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31.胸の中で――

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 静かな天幕の中――。

 私の胸の中で、マルティン様が身を硬くされている。

 あれほど女性との身体的な接触を忌避されてきたマルティン様の求めに、何も聞くことは出来ない。
 黙って、そっと抱きしめた。

 お母様が出兵前の私に、そうしてくださったように――。

 やがて、マルティン様が小さな声で話し始めてくださった。

「……母との思い出は、嫌なものだけではありません」
「ええ……」
「夜中に恐ろしい夢で目覚めてしまったときなど、朝まで抱き締めてくれたものです……」

 マルティン様の声に、愛情の響きはない。それを必死で探そうと、足掻かれているようではあったけれども。

「ゴブリンほど憎い魔物は存在しません」

 硬くされている身体が、より一層強張った。

「……母の上げていた…………嬌声が、耳に蘇るのです……」

 性的なものを忌避せざるを得ないマルティン様。

「……自分が、弱く無力な存在であったことを、突きつけられる」

 人間の女を強姦し輪姦する魔物ゴブリンは、存在そのものが性的ともいえる。ご自分の最も触れたくない記憶が刺激されるのだろう。

「身体が勝手に……、アリエラのことまで拒もうとしてしまう」
「私は、どこにも行きませんわ」
「……アリエラのことまで、……汚れているように感じてしまう。けれど、そうではないのだと……」
「ええ。身体ごと心をしっかり抱き止めさせていただきますわ」
「…………すまない」

 マルティン様を抱く腕に、少しだけキュッと力を込めた。

「こう見えても、私はマルティン様の妻ですのよ? 出会いは、その、アレでしたけど……」
「……こんな弱さを抱えたままの私は、結局、アリエラを1人にしてしまうかもしれない」
「そんな弱気は似合いませんわ」

 私もマルティン様に重圧をかけているだけかもしれない。だけど、こう言うほかにすべが見つからなかった。

「マルティン・ヴァイス様は、人類に残された希望です。私の希望でもあります。私に出来ることなら、なんでも仰ってください。抱き締めるなんて大歓迎です」
「……希望は…………聖女候補たちなんだ」
「え?」
「もしも私が斃れたら、聖女候補たちは全力で後退することになっている。そして王都で守りを固め、聖女の出現を待つ」
「そんな……」
「私は捨て石に過ぎぬ。……魔王は聖女の力なくしては倒せないだろう」

 マルティン様の語調からは弱気が消え去っている。
 冷静にご自身の敗死を分析されていることに、胸が締め付けられる。

「その時には、アリエラも一緒に後退してくれ。間違っても、後を追おうなどとは……」
「ひとりぼっちにはしないと、仰られたではありませんか!?」

 つい、声を荒げて、力一杯に抱き締めてしまった。
 私の腕が、ポンポンと叩かれた。

「……聖女が出現したら、きっとアリエラの擬態魔法も解いてくれる」
「そんなの、イヤです」
「心配することは……」
「私は、マルティン様に解いていただきたいのです!」

 マルティン様は、私の腕をそーっとさすってくださった。

「私の“本当の姿“を見付けてくださったのはマルティン様です。そんな私を置いていこうだなんて……あんまりじゃありませんか…………?」
「うん……、そうだね」
「責任もって、……私を幸せにするとの、神への誓いを守ってください」
「アリエラ…………」
「なんですか?」
「もうひとつ……ワガママを言いたい」
「イヤです! もうワガママなんて言わないでください!」
「いや……その…………」
「イヤです! イヤです! イヤなのです! ワガママなんて言わずに、魔王を倒してください! 勝ってください! そして、新婚旅行を再開させてください!」
「そ……、そろそろ……苦しい…………」

 いつの間にか、抱き締める腕に力が入り過ぎていた。マルティン様の首がっている。

「すっ、すみません!」

 慌てて腕をほどく。

「ふう、落ちるかと思った……。やはり、アリエラは強いな」
「かっ……、か弱い乙女です」

 最初のポンポンは、タップだったのだ。
 穴があったら入りたい……。

「ふふっ。私も聖騎士団長としては歴代最強と言われています。そう簡単には死にません」
「……簡単でも難しくても、死んでしまわれたら、私はひとりぼっちになってしまいます」
「私の力で魔王を倒すには、全力を尽くさないといけない」
「……そうしてください」
「そのために、アリエラは必要なときには後退すると約束してください。アリエラのことを気にしたままでは、私は全力を尽くすことができない」

 アンドレアスさんが骨を折ってくださり実現した私の帯同。ひいては国王陛下まで黙認してくださっているはず。
 それは、この進軍がマルティン様にとって、死出の旅路になるかもしれないと解ってのことだったのだ。
 マルティン様もそれ理解していて、皆さんの厚意を受け取っていたのだ。

「じゃあ…………、私のワガママも聞いてください」
「なにかな?」
「……抱き締めてください。今」

 マルティン様は少し驚いた表情を浮かべて、それから微笑み、ぎこちなく動いて、私をキュッと抱き締めてくださった。

 まったく。
 聖女はどこでグズグズしているのだ。さっさと出てきて世界とマルティン様と私を救いなさいよ。

 温かくて優しいマルティン様の胸の中。私は涙がこぼれ落ちて濡らしてしまわないように、必死でこらえていた――。
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