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第3章
97 伯爵の忠誠
しおりを挟むアグニがリシュアール伯爵邸演習場でリオンと向かい合う少し前公爵邸ではブドウ酒の試飲会が行われていた。シャルト公爵が「せっかくだから一つくらいは持っておこうか」と買ったブドウ畑で作られたものだ。
『もう一杯いいかな?』
公爵の言葉でクルトはすぐにソファへと近寄り、丁寧な動作で杯を満たした。
「シーラ様も、お注ぎしましょうか?」
「えぇお願い。やっぱこれ美味しいわね。さすが名産地の畑だけあるわ。」
『あははっ。今年も気に入ってもらえてよかったよ。』
ご機嫌なシーラは公爵の方へ頬杖をついた。
「せっかくだから売ればいいのに。」
『これは趣味の一つだ。販売は考えてないよ。』
「もったいな~い」
シリウスは赤い香りを楽しみながら静かに2人の会話を聞いていた。しかし瞬間、窓の外へ目を向けた。
『アグニが……芸素を出してる。』
一瞬で空気が変わった。シリウスに言われ、遠へと意識を向けたシーラも遅れて察知した。
「ほんとだわ。ちょっと待って…すごい量じゃない!」
『アグニはリシュアールのとこって言ったよね?』
「そうよ。何があったのかしら…」
シリウスの問いに返しつつ、シーラはクルトに目を向ける。すぐにその意味を理解したクルトは部屋を飛び出てどこかへと向かった。
『練習試合でもしてるのかな。でも中型以上の対芸獣戦での芸素の出し方だなぁ。僕は人と戦う時、ああしろとは教えてないんだけどなぁ。』
シリウスが楽しそうに窓の外を見ていた。その様子をちらりと見た公爵は杯を机に置き立ち上がった。窓から目を離したシリウスは、そのまま穏やかな笑顔を公爵へと向けた。
『行ってくれるね?』
『もう少し君たちと飲んでいたかったがね……』
「クルトがすでに馬車を引いているはずよ。それに乗っていって。」
『ああ。』
身だしなみを整えつつ部屋の外へと向かう公爵にシリウスは後ろから声をかけた。
『伯爵は頭の良い子かい?』
公爵は立ち止まってゆっくりとシリウスを振り返った。
『彼は……家族が愛しいそうだよ。』
シリウスは天使のように恐ろしく美しい笑みを浮かべていた。
・・・・・・
彼の最初の印象は……特になかった。
「目鼻立ちの良い綺麗な少年」「珍しいくらいに真っ黒の髪」「貴族らしくない」「自然体」・・・コルネリウスが贔屓するからにはそれなりの理由があるのだろうが、自己紹介だけではまだ何もわからない。
目の前にいるのはただの少年だった。
だからこそ武芸を見たい…いや、見なければならないと思った。
・・・
リオン…私の一番年上の息子は親バカではなく本当に強い。帝都軍第2部隊の副隊長で、およそではないが学生が敵う相手ではない。どう頑張ったって練習も経験値も軍人の方が圧倒的に多い。
『アグニは数え切れないほど芸獣と戦っているそうです!』
コルネリウスの言葉を聞いても「そうか」としか思わなかった。残念だが学生の数えきれないなんてのはたかが知れている。
しかし、リオンの言葉で彼は激変した。
ま、まずい…!!
なんだあの芸素量は?!
リオンは、俺を芸獣だと思って戦えと言った。芸獣と戦う時、まず最初にすべきことは威嚇。相手に自身の芸素を叩きつけ、見せつけるのだ。自分の方がお前より強い、と。
アグニのやり方は完璧だった。本当に芸獣相手ならば。
あまりの芸素の量にゆらりゆらりと空気が揺れる。演習場全体に…いや外にまで波動のように芸素が広がる。
その光景は目を離せないほど美しかった。
だがあの量の芸素を出し続けたらすぐ枯渇する!!
もう倒れていてもおかしくないくらいだ!!!
けれど、わかる。彼にはまだ芸素がある。
アグニの芸素が充満して空気が重い。呼吸がしづらい。身体が震える。
黒髪の隙間から今までに見たこともないほど明るい金色の瞳が見えた。
髪色ばかり見ていたが…なんだあの色は?
彼の瞳は金色だったか?
はっ!!!
リオンは……リオンは大丈夫か?!
急いでリオンを見るとなんとか剣を構えている。けれど遠目にも見えるほど大量の汗をかいていた。そして黒髪の少年は変わらず「自然体」だった。まるで彼の周りだけが狂ったようだった。
どれだけ戦えばそれほどまでに自然体でいられる?
彼は今までどこでどうやって生きてきたんだ?
そして 金の瞳は、芸獣を見定めた。
あぁ……… 殺される
『アグニ、僕のお兄さんを殺さないで』
コルネリウスが震えそうな声を抑えて力強く言った。隣の息子を見ると、息子は爪で血が滲むくらいきつく手を結んでいた。
よく………よく声を上げられたな。
私ですら声を出せずにいたのに。
お前は……もうそんなにも強くなっていたのだな…
「………両者、相手の動きを抑えるまでだ。回復不可能な怪我は禁止。わかったか?」
腹の底から力を振り絞り少しでも威厳を持たせた声で告げる。両者とも返事を返した。とりあえず理性は飛んでいないようだ。
もし何かあれば、私が間に入る。
私の子どもは、必ず守る。
「……はじめ!!!!!!!!」
・・・
そこからは………もう圧巻だった。
リオンは決して弱くない。なのに圧され続けた。
けれど…仕方がない。
何年私が軍にいると思っている?
何人の軍人を見てきたと思ってる?
あんなに見事な動きをする人間は帝都軍にもいない。
敵わない。
きっと芸獣も、彼には敵わない。
あれほどの力があったなら、私の上司は、部下は、同輩は死なずに済んだのに。私にもあんなに力があったなら、もっと命を守れたのに。
目の前で芸獣に上司を焼き殺されたことがある。
目の前で同輩の上半身が芸獣に飛ばされたことがある。
目の前で芸獣に襲われてる部下を見捨てたことがある。
あぁ、悔しい……悔しいなぁ
そうか 人でもあんなに強くなれたのか
けれどすぐ、この考えに疑問を持つことになった。
彼がリオンに馬乗りになり剣を突き付けた時、彼は嗤っていた。
恐ろしく美しい 金の瞳で
「そこまで!!!!!!」
自分の心臓がうるさい。
リオンは…リオンは死んでないか?!
すぐにリオンが言葉を発して、私はやっと呼吸ができた。そして彼はまるで何事もなかったかのように言った。
「どうする?今すぐ芸もできるけど。」
そしてその一言の直後、川のように溢れ出し続けていた芸素を一瞬でゼロにした。
な…!!!!!なんだと?!!!
こんなにも自分の芸素を完璧に調整できるのか?!!
芸素切れ…ではなく?!!!
対人戦で…特に芸での試合の前は、極力自分の芸素を出さないようにする。事前に自分の芸素を見せてしまうことは手の内を明かすことになるからだ。だからアグニが芸素の放出を抑えることは正しい。
じゃあ皆が何に苦労しているのかというと……芸素を抑えることができないのだ。だから芸獣に居場所が見つかり襲われる人間がいるのだ。そして常に一定の芸素を出し続けているからこそ芸素切れも起こす。
どんなに芸の得意な軍人でもここまで見事に自分の芸素量を調節できる人間など見たことがない!!
まずい。予想以上だ…!!
こんな人間は初めてだ!
いや、待て。
本当に人間なのか?
彼は 一体何者だ?
・・・
フィリップとコルネリウスを演習場の両端に立たせていたおかげで、あの金の瞳が嗤っていたのはリオンと私しか見ていなかったようだ。けれどどうしてもあの後すぐにはコルネリウスと戦わせたくなかった。アグニにはなんとか言い訳をして、その日はもう試合をせずに帰ってもらうことにした。
アグニを乗せた馬車を見送り、さきほどの試合についてリオンに意見を聞こうと思っていた時……そのお方は現れた。
黒い馬車
何の変哲もないように見えるが…知っている。世界一高価な馬車だ。
芸石を持つ者はこの馬車には入れない。そしてこの馬車はあらゆる芸を弾く。砲撃を受けても火の中に入れられても、芸である限りこの馬車の内側には何も攻撃が入らない。
この馬車を持ち、今会いに来る人は1人しかいない。
『やぁ。突然悪いね。』
「…………宰相閣下…お久しぶりでございます。」
なんだ?アグニに関する話だろうが…
誰も拝見も拝謁もしたことがない皇帝陛下を除き、この世で最も高い地位を持つ男。言葉には出さないが、表舞台に立たない皇帝陛下よりもこの男の方がよほど恐ろしい。
そんな男が告げた。
『我が友よ。これからも私の笑みを消させないでくれ』
……警告、か。
逆らう気などない。天使の血筋でもない伯爵位の帝都軍総司令官ごときが敵う相手ではない。私は丁寧に腰を折り告げた。
「もちろんでございます。私たちリシュアール家の者は皆、帝国並びに宰相閣下に忠義を尽くしております。」
『今日、私の子が世話になったようだね。どうだったかい?』
「……はい。芸素量も多く、武芸ともに秀でておりとても優秀な………人、だと」
公爵はゆっくりと近寄る。
『どうしたんだい?なぜ今、言葉が詰まった?』
「い、いえ!」
『何か疑問があったかい?』
「いいえ!!!」
すぐに返事を返した私の事を、公爵はガラスのような瞳で嗤った。
あぁ、そうだ。思い出した。
剣を突き付けていた時の彼アグニのあの顔は
天使の血筋の笑顔だ
『せっかくだ。聞きたことがあるなら今のうちに聞いておきなさい。』
寛大にも質問を許可してくれたがこれはもちろん建前。本来ならば質問をしてはいけない。けれど私は好奇心の方が勝ってしまった。
「彼は…アグニは…何者なのでしょうか?」
「父上!!!」
リオンが私の質問を咎めた。けれど公爵は変わらない笑顔でリオンに片手をあげて制した。
『構わないよ。私が質問を許可したのだからね。そうだな、私がこの世で最も大切だと思う人が最も大切にしているもんなんだよ。』
「最も大切な方………」
『ああ、そうだ。』
公爵は燃えるように広がる夕焼けを見ながら笑顔で言った。
『アグニの価値は計り知れない。私と彼の命とでは天秤にもかけられない。重さが違いすぎてしまってな』
この実社会の最高権力者よりもアグニの方が価値がある?そんなことありえるのか?どういうことだ?
公爵の黄緑の瞳が暮れゆく空に光って見える。
あぁ…けど確かに……
アグニの瞳はもっと美しかった。
『なぁ、アトラス。お互い年を取ったな。』
「……えぇ、本当に。」
『もう何十年も一緒にいる。大切な友人だと思っているよ。』
「……ありがとうございます。」
『だから君が大切なものを失くして、悲しい顔をするのは見たくない』
「…………。」
『囀らない静かな鳥ならば私はずっと可愛がることができる。……どうか私を嫌な人間にしないでくれ。』
「………はっ。」
公爵は流し目で私のことを見ながら告げた。
『そのうちきっとアグニのことがわかるよ。だからそんな不安がらなくていい。それと…コルネリウスとは今まで通り仲良くさせてやってくれ。』
「……かしこまりました。」
公爵は頭を下げているリオンの肩にポンと手を当てた。
『疲れただろう。ゆっくり休みなさい。』
やはりリオンが試合相手だとわかっていたのか。
「はっ。ありがとうございます。」
リオンはより深く頭を下げて礼を言った。公爵はその様子を見ることもなく再び馬車に乗り、去って行った。
「リオン。」
「はい、父上。」
「定期的に彼の事をコルネリウスから聞いてくれ。けれど下手に探る必要はない」
「かしこまりました。」
「そして何度も言うが、私はお前たちが1番大切だ。」
「……急にどうしたんですか?」
リオンは少し照れ臭そうに、わざと不審な顔をした。もういい年齢の息子に対して伝える言葉ではないのかもしれない。
けれど何人もの仲間に伝え損ねた言葉なんだ。
だから何度だって言う。
「私は家族を、一生涯愛し抜く。」
愛し抜くために、私は口を閉ざす道を選ぶ。
私の忠誠は、永久に家族とともにある。
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