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始まりの夜④

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夜の帳が下りた城下町は、静寂に包まれていた。
眼下の屋敷は五年前に出た頃と変わらず、カイは安堵する。

暫く懐かしい我が家を見下ろした後、カイはその腕を天に掲げた。
そして唇を僅かに動かし呪文を詠し、一気に下げた。その手から一瞬閃光が放たれ、屋敷を覆うように四散する。その静寂が更に深まったのを確認し、彼はそっと地に降り立った。

屋敷に立ち入ったカイは、使用人が随分減ったと真っ先に思った。もとより最低限しか雇っていなかったが、これで生活は回るのだろうかと俄に心配になる。
ただ親友であるルイス国王の計らいか、極端な困窮はしていなさそうだ。それだけは救いだとカイは思った。

かつて夫婦の寝室だった部屋の前にカイは立つ。
恐る恐る扉を開けたが、そこには誰もいない。
だから廊下に戻り首を傾げながら見回すと、一つドアの隙間から明かりが漏れている部屋があった。そこはかつてカイアラルが書斎として使っていた場所だ。

戸を開くと懐かしい香りがする。
この部屋に収蔵された書物の独特なにおいだ。
追って直ぐに、机の上に突っ伏している婦人の背が見えた。カイアラルの妻、マリーだ。

少し痩せたか、カイは思う。

先程カイがこの屋敷にかけたのは、眠りの魔法だった。彼女も例外なく、すやすやと眠っている。
しかしその目尻が濡れており、直前まで涙していた事が見て取れた。
カイはその涙を思わず指で拭い、そして彼女が握りしめているものに気がついた。

それは、赤い眼鏡だった。
かつてカイが愛用していたものだ。
騎士団員時代の派遣先で失くしたと思っていたが、誰かが見つけて持ち帰り、彼女に渡してくれたのだろう。

カイは暫くの間目を細めたままそれを見つめた後、彼女の指を優しく解いて眼鏡を取った。
代わりに自分の左指から指輪を外して握らせる。その瞬間、僅かにそれが発光した。

同時にかつて絹のように滑らかで美しかったその指先が酷くささくれていることに気が付き、カイは思わず眉を寄せた。労るようにそれを撫でる。
申し訳ないという気持ちだけが膨らむ。
しかし今のカイが彼女にしてやれることは、何もない。

ふと、向こうのソファーに当時のまま自分の上着が置かれているのが見えたので、カイはそれをそっと彼女の背にかけてやった。
そして何も言わず、三度その頰を撫でると部屋を後にした。

次に向かったのは、書斎の隣にある部屋だ。
他の部屋とは大きく異なる可愛らしい内装のそこは、子ども部屋に違いない。
妻が子供が生まれる前に夫婦で話をしていた通りに整えてくれたようだった。
部屋の一番奥、窓際に置かれたベッドの真ん中が小さく膨らんでいる。
それを覗き込むと、可愛らしい男の子が健やかに眠っていた。
それは、カイが初めて見る実息子の姿だった。
思わずその口角が僅かに上がる。カイは息子の頭を優しく撫でた後、その額を人差し指でくるくるとなぞった。それを追うように軌跡は発光する。
そしてその小さな額に紋が浮かび上がり、すぐにすっと消えた。

「君に、神のご加護を」

最後にカイはそう呟いて、子供の額にキスを落とす。
ううん、と小さく声を出したその子を愛しそうに見つめ、そしてまた部屋を後にした。

最後に向かったのは、一番奥の端にある部屋だ。近づくにつれて空気の流れが変わっていく。
この淀んだような空気がカイは苦手だった。
カイはその扉の前に立ち、一度呼吸を整える。
そして意を決したようにそれを開いた。

カイの気持ちとは裏腹に、その室内は予想よりもずっと綺麗だった。
妻が欠かさず手入れをしてくれている証拠だと、カイは深く感謝する。

その一番奥にあるベッドに横たわっているのは、カイの兄だった。その名をアーサーという。
元々この家の当主を務めていたが、馬車の事故に遭い重い障害を負った。
かろうじて意識はあるものの、その気は確かではない。思うように身体も動かせず、一人では満足に生活できないこの兄の世話を妻に課してしまうことだけが、ずっとカイの心の重荷だった。

カイは眠る兄の首に手をかける。
この手に力を込めれば、彼を終わらせることができる。不自由な身体をはじめ、多くの苦しみを抱えながらこの先を生きるよりも、一思いにここで終わらせてやった方がきっと彼も楽なはずだ。

カイはそう自分に言い聞かせて、指先に力を込めた。しかし、兄の眉が苦しげに寄せられたのを見た瞬間、咄嗟にその手を離した。
咳き込む兄の横で、カイは乱れる呼吸を必死に抑え込む。
左手に残った骨を軋ませた感覚が不快でたまらなかった。

カイは兄から視線を反らせぬまま2歩後ずさりをした後、項垂れた。そして思案する。

これから妻は、息子はどうなるのだろうか。

今まではルイス国王の計らいで何とかもたせていたのだろう。
しかし、不名誉なことに当主が極刑となった今、きっと爵位は剥奪されざるを得ない。
彼らはこの屋敷に住み続けることが出来るのだろうか。いや、無理だ。

親友である国王、ルイスに家族の処遇を頼みはしたが、彼にも立場上の限界がある。
国王が教皇に背き処刑された人間の肩を過度に持てば、今後の内外交に大きく影響する。

夫が罪人として裁かれ、爵位を失った彼女はその実家に戻ることはできないだろう。
かといって、幼子を抱えながら一人で平民として生きられる程逞しい女ではない。
息子もまた、これからは罪人の子だと言う枷を背負い生きていかなければならない。
家族が自分のために、これからあらゆる苦労を背負うことは明白だった。

どうしたらいい。

カイは再び兄を見る。
事故に遭う前の彼は、誰もが認める立派な当主だった。当時皇太子だったルイスとの親交も深く、男爵ながら侯爵と肩を並べ側近を務めたほど優秀な男だった。

もしかしたらと、カイは思った。
兄が"戻れ"ば、この状況が何とかなるかも知れない。しかし一方で、当時から兄と自分の関係は決して良いものではなかった。
兄は、弟の家族のためにこの逆境の中奔走してくれるだろうか。

それは一縷の望みで、賭けだ。

どうする。


カイは思案する。
そうやって随分長い間考え、そして遂に覚悟を決めた。

カイは再び兄のベッドに近づき、痩けた兄の両頬を手で覆う。そして唇を重ねると、そっと舌を挿し入れた。小さく兄の喉が下がる。
途端、その顔に刻まれた皺が薄らいでいく。

その喉がしっかりと動くようになったことを確かめて、カイは兄から唇を離した。
そして指先を切り、兄の口に含ませる。
それを吸う力が強くなったところで、今度は手首を切った。傷口を同じようにその口に押し当てると、兄はチロチロと舌を這わせ舐め取り、やがてがぶりとかぶりついてカイの血を啜る。

突然、カイは強い力で後ろから腰を掴まれ引き寄せられた。力が宿った兄の手だった。カイは目を細め、改めて自身の血液を嚥下する兄を見下ろす。

やがて白髪まじりな兄の髪はかつてのような滑らかで美しい金色に、シワだらけの老夫のような顔は、生気が宿る青年の顔へと変化していく。


兄がかつての姿を取り戻したことを確認し、カイはふうと息を吐いた。そしてベッドから離れると、一直線に窓へと向かう。
重たいカーテンを開く。
金色に輝く月が見えた。
カイは窓を開き、その身を乗り出す。

その瞬間、


「カイアラル……?」

背中の向こうから、懐かしい声が聞こえた。
思わず振り返ると、兄がベッドから上身を起こし、青い目を大きく見開いてこちらを見ている。カイはその赤い瞳を細めて、微笑んだ。

「兄さん、ごめん。後、頼むよ」

そしてそう小さな声でそう言い残し、躊躇なく窓から飛び立つ。

兄はその後を追おうと身を起こし、そのままベッドから転げ落ちた。
そして今まで力の入らなかった手が、足が動くことに気づいて、すぐに弟が消えた窓へと駆け寄った。

しかし彼がいくら窓の外へと目を凝らしても、その身を乗り出して探しても、そこにあるのは夜の静寂のみ。

兄が弟の姿を見つけることは、ついぞ出来なかった。




バサリという布が落ちた音に、マリーは身を竦めた。直ぐにそれが自分の肩から滑り落ちたことに気がついて、首をかしげる。
「あの人の……?
やだわ、一体、誰が……」
それを拾い上げると、彼女は次の異変に気がつく。手の中にある、白金の指輪だ。
自分の左指のそれと同じデザインで、一回り大きい。彼女は慌てて内周を確認する。そこには夫と自分の名が刻まれていた。

「どうして、ここに……」

この結婚指輪は夫がいつも身につけていたもので、彼と最期を共にした筈だ。
こんなところにあるわけがない。
そもそも自分が握りしめていたのは指輪ではなく、彼の唯一の遺品だとされた赤い眼鏡だった。
一体何が起きているのだ。
マリーの胸がざわつき始めた頃、急に書斎のドアが開いた。

「ママァ」
「あらあら。目が覚めたのね」
「うん……」

夫の忘れ形見である息子だった。
まだあどけない様子で駆け寄ってくる。
抱きしめてやると、彼はウフフと笑った。

「あのねえ、ママ。ぼく、ゆめをみたんだよ」
「まあ、どんな夢?」
「天使さまのゆめだよ。
まっしろで、おめめが赤くて、すっごくかっこよかったあ。いっぱい頭をなでてくれてね。
あれ?ママ、なんで泣いてるの?
どこかいたいの?」

マリーもう何も言えず、強く息子を抱きしめた。そして確信する。

「きっとあの人が来てくださったのね。
全く、本当にいつも自分勝手で困るわ」


その朝、奇跡はもう一つ起きていた。
夫の書斎を息子とともに出たマリーを、身なりを整えた義兄が出迎えたのだ。
驚く彼女の前に彼は跪き、これまでの謝罪と深い礼を述べた。そして弟に代わり、これからは自分が必ず守ると親子に誓った。


更にその後すぐに、屋敷に一人の男が訪れた。 人目を忍ぶ彼は誰でもないこの国の王、ルイスである。迎えたのはカイの兄、アーサーであったが、彼はそのことをとても驚いた。


「そうか、そんなことが」
手渡された書簡に目を通し、アーサーはそう呟いた。
「しかし君がこんなにも回復していたなんて、本当に驚いたよ」
「……カイアラルを」
「え?」
「昨夜、カイアラルを見た」
「まさか」
「あぁ。まさか、だな。
しこの書簡が正しいのであれば、あいつは昨日処刑されたのだから」
「僕は彼に会っているし、その瞬間をこの目で見ている。残念ながら、間違いはない」
「そうだな。しかし、遺体は教会に処理されてしまったんだったよな」
「ああ、そうだ。
僕の力が及ばず、帰してやれなかった。
本当に申し訳なかった」
「いや、こちらこそすまなかった。
愚弟が多忙な君に余計な手間を掛けさせた」
そう言って深く頭を下げたものの、そのままアーサーは動かない。
「アーサー、何を考えている?」
そしてそれを不審に思ったルイスから声をかけられて、アーサーは、はっと顔を上げた。
「……いや、別に」
取り繕うように彼はそう返して続ける。
「きっと弟は、俺達に会いに来てくれたのだろう。君の話だと、最後まで気に掛けてくれていたようだしな。全く、相変わらず自分勝手なやつだ」
「それでも彼は、あの事故の後、家を守ろうと頑張って来たんだ。当主になんてとても向いている子ではなかったが、それでも彼は家を守ろうと、君の名を汚すまいといつも必死だったよ」
「わかっている、わかっているよ。
あいつは本当によくやってくれていた。
だから、その意思は俺が継ぐ。
必ずこの家を立て直し守ってみせるよ。
あいつが残した家族のために、ね」
「僕も出来る限りの手を尽くす。頼ってほしい」
「あはは、国王様のお墨付きがあれば安泰だな。
とは言え君も昔とは立場が違う。
ましてや愚弟は神に反した重罪人だ。
あまり俺たちに肩入れをするな」
「しかし」
「侮るな、俺を誰だと思っている」
 
アーサーは不敵に笑う。 

ルイスは昔と変わらぬその姿に安堵するが、一方で胸の中の違和感が拭えない。
寧ろそれが広がったのを自覚する。



ルイスを見送ると、アーサーは自室へと戻った。窓を開いて昨夜と同じ様に外を見回した後、ベッドに向かい上掛けをはがした。 
シーツに残った生々しい血痕は乾いても尚赤く、あの瞳の色を彷彿とさせる。

「お前はそうやって、いつも一人で抱え込む」

アーサーはそう呟くと勢いよくシーツをベッドから剥ぎ取って丁寧に畳んだ。
そしてそれをクローゼットの一番奥へと仕舞い込んで、ゆっくりとその扉を閉じた。
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