きらきら光る

鈴谷なつ

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カウンセリング

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 晴れた日の火曜日のことだ。
 東京メトロ千代田線を御茶ノ水駅で降りて、長いエスカレーターをのぼっていく。ぼんやりとエスカレーターの左側に立ち、考え事をしていると、後ろから駆け足で上がってくる足音が聞こえてくる。
 仕事に遅刻しそうなのかな、大変だなぁ。
 福井愛美は他人事のように考えながら、まだ続くエスカレーターに身を任せていた。
「あのっ! 落としましたよ」
 足音がすぐ近くで止まる。とん、と肩を叩かれて驚いて振り返ると、そこには整った顔立ちの若い男性が立っていた。
 白いシャツにパンツスーツ。腕にはジャケットを抱えている。まだスーツを着慣れていない感じがするので、今年社会人になった新入社員か、就職活動中の学生だろうか。
 愛美が何も反応せずに固まっているので、困ったように男は眉を下げた。
「あれ、あなたのじゃなかったですか?」
 そこでようやく、彼に声をかけられていたのだと思い出す。目の前に差し出されているのは、見覚えのある定期入れ。愛美のものだった。
「あ、……わ、私の、です」
 受け取ると同時に、彼が「前、危ないですよ」と言ってくれる。長いエスカレーターの終わりがやってきたのだ。ステップを降りてコンクリートを踏みしめる。
「それじゃあ」
 そう言ってぺこりと頭を下げた男性は、愛美よりずっと長い足で歩き出す。早足の後ろ姿に、ありがとうございました、とお礼を言うと、彼は振り返って爽やかに笑ってみせた。
 たったこれだけのやり取りでも、愛美はひどく不安になる。
 自分は今、普通に話せていただろうか。

 子どもの頃から、猫をかぶるのが癖だった。
 本当の自分は押し隠して、大人の好きなおとなしい優等生を演じていた。
 好きな男の子の前でも、女の子らしい優しい自分になりきっていた。周りの女子からはぶりっ子だと蔑まれた。
 それでも自分を変えることが出来なかったのは、猫をかぶることによってある程度良好な人間関係が築けると学習してしまったからだ。
 いつからか理想の自分という仮面をかぶることが当たり前になっていた。その反動だろうか。愛美は「自分」という存在がよく分からない。

 愛美が御茶ノ水に降り立つのは初めてのことではない。半年前から週に一度のペースで通っている病院が、御茶ノ水駅から徒歩五分のところに立地しているのだ。愛美の住んでいる北千住からは少し離れているが、千代田線の電車に乗れば一本で着く。
 最寄駅の近くの病院にしなかったのは、親が世間体を気にしたからだ。娘が精神科に通う、と聞いただけでも卒倒しそうだった母を慮り、愛美は家から少し離れた病院を選んだ。
 結果として、病院選びは成功だったように思う。医者はいつでも親身になって相談に乗ってくれるし、カウンセラーの先生も愛美の拙い話を優しく聞いてくれる。
 一年前の夏、婚約者に浮気をされ、一方的に別れを告げられた。それから人間不信になってしまった愛美は、半年ほど塞ぎ込み、引きこもりになった。そんな愛美を心配した友人が、一度病院で相談してみたら? と言って、付き添いまでしてくれたおかげで、精神科の門を叩くことができたのだった。
「福井さん、こんにちは。だいぶ外は暑くなってきましたがご調子の方はいかがですか」
 精神科の医師が優しい口調で訊ねる。いつも変わらないトーンの声に、安心を覚えるのは愛美だけではないだろう。
「あまり……変わらないです。せっかくお薬を処方してくださっているのにすみません」
「お気になさらないでください。治療にはどうしても時間がかかってしまうものですから、焦らずゆっくり前の状態に戻していきましょう」
 医師はそう言いながらハンカチで額の汗を拭った。エアコンは効いているが、小太りの先生には少し暑いらしい。愛美は薄手のカーディガンの袖をぎゅっと掴んで俯いた。
 今日はカウンセリングの予約を入れていないので、診察だけで終わりだ。待合室では周りが半袖の人ばかりで、愛美は自分が季節外れの格好をしているような気がしてならなかった。
 カーディガンを着ていて暑くないわけではない。しかし、手首にうっすらと残った切り傷の跡を見られたくなくて、長袖を着てきてしまったのだ。
 今度からは半袖にして、手首にアクセサリーかシュシュでもつけてこよう。
 おそらく気にしすぎなのだが、周りの目がやたらと気になってしまう愛美は、一人そんなことを考えた。
 会計を済ませ、御茶ノ水駅の方まで戻る。千代田線へ向かう途中、駅前にある地下一階のケーキ屋併設のレストランに立ち寄った。ここでお昼ご飯とケーキを食べて帰るのが、週に一度の楽しみになっているのだ。
「いらっしゃいませ。ランチメニューの本日のパスタはカニのトマトクリームパスタでございます」
 可愛らしい女性の店員が、丁寧にランチメニューの説明をして離れていく。その店員の自然体で、それでいて愛嬌のある接客に、いいなぁと思わずつぶやきが漏れる。誰の耳にも届くことなく消えていったその声は、愛美の心をじわりと侵食し、重くした。
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