる紗枝を、侑は静かな声で突き放した。
「嫌いになったわけじゃないよ。でも紗枝が想ってくれるほど、俺は紗枝に愛情を返せない」
「…………侑……」
「ごめん、せっかく好きになって……ずっと支えてくれたのに」
たぶん俺はこれ以上、紗枝のことを好きになれない。
最後に付け加えた言葉に、紗枝が傷ついたのは痛いほど伝わってきた。しかし侑の言葉に嘘はない。
紗枝のことが好きだと思っていた。でも侑はいつも自分のことに精一杯で、紗枝のことを考える余裕がなかった。自分のことなんてどうでもいいと思えるほど、紗枝を好きにはなれなかった。紗枝に抱いていた気持ちは確かに好意だったけれど、恋よりももっと未熟な何かだったのかもしれない。
深く頭を下げて謝る侑に、紗枝は悲しそうな声で問いかける。
「…………頑張っちゃダメ? 私が侑を好きなのと同じくらい、侑にも私を好きになってもらえるように」
「ダメだよ。紗枝が悪いんじゃなくて、俺の問題だから」
紗枝はしばらく黙っていたが、涙まじりの声で頷いた。泣きすぎて真っ赤になった目が、侑を見つめる。今までありがとう、という紗枝の言葉に思わず泣きそうになったが、侑はすんでのところで堪えることができた。
「俺の方こそ。好きになってくれてありがとう。大事にできなくて、ごめん」
侑が口にしたお礼と謝罪の言葉は紗枝の目を再び涙で濡らしたが、紗枝はもう俯かなかった。自分の手で涙を拭い、立ち上がる。じゃあね、と言って去っていく紗枝の後ろ姿を見送った。
ひとりぼっちの教室で情けない気持ちになりながら、侑は深いため息をこぼした。
終業式はサボってしまったが、ホームルームには出席し成績表を受け取った。あまりいい成績ではないが、持ち帰らないわけにもいかない。バッグの中に成績表を適当に押し入れ、侑は早々に教室を出た。
向かう先は高校から数メートル離れたところにあるコンビニだ。校内にも購買部や学生食堂があるが、さすがに終業式である今日はやっていない。コンビニでお菓子やジュースを買い込み、侑は再び校内に足を踏み入れる。
グラウンドでは早くもサッカー部が練習を始めていて、その光景は侑の心を揺さぶった。いつもなら早足で通り過ぎるところだが、侑は立ち止まってグラウンドを眺めていた。
元チームメイトの一人が侑の存在に気づいた。そして以前と変わらない気さくな様子で話しかけてくる。
「侑! 久しぶりじゃん。たまには顔出せよ。辛いかもしれないけど、俺らは今でも侑のことチームメイトだって思ってるんだからさ!」
「ありがとう。今年の夏はどう? 順調?」
「上手い一年が入ってきてさ。負けてられねえな、ってみんな火がついてるよ」
俺は今年もベンチメンバー、と苦笑する友人に、侑は力なく笑った。ベンチメンバーだろうとサッカーができるならそれでいいだろ、思ってしまうのは、侑の性格が悪いせいだろうか。
コンビニのビニール袋を持ち上げ、「アイスが溶けちゃうからもう行くな」と適当な嘘を吐く。侑の嘘を信じた気のいい友人は、またな、と言って去っていく。
友人の後ろ姿に呼びかけようとした、頑張れよ、という言葉は、喉の奥に引っかかって声にはならなかった。
文芸部の部室では、紬がぼんやりと頬杖をついていた。その視線は窓に向いていて、中庭にいるカップルを見ているようだ。侑が部室に来たことに気づいていないようなので、「朝日さん」と紬に呼びかける。紬は小動物のように椅子から飛び上がった。
「あ…………真島くん。いつの間に……」
「今来たばっかりだよ。朝日さん、これ、お詫びに買ってきたんだ。安いもので申し訳ないけど」
侑はコンビニで買ってきたお菓子やジュースを紬に差し出し、朝の件を謝罪した。
「朝、紗枝がひどいことしてごめんね。怪我してない? 大丈夫?」
紬は目を丸くして首を傾げる。紬の動きに合わせて、涼しげなポニーテールが揺れた。
大きな目をまたたかせ、紬は困ったように笑う。
「あ、いえ、そんな、大丈夫ですよ。ちょっとびっくりしましたけど……。彼女さんからしたら、真島くんが私みたいなぽっと出の女と一緒にいるの、いい気分じゃないですよね」
「俺は好きでここにいるんだから、朝日さんのせいじゃないよ。それに朝日さんに怒鳴りつけていい理由にはならないから」
きっと紗枝が紬に直接謝ることはないだろう。侑は紗枝の代わりに頭を下げた。
紬は困ったような声で「頭をあげてください」と言う。それから侑の渡した心ばかりの謝罪の品を受け取り、眉を下げて笑った。
「これ、いただきますね。だからこの件はこれでおしまいです。真島くんも、もう謝っちゃダメですよ」
「…………ありがとう」
朝日さんは優しいね、と呟いた侑の言葉に、紬は肩をすくめてみせた。ビニールの中からお菓子やジュースを取り出し、机に並べていく。右端と左端に分けて並べるので、侑が不思議に思って見守っていると、「左側は真島くんの分です」と紬は笑う。
「それじゃあお詫びにならないじゃん」
「いいんですよ。もらった私が、真島くんと二人で食べたいって思ったんですから」
「ええ……でも、」
侑が言いかけた言葉を遮って、紬が「一緒に食べてください!」と珍しく強い口調で言い切った。今度は侑が肩をすくめる番だった。
それじゃあお言葉に甘えて、と言って侑は紬の隣に座る。部室に備えている紙コップに二人分のジュースを注ぎ、ささやかな乾杯をした。
いつもなら部室にいる時間の大半を執筆作業に充てている紬も、今日はちょっとお休みです、と楽しそうに笑う。二人でお菓子を食べながら、先日読み終えたばかりの小説の話をした。紬はいつになく楽しそうで、それを見て侑も嬉しくなる。
あっという間に時間は過ぎていき、そろそろ部活を始めよう、と侑が立ち上がったときだった。小さな声が、侑の鼓膜を揺らした。
「今朝の、ことなんですけど…………私も、言い過ぎました」
「え? ああ、紗枝に対して……? あのとき紗枝は俺の声も聞こえてなかったし、朝日さんが言ってくれなかったら止められなかったよ」
だから朝日さんに非はないよ、と侑は言いたかったのだが、その前に紬が違うんです、と呟いた。
「その、彼女さんに対してじゃなくて…………。どんな瞬間もかっこいい、はさすがに、その……言い過ぎです」
私も、真島くんへの理想の押し付けですね。
照れたように笑う紬の言葉を、理解するのに数秒かかった。侑の顔が熱く火照る頃には、もう紬は背を向けて執筆の準備を始めていた。
ポニーテールの揺れる後ろ姿を見つめて、侑はその耳が赤く染まっていることに気がつく。
紗枝とは別れたんだ、と言ったら、紬はどんな反応をするのだろう。
どうしてか、そんな考えが侑の頭をよぎる。
今さら報告するのもおかしいので、侑はその言葉を胸の奥にしまったまま、作業用の机に向かう。
暑くて長い、夏休みが始まった。
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