三十代で再召喚されたが、誰も神子だと気付かない

司馬犬

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1巻

1-2

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 そうぼんやりしていると、甲高い声が扉越しに聞こえてくる。それは若い女性の声だ。

『お、お願いします! 私は、ここを辞めることになると困るのです!』

 悲痛な声が気になり、ベッドから身体を起こして部屋の扉に近づく。そして、わずかに開いて覗きこんだ。
 俺の部屋は廊下の突き当たりに位置しているので、真っ直ぐに廊下が見通せる。
 その廊下の曲がり角辺りに女性がいた。この屋敷のメイドさんだろうか。
 先ほど、案内してくれた子ではない、見たことのない顔だった。
 床に座りこみ、前方を見つめている。しかし、彼女が見つめているであろう相手の姿はここからは見えない。

「旦那様! どうかどうかお考え直しを!」
「……」

 旦那様という言葉で、そこにいるのが誰かすぐにわかった。ここでそうやって呼ばれるのはたった一人だ。

「わ、私が何か粗相したのならば」
「――黙れ」

 泣き声も混じり始めたメイドさんの声を遮った声は、どこまでも冷たい。そして、俺はその声を聞いたことがあった。
 忘れることのできない声だ。自分へ向けられたものではないのに心臓が跳ねる。
 廊下の向こうにいる『旦那様』は鼻で笑い、冷たい声で続けた。

「お前のような者が、恥知らずにもよく懇願できたものだ」
「な、何を、おっしゃっているのですか……?」
「わからんか? ならば胸に手を当てて考えろ。お前がどういう立場の人間であるかをな」

 離れている場所でもはっきりと届く声。淡々と吐き出されている言葉に温かさはなく、凍りつきそうだ。ここまでくると懐かしいとさえ感じる。
 ここからでは顔色まではわからないが、メイドさんの顔は真っ青になっていることだろう。その証拠に、ここから見てわかる程に彼女の全身は震えていた。
 しかし、メイドさんにも譲れないものがあるのだろう。震える手を前へと伸ばしていく。

「だ、旦那様!」

 こちらからはよく見えないが立ち上がろうとしたメイドさんが、何かに押されたように体勢を崩し床に倒れこんだ。
 一瞬、危ないと口に出そうになったが呑みこむ。

「私に、触るな」

 それは今まで聞いた声の中で低く、怒りに満ちたものだった。正直、昔の俺でもそんな風に言われたことはない。聞いてるだけの俺でさえ背筋が粟立つ。
 それを真正面から向けられたメイドさんは、凍りついたように動けなくなってしまった。

「話はここまでだ。二度とお前の顔を見ないことを祈ろう」

 声がそう言うと騎士たちが現れ、メイドさんを起こして強引に連れていく。
 その際もメイドさんは固まったままで、目線が一点を見つめているのがわかる。それが誰を追っているかは俺にもなんとなくわかり、そっと扉を閉じた。
 なんとも言えない気持ちが全身に広がっていく。口を閉ざしたまま、再度ベッドのほうへ向かい腰を下ろした。
 彼も相変わらずといったところだ。まあ、元気であるならば何よりだ。しかしできることなら、しばらくは顔を合わせたくない気分だった。
 その後扉を閉めて部屋でぼんやりしていると、部屋の扉が叩かれる。コンコンという軽いノック音に目線をそちらに向けた。

「はい」
「失礼いたします、サワジマ様。夕食のご用意ができました」
「あ、はい。ありがとうございます、すぐに仕度します」
「かしこまりました。ご準備ができましたらご案内いたします」

 とりあえず今は食べることを優先するとしよう。腹が減ったままだと思考も鈍る。俺はベッドから下りて、軽く身だしなみを整えることにした。


 高級そうな大きいテーブルの上には、豪勢な食事が並べられている。どれもいい匂いがして、とても美味しそうだ。しかし、今の俺には食欲というものが一切なくなっていた。
 なぜなら俺と共に席についた男がいたからだ。
 貴族らしい高級で美しい紺色の衣服、それに合うような銀色の髪。長い睫毛まつげの奥にあるのは紫水晶の瞳だ。そこには美しいという言葉を凝縮したような男がいた。
 しかし、美しいだけではない。
 男は姿勢よく椅子に座り、真っ直ぐに俺を見つめる。その目つき、雰囲気、表情に至るまで、まさしく悪役という言葉がぴったりなのだ。
 例えるならば、主人公に嫌がらせする小物のような悪役ではなく、最後の最後まで暗躍して苦しめてくる黒幕に近い。
 目を細めるだけで心臓を凍りつかせ、薄く微笑めばどんなたくらみをしているのだろう、と見ている者を不安にさせる。
 なぜこの場にいるのか、なんてことはよく考えなくともわかることだ。曲がりなりにも一年は一緒に暮らすのだ。その相手と顔合わせをしない訳がない。夕食の席という場ならなおさらだろう。
 彼こそが屋敷の主、セルデア・サリダート公爵。
 セルデアも化身だから、身体の一部分に神の特徴が現れる。ルーカスの耳の羽、ナイヤの尻尾しっぽというように。
 しかし、彼は違う。
 俺は、ちらりとセルデアに目線を向ける。
 銀の髪の上に生えているのは白い二本の角、さらに紫水晶のような瞳は縦長だ。そして、口を開けばわかるのだが八重歯の辺りの牙は鋭い。
 ルーカスやナイヤよりも、身体的特徴が多く現れているのだ。
 セルデアが誰よりも神の血が濃いというのが理由だ。
 それは、彼の持つ力が他の化身より強く、同時に、瘴気しょうきに弱いということでもある。だからこそ俺が初めて召喚された時は、セルデアの瘴気しょうきを浄化することが何よりも優先された。
 優先されたからこそ、しっかり瘴気しょうきを浄化したはずなんだが……



「改めて挨拶をさせていただく。私がこの屋敷の主、セルデア・サリダートだ」
「ええと、はい。今日からお世話になります、サワジマです」

 その冷えた声は、相変わらずだ。
 しかし正直なところ、俺は返答しながらも会話に集中できていない。
 その原因は、セルデアが全身にまと瘴気しょうきにある。黒く、禍々まがまがしい霧のようなものが身体にまとわりついている。
 普通に生きていたら絶対にそんな濃くならない。いくらセルデアが瘴気しょうきを溜めやすいと言っても、こちらでは俺が浄化してから四年しか経っていない。
 俺もしっかり神子としての役割を果たした。瘴気しょうきには一生悩まされずに済むはずなのだ。それなのに、この瘴気しょうきの濃さはなんだ。
 瘴気しょうきというのは、普通にしていても溜まるものだ。ただその速度は、化身の精神状況で変化する場合が多い。悲しみ、絶望、憎悪。そういう負の感情で瘴気しょうきの勢いが増していく。とはいっても、これは酷すぎる。
 瘴気しょうきえるのは神子だけ。だからこそ、この瘴気しょうきはまずいということがすぐにわかる。下手に刺激すれば暴走、この世界でいう『神堕かみおち』をする。
 神堕ちというのは、化身が瘴気しょうきで心身を侵されすぎたせいで暴走する状態をいう。理性を失い本能のまま欲望に従って動く。
 そうなったら最後だ。元々神子は浄化の力の応用で、化身の力ならば消すことが可能だ。そのために、神子とその他の化身で討伐することになっている。つまり、殺す訳だ。
 ……しかし、セルデアがなぜこうなっているのか。そもそもこの状態で、普通に会話できているのが不思議なレベルだ。

「貴方は神子の召喚に巻きこまれた一般人だと聞いている。そのため、一年後には儀式を行い帰るつもりだと」
「はい、その通りです」
「そうか」

 俺もセルデアも席についただけで食事には一切手をつけていない。彼は溜め息を一つ吐くと、俺に向かって深々と頭を下げた。

「申し訳ない。神子召喚は誘拐と変わらないものだと理解している。しかし、神子がいなければ我が国は滅ぶ。今回の召喚は新たな神子を呼ぶためではないと聞いていたのだが、結果はこうなってしまった。関係のない貴方には多大な迷惑をかけてしまった」
「き、気にしないでください。俺はその、大丈夫ですので」

 唐突な謝罪で久しぶりに動揺する。だって、セルデアは基本的には嫌なヤツのはずだ。しかし、今はその様子が一欠片かけらも見えない。
 先ほどのメイドさんとのやり取りはどこへ消えたのか。
 まさか、これは体面を取りつくろうための演技だろうか。
 いや、神子時代でさえあの態度だったのに、厄介者扱いされている今の俺にそうする必要はあるのか?

「感謝する。代わりといってはなんだが、ここに滞在中は不自由のない暮らしを保証する。ゆっくりとくつろいでくれ」

 かなり動揺しながらもその言葉に一つ頷くと、セルデアは口端をかすかに吊り上げる。それはどこか含みのある笑みだ。
 異様な圧力があり、俺は黙りこんだ。ここに呼んだのも何かに利用するつもりなのだろうか。
 しかし、何も食べない訳にはいかないので、食事に手をつけることにした。
 食器の音しか響かない静かな食事。もちろん、和やかに談笑しながらではない。期待はしていなかったので予想通りではある。
 黙々と食事を続けるが、俺としては瘴気しょうきが気になって食事の味を楽しむ余裕はなかった。悲しいことだ。
 少しして、セルデアがその手を止める。

「……貴方は、召喚された神子を見たのだろうか」
「はい、見ました」
「新たな神子だったという知らせは私にも届いているのだが、彼は……貴方から見てもこの世界に来たのは初めてのようだっただろうか?」
「……そういう風に見えましたが、どうしてですか?」

 おかしな質問だと思いつつも、感情は乗せずに淡々と答える。もしかして、セルデアはあの高校生君が俺だと思っているのだろうか。
 先ほども、新たな神子を召喚するつもりはなかったと言ってたしな。もしかして、あの儀式は俺を呼ぶためのものだったのだろうか。
 セルデアは俺の返答を聞くとただうつむいた。その表情に明るさはなく、どこか重々しく暗い。俺には落胆しているようにも見えたが気のせいだろうか。

「ならいい、気にしないでほしい。それにしても、貴方は……」

 縦長の瞳孔が俺をしっかりと捉える。まさしく蛇ににらまれた蛙状態である。俺はフォークを握りしめたまま固まった。
 なんだ。先ほどの質問と言い……もしかして、セルデアは俺に気付いているのか? それは探るような視線で、張り詰めた雰囲気には俺は唾を飲みこむ。

「はい?」
「いや……」

 ふっと視線が逸らされて、ようやく肩の力を抜く。
 俺は小さく息を吐いて、緊張で鼓動の速くなった心臓を落ち着かせた。バレたからといって殺される訳でない。落ち着かなくては。
 こっそりと息を整えている間、セルデアはしばらく黙りこんでいた。しかし、ある程度食事を終えるとカトラリーから手を離し立ち上がる。椅子が床を引っ掻く音が、室内に大きく響き渡った。

「すまないが、先に失礼させていただく。貴方は気にせず、ゆっくりと食事を堪能してくれたまえ」

 そう言い残すと食堂から出ていってしまう。その足取りは速く、速足というより小走りに近いものだ。
 控えていたノバさんも慌てた様子で、セルデアの後を追い食堂から出ていった。
 俺はそれをただ見送ることしかできない。閉じた扉を呆然と見つめていたが、ふと我に返って食事に戻ることにした。
 折角用意してくれた食事だ。残すのはもったいない、うん。
 しかし、セルデアの態度の変化はなんなのだろう。嫌味と文句ばかりだったあのセルデアと、同一人物だとは到底思えない。しかし、容姿や声は間違いなく彼であり、疑いようがない。
 そうなると、考えられるのは二つ。
 セルデアが今後俺を何かに利用しようと考えているため、今は人のさそうな演技をしている。
 残る一つは、当時ただ単に彼は心底、俺が嫌いだったということ。
 中学生時代、人生の中ではもっとも明るく笑い、表情豊かで生き生きとしていたと思う。
 そんな俺が嫌いで、ああいう態度をとったと考えると辻褄が合う。
 そこまで考えて、小さく鼻で笑った。
 皮肉なものだ。
 神子時代に甘やかされて優しくされた人たちからは邪険にされ、嫌われ文句を言われていたセルデアには普通に接してもらえるなんて。
 胸の奥に小さなとげが刺さる。それは小さすぎて大した痛みはないものだ。
 しかし、それはしっかりと残り、じわりじわりと痛みが広がっていった。


 和やかな、とはいえない夕食が終わった次の日。
 朝方、俺が目覚めた頃だった。欠伸あくびを噛み殺していると扉が軽くノックされた。
 昨日と同じような応答の後に入ってきたのは、一人のメイドさんだった。彼女はここに来た際に案内をしてくれた人であり、部屋に入ってくると頭を下げた。

「おはようございます、サワジマ様。今日付けで正式にサワジマ様のお世話役として任命されました、パーラと申します。改めてご挨拶に参りました」

 パーラと名乗ったメイドさんは優しく笑う。年齢は十代後半といったところだろうか。年齢よりも随分と落ち着いているように見えるが、笑うと年相応に見えて微笑ましいものだ。
 容姿は綺麗というより可愛らしいという表現がぴったりな少女だ。栗色の大きな瞳はやる気に満ちている。
 ……すさんだ心が癒される。
 昔から俺の周りは男が多かったから、こういう出会いは貴重だ。

「何かありましたら私がお伺いしますので、なんなりとお申しつけください」
「ありがとうございます。では、早速聞きたいことがあるんですが」
「はい」
「……サリダート公爵は、どういう方ですか?」

 そう問いかけるとパーラちゃんは、大きな目を丸くした。突然の質問で困っているとは思う。
 しかし、昨晩の態度をどう受け止めていいのか未だにわからない。だからこそ、少しでも他人の意見が聞きたかった。
 パーラちゃんは俺の視線を受けると、何か悟ったような顔をしてからすぐに口を開いた。

「純粋なお方ですよ」

 まあ、そういう感じの答えが返ってくるよな。
 セルデアに雇われている者が、ほぼ初対面の俺に本音を漏らすはずもない。どんなに嫌な人間だったとしても、本音はどうあれ褒めるのが普通だろう。馬鹿なことを聞いた。

「なるほど。そうなんですね」
「あ、サワジマ様。信じていませんね?」

 パーラちゃんは少しだけ頬を膨らませる。
 うん、文句なしに可愛い。しかし、明らかに棒読みだっただろうか。信じていなかったことが簡単にバレてしまった。もう少しそれらしい演技をするべきだったか。
 顎に手を添えて考えていると、パーラちゃんはゆっくりとこちらへ近づく。

「よければ旦那様をよく見てあげてください。きっと、わかりますよ」

 パーラちゃんは、眉尻を少しだけ垂らし微笑んだ。そこにはかすかな悲しみが混じっているように見えて、俺は思わず首をかしげる。
 よく見るも何も、神子時代には結構な至近距離でセルデアのことを見ていたつもりだ。パーラちゃんには悪いが、今さら見てもわかることがあるようには思えない。
 しかし、彼女の複雑な表情はしっかりと脳裏に焼きついた。

「ああ、そうでした。実は旦那様からサワジマ様への言伝ことづてを預かっております」
「え。俺に、ですか?」

 小さな咳払いと共に、パーラちゃんは背筋を真っ直ぐに正す。そして、口を開いた。

「はい、ここでの決まり事についてです」


    ■■■■


 セルデアから言われた決まり事は、たった二点だけだった。
 まず、許可なく屋敷の敷地外には出ないでほしいということ。これは単純な話で、俺の身の安全のためだ。
 次に、部屋はどこを使っても構わないが、夜に部屋から出るのはできる限り控えてほしい、ということ。
 ただ、これは強制ではないらしい。理由はただ単に今屋敷の使用人の数が少なく、夜間に世話役として動ける者が少ないからだ。
 俺は一人でも構わないのだが、我儘わがままを言う訳にもいかずに頷いた。
 確かにそうだ。かなり広い屋敷だが、雇っている使用人は少ないように思える。もしかして、公爵家の財政状態が火の車だったりするのだろうか。
 とりあえず、俺はそれらの約束を守って動くことにした。逆らう理由もないし、面倒をかけるのも悪い。
 それらの説明を受けたあと、真っ先に向かったのは書庫だった。これから一人で生きていくために、必要なのはこの世界の情報だ。
 場所はパーラちゃんに教えてもらい、案内は断った。使用人が少ないなら、わざわざ付き合ってもらうのは気が引けたからだ。
 屋敷の廊下を一人でゆったりと進む。この角を左に曲がって、突き当たりの扉がそうだったはずなんだが。教えてもらった記憶を辿り、曲がろうとした時だ。

「旦那様! どうしても行かれないおつもりですか」
「ノバ」

 書庫と思われる部屋から人影が出てくる。それはノバさんと、セルデアだった。
 俺はとっさに、廊下の角に身を隠してしまう。
 別に隠れる必要はないのだが、彼らの雰囲気には切迫感があり出づらい。
 セルデアの全身にまとわりつく瘴気しょうきは相変わらず濃い。正直に言うと、あの瘴気しょうきをどうにかしようとは考えた。一応は、寝るところと食事を用意してくれている家主だ。個人の感情はどうあれ、助けてあげるべきかもしれない。
 しかし、俺じゃなくても別にいいだろうという気持ちが強いのだ。
 あの高校生君は、間違いなく神子の力がある。先代神子である俺が保証する。
 つまり、正式な神子である彼がセルデアを浄化すればいいだけの話であり、わざわざ俺の存在がバレるような危険を冒す必要などないだろう。

「最近の不調は瘴気しょうきによるものだと私は思っております。新たな神子様が来られたと聞きました、今事情を説明すれば優先的に浄化していただけるはずです」
「先ほども言っただろう。そうだとしても私は、新たな神子に会いに行くつもりはないのだ」
「旦那様……っ」

 ノバさんの苦しそうな呼びかけが聞こえる。それを耳にしながらセルデアの言葉に固まった。
 ……行くつもりがない?
 今の状況を一番よく理解しているのは、セルデア自身だろう。あの瘴気しょうきは早めに手を打ったほうがいい。
 できるだけ早めに、浄化してもらうべきレベルだ。それなのに行かないという。

「私は、二度と神子には関わりたくない」
「……そ、それでは、旦那様が」
「しつこいぞ、ノバ。もし私が行くと言ったとしても、ルーカス殿下が神子に近づくのを許してくださると思うか?」
「……」

 二度と関わりたくないという言葉に、心臓が小さく跳ねた。しかし、なぜ俺が気にするんだ。なんとなくしゃくではある。
 それに、ルーカスが神子に近づくのを許さないだとは、どういうことだ?
 セルデアが神堕ちすればその被害は尋常じゃないものになるぞ。それはルーカスも知っているはずだ。
 廊下の角からそっと覗く。ノバさんは黙りこんでうつむいてしまい、悔しそうに拳を強く握りしめていた。

「それに大袈裟おおげさだ。私は先代神子にしっかり浄化してもらった。瘴気しょうきはそこまで溜まっていない。最近のことはただの疲労だ」

 ――嘘だ。
 確かに浄化はした。だが、今の瘴気しょうきは初対面の時以上だと俺は思っている。しかし、ノバさんにそれはわからない。
 だからこそ、セルデアの言葉に何も言い返すことができず深々と頭を下げた。話はそこで終わったのだろう。
 書庫から少し離れた部屋に、二人で入っていくのをこっそり確認してから、安堵の息を吐く。
 真っ直ぐにこちらに来たらどうしようかと思ったが、運がよかったようだ。足音が聞こえなくなったのをしっかり確認してから、ようやく角を曲がって進み始めた。
 しかし、段々と足は進まなくなり、自然と足が止まる。

「……口だけだろう」

 先ほどの会話が頭に焼きついて、離れない。神子には頼らないと言っていたが、その選択は自殺行為に近い。
 瘴気しょうきは、化身を苦しめる。瘴気しょうきは強まる程に心身に苦痛を与え、化身の凶暴性を強くする。
 あのままでは――いや、考えるのはやめよう。セルデアのことだ、何かたくらんでいる可能性もある。もう少し症状が強まれば、高校生君に泣きつくことになるはずだ。だからこそ、無駄な心配はやめよう。
 記憶を消すように頭を振ると、書庫へと急いだ。


「へえ、これはすごい」

 俺は壁全面に広がるような本棚を見て、小さく感嘆の声をあげる。この部屋に並べられた膨大な本の量は、ちょっとした図書館並みだ。
 それらをゆっくりと見渡しながら、目的の本を探して歩き回る。
 俺はこの世界の文字が読める。それは神子だからではない。神子として召喚されても、言葉は通じるが、普通は文字がまったく読めない。
 読めるのは、神子時代に文字の読み方を教わったからだ。それでも勉強したのは一年間だけ。今から二十年近く前の話だ。だから完璧にすらすらと読めるのかと問われれば、首を横に振るしかない。だが時間をかければ、まあまあ読めるだろう。
 今から探すのは神子関連の本だ。この力を役立てる方法がないかをどうにかして確認したい。他にも役に立ちそうな本があればいい。地位もなく家族もいない三十代が、異世界で一人で暮らしていくには知識も必要だろう。
 しばらく歩き続けるが、図書館のように丁寧にジャンル分けされているはずもなく、背表紙にタイトルがない本も多かった。ここの家主ならともかく、俺には探すだけでもかなりの時間が必要だ。

「ん?」

 ふと、背表紙にタイトルが書かれていない真っ黒な本が目に留まる。気まぐれにその本へ手を伸ばした。
 中身を開いてさっと目を通すと、どうやら絵本のようだ。幼児向けにしては絵が可愛らしいものではない。
 美しく、繊細な線で描かれた絵は見る者を惹きつける。文字に不慣れな俺にもこれなら読みやすい。俺はその絵本に目を通し始めた。
 内容は、この世界の始まりについて、だった。
 神と人の距離が限りなく近かった時代。幸せに暮らしていたのにどうして離れることになったのか、という内容だ。
 これはおとぎ話というよりは宗教本に近いな。
 多くの神の名前が出てきて、色んな話が描かれている。結局のところ、神が人と離れることになったのはたった一人、とある神が原因らしい。
 その神は賭け事が大好きな神だったそうだ。そんな神はある時、愛していた人間を報酬に夜の神と賭けをしたらしい。
 結局は賭けが大好きな神は負けてしまい、夜の神にその人間を取られることとなった。まったくもって、自業自得だ。
 しかし、その神は心の底からその人間を愛していた。だからこそ、必死に取り返そうとしたそうだ。どんなことにも手を染めていき、ついには神をやめてしまった。
 そしてその思いは、最後には呪いへと変わった。それは神をむしばみ、侵す。神々はそれを恐れて世界から去った。
 要約すればそのような内容だった。
 いろいろとツッコミどころの多い物語ではあったが、これがエルーワに伝わる神話だったりするんだろうか。
 神子時代には、こういうことがあったとは聞いた覚えはない。神に関することはある程度は教えてもらっていたはずなんだがな。
 とはいえ、あの頃は勉強が嫌いだった。
 ついでに、周囲からかなりちやほやされていた自覚はあるので、ただ単に俺が嫌がるから教えなかったということかもしれない。
 表紙を何回か確認してから、それを本棚へと戻す。求めているのは、こういう本ではないのだ。
 その後も、書庫内をうろついて何冊か開いて読んでみるが、結局のところは探し出すことはできなかった。
 あまり書庫に長居をすると、メイドさんたちが探しに来る恐れがある。彼女たちに書庫で本を読んでいるところを見られたら困る。文字が読めることは秘密にしなければならない。
 程々で切り上げて書庫を後にすることにした。
 焦ることはない、時間はまだあるのだ。


    ■■■■


『失礼いたします、神子様』

 神子様、と呼ばれてそれが俺のことだと遅れて気付く。いろいろな人たちにずっとそうして呼ばれているのだけど、どうにも慣れない。
 俺のために用意された部屋はとても広くて、行ったことはないけれど一流ホテルみたいだった。ベッドも、ふかふかでめちゃくちゃ幸せ。至れり尽くせりって感じで、何をしてもみんなが褒めてくれる。この世界って最高じゃん。
 少し嫌なところがあるとしたら、一番近くにいるのが男ばっかりのところかな。俺だって男だ、できたら女の子にちやほやされたい。
 今扉をノックして声をかけてきた人も男だ。入ってきて深々と頭を下げたその人は、とても綺麗だった。

『うわぁ!』

 銀色の髪、瞳、角。それらすべてが俺の大好きなドラゴンに見えて、思わず興奮する。昔からドラゴンという生き物がとても大好きだった。だからこそ、それに近い特徴を持つ彼に胸が高鳴った。

『お初にお目にかかります、私はセルデア・サリダートと申します。この度は召喚に応じてくださり、この国の一員として深く感謝いたします』
『あ、いいっすよ。気にしないでください、俺こういうのに憧れてたんで!』

 ここ最近で何度も言われた感謝の言葉に、ちょっと飽き飽きしていた。少し投げやりな返答の後、興奮気味に彼のそばへ近寄る。
 それは、ただ単に彼をもっと近くで見たいという欲のせいだ。しかし、それに戸惑った様子を見せるのはセルデアさんだった。

『あの、私がどうかされましたでしょうか』

 戸惑うのは当然だ。いきなり近くまで駆け寄ってきて、まじまじと見られていれば誰でも気になる。わかっているんだけど、こんなに綺麗な瞳も髪も初めてだったから。


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