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第九章 山湫哀華
197.身体に絡ませる
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アイラが蝋燭の炎を吹き消すと、尖塔の小部屋は真っ暗闇につつまれた。
すでに2日、食事が提供されていない。かくし持っていた非常食で食いつないでいたが、空服感はつきまとう。
それでも、凛とした威厳をくずさないナーシャを見習って、アイカも背筋を伸ばしていた。
――今晩は窓から離れて、眠らずに。
と、アイラから耳打ちされている。
窓と反対にある扉のむこうでは、牢番の気配もしなくなっていた。
世界に自分とアイラとナーシャの3人だけしかいなくなったような孤立感が包んでいたが、心細くはなかった。
ただ、真っ暗な窓のそとを、じいっと見つめて過ごす。
そのアイカの緊張をほぐすように、ナーシャが優しい声音を響かせた。
「アイカちゃん」
「えっ!? ……あ、はい」
「ふふっ……。私にもね、妹同然に可愛がる側近はいるのよ?」
「へぇ~」
「ずっと、私に仕えてくれて、私がいちばんツラいときも、そばで支えてくれた」
アイカとアイラが思い浮かべたのは、バシリオスとルカスの争いであった。あるいはファウロスの死であるかもと思った。
しかし、ナーシャが含ませていたのは側妃サフィナにはばかって、旧都に遷った日のことである。カタリナから《詩人の束ね》を引き継ぐという名目を立てたが、正妃としてのプライドを打ち砕かれる出来事であった。
その馬車で、一緒に泣いてくれた側近の姿をナーシャは思い描いていた。
「だけどね……、義姉妹の契りを結ぶようなことはしなかったわ」
「あっ…………」
暗闇の中、ナーシャが微笑んでいるのが分かった。
「王家の秩序を乱しかねないし、もし、その者が粗相をすれば、私の名声に傷がつく。ひいては陛下にもご迷惑となる。……軽々にできることではないわ」
「はい……」
「だけど、リティアはアイカちゃんを義妹にした。……並々ならぬ決意と覚悟がないとできないことだわ」
アイカは、ぎこちなく首を縦にふった。
「すごいわね、あの娘」
「はい……」
「……ずっと、義姉妹仲良くしてね」
今度こそナーシャのまぶたの裏に浮かんだのはバシリオスとルカスの兄弟であり、そのことはアイカとアイラにも伝わった。
トンッ――……
という音が、天井から響いた。
ビクッとしたアイカが見上げると、矢が刺さっている。
矢筈――矢の末端には細いロープが結び付けられており、窓の外へと伸びている。
アイラに肩車してもらったアイカがロープを外す。
それを受け取ったナーシャが手早く巻き上げてゆく。やがて太いロープが引き上げられ、アイラが手ごろな柱に固く結び付けた。
クックッと引いて下に合図を送ると、ロープはピンッと張った。
アイカは、ゴクリと息を呑んで、ギュッギュッとリズミカルに揺れるロープを見詰めた。
――救けが登ってきてくれている。
誰かが、高い尖塔の石壁を、ロープだけを頼りに登って来てくれている。自分の心臓がバクバクいう音の聞こえるアイカは、見ていられなくなって天井を見上げた。
刺さったままの矢には、西南伯軍の紋が刻まれている。
卓越したチーナの弓技が、この高さまで届かせたものと察せられた。
ロープの揺れが止まり、窓に手がかかった。
次の瞬間、ヒラリと舞うように、黒い人影が小部屋の中に降り立った。
「……悪かったな」
と、口を開いたのは、ザノクリフの公子クリストフであった。身にまとう外套も鎧も黒色で、姿をはっきり認めることはできなかったが、瞳が黄金色に輝いているのは分かった。
アイカは驚きの声を封じるように、口を両手で押さえた。
クリストフが小声で、しかし鋭い響きのする言葉を発した。
「話はあとだ。見付かれば、いい的になる。侍女さんたちから降りてくれ」
アイラとナーシャがうなずいた。
「イエリナ姫は、俺が抱いて降ろす」
「……えっ!?」
戸惑うアイカをよそに、アイラが、ナーシャの手にハンカチを巻く。
「ナーシャさま、私が先に行きます。いざというときは、私が盾となりますが、お手を滑らさぬよう、お気を付けください」
「……うむ。分かった」
「では、アイカ。のちほど」
「あ……」
アイカはすでに、クリストフに抱き上げられている。その頭をナーシャがなでた。
「地上で……、の」
優しい響きのするナーシャの声に、いくぶん心を落ち着けたとき、アイラの姿はすでに窓のむこうに消えていた。
つづいてナーシャもロープに手をかけ、窓枠をまたいだ。
――す、すげえ……。
気品ある王妃としての印象とは程遠い、すばやい身のこなしに、アイカは呆気にとられた。
頭上からクリストフの声がした。
「よし。俺たちも行くぞ。しっかりつかまれ」
「は……、はい……」
アイカがクリストフの胴体をギュッと抱きしめると、
「脚もだ」
と言われたので、思い切って股をひらき、両手両足でしがみついた。
そのままアイカの重みなど感じないかのように窓に近寄ったクリストフは、ロープの張りを確かめ、ふわりと跳んだ。
――ひ、ひえ~っ!
窓の外に放り出されたような感覚がして、アイカは思わず目をギュッと閉じる。
トンッと、軽い衝撃がして、尖塔の石壁にクリストフの足がついたのが分かった。
「下を見るなよ」
と、クリストフの声がしたときには、すでに見ていた。
――こ、こわい……。
たちまち手の平が汗でぬれるのが分かって、すべらないように、腕にも太ももにも力を込めた。
クックッという小刻みな揺れとともに、地面に近付いているのが分かる。安定したのか、クリストフの左腕が自分の腰に回った。
キュッと持ち上げ直され、あごがクリストフの肩に乗った。
「……約束の場所にいなくて悪かった」
「い、いえ……」
耳元でささやくクリストフの声が、くすぐったかった。
ふわっと風が通り抜け、なつかしいような匂いがする。覚えのあるような、ないような香り。
それが、クリストフの汗の匂いだと気が付いて、アイカは急に気恥ずかしさを覚えた。
男性に抱きかかえられたことも、こんなに近い距離にあることも、アイカには初めての体験である。だが、高所からの脱出途中にあって、腕や脚に込めている力を抜くことはできない――、
と、大股開きに脚もクリストフの身体に絡ませていることを思い起こし、アイカは激しく赤面した。
顔の真横には、いつも通り飄々とした表情のクリストフの顔がある。
口が悪いだけで、黙っていれば端正な顔立ちの貴公子である。
とおくから愛でる分には申し分ない美形であったが、あまりにも近く密着している。そんな場合ではないと分かっていながら、ドキドキしてしまう自分を抑えることができなかった。
グエッ。
という声が、下から響いた。
「……見つかったか」
クリストフの険しいつぶやきに視線を下げると、両腕をのばしたネビの姿が見えた。その延長線上に城の兵士が倒れており、ネビの暗器が仕留めたのだと分かる。
アイラもナーシャも、まだロープにぶら下がっており、その足下にはタロウとジロウの背中が見えた。
兵士たちの怒号が飛び交い始め、白刃を抜いたカリトン、短剣を抜いたカリュも視界に入る。
と、むかいの城壁から悲鳴があがり、兵士が落ちてゆく。
矢を3本同時につがえたチーナが、次々に矢を放っているのが目に入り、アイカたちの足もと――尖塔の根元で激しい戦闘が始まっていた。
クリストフの口が、耳元に近付く。
「すこし急ぐぞ。しっかり、つかまってろ」
「は、はいっ!」
降下のスピードが上がったのを感じて、アイカはふたたび、ギュッと目を閉じた――。
すでに2日、食事が提供されていない。かくし持っていた非常食で食いつないでいたが、空服感はつきまとう。
それでも、凛とした威厳をくずさないナーシャを見習って、アイカも背筋を伸ばしていた。
――今晩は窓から離れて、眠らずに。
と、アイラから耳打ちされている。
窓と反対にある扉のむこうでは、牢番の気配もしなくなっていた。
世界に自分とアイラとナーシャの3人だけしかいなくなったような孤立感が包んでいたが、心細くはなかった。
ただ、真っ暗な窓のそとを、じいっと見つめて過ごす。
そのアイカの緊張をほぐすように、ナーシャが優しい声音を響かせた。
「アイカちゃん」
「えっ!? ……あ、はい」
「ふふっ……。私にもね、妹同然に可愛がる側近はいるのよ?」
「へぇ~」
「ずっと、私に仕えてくれて、私がいちばんツラいときも、そばで支えてくれた」
アイカとアイラが思い浮かべたのは、バシリオスとルカスの争いであった。あるいはファウロスの死であるかもと思った。
しかし、ナーシャが含ませていたのは側妃サフィナにはばかって、旧都に遷った日のことである。カタリナから《詩人の束ね》を引き継ぐという名目を立てたが、正妃としてのプライドを打ち砕かれる出来事であった。
その馬車で、一緒に泣いてくれた側近の姿をナーシャは思い描いていた。
「だけどね……、義姉妹の契りを結ぶようなことはしなかったわ」
「あっ…………」
暗闇の中、ナーシャが微笑んでいるのが分かった。
「王家の秩序を乱しかねないし、もし、その者が粗相をすれば、私の名声に傷がつく。ひいては陛下にもご迷惑となる。……軽々にできることではないわ」
「はい……」
「だけど、リティアはアイカちゃんを義妹にした。……並々ならぬ決意と覚悟がないとできないことだわ」
アイカは、ぎこちなく首を縦にふった。
「すごいわね、あの娘」
「はい……」
「……ずっと、義姉妹仲良くしてね」
今度こそナーシャのまぶたの裏に浮かんだのはバシリオスとルカスの兄弟であり、そのことはアイカとアイラにも伝わった。
トンッ――……
という音が、天井から響いた。
ビクッとしたアイカが見上げると、矢が刺さっている。
矢筈――矢の末端には細いロープが結び付けられており、窓の外へと伸びている。
アイラに肩車してもらったアイカがロープを外す。
それを受け取ったナーシャが手早く巻き上げてゆく。やがて太いロープが引き上げられ、アイラが手ごろな柱に固く結び付けた。
クックッと引いて下に合図を送ると、ロープはピンッと張った。
アイカは、ゴクリと息を呑んで、ギュッギュッとリズミカルに揺れるロープを見詰めた。
――救けが登ってきてくれている。
誰かが、高い尖塔の石壁を、ロープだけを頼りに登って来てくれている。自分の心臓がバクバクいう音の聞こえるアイカは、見ていられなくなって天井を見上げた。
刺さったままの矢には、西南伯軍の紋が刻まれている。
卓越したチーナの弓技が、この高さまで届かせたものと察せられた。
ロープの揺れが止まり、窓に手がかかった。
次の瞬間、ヒラリと舞うように、黒い人影が小部屋の中に降り立った。
「……悪かったな」
と、口を開いたのは、ザノクリフの公子クリストフであった。身にまとう外套も鎧も黒色で、姿をはっきり認めることはできなかったが、瞳が黄金色に輝いているのは分かった。
アイカは驚きの声を封じるように、口を両手で押さえた。
クリストフが小声で、しかし鋭い響きのする言葉を発した。
「話はあとだ。見付かれば、いい的になる。侍女さんたちから降りてくれ」
アイラとナーシャがうなずいた。
「イエリナ姫は、俺が抱いて降ろす」
「……えっ!?」
戸惑うアイカをよそに、アイラが、ナーシャの手にハンカチを巻く。
「ナーシャさま、私が先に行きます。いざというときは、私が盾となりますが、お手を滑らさぬよう、お気を付けください」
「……うむ。分かった」
「では、アイカ。のちほど」
「あ……」
アイカはすでに、クリストフに抱き上げられている。その頭をナーシャがなでた。
「地上で……、の」
優しい響きのするナーシャの声に、いくぶん心を落ち着けたとき、アイラの姿はすでに窓のむこうに消えていた。
つづいてナーシャもロープに手をかけ、窓枠をまたいだ。
――す、すげえ……。
気品ある王妃としての印象とは程遠い、すばやい身のこなしに、アイカは呆気にとられた。
頭上からクリストフの声がした。
「よし。俺たちも行くぞ。しっかりつかまれ」
「は……、はい……」
アイカがクリストフの胴体をギュッと抱きしめると、
「脚もだ」
と言われたので、思い切って股をひらき、両手両足でしがみついた。
そのままアイカの重みなど感じないかのように窓に近寄ったクリストフは、ロープの張りを確かめ、ふわりと跳んだ。
――ひ、ひえ~っ!
窓の外に放り出されたような感覚がして、アイカは思わず目をギュッと閉じる。
トンッと、軽い衝撃がして、尖塔の石壁にクリストフの足がついたのが分かった。
「下を見るなよ」
と、クリストフの声がしたときには、すでに見ていた。
――こ、こわい……。
たちまち手の平が汗でぬれるのが分かって、すべらないように、腕にも太ももにも力を込めた。
クックッという小刻みな揺れとともに、地面に近付いているのが分かる。安定したのか、クリストフの左腕が自分の腰に回った。
キュッと持ち上げ直され、あごがクリストフの肩に乗った。
「……約束の場所にいなくて悪かった」
「い、いえ……」
耳元でささやくクリストフの声が、くすぐったかった。
ふわっと風が通り抜け、なつかしいような匂いがする。覚えのあるような、ないような香り。
それが、クリストフの汗の匂いだと気が付いて、アイカは急に気恥ずかしさを覚えた。
男性に抱きかかえられたことも、こんなに近い距離にあることも、アイカには初めての体験である。だが、高所からの脱出途中にあって、腕や脚に込めている力を抜くことはできない――、
と、大股開きに脚もクリストフの身体に絡ませていることを思い起こし、アイカは激しく赤面した。
顔の真横には、いつも通り飄々とした表情のクリストフの顔がある。
口が悪いだけで、黙っていれば端正な顔立ちの貴公子である。
とおくから愛でる分には申し分ない美形であったが、あまりにも近く密着している。そんな場合ではないと分かっていながら、ドキドキしてしまう自分を抑えることができなかった。
グエッ。
という声が、下から響いた。
「……見つかったか」
クリストフの険しいつぶやきに視線を下げると、両腕をのばしたネビの姿が見えた。その延長線上に城の兵士が倒れており、ネビの暗器が仕留めたのだと分かる。
アイラもナーシャも、まだロープにぶら下がっており、その足下にはタロウとジロウの背中が見えた。
兵士たちの怒号が飛び交い始め、白刃を抜いたカリトン、短剣を抜いたカリュも視界に入る。
と、むかいの城壁から悲鳴があがり、兵士が落ちてゆく。
矢を3本同時につがえたチーナが、次々に矢を放っているのが目に入り、アイカたちの足もと――尖塔の根元で激しい戦闘が始まっていた。
クリストフの口が、耳元に近付く。
「すこし急ぐぞ。しっかり、つかまってろ」
「は、はいっ!」
降下のスピードが上がったのを感じて、アイカはふたたび、ギュッと目を閉じた――。
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