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第九章 山湫哀華

206.しびれる温度差

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 ――あっつ!


 冷たいはずの湖水に沈めた右足が、しびれるように熱い。

 かろうじて声に出すことだけはこらえたアイカだが、肌の感覚が混乱している。

 まちがえて水を張った風呂に足を入れた瞬間の逆パターンである。


 ――な、なんじゃこりゃあ!?


 と、パニくるアイカ。

 顔をあげると、口があんぐりと大きくあいた。


『はよう、こっちに来い』


 と、ひかり輝くヒメ様が、沖合から手招きしている。

 しかも、それだけではない。

 水色、桃色、緑色、橙色と、パステルカラーにかがやく小さな4つの光が、ヒメ様のまわりを飛び回っている。

 儀式のシキタリとして、言葉を出せないアイカは指さして口をパクパクさせた。


 ――な・ん・で・す・か……? そ・れ……?


『ん? ああ……、こちらの世界の精霊じゃ。水の精霊、火の精霊、風の精霊、土の精霊……。みな、アイカ――イエリナ姫の帰還を寿ぎにきてくれておる』


 ヒメ様の言葉に反応して、4色の光が、機嫌良さそうにピュンピュン飛び回った。


『なにをしておる。はよう、こっちに来い。そこにおっては、我と話しておるのが、皆にバレてしまおう?』


 アイカが、チラッとうしろを見ると、太守たちは皆、地面にひれ伏し、目にした《奇跡》を、ただただ茫然と眺めている。


 ――そりゃ、そうなりますわな。


 と、アイカがヒメ様に向かって歩くと、湯加減がちょうどいい。

 冷水のつもりでつっこんだから驚いただけで、完璧に『温泉』であった。

 ヒメ様のそばまで行き、一緒に肩まで浸かる。


「ぷふぃ~」


 と、思わず声が漏れる。

 チラッと湖畔の太守たちを見るが、まだ平伏しており、声には気付かれなかったようだ。

 それよりも、ヒメ様温泉の愛好仲間である、カリュとナーシャの、


 ――マジかよ。


 という苦笑いの方が気になった。


『大丈夫じゃ。ここまで離れれば、声はとどかん』


 湯治客のような呑気さでヒメ様が話すと、アイカがひそめた声で問いかける。


「な…………、なんで?」

『ん? 女子が身体を冷やすものではないからの。ここは《精霊の泉》とつながっておるから、出張営業じゃ』

「出張営業って……」

『まあ、ゆっくりしてゆけ』

「あ、はい……」


 はりつめていた神経が解きほぐされてゆくような、心地のよい入浴感覚がアイカを襲う。

 いきおい、だらしない表情になって、湯をたのしむ。

 ふと、湖畔をみると、太守たちはまだ平伏しており、なかには奇跡の光景に打ち震え、滂沱の涙を流すものもいる。


 ――ギャップ!


 とりあえず座れよ。と、伝えたいのだけど言葉を発してはいけない。肩まで浸かってないといけない。

 そーっと、腕だけのばしてジェスチャーでカリュとナーシャに伝えることを試みる。

 ふたりは苦笑いをうかべたまま、手を振り返してくる。


 ――ちがう、そうじゃない。


 と、なんども「座ってもらって」と、手と腕の動きで示すのだが、どうにも伝わらない。ほほえましい光景を眺めるように、ふたりで笑いあっている。


『どうしたのじゃ?』


 ヒメ様が、怪訝な顔でアイカに尋ねた。


「……み、みなさんに楽にしてもらいたくて。……長丁場ですし」

『そうじゃのう。日の出までつづくのであろう?』

「みなさん、あんな感じでずっといても……疲れちゃうでしょ?」

『それでは、こういうのはどうじゃ?』


 と、ヒメ様がアイカに耳打ちする。

 ふんふんと聞いていたアイカは、顔をあげ周囲を飛びまわる精霊たちに視線を送る。

 ケタケタと笑って同意をしめす精霊たちに一礼して、アイカはザバッと遠浅の湖面から立ち上がった。


「ザノクリフ王ヴァシルより王家の正統を継ぐ《精霊のいとし子》、われ、イエリナが、精霊の許しを得て、みなに言葉を発する」


 その周囲をクルクルと4色の光が飛んだ。

 太守たちは「はは――っ!」と、深く頭をさげた。

「はは――っ!」は、いいのかよ? と思ったアイカだったが、話しをつづける。


「審判は日の出までつづく。みな、席にもどり楽にせよ。そして、イエリナが審判の結果を最後まで見分し、あまねく王国民に申し聞かせよ」


 太守たちは、まだ躊躇いながら平伏している。

 すこしイラッとしたが、落ち着いて言葉をかさねる。


「みなが席にもどり次第、審判を再開する。はやく、座れ」


 その言葉で、ようやく腰をうかせ、席に着き始める太守たち。

 横ではカリュとナーシャが「ごめん! そういう意味だったのね?」といった雰囲気で、手を合わせて頭をペコペコさげている。

 仕方ないです、私のジェスチャーも下手だったし。という気持ちを込めて、ちいさく頷くアイカ。

 太守たちが、みな、席についたのを見届けてから、ふたたびに浸かった。


『くくっ……。立派な女王ぶりだったぞ、アイカ』

「もう、冷やかして。ヒメ様も笑ってるじゃないですかぁ」

『……見よ。みな、真剣にアイカのことを見守ってくれておる。いくさを終わらせる、新女王の誕生を、心から待ち望んでおる』

「……そうですね」

『いいことをしたの、アイカ』

「へへっ……。乙女の入浴シーンを100人にのぞかれてるだけですけどね」

『ふふっ。得難い経験であろう?』

「……ところで、ヒメ様」

『なんじゃ?』

「凍死するかもしれないような冷水を、気持ちのよい温泉に変えていただいて、大変、感謝しているのですけど」

『もってまわった言い方をするの。なんじゃ? 言いたいことを言ってみよ』

「のぼせますね、これ」

『そうか……』

「日の出まで……、10時間くらい? ずっと浸かってたら、別の死に方をしそうです」

『すまんすまん。これでどうじゃ?』

「あ。ぬるくなりました。温水プールくらい。これなら、いけそうです」


 精霊たちが、ケタケタケタっと笑った。


『……あれで、精霊たちも喜んでおるのじゃ。イエリナを助けるためとはいえ、母ミレーナの命を燃やさねばならなんだ』

「そうか……」

『精霊たちにとっても、つらい出来事だったのじゃ……。アイカ。願わくば、ふたり分、人生を楽しんでやってくれ』

「はいっ!」


 そうしてアイカは、他愛もない話をしながら、ヒメ様と温水に浸かってすごした。

 なかなか美男子な婿をとったなとか、山の幸ではなにが美味しいとか、美容にいい食べ物とか、そういった話だけを、クスクスヒソヒソと楽しんだ。

 ただ、アイカはこれまでヒメ様温泉に浸かったときと同様、最後まで日本の家族がいまどうしているのか、尋ねることはなかった。

 自分がいなくなって、幸せになっていても、悲しんでいても、どう受け止めたらいいのか分からない。

 いま目の前にいるみんなを大切にしよう。

 アイカの気持ちを汲むヒメ様も、なにも言うことはなかった。

 やがて、山の反対側に昇る朝陽が稜線を照らし、ひかりの線が輪郭を描くころ、ヒメ様が別れを告げた。


『また、遊びに来るのじゃぞ?』

「はい。……必ず」

『うむ……。達者での。人生を楽しめよ』


 ケタケタと笑う精霊たちを引き連れ、ヒメ様が姿を消すと同時に、朝陽が昇った。


 ――つぅめたっ!


 冷水にもどった湖水に、悶絶するアイカ。

 歯をガチガチならしながら湖畔に向かうと、バシャバシャと水しぶきを上げながらカリュが駆けて来る。


 ――こんな、冷たい水の中を……?


 と、不思議に思ったアイカを、カリュが大きなバスタオルでバサッとくるんだ。


「透けてます! 今度こそ、透けてます!」

「あうっ……」


 湖畔に目をやると、両手を広げたナーシャがたちの前に立ちふさがり、後ろを向くようにうながしている。


「これ……」と、真顔になったアイカが、カリュを見上げた。

「なんでしょうか?」

「立ち上がったとき、丸見えだったんじゃ……?」

「あのときは、ヒメ様で逆光だったんで、なにも見えませんでした」

「……ほんとに?」

「ほんとです」

「ほんとのほんとに?」

「ええ、ほんとです。逆光で神々しかったですよ」

「エロい感じで?」

「ちがいますったら」

「透けても、私では色っぽくないと?」

「もう、それもちがいます」

「カリュさんみたいに、おっぱい大きくないしなぁ……」

「……おっぱいの尊さは、大きさで決まるものではありません」

「うわっ。急にマジになります?」

「大事なところですから」


 と、掛け合いながら、冷たい湖水の中をあるくアイカとカリュ。

 湖畔にあがると、太守たちがそろって平伏していた。

 みなを代表して、東候エドゥアルドが恭しく言上した。


「おめでとうございます、イエリナ様。精霊に認められし貴女様こそ、まこと我らが女王。どうぞ、末永く我らをお導き下さいませ」


 まだ歯を鳴らしていたアイカは、とにかく最初から最後まで、


 ――温度差!!! いろんな意味で!!!


 と思っていたが、それは隠して、厳かに「こちらこそ」と、頭をさげた。


 ザノクリフ王国の新女王、イエリナ=アイカが誕生する――。
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