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1巻
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しおりを挟む第一章 元神子は再召喚されたようです。
「神子様が召喚されました!」
聞き覚えのある言葉に驚き、俺は目を開いた。
開いた先に見えたのは吹き抜けの天井。上部に取りつけられた窓からは陽光が差しこみ、とても綺麗だ。
俺はどうやら仰向けで倒れているらしい。寝転がったまま辺りをゆっくりと見渡す。
今いる部屋はとても広く、白で統一された内装は清潔さを感じる。すぐにここが職場ではないと気付いた。
先ほどまで職場の狭い休憩室でテーブルに突っ伏して寝ていたはず。当たり前だが、休憩室の天井はこんなに豪華ではない。
そして、視線を徐々にずらしていくと祭壇があり、その近くに多くの人影があった。
「え、俺のことですか……?」
幼さが残る小さな声が、この白い空間に響いた。
残念ながらこの若々しい声の主は俺ではない。俺はその声の主をしっかり確かめようと、身体を起こした。
声の主は一人の青年だった。
高校生だろうか? 制服を着ているので、そうだと思う。
その青年――高校生君は祭壇の近くに座っており、彼のすぐ側に立つ二人の男を呆然と見ている。
二人の内、一人が動いて高校生君のほうへ近づいた。
「そうです、可愛らしい神子よ。突如、召喚してしまい申し訳ありません。ですが僕たちの話をぜひ聞いてほしいのです」
可愛らしいと表現された高校生君だが、誰がどう見ても彼は男だ。しかし目が大きく、愛嬌のある顔は確かに可愛い。
まだ立ち上がることもできない彼に近づき手を差し伸べたのは、ルーカス・エルーワ。
さらさらな金色の髪に、透き通るような青い瞳。その容姿は、おとぎ話に出てくる王子様を出現させたかのようだ。
ただ普通と違うのはその耳。本来耳があるところから生えているのは、まるで鳥の羽だった。彼はこの国、エルーワ王国の第一王子。
俺は、彼の名前を知っていた。ちなみに高校生君の側にいるもう一人は王国騎士団長様であり、彼の名前も知っている。
――ああ、懐かしいなこれ。
そんな感傷に浸りながら、俺はそれを眺めていた。
「今この世界の人々は、危機に見舞われています」
彼らの言い分はあの時のものと一緒だ。
この世界の人は瘴気が溜まりやすい。瘴気というのは、この世界に当たり前のように存在する、いわゆる『心身を侵す毒』だ。
毒と言っても通常の人ならばほぼ問題ないのだが、ある特殊な人種にとっては話が変わる。
はるか昔のこと。
この世界では神と人の関係が近く、多くの人が神と結ばれて子供を作った。
今は神との距離は離れたが、神の血はこの世界の人間に薄く残っていることから、たまに先祖返りをする者がいる。
その者をこの世界では、『化身』と呼ぶ。
化身は古き神の一部を宿して生まれる。だから先ほどの第一王子の耳には、鳥の羽が生えていたのだ。
化身たちは、強大な力を持つ。しかし、彼らには大きな弱点があった。
――それが瘴気だ。
化身たちは通常の人の何倍も瘴気が溜まりやすい。
何もしなくとも体内に瘴気を溜め続け、それが限界値を超すと暴走する。
そうなってしまえば最後だ。その脅威はいわゆるファンタジー世界観で言うところの魔王誕生というと想像しやすいかもしれない。
そうならないように瘴気を浄化することができる唯一の存在、それが神子だ。
「そ、そのために俺が?」
ルーカスが神子の必要性を要約して高校生君に伝えると、高校生君の頬は赤く染まった。瞳は輝き、笑みも浮かんでいる。彼の頭の中では、漫画や小説にある『チート』という文字が浮かんでいることだろう。
その気持ちは痛い程わかる。誰もが一度は通る道だ。俺だってそれにやられたのだ。
高校生君の顔には悲観した様子が一切ないので、安堵する。
「や、やります! 俺でよかったら手伝う、任せてください!」
「……ありがとうございます、感謝します」
ルーカスは柔らかく笑っていたが、突如、表情を曇らせる。そして片手で顔を覆い、小さく肩を震わせた。よく目を凝らすと頬に光るものが見えた。
あれは……もしかして涙だろうか。なんだ、なんだ。
「な、泣き出して、どうかしました?」
「ああ、申し訳ありません。貴方があまりにも真っ直ぐで、前の神子様を思い出してしまいました」
「前の神子……?」
「はい、四年前にここにおられました。とても美しく、慈愛に満ちた神子様でした。歴代の神子の中で力がもっとも強かった……しかし、もういないのです」
ルーカスは悲壮感に満ちた震える声で、ゆっくりと告げた。その言い方だと勘違いするだろう。いちいち反応が大袈裟ともいえる。
案の定、もったいぶったルーカスの言葉を聞き、高校生君の瞳が不安そうに揺れた。
「ま、まさか、死んだ……んですか」
「そんな、違いますよ。あの方は元の世界に戻りたいと願い、戻られてしまったのです」
「え、帰れるの?」
「はい、望むのでしたら。すぐにはというわけにはいきませんが、一年後の今日と同じ日ならば帰還の儀式を行うことができます」
そう、意外にも彼らは帰してくれるのだ。しかし、一年後。
神子の儀式はいろいろと準備が必要だ。召喚にも送還にもそれなりの手間と材料が必要なのだ。そして、この一年が重要だ。
高校生君はそれを聞いてしばし悩むが、すぐに頭を横に振った。
「いえ、大丈夫。俺はここで神子になります」
「それは……元の世界に戻らずともよい、ということでしょうか?」
高校生君が頷くと、ルーカスの耳の羽がふわりと揺れる。それは歓喜に満ちた時のルーカスの癖だ。感情が高ぶったのだろう。ルーカスは目の前の高校生君に抱きついた。
「ありがとうございます。貴方なら、きっと僕の傷を癒してくれるに違いありません。僕の唯一の愛しい――」
「あの」
俺は、そこで初めて声を出した。
盛り上がっているところに水を差すようで大変申し訳ないのだが、ここで口を出さなければ永遠にいない者として扱われそうだったのだ。
次の瞬間、一斉に全員の視線が俺へ向いて、彼らの表情は驚愕へと変わっていく。
ああ、やっぱり。俺の存在にまったく気付いていなかったか。
「あ、あれは⁉」
「貴様、どこから入った!」
周りが騒つく中、ルーカスの隣に立っていた男、騎士団長様が剣を抜いた。
騎士団長様の名前はナイヤ・パンシウム。金の瞳と赤色の髪を持ち、吊り目で怒りっぽい印象を与えていた。
彼も化身だ。その証拠にナイヤの尻からは、狼のような尻尾が生えている。
化身たちは全員が例外なく、かなりの美形だ。神たちがこの世にはない程に美しい存在であり、化身はその神の特徴が色濃く出るのだから当たり前とも言える。
それにしても、この場所には王子と騎士団長以外に神官たちが多くいたのに、誰一人として俺の存在に気付いていなかったようだ。呆れを通り越して笑えてくる。
とりあえず、床に座ったままでは格好がつかないのでゆっくりと立ち上がる。服も軽く叩き、整える。
「あれ、日本人……? も、もしかして、俺の召喚に巻きこまれたのかも!」
高校生君が庇うように声をあげてくれる。この状況で声を出すということはなかなかできないことだ。
しかし今はそれよりも聞きたいことがあり、俺は真っ直ぐにルーカスを見た。
「――俺を見て、何か気付きませんか?」
ルーカスは俺の視線を真正面から受けて、問いかけられているということに気付いたのだろう。こちらを見つめ返してくる。
ルーカスの視界に映っているのは澤島郁馬という男だ。皺だらけのスーツに不健康そうな顔色。黒髪はボサボサ、目の下のクマも濃く残っているだろう。
それでも、背筋だけは真っ直ぐ伸ばし床を両足で踏みしめる。そのまましばらく見つめ合う。
そして――
「何を言っている。お前は何者だ、本当に神子様と同じ世界から来たのか?」
それは先ほど、高校生君に語る柔らかな口調とは打って変わり、刺々しい口調だった。
そして、彼の青い瞳に見えたのは深い侮蔑と嫌悪。汚らわしいという感情が表情にありありと浮かんでいた。
その瞬間、胸が痛まなかったといったら嘘になるだろう。俺だって人間だ。しかし、まあなんとなく予想はついていた。
俺はこの世界に来るのは初めてじゃない。二度目だ。
ルーカスが言っていた、四年前に召喚された先代神子。
――それが俺だった。
俺が召喚されたのは中学一年生の夏。
ちょうど祖母の家に遊びに行った時、部屋で寝ていたところをいきなり召喚された。
この世界の仕組みと神子の役割を説明された中一の俺は、かなり興奮した。異世界に来て、自分は特別な存在だと告げられる。これで興奮しない訳がない。
帰るか帰らないかは一年後に決めればいいと言われたので、思う存分に異世界を楽しんだ。その時の俺は子供すぎて、長い夏休み程度にしか考えておらず、ホームシックにかかることもなかった。
さらに神子としての才能があったらしく、歴代の神子の中でも一番だと言われたら有頂天にもなるというものだ。
大切に扱われ、面倒くさい中学の勉強もしなくていい。その一年はとても幸せだった。
本当ならばもう一年くらいはこの異世界にいようと思っていたが、ある理由から逃げるようにして俺は元の世界へ帰った。
しかし、思いもよらない事態が起きていた。
この異世界と、俺がいた元の世界。その二つの時間が大きくずれていたのだ。
詳しく言うと、異世界での一年は、元の世界の五年。
五年間、行方不明だった子供が見つかったといって、そりゃもうニュースになるしで大騒ぎだ。両親は大号泣だし、祖母は倒れた。
しかし、元の世界に戻ってきた俺を待っていたのは、今まで異世界で過ごしていたツケだった。
戸籍上では俺はすでに高校を終えている年齢なのだ。頭も身体も中学生のままなのに、周りに要求されるのは高校生以上のこと。
普通の高校には通えず通信制の高校に通った。しかし学力は伸びず大学には行かずに就職。就職面接では「見た目が若い」とコンプレックスを指摘され、すべてが苦痛だった。
結局、入社できたのはコネによるものだった。そして、その会社の待遇がよかったかといえばそんなことはなく、ブラック会社寄りという有様だ。
思い出したくもない程苦労したけれど、それでも、俺は元の世界に帰ってよかったと思っている。祖母の最期を看取ることもできたし、両親に親孝行することもできた。
しかし、まさか。
三十歳を過ぎて、また召喚されると誰が思うんだよ。
今の質問にもし答えるとしたら、きっとこうだ。
――三十代になった先代神子ですが、何か問題でも?
しかし、それを言葉にすることはなかった。
「……そうです。あちらの少年と同じ世界から来ました」
ルーカスに真実を伝えるのを諦め、ただ質問の答えだけを口にした。ここで、俺は先代の神子だと訴えることもできたが、やめた。
ここで神子だと言ったとしても、まず向けられるのは疑いの目。疑いを晴らそうと努力し、証明できたとしても、次に向けられるのは落胆の目だろう。
自分で言うのもなんだが、中一の俺はわりと可愛いほうだった。
今のくたびれた姿と比べたら、あまりの変化に驚かれるのは間違いない。異世界から戻ってきてからかなり苦労したせいで、老けこむのが早かったのだ。
だからこそ「あの先代神子がこんな姿になって……」と落胆されたくない。
あとは純粋に、神子とかもう疲れるからやりたくなかった。
「なるほど。神子様が言う通り、巻きこまれたか」
「まあ、そうみたいですね。俺はどうしたらいいでしょうか」
「とりあえずは別室に案内しよう。おい、誰か!」
ルーカスが声をかけると、神官の一人が慌てて俺のもとに駆け寄ってくる。そしてルーカスに目線だけで、神官についていけと指示された。
ルーカスにこういう態度で接せられるのは、実に新鮮だ。前の時は、べたべたに甘やかされていたからな。
別に文句はないので、黙って頷く。そのまま従順なふりをして先に進んだ神官の後を追った。
祭壇の間から出ると、辺りは白を基調とした内装の、王城の回廊だ。一定の間隔で並ぶ複数の窓から陽光が差し込んで進む先を照らしているのが綺麗だ。ここもかなり懐かしい。正直、案内がなくとも大抵の場所には行けるのだが、大人しく神官についていく。
ついていきながら、そっと自分自身の掌に視線を落とした。
掌に意識を集中すると、白い霧のようなものが現れる。それを確認したと同時に、掌に押しこめるようにして消した。
――ああ、やっぱり神子の力はあるな。
再召喚なので神子としての力はないかもしれないと思っていたが、普通にある。しかし神子の力があったとしても別に役に立つものじゃない。
これは基本的に、化身のために使う力なのだ。一般人には役に立たない。俺がここの世界の人間と戦ったら、普通に負ける。まあ、元から弱いせいもあるが。
ちなみに、この世界の人たちが神子を見た目から判別することはできない。浄化の力を使えることを確認して、初めてその人物が神子だとわかるのだ。
それなのに、先ほどの高校生君を神子だと決めつけたのは年齢だろう。
召喚される歴代神子は決まって十代で、まあまあ容姿がいいそうだ。そこに、くたびれた三十代を並べたら、彼らがそちらを選ぶのは納得だ。
そのようなことを考えていると、神官が足を止めた。別室とやらに着いたのだろう、扉の前で立ち止まる。
「こ、こちらです」
俺にどういう態度をとっていいのかわからないのか、神官はどこか戸惑っている。
ふと、その顔には見覚えがあることに気付いた。
赤茶色の癖のない髪と垂れ目。少し気弱そうな印象を受ける彼は、一度目の召喚の時に俺付きの神官をしてくれていた……たしか名前はイドだったはずだ。
イドに従い部屋へ入る前に、一つだけ聞いておきたいことがあった。
「あの、あとで一緒に召喚されたあの子と話したいのですが、できますか?」
高校生君には現状を説明するべきだとずっと思っていた。彼はこの異世界での一年が元の世界で五年になるという事実を知ってから、本当にこれからどうするかを判断するべきだ。
彼の中では一年の旅行気分かもしれないし、異世界転移してさらに選ばれし存在なんて最高だ! という気分なのかもしれない。あの時の反応を見るに後者のような気もするが、この事実だけはしっかりと伝えるべきだと思っている。
現に、俺はそれで泣きを見た訳だから。
しかし、イドは胸に手を添え、こちらに向かって頭を下げた。
「申し訳ありませんが、私が判断できることではございません」
先ほどの戸惑いはどこにいったのか、突き放すようにぴしゃりと言いきった。この辺りも変わらないな。
基本神官たちは化身たち同様、神子を一番大事に思っている。警戒されたのか、仕方ない。
「そうですか、わかりました。案内ありがとうございます」
俺は早々に切り替えることにする。一礼して部屋へ大人しく入ることにした。
入ると同時に、鍵がかかる音が聞こえてくる。どうやら外から鍵をかけられてしまったようだ。だからといって反抗する気もないので、室内を見渡す。
部屋の大きさはかなり広いが窓はない。無駄に大きなベッドが一つ、椅子やテーブルもあって本棚もある。
しかし、俺が誘われるように進んでいくのはベッドだ。ベッドに向かって倒れこむようにその身体を預ける。
そして、そのまま目を閉じた。
「はあ、疲れた……」
何せここに召喚される直前まで必死に働いていたのだ。身体を限界まで酷使していたので、こうして休めるというのが何より幸せだった。
■■■■
その後、しばらくはいない者として扱われた。
部屋の扉は閉められたままで、こちらの意思で出ることはできない。ただ食事だけが日に二回、使用人によって運ばれてくる。その際、俺の質問には一切答えないまま食事だけを置いていく。
そうして、ただ飯を食べるだけの日が三日程続いた、ある朝のことだった。
「……い」
「む、あ……」
ふと、誰かに呼ばれているような気がして意識が戻る。しかし、まだ眠い。起きたくない。昔から寝汚いと言われる俺である。
声を遮るために、おもむろに掴んだシーツを頭から被る。あと少し寝たら起きるから、大丈夫。絶対起きる、大丈夫大丈夫。
だが、そんな願いが叶うはずもなく、被ったシーツが強引に奪われた。
「起きろ!」
シーツを奪った相手のほうをぼんやりと見つめる。ふさふさの尻尾がピンッと上に伸びており、多少だが逆毛立っていた。
なんだ、ナイヤか。
ナイヤは昔、俺の護衛として一年間ほぼずっと一緒にいた相手だ。
どうやら怒っている様子だが、その彼が相手なので、恐怖や申し訳ないという感情があまり湧いてこない。
だからこそ、のんびりと起き上がる。焦ることなく欠伸を一つ。そんな俺に、ナイヤは信じられないものを見るような目で睨んできた。
そんなに見つめられると、さすがに照れるというものだ。
「よくもずっと寝られるものだな。普通とは思えん!」
「すいません、朝は苦手でして」
俺が神子だった時もわりと寝ていたんだがな。こんな風に怒られたことは一度もない。
それに軟禁されているという状況で、寝る以外の何ができるというのだ。
いつの間にか部屋に入ってきているところを見ると、ナイヤは俺に用があるのだろう。目元を指で擦りながら立ち上がる。
「……お前は、一年後に再度行う儀式で帰されることとなった」
「はあ、なるほど」
「巻きこんだとはいえ、お前を召喚してしまった責任はこちらにある。そのため、この一年間は我らがお前の生活を保証しよう」
「助かります」
素直に頷く。しかし、実のところ俺はもう元の世界に帰るつもりはない。
一年後に元の世界に帰れば、またしても五年間行方不明だったということになる。もちろん、会社はクビになっているはずだし、両親にまた迷惑をかけてしまうだろう。
それならば、このままここで暮らしたほうが皆のためだ。
しかし、それを馬鹿正直に彼らへ話すつもりはない。表面上は納得しておこう。
「しかし、今いる場所。この王城でお前を保護することはできない」
「はあ、そうですか」
それは、なんとなくだが予想はしていた。なぜなら、ここにはあの高校生君が住んでいるはずだからだ。神子をしていた頃の俺と同じように。
そこに俺まで住んでしまうと、高校生君と接する機会が増えてしまう。
高校生君が俺と仲良くなって、「やっぱり元の世界に帰りたい」とか言い始めたら、再び化身の瘴気を浄化する手段がなくなってしまうから、彼らにとっては困るのだろう。
「……お前、やけに落ち着いているな」
「どうにも昔からあまり慌てない性格でして」
もちろん、真っ赤な嘘である。
しかし昔と違い、生気というか明るさがなくなったという自覚はある。いろいろなことが多くあったせいか、淡々と物事を受け入れるようになっていた。表情も乏しくなったし。
昔の自分はもっと色んな感情に振り回されていて、よく笑っていた。しかし、今の自分にはそういうものがない。
それは、歳をとって落ち着いたという訳ではなく、自分の中で何かを失ったという表現が近いように思う。
飄々としている俺にナイヤは怪訝そうな目を向ける。
「まあいい。それで今から、お前の身柄を預ける場所へ連れていく」
「え。今から、ですか」
「今からだ。ついてこい」
それは突然すぎる。さすがの俺も驚きが隠せない。
ここまで移動を急かされるのは……もしかして、イドに言ったことがまずかったのかもしれない。
俺が高校生君に帰るように諭すと思ったのだろうか。それとも待遇の差を羨んで、害を及ぼすとでも思われたのか。
どちらにしてもここまで警戒されるのなら、高校生君には何もしてあげられない。
せめて、ここと元の世界では時間軸が違うことを教えてあげたかったのだが、ナイヤが俺から目を離すとも思えない。
彼らにとって、今の俺は邪魔者だ。排除するのに手段を選ばない可能性がないとは言えない。
高校生君には大変申し訳ないが、今は自分を優先させてもらおう。落ち着いたら彼のことを考えればいい。
そうなると気になるのは俺がどこに預けられるか、ということだ。おかしなところだと困る。
「その、俺はどこに預けられるのでしょうか?」
「……サリダート公爵の屋敷に預けられる」
――は?
俺はとっさに俯き、言葉を呑みこんだ。自分ながらしっかり隠せて素晴らしいと褒めてやりたい程だ。
セルデア・サリダート公爵。
その名前を忘れるはずがない。
なぜならその男こそが、前回の召喚で俺が元の世界へ戻ると決めた最大の原因だったからだ。
■■■■
俺が神子として召喚された国、エルーワ王国には現在四人の化身がいる。
まずは、第一王子であるルーカス。騎士団長であるナイヤ。そして、公爵であるセルデア。
残る一人は教皇の立場にいるのだが、彼に関しては考えなくていいだろう。たぶん、今の俺では会うことはない。
神子であった俺は基本的に、この四人の瘴気を浄化するのが役目だった。
一度瘴気によって堕ちた者は、神子であろうと二度と戻せないと言われている。だからこそ神子の役目は重要だ。
神子は化身たちに直接触ることによって浄化する。それは触れる肌同士の面積が多い程にやりやすい。
さらに、お互いに好感を持てば持つ程に浄化の作用が大きくなる。ということで化身たちは、神子を馬鹿みたいに甘やかして大切にする。
それが自分たちを救うためでもあるからだ。実に打算的だ。
こういう事情で、俺は三人の男たちにかなり甘やかされた。彼らが女の子ならよかったのになと、幼い俺が何度思ったことか。
そう、俺を甘やかしたのは三人だけ。残る一人、セルデアは違った。
セルデアの態度は、神子に対するものとは思えない程に辛辣なものが多かった。
『子供がいる世界ではない』
『何を考えて日々を過ごしているのだ。貴方に思うことはないのか?』
『黙れ。今の貴様があるのは誰のおかげか思い出せ』
言われたことを今思い出すと、異世界でなんの考えもなく過ごそうとする俺を、責めるような言葉が多かった。
打たれ弱かったガキな俺は、次第にそんなセルデアに会うのが嫌になっていった。
しかし、神子の役割を果たすためにも、セルデアには必ず会わなくてはいけない。それが段々と耐えきれなくなり、結局逃げるようにして元の世界に帰ったのだ。
「着いたぞ」
ナイヤの声ではっと我に返る。考え事をしている内に、目的地へ着いたようだ。
押しこまれるように強引に馬車へ乗せられた俺は、反論さえ許されずセルデアの領地へ連れてこられていた。
馬車はすでに停止しており、扉が開かれる。それをぼんやり眺めていると、同席していたナイヤが目線で早く行けと急かしてきた。
しかし、気にせずにゆっくりと動く。マイペースは大事だ。かなり遅く出てやろう。
地面に足をつけて、辺りを見渡す。真っ先に目に留まるのは前方の大きな屋敷だ。
黒を基調とした屋敷は、一般庶民である俺には見たこともない程に大きく見事な建物だった。正直、案内もなしにあそこへ入ったら迷う自信しかない。
玄関前にはメイド服を着た数人の女性、彼女らの中心には執事服を着た人の好さそうな初老の男性が立っている。そして、俺たちを見るなり頭を下げた。
「ノバ。ルーカス殿下が飛ばした鳥は届いていたか」
「はい、ナイヤ様。お待ちしておりました」
「公爵はなんと?」
「責任をもって預かる、とだけ」
「……そうか」
二人の会話が終わると、初老の男性が俺と目を合わせ微笑んでくれたので、俺は頭を下げた。
「申し遅れました、私は執事長のノバと申します。こちらで一年間、お世話をさせていただきます」
「ありがとうございます。俺は……サワジマと申します。ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」
昔は郁馬と名乗っていたので、今回は苗字を名乗ることにした。嘘ではないから特に心は痛まない。
ナイヤは、こちらを見て少し驚いているようだった。俺の名前を今さら知ったからなのだろうか、そういえば一度も名前を聞かれていなかったな。
こちらも知っていたせいで名前は聞いていなかったので、まあお互い様としよう。
「サワジマ様。お疲れでしょう、すぐにお部屋へご案内いたします」
ノバさんが後ろに控えていたメイドさんに目配せすると、その彼女が頷く。そして、俺を導くように歩き出したので、それに素直に従いついていった。
ナイヤは自分の役目を果たしてすっきりしたのか、俺を見ることはなくノバさんと何かを話していた。その会話がこちらに届くことはなく、案内のメイドさんと共に屋敷の扉を通る。
こうして俺は、帰る原因となった男の屋敷へ足を踏み入れた。
案内された部屋は思った以上に広く、生活で必要なものはすべて揃えられていた。文句のない待遇が少し意外だった。
幼い俺への態度から、セルデアは異世界からの人間を嫌っていると考えていた。だからこそ、俺を受け入れるのも嫌々なのだろうと予想をしていたのだ。
しかし、案内してくれたメイドさんの態度は柔らかく、まるで歓迎されているようだ。
ふかふかなベッドに大の字で寝転がり、これからのことを考える。
俺がしなくてはいけないことは、一年の間にこの異世界で一人でも生きられるようになることだ。そのために利用できるのは、神子の力くらいだろう。
天井に向かって伸ばすように手を上げる。開いた掌に意識を集中すると、掌の中央に薄っすら白い霧のようなものが集まる。
これが神子の力だ。自慢ではないが、こうして目に見える濃さで力を凝縮できるのは俺だからだ。こういうことが簡単にできてしまうために、歴代神子の中でもっとも力が強いとされた。
「だからといって、役には立たないよな」
この力は化身たちのためにある。その他にはまったく使い道がない。これをここで生きていくための仕事にしようとするのは難しいかもしれない。
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