190 / 307
第八章 旧都邂逅
178.ペトラの騎士
しおりを挟む
ペトラの自室に、ヴィアナ騎士団の万騎兵長スピロが密かに呼び出された。
父ルカスの即位によって第1王女位を受ける資格の生じたペトラであったが、
「私は摂政様の正妃というだけで充分でございます」
と、その授与をやんわり辞退している。
軟禁されているバシリオスのほか、どの《王の子》からも支持されていないルカスの即位に、ペトラも反対している。とは、誰も受け取らなかった。
ルカス体制――というよりは、摂政サミュエル体制を妃として健気に支えていると、皆が見ていた。
事実、ペトラは政庁とヴィアナ騎士団を掌握し、王都の政務を一手に担っている。
つねに微笑をたたえ可憐に咲き誇る摂政正妃ペトラの統治を、王都の民は支持し始めていたし、リーヤボルク兵の一部でさえペトラのシンパと化しつつあった。
王都の南で父カリストスに叛いて兵を挙げたアスミル親王も、ルカスというよりはペトラを支持している気配がある。従前、親交が厚かった訳ではないが、アスミルから見れば従兄弟の娘――従姪にあたるペトラの孤軍奮闘ぶりには侠気を誘われる。
ただし、ペトラ自身には常に葛藤がある。
自らが王都の平穏に力を尽くせば尽くすだけ、リーヤボルク兵による王都占拠が長引くのではないかというジレンマを抱えている。
そのため、
――私は、いずれ討たれよう。
と、心に秘めた思いを打ち明けたスピロに面しているときだけ、ペトラがリーヤボルク兵に抗する唯一の武器である微笑が鳴りを潜める。
無機質な面持ちで、声には冷然とした響きを帯びた。
「スピロ。なぜ、ファイナを抱いてやらぬ?」
「はっ……、それは」
「リーヤボルクの獣どもに、妹の処女をくれてやるのは惜しい。せめて、聖山の男がよい。ましてや、ファウロス陛下の任じた万騎兵長であれば申し分ない。……と、思うたのだが」
ファイナは姉ペトラに倣って王女位の授与を辞退している。
――姉が地獄にあるのに、どうして私だけ幸せになることができましょう。
その想いを受け止めるスピロは、どうしてもファイナ内親王を自身の婦人として扱うことができない。王族の誇り、姉ペトラへの愛情に圧倒され、親愛の情より忠誠の方が勝る。
ただ、ペトラの想いも理解できるだけに、返す言葉を失ってしまう。
「まあよい……。私とそなたの懐にある限り、誰もファイナに手出しはできまい」
「……ファイナ殿下は、必ずお守りいたします」
ペトラもスピロの想いが解らないではない。
本来であれば、今すぐにでもリーヤボルク兵に反旗を掲げたい。しかし、圧倒的な兵力差のあるリーヤボルク兵を相手に、王都を戦火にさらすことになる。いざ事態がこうなると、交易の大動脈を握る王都の存在こそがテノリア王国のすべてであることが分かる。
下手に激情に駆られれば、テノリア王国の瓦解に直結する。
そして、父ルカスの命が危うくなる。大神殿に祭り上げられ享楽にふける愚かな父であると思うが、情において完全に切り捨てることが出来ないでいた。
王都の外で割拠しはじめた群雄の間で、はやく話をつけて自分たちを討ちに来てほしい。
が、その想いを明らかにすれば、たちまちリーヤボルク兵との戦闘になる。従順を装い、王国の命脈を保ってその時を待つしかない。
スピロとて栄光のヴィアナ騎士団万騎兵長として忸怩たる想いを抱えていないはずがない。
ペトラは背を向けた。
「いずれファイナをペノリクウスに送る。密かに支度を始めよ」
「……それは」
「西方三候を参朝させるための人質じゃ」
「なんと……」
「西南伯ベスニク公を虜囚としたことで、列候を迂闊に参朝できなくした。聖山三六〇列候を領地に釘付けにする、敵ながら見事な策じゃ。各地の古神を王都に握られているというに……」
「しかし、御妹君を列候の人質とは……」
「ファイナを……、王都から逃がせる。そなたとヴィアナ騎士団5,000も護衛として随行せよ」
「それでは……」
ペトラを王都で独りにしてしまう――、という言葉をスピロは飲み込んだ。
それを言う前にペトラが、グイッと顔を近付けたからだ。妖艶なまでに美しい顔が、至近にある。
「スピロ。我が目を見よ」
「は……」
「……我が目だけを見よ」
息のかかる距離。
「そなたは直情に過ぎる。ゆえに道に迷う」
感情の色が一切しないペトラの瞳に、スピロは自分の存在のすべてが吸い込まれてしまうのではないかという錯覚を覚えた。
「我が言葉のみに従え。ペトラの騎士として残りの生涯をまっとうせよ」
――ペトラの騎士。
その言葉はスピロにとって、これまでの自分を消し去り、新たに人生を定義してくれる響きがあった。
スピロはペトラから目を離せないまま、小さく頷いた。
ペトラも、スピロを見詰めたまま微動だにしない。
「ペトラの騎士に命じる。ファイナを守れ。生涯、守り抜け」
「はっ。しかと……」
ペトラはようやくスピロから目を離し、まるで浮かんだ表情を隠すかのように顔を背けた。
その背中に、スピロがすがるような声をあげた。
「……ペトラ様。ヴィアナ騎士団の兵を1,000……、1,000だけでも手元に置いてくださいませ」
「…………」
「さすれば、私も……、ファイナ様も心置きなく、西に旅立てましょう」
長い沈黙のあと、ペトラが消え入るような声で応えた。
「…………あい、分かった。許す」
スピロは主君の背中に、深々と頭を垂れた。
このペトラの動きは、まだ表面化していない。西方会盟の主要三候には参朝を求める高圧的な書状が発せられていたし、王都はリーヤボルク兵の戦支度で喧騒に包まれている。
それは、隊商を通じて徐々に周辺地域にも伝わっていき、列侯たちを身構えさせた。
アイカたち一行が旧都テノリクアに入ったのは、そのような緊張感に包まれている頃であった――。
父ルカスの即位によって第1王女位を受ける資格の生じたペトラであったが、
「私は摂政様の正妃というだけで充分でございます」
と、その授与をやんわり辞退している。
軟禁されているバシリオスのほか、どの《王の子》からも支持されていないルカスの即位に、ペトラも反対している。とは、誰も受け取らなかった。
ルカス体制――というよりは、摂政サミュエル体制を妃として健気に支えていると、皆が見ていた。
事実、ペトラは政庁とヴィアナ騎士団を掌握し、王都の政務を一手に担っている。
つねに微笑をたたえ可憐に咲き誇る摂政正妃ペトラの統治を、王都の民は支持し始めていたし、リーヤボルク兵の一部でさえペトラのシンパと化しつつあった。
王都の南で父カリストスに叛いて兵を挙げたアスミル親王も、ルカスというよりはペトラを支持している気配がある。従前、親交が厚かった訳ではないが、アスミルから見れば従兄弟の娘――従姪にあたるペトラの孤軍奮闘ぶりには侠気を誘われる。
ただし、ペトラ自身には常に葛藤がある。
自らが王都の平穏に力を尽くせば尽くすだけ、リーヤボルク兵による王都占拠が長引くのではないかというジレンマを抱えている。
そのため、
――私は、いずれ討たれよう。
と、心に秘めた思いを打ち明けたスピロに面しているときだけ、ペトラがリーヤボルク兵に抗する唯一の武器である微笑が鳴りを潜める。
無機質な面持ちで、声には冷然とした響きを帯びた。
「スピロ。なぜ、ファイナを抱いてやらぬ?」
「はっ……、それは」
「リーヤボルクの獣どもに、妹の処女をくれてやるのは惜しい。せめて、聖山の男がよい。ましてや、ファウロス陛下の任じた万騎兵長であれば申し分ない。……と、思うたのだが」
ファイナは姉ペトラに倣って王女位の授与を辞退している。
――姉が地獄にあるのに、どうして私だけ幸せになることができましょう。
その想いを受け止めるスピロは、どうしてもファイナ内親王を自身の婦人として扱うことができない。王族の誇り、姉ペトラへの愛情に圧倒され、親愛の情より忠誠の方が勝る。
ただ、ペトラの想いも理解できるだけに、返す言葉を失ってしまう。
「まあよい……。私とそなたの懐にある限り、誰もファイナに手出しはできまい」
「……ファイナ殿下は、必ずお守りいたします」
ペトラもスピロの想いが解らないではない。
本来であれば、今すぐにでもリーヤボルク兵に反旗を掲げたい。しかし、圧倒的な兵力差のあるリーヤボルク兵を相手に、王都を戦火にさらすことになる。いざ事態がこうなると、交易の大動脈を握る王都の存在こそがテノリア王国のすべてであることが分かる。
下手に激情に駆られれば、テノリア王国の瓦解に直結する。
そして、父ルカスの命が危うくなる。大神殿に祭り上げられ享楽にふける愚かな父であると思うが、情において完全に切り捨てることが出来ないでいた。
王都の外で割拠しはじめた群雄の間で、はやく話をつけて自分たちを討ちに来てほしい。
が、その想いを明らかにすれば、たちまちリーヤボルク兵との戦闘になる。従順を装い、王国の命脈を保ってその時を待つしかない。
スピロとて栄光のヴィアナ騎士団万騎兵長として忸怩たる想いを抱えていないはずがない。
ペトラは背を向けた。
「いずれファイナをペノリクウスに送る。密かに支度を始めよ」
「……それは」
「西方三候を参朝させるための人質じゃ」
「なんと……」
「西南伯ベスニク公を虜囚としたことで、列候を迂闊に参朝できなくした。聖山三六〇列候を領地に釘付けにする、敵ながら見事な策じゃ。各地の古神を王都に握られているというに……」
「しかし、御妹君を列候の人質とは……」
「ファイナを……、王都から逃がせる。そなたとヴィアナ騎士団5,000も護衛として随行せよ」
「それでは……」
ペトラを王都で独りにしてしまう――、という言葉をスピロは飲み込んだ。
それを言う前にペトラが、グイッと顔を近付けたからだ。妖艶なまでに美しい顔が、至近にある。
「スピロ。我が目を見よ」
「は……」
「……我が目だけを見よ」
息のかかる距離。
「そなたは直情に過ぎる。ゆえに道に迷う」
感情の色が一切しないペトラの瞳に、スピロは自分の存在のすべてが吸い込まれてしまうのではないかという錯覚を覚えた。
「我が言葉のみに従え。ペトラの騎士として残りの生涯をまっとうせよ」
――ペトラの騎士。
その言葉はスピロにとって、これまでの自分を消し去り、新たに人生を定義してくれる響きがあった。
スピロはペトラから目を離せないまま、小さく頷いた。
ペトラも、スピロを見詰めたまま微動だにしない。
「ペトラの騎士に命じる。ファイナを守れ。生涯、守り抜け」
「はっ。しかと……」
ペトラはようやくスピロから目を離し、まるで浮かんだ表情を隠すかのように顔を背けた。
その背中に、スピロがすがるような声をあげた。
「……ペトラ様。ヴィアナ騎士団の兵を1,000……、1,000だけでも手元に置いてくださいませ」
「…………」
「さすれば、私も……、ファイナ様も心置きなく、西に旅立てましょう」
長い沈黙のあと、ペトラが消え入るような声で応えた。
「…………あい、分かった。許す」
スピロは主君の背中に、深々と頭を垂れた。
このペトラの動きは、まだ表面化していない。西方会盟の主要三候には参朝を求める高圧的な書状が発せられていたし、王都はリーヤボルク兵の戦支度で喧騒に包まれている。
それは、隊商を通じて徐々に周辺地域にも伝わっていき、列侯たちを身構えさせた。
アイカたち一行が旧都テノリクアに入ったのは、そのような緊張感に包まれている頃であった――。
34
お気に入りに追加
520
あなたにおすすめの小説

魔法が使えない令嬢は住んでいた小屋が燃えたので家出します
怠惰るウェイブ
ファンタジー
グレイの世界は狭く暗く何よりも灰色だった。
本来なら領主令嬢となるはずの彼女は領主邸で住むことを許されず、ボロ小屋で暮らしていた。
彼女はある日、棚から落ちてきた一冊の本によって人生が変わることになる。
世界が色づき始めた頃、ある事件をきっかけに少女は旅をすることにした。
喋ることのできないグレイは旅を通して自身の世界を色付けていく。
公爵令嬢の私に騎士も誰も敵わないのですか?
海野幻創
ファンタジー
公爵令嬢であるエマ・ヴァロワは、最高の結婚をするために幼いころから努力を続けてきた。
そんなエマの婚約者となったのは、多くの人から尊敬を集め、立派な方だと口々に評される名門貴族の跡取り息子、コンティ公爵だった。
夢が叶いそうだと期待に胸を膨らませ、結婚準備をしていたのだが──
「おそろしい女……」
助けてあげたのにも関わらず、お礼をして抱きしめてくれるどころか、コンティ公爵は化け物を見るような目つきで逃げ去っていった。
なんて男!
最高の結婚相手だなんて間違いだったわ!
自国でも隣国でも結婚相手に恵まれず、結婚相手を探すだけの社交界から離れたくなった私は、遠い北の地に住む母の元へ行くことに決めた。
遠い2000キロの旅路を執事のシュヴァリエと共に行く。
仕える者に対する態度がなっていない最低の執事だけど、必死になって私を守るし、どうやらとても強いらしい──
しかし、シュヴァリエは私の方がもっと強いのだという。まさかとは思ったが、それには理由があったのだ。

はずれスキル『本日一粒万倍日』で金も魔法も作物もなんでも一万倍 ~はぐれサラリーマンのスキル頼みな異世界満喫日記~
緋色優希
ファンタジー
勇者召喚に巻き込まれて異世界へやってきたサラリーマン麦野一穂(むぎのかずほ)。得たスキルは屑(ランクレス)スキルの『本日一粒万倍日』。あまりの内容に爆笑され、同じように召喚に巻き込まれてきた連中にも馬鹿にされ、一人だけ何一つ持たされず荒城にそのまま置き去りにされた。ある物と言えば、水の樽といくらかの焼き締めパン。どうする事もできずに途方に暮れたが、スキルを唱えたら水樽が一万個に増えてしまった。また城で見つけた、たった一枚の銀貨も、なんと銀貨一万枚になった。どうやら、あれこれと一万倍にしてくれる不思議なスキルらしい。こんな世界で王様の助けもなく、たった一人どうやって生きたらいいのか。だが開き直った彼は『住めば都』とばかりに、スキル頼みでこの異世界での生活を思いっきり楽しむ事に決めたのだった。

異世界リナトリオン〜平凡な田舎娘だと思った私、実は転生者でした?!〜
青山喜太
ファンタジー
ある日、母が死んだ
孤独に暮らす少女、エイダは今日も1人分の食器を片付ける、1人で食べる朝食も慣れたものだ。
そしてそれは母が死んでからいつもと変わらない日常だった、ドアがノックされるその時までは。
これは1人の少女が世界を巻き込む巨大な秘密に立ち向かうお話。
小説家になろう様からの転載です!

病弱が転生 ~やっぱり体力は無いけれど知識だけは豊富です~
於田縫紀
ファンタジー
ここは魔法がある世界。ただし各人がそれぞれ遺伝で受け継いだ魔法や日常生活に使える魔法を持っている。商家の次男に生まれた俺が受け継いだのは鑑定魔法、商売で使うにはいいが今一つさえない魔法だ。
しかし流行風邪で寝込んだ俺は前世の記憶を思い出す。病弱で病院からほとんど出る事無く日々を送っていた頃の記憶と、動けないかわりにネットや読書で知識を詰め込んだ知識を。
そしてある日、白い花を見て鑑定した事で、俺は前世の知識を使ってお金を稼げそうな事に気付いた。ならば今のぱっとしない暮らしをもっと豊かにしよう。俺は親友のシンハ君と挑戦を開始した。
対人戦闘ほぼ無し、知識チート系学園ものです。

ようこそ異世界へ!うっかりから始まる異世界転生物語
Eunoi
ファンタジー
本来12人が異世界転生だったはずが、神様のうっかりで異世界転生に巻き込まれた主人公。
チート能力をもらえるかと思いきや、予定外だったため、チート能力なし。
その代わりに公爵家子息として異世界転生するも、まさかの没落→島流し。
さぁ、どん底から這い上がろうか
そして、少年は流刑地より、王政が当たり前の国家の中で、民主主義国家を樹立することとなる。
少年は英雄への道を歩き始めるのだった。
※第4章に入る前に、各話の改定作業に入りますので、ご了承ください。

こちらの異世界で頑張ります
kotaro
ファンタジー
原 雪は、初出勤で事故にあい死亡する。神様に第二の人生を授かり幼女の姿で
魔の森に降り立つ 其処で獣魔となるフェンリルと出合い後の保護者となる冒険者と出合う。
様々の事が起こり解決していく

劣悪だと言われたハズレ加護の『空間魔法』を、便利だと思っているのは僕だけなのだろうか?
はらくろ
ファンタジー
海と交易で栄えた国を支える貴族家のひとつに、
強くて聡明な父と、優しくて活動的な母の間に生まれ育った少年がいた。
母親似に育った賢く可愛らしい少年は優秀で、将来が楽しみだと言われていたが、
その少年に、突然の困難が立ちはだかる。
理由は、貴族の跡取りとしては公言できないほどの、劣悪な加護を洗礼で授かってしまったから。
一生外へ出られないかもしれない幽閉のような生活を続けるよりも、少年は屋敷を出て行く選択をする。
それでも持ち前の強く非常識なほどの魔力の多さと、負けず嫌いな性格でその困難を乗り越えていく。
そんな少年の物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる