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最終章 聖山桃契
274.最後までお連れください
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席に座るように促したシリルの申し出を、アナスタシアはやんわりと断った。
「どこに誰の目があるか分からぬ。わたしは、アイカ殿下の女官ナーシャである」
えっ!? と、隣に立つゼルフィアが、おもわずアナスタシアを見る。
アナスタシアは片目をつむり、しーっと指を口のまえに立てた。
――コノクリア王国だの、草原兵団だの言っても王都に籠るシリルには分からない。
というアナスタシアの判断であった。
アイカ殿下――、
という表現さえ、その意味が通じているか心許ないが、
むしろシリルの認識を測るのにはちょうど良いと、アナスタシアは考えていた。
しかし、突然アナスタシアが現われたことと、王妃を立たせたまま自分は座るように促されたことに動揺が隠せないシリルから、見て取れるものは何もなかった。
「シリルよ」
「はっ……」
「ルカスの身柄は私が引き受ける」
「……そ、それは?」
「大神殿より救い出せ。草原の王となったバシリオスのもとに送り届ける」
「バシリオス殿下のもとに?」
「陛下である」
「あ……、はっ」
「……ことの発端はバシリオス、ルカスの双方にある。バシリオスも、王都を囲むリティア殿下も、ルカスの安全を保障してくださっておる」
「しかし……」
「ルカスの母である、わたしが言うことでも信用できぬか?」
お付きの女官という体裁で同席しているアナスタシアは、立ったままシリルを見下ろす。
ザイチェミア騎士団付きの儀典官メニコスが、真っ白な口ひげを撫でた。
〈聖山戦争世代〉のメニコスは今年70歳。アナスタシアのひとつ年上であり、顔には年齢相応の老貌を刻んでいる。
「大神殿への手引きは、わたしがいたそう」
「……メニコス殿」
「リーヤボルクのサミュエルめに奪われたルカス殿下を、我らの手に取り戻すときが来ましたぞ」
メニコスは、ファウロスから託されたルカスに殉じるつもりであった。
いずれ戦となれば、大神殿で討ち死にする覚悟で祭祀を守ってきた。
しかし、いま同行している侍女ゼルフィアが突然現れ、その横には祭礼騎士団の儀典官ナッソスがいた。
幾日もかけてじっくりと話を重ね、別の侍女クレイアを連れた筆頭書記官オレストからの訪問も受けた。
――ルカスをリーヤボルクの手から救い出す。
と、リティアがルカスのことを敵視することなく、救出する意向であることが腑に落ちた。
「シリル殿。街に《草原の民》の踊り巫女が姿を見せ始めていることにお気づきか?」
「……チラホラとは」
「総候参朝に向けて、訪れ始めたというだけではござらん」
「……許可証は王宮政庁で発行しています」
と、オレストがほそい銀縁眼鏡を、クッとあげた。
「リティア殿下のお指図にございます」
「……リティア殿下の?」
「ファウロス陛下がお任じになられました《無頼の束ね》にございますれば、その指示に従うのは当然のこと……」
メニコスが、齢を感じさせる白髪の頭を、ポンポンと叩いた。
「……リーヤボルク兵の大半が、リティア殿下の策に乗って王都を出ました」
「なんと……」
シリルの腰が軽く浮き、それから椅子に深く沈んだ。
またしても事態は、シリルの感知し得ぬところで大きく進んでいる。
メニコスの話をゼルフィアが引き継いだ。
「リティア殿下の侍女ゼルフィアにございます。殿下のお指図により、王都の娼婦はすべて東の新都メテピュリアへと移住いたしました」
「……リーヤボルク兵は、女の尻を追い駆けて王都を出た、と?」
シリルの端正な顔立ちに似合わない下品な言い回しに、ゼルフィアが困ったような笑みを浮かべた。
「左様です。3万人以上の兵が女の尻を追い駆けてゆき、王都に残るリーヤボルク兵は約2万」
「ははっ。……よもや、そんなことでリーヤボルク兵どもを追い払えるとは」
「1人の娼婦が5人の客を引き連れてくれたとして、合計で約4万人。その移住先を用意したリティア殿下の手腕によるものです」
「……たしかに、その通りです」
「リティア殿下はリーヤボルクの蛮兵どもでさえ、みずからの民とする意を表しておられます」
目を伏せたアナスタシアが、呆れたように笑った。
「まこと《ファウロスの娘》たるは、リティア殿下おひとりであることよのう……。恐るべき器……、恐るべき天衣無縫じゃ……」
そして、静かに目をひらき憐憫にも似た色を瞳に浮かべ、シリルを見詰めた。
「その《天衣無縫の無頼姫》が、両翼に蹂躙姫ロマナ殿と救国姫アイカ殿下を従え、王都を包囲しておる……。ルカスが王座にあるまま総候参朝を迎えれば、王国の正統はますます迷子となろう」
「……」
シリルは目を堅く閉じ、眉間にふかいシワを刻んだ。
「リティア殿下、ロマナ殿、アイカ殿下の三姫は秋の祝祭、総候参朝までに決着をつけるおつもりぞ? ……つまり、まもなく最後の決戦となる」
「……はい」
「勝敗は明らかであるが、三姫は王都を無傷で取り戻したい。……その想いは《聖山の民》が皆、願っておること。そのためにも、まずはルカスをリーヤボルクから引き離したいのじゃ……」
アナスタシアは床に膝を突き、シリルにふかく頭をさげた。
「シリル……。ルカスを救けてはくれぬか?」
目を開いたシリルは、ゆっくりと立ち上がり、そしてアナスタシアの前に膝を突いた。
「……承知いたしました。これまでルカス殿下をリーヤボルクめのいいようにさせてきた、不甲斐なき万騎兵長をお許しください」
「よい……。誰にも抗えぬ時の流れがあった」
アナスタシアは、静かにシリルの手をとった。
「ルカスを、頼んだぞ……」
*
王宮の第3王子宮殿。暮れゆく夕陽が差し込み、すべてを落日の紅が染める部屋の中、
ソファに腰かけたペトラの膝の上で、サミュエルが静かに眠っていた。
サミュエルが陣取る国王宮殿に、すっかり姿を見せなくなったペトラに会うため、みずから足を運んだのだ。
いい歳をしたサミュエルが、甘えるように膝枕の上で眠ってしまい、ペトラは冷えた表情でため息を吐いた。
統制の効かないリーヤボルク兵が、突然姿を消すのはよくあることであった。
かつて、地下牢に囚われたバシリオスの見張り役であった巨漢のヨハンも、
前任者が娼婦と駆け落ちしたことで、その役目についた。
そして、そういった者たちは、また突然に帰って来て、素知らぬ顔で給金を受け取っていたりもする。
サミュエルの名将たる所以は、彼らを無理に押さえ付けるのではなく、緩い統制のままで軍容を維持し、王都を占拠し続けたことにもある。
――しかし、大半が一時に去るとは……。
ペトラには、王都の奥深くにまで伸びるリティアの手が見える。
おそらくサミュエルもそうであろう。
――終焉に怯えておるのか、わたしを最後まで愉しみ尽くそうというのか……。
と、ペトラはサミュエルの寝顔を眺める。
リティアの侍女クレイアは、王都からの脱出を何度も勧めてきていた。
筆頭書記官のオレストも、それらしきことを匂わせるようになった。
おそらくリティアの手が回ったのであろう。
ペトラは、ふっと自嘲するように独り笑いをした。
――わたしを討ってこそ、この動乱に幕を降ろせようというものを。
膝の上のサミュエルが目を開き、ペトラに顔を向けた。
「……妃? いま、笑ったか?」
「ええ、旦那様が、あまりに可愛らしい寝顔をされていたので、つい」
「ふふっ。そうであるか……」
「旦那様。どうか、ペトラのことを最後までお連れくださいましね」
「……そうであるな」
と、サミュエルはペトラの膝の上で、ふたたび目を閉じた。
ペトラはそんな夫の髪を、日が完全に落ちるまでの間、やさしく撫でて過ごした――。
「どこに誰の目があるか分からぬ。わたしは、アイカ殿下の女官ナーシャである」
えっ!? と、隣に立つゼルフィアが、おもわずアナスタシアを見る。
アナスタシアは片目をつむり、しーっと指を口のまえに立てた。
――コノクリア王国だの、草原兵団だの言っても王都に籠るシリルには分からない。
というアナスタシアの判断であった。
アイカ殿下――、
という表現さえ、その意味が通じているか心許ないが、
むしろシリルの認識を測るのにはちょうど良いと、アナスタシアは考えていた。
しかし、突然アナスタシアが現われたことと、王妃を立たせたまま自分は座るように促されたことに動揺が隠せないシリルから、見て取れるものは何もなかった。
「シリルよ」
「はっ……」
「ルカスの身柄は私が引き受ける」
「……そ、それは?」
「大神殿より救い出せ。草原の王となったバシリオスのもとに送り届ける」
「バシリオス殿下のもとに?」
「陛下である」
「あ……、はっ」
「……ことの発端はバシリオス、ルカスの双方にある。バシリオスも、王都を囲むリティア殿下も、ルカスの安全を保障してくださっておる」
「しかし……」
「ルカスの母である、わたしが言うことでも信用できぬか?」
お付きの女官という体裁で同席しているアナスタシアは、立ったままシリルを見下ろす。
ザイチェミア騎士団付きの儀典官メニコスが、真っ白な口ひげを撫でた。
〈聖山戦争世代〉のメニコスは今年70歳。アナスタシアのひとつ年上であり、顔には年齢相応の老貌を刻んでいる。
「大神殿への手引きは、わたしがいたそう」
「……メニコス殿」
「リーヤボルクのサミュエルめに奪われたルカス殿下を、我らの手に取り戻すときが来ましたぞ」
メニコスは、ファウロスから託されたルカスに殉じるつもりであった。
いずれ戦となれば、大神殿で討ち死にする覚悟で祭祀を守ってきた。
しかし、いま同行している侍女ゼルフィアが突然現れ、その横には祭礼騎士団の儀典官ナッソスがいた。
幾日もかけてじっくりと話を重ね、別の侍女クレイアを連れた筆頭書記官オレストからの訪問も受けた。
――ルカスをリーヤボルクの手から救い出す。
と、リティアがルカスのことを敵視することなく、救出する意向であることが腑に落ちた。
「シリル殿。街に《草原の民》の踊り巫女が姿を見せ始めていることにお気づきか?」
「……チラホラとは」
「総候参朝に向けて、訪れ始めたというだけではござらん」
「……許可証は王宮政庁で発行しています」
と、オレストがほそい銀縁眼鏡を、クッとあげた。
「リティア殿下のお指図にございます」
「……リティア殿下の?」
「ファウロス陛下がお任じになられました《無頼の束ね》にございますれば、その指示に従うのは当然のこと……」
メニコスが、齢を感じさせる白髪の頭を、ポンポンと叩いた。
「……リーヤボルク兵の大半が、リティア殿下の策に乗って王都を出ました」
「なんと……」
シリルの腰が軽く浮き、それから椅子に深く沈んだ。
またしても事態は、シリルの感知し得ぬところで大きく進んでいる。
メニコスの話をゼルフィアが引き継いだ。
「リティア殿下の侍女ゼルフィアにございます。殿下のお指図により、王都の娼婦はすべて東の新都メテピュリアへと移住いたしました」
「……リーヤボルク兵は、女の尻を追い駆けて王都を出た、と?」
シリルの端正な顔立ちに似合わない下品な言い回しに、ゼルフィアが困ったような笑みを浮かべた。
「左様です。3万人以上の兵が女の尻を追い駆けてゆき、王都に残るリーヤボルク兵は約2万」
「ははっ。……よもや、そんなことでリーヤボルク兵どもを追い払えるとは」
「1人の娼婦が5人の客を引き連れてくれたとして、合計で約4万人。その移住先を用意したリティア殿下の手腕によるものです」
「……たしかに、その通りです」
「リティア殿下はリーヤボルクの蛮兵どもでさえ、みずからの民とする意を表しておられます」
目を伏せたアナスタシアが、呆れたように笑った。
「まこと《ファウロスの娘》たるは、リティア殿下おひとりであることよのう……。恐るべき器……、恐るべき天衣無縫じゃ……」
そして、静かに目をひらき憐憫にも似た色を瞳に浮かべ、シリルを見詰めた。
「その《天衣無縫の無頼姫》が、両翼に蹂躙姫ロマナ殿と救国姫アイカ殿下を従え、王都を包囲しておる……。ルカスが王座にあるまま総候参朝を迎えれば、王国の正統はますます迷子となろう」
「……」
シリルは目を堅く閉じ、眉間にふかいシワを刻んだ。
「リティア殿下、ロマナ殿、アイカ殿下の三姫は秋の祝祭、総候参朝までに決着をつけるおつもりぞ? ……つまり、まもなく最後の決戦となる」
「……はい」
「勝敗は明らかであるが、三姫は王都を無傷で取り戻したい。……その想いは《聖山の民》が皆、願っておること。そのためにも、まずはルカスをリーヤボルクから引き離したいのじゃ……」
アナスタシアは床に膝を突き、シリルにふかく頭をさげた。
「シリル……。ルカスを救けてはくれぬか?」
目を開いたシリルは、ゆっくりと立ち上がり、そしてアナスタシアの前に膝を突いた。
「……承知いたしました。これまでルカス殿下をリーヤボルクめのいいようにさせてきた、不甲斐なき万騎兵長をお許しください」
「よい……。誰にも抗えぬ時の流れがあった」
アナスタシアは、静かにシリルの手をとった。
「ルカスを、頼んだぞ……」
*
王宮の第3王子宮殿。暮れゆく夕陽が差し込み、すべてを落日の紅が染める部屋の中、
ソファに腰かけたペトラの膝の上で、サミュエルが静かに眠っていた。
サミュエルが陣取る国王宮殿に、すっかり姿を見せなくなったペトラに会うため、みずから足を運んだのだ。
いい歳をしたサミュエルが、甘えるように膝枕の上で眠ってしまい、ペトラは冷えた表情でため息を吐いた。
統制の効かないリーヤボルク兵が、突然姿を消すのはよくあることであった。
かつて、地下牢に囚われたバシリオスの見張り役であった巨漢のヨハンも、
前任者が娼婦と駆け落ちしたことで、その役目についた。
そして、そういった者たちは、また突然に帰って来て、素知らぬ顔で給金を受け取っていたりもする。
サミュエルの名将たる所以は、彼らを無理に押さえ付けるのではなく、緩い統制のままで軍容を維持し、王都を占拠し続けたことにもある。
――しかし、大半が一時に去るとは……。
ペトラには、王都の奥深くにまで伸びるリティアの手が見える。
おそらくサミュエルもそうであろう。
――終焉に怯えておるのか、わたしを最後まで愉しみ尽くそうというのか……。
と、ペトラはサミュエルの寝顔を眺める。
リティアの侍女クレイアは、王都からの脱出を何度も勧めてきていた。
筆頭書記官のオレストも、それらしきことを匂わせるようになった。
おそらくリティアの手が回ったのであろう。
ペトラは、ふっと自嘲するように独り笑いをした。
――わたしを討ってこそ、この動乱に幕を降ろせようというものを。
膝の上のサミュエルが目を開き、ペトラに顔を向けた。
「……妃? いま、笑ったか?」
「ええ、旦那様が、あまりに可愛らしい寝顔をされていたので、つい」
「ふふっ。そうであるか……」
「旦那様。どうか、ペトラのことを最後までお連れくださいましね」
「……そうであるな」
と、サミュエルはペトラの膝の上で、ふたたび目を閉じた。
ペトラはそんな夫の髪を、日が完全に落ちるまでの間、やさしく撫でて過ごした――。
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