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第九章 山湫哀華
205.つめたい水
しおりを挟む――冷たっ!
と、アイカは足をひいた。
荒廃した王城を湖面に映す、ザノヴァル湖。濡れた足先を、女官のエルが丁寧に拭いてくれる。
――ここで、一晩ですかぁ……。
即位にあたり受ける《精霊の審判》とは、日没から日の出まで、冷たい湖に身を沈めてすごすことだという。
近年では、簡略化され軽く水垢離をするだけで済まされてきた。
しかし、かつては王家の乗っ取りを謀った偽物が、精霊の怒りをかって凍死したとも伝わる。
クリストフが、ぎこちない笑顔で口を開いた。
「……ザノヴァル湖は山々の雪溶け水がつねに湧き出していて、夏でも冷たいんだ」
「そうなんですねぇ~」
と、応えるアイカ。
旦那様になる予定のクリストフが、フレンドリーさを身につけようと努力してくれているのが、すこし嬉しい。
「《山々の民》に伝わる精霊伝承では、ザノヴァル湖の水は《精霊の泉》につながっているって……されてるんだ」
「へぇ~」
「聖地である《精霊の泉》を静謐に保つため、ザノヴァル湖に精霊の力を導いた……っていうのが、ザノクリフの建国譚だ……です」
語尾、文末の言い回しに、いちいち気を使うクリストフ。
――かわいいとこあるじゃない。
と、周囲にひかえるカリュ、ナーシャ、チーナも生温かい目で見守っている。
《精霊の審判》は太守たちが見守る中、荘厳に挙行されるのが習わしだとして、主要5公以外にも召喚状を発し、その到着を待っている。
これに呼ばれないことは太守として大変な不名誉になるらしく、アイカたちはまた2週間ほどの待機となった。
アイカは、湖の周囲に広がる、黄色い花畑にゴロンと横になった。
その横にクリストフが腰をおろす。
――結婚かぁ~。
横になったままのアイカは、クリストフの横顔を見上げた。
正直、申し分のない美形である。
ツヤのある漆黒の髪に、黄金色の瞳。目は切れ長で、まつ毛は長く、顔立ちも整っている。
口の悪さが消えると、性根の優しさが際立って見えてきた。
だけど、
――いいんですかぁ~~~?
と、ショタ公子フェティとの政略結婚を嬉々として受け入れた、リティアのようには、なかなか振る舞えない。
ただ、こうしている間も、ザノクリフ王国のどこかでは戦闘がつづいており、理不尽に命を落とす兵士や、親を亡くしてさまよう孤児たちがいるはずである。
――王子さま、ではないけど……。
自分の方が王様――女王様で、お婿さんを迎えるというカタチは夢想だにしたことがなかった。
しかし、それで流血が止まる。戦争が終わるというのなら、それはそれでロマンチックなお伽噺の主人公になったような気もしてくる。
アイカは無意識に、
ポソッと、ひとり言をつぶやいた。
「……まあ、凍死しちゃうかもしれないんだけど」
「本当にいいのか?」
クリストフが湖面を見つめたままで言った。
「あっ、えっ? ……なんですか?」
「……やっぱりやめておくって言うなら、俺が責任をもってテノリアに送りとどけるぞ?」
「え? え? なんでですか?」
アイカは、自分の発したひとり言に気がついていない。
「……ザノヴァル湖の水は、ほんとうに冷たい。肩まで身を沈め、ひと晩すごすことなど……、王家の者でなければ死にに行くようなものだ」
「……あ、はい」
アイカの足先には、まだ冷たい湖水に触れたしびれが残っている。
「俺は略式でいいと思ってたんだがな……。ミハイにああ言われてしまっては……」
というクリストフの横顔に、
――か、かっけーな、おい。
と、ふいに顔を赤らめた。
自分の婚約者だと意識してから、クリストフのことが、より眩しく見えるようになっているアイカ。
自分のために眉をひそめてくれている美しい横顔。
これまでとは違った視線で、見惚れてしまった。
性別に関わらず、美しい者は《愛でる》対象でしかなかった。しかし、初恋とマリッジハイが、突然、肩を組んで突進してきた。
「……たぶん、大丈夫ですよ」
と、身体を起こしたアイカが、クリストフの方を見ずにつぶやいた。
「……お前、あ、いや……、アイカがいいなら、それでいいんだが……」
「アイカって呼んでくれるんですね……?」
「……その方が、しっくり来るんだろ?」
「ふふっ。……嬉しいです」
「そうかよ……」
「あっ! いまのは~?」
「……っ、……そう……ですか?」
「ふふっ」
アイカは膝を抱いて、顔をうずめた。
「私ね……。割と幸せなんですよ……?」
「そう……なの?」
「……こんな私だけど、一生をともにするって言ってくれる人に恵まれました」
「ああ……」
「……ずっと一緒にいてくれるんですよね?」
「ああ……。だけど、アイカは義姉のところに行くんだろ?」
「帰ってきます! ……絶対、……帰ってきます」
「そうか……」
「……リティア義姉様も、私と一生、一緒にいてくれるって、言ってくれた人だから……」
「ああ……、そうだな……。悪かった。俺を気にせず行ってきてくれ。……ここで、待ってるから」
「ふふっ……。私……、ずっとぼっちだったし……」
「……ぼっち?」
アイカは真っ赤に染まった顔を上げ、湖を見つめた。
タロウとジロウが水際で駆け回っている。
「ずっと……、ひとりぼっちで生きていくんだとばかり思ってました……」
「……もう、……そんな心配はするなよ」
「……はい。……へへっ」
「なんだよ?」
「嬉しいです。ありがとうございます」
「……おう」
アイカは、やにわに大きく手を打った。
「そうだっ!」
「……な、なんだよ?」
「私、なんにもない山奥の結界の中で、7年も生き残ったんですよ!?」
「……そ、そうだな」
「ひと晩、冷たいお水に浸かってすごすくらい、へっちゃらですよ!」
「ははっ。そうだな。そうかもしれねぇ」
「へへっ」
と、立ち上がって、顔を真っ赤に走り出したアイカは、タロウとジロウに飛びかかるようにして一緒に遊びはじめた。
その光景を、クリストフは優しく見守りつづけた。
ちなみに、さらにその後ろに控えるナーシャ、カリュ、チーナも満腹であった。
「意外とやるわね、アイカちゃん」
「いいものを見させていただきました」
「……尊い」
「次はカリュちゃんの旦那様を見つけないとね」
「いま、それを言いますか? ナーシャさま」
*
《精霊の審判》を控え、焼け落ちていたザノヴァル城の再建も急ピッチで進められた。
審判をクリアすれば、すぐに即位となる。
即位式につかわれる大広間を中心に、アイカとクリストフの新居など、取り急ぎ必要な建屋を、主要5公が分担して受けもった。
アイカの要望で、戦災で焼け出された孤児や流民が、男女に関わらず、工人として雇われた。
仕事があたえられ、まっとうな食事を口にして生気を取り戻していく人々。
あわただしい喧騒に、アイカのほほがゆるむ。
その間にも、中小の太守たちが、続々と到着してくる。
城も街も焼けているため、城外に陣幕を張り、護衛の兵たちとともに駐屯し《精霊の審判》を待つ。
彼らの食事の世話なども流民たちの仕事になり、廃都ザノヴァルは、ますます賑やかになっていく。
そして、定められた期日――。
夕陽を映すザノヴァル湖。その湖畔に、大きな篝火がいくつも焚かれた。
湖に臨むかたちで、100名ちかい太守たちが腰をおろして《精霊の審判》のはじまりを待つ。
周囲をかこむ山岳の陰に、夕陽が姿を消す直前――、
薄衣をまとったアイカが、カリュとナーシャに付き添われて姿をみせた。
控えの天幕で準備している間中、
「これ、透けてませんかね? ほんとに透けてません? エロくないですか? ……ああ、そもそも色気がない。……って、なんでやねーん」
という、アイカの軽い調子に、
――いざというときの、肝のすわり方は、さすがリティア(殿下)の御義妹君……。
と、カリュもナーシャも感心していた。
立ち上がって出迎える、屈強な体をした太守たち。
アイカが一礼すると、太守たちも黙礼する。
審判が終わるまで、誰も言葉を発してはならないというのがシキタリだ。
いよいよ、夕陽が稜線に消えるという、そのとき、
アイカは、波ひとつなく静まりかえった湖面に、足先をのばした――。
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