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第二章 旧都郷愁

51.日高愛華(2)

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 ――我は、気長足姫尊おきながたらしひめのみこと、神功皇后とも呼ばれる八幡神の一柱である。


 厳かに名乗った古式和装の神霊に、愛華は思わず跪いた。


 ――異界の精霊が魂を求めている。行きたければ、取り次ぐがどうじゃ?


 慈愛を含んだ口調は、長く自分に向けられることのなかったものだった。

 冷たく固く凍っていた心に、温かいものが触れた。


 ――死に絶えようとしている幼い娘の命を繋ぎとめたい母親が、自らの命と引き換えに、我ら異界の神々に助けを求めている。


 輝く神霊は、遠くを見詰める視線を空に投げた。


 ――悲痛な声を我は無視できぬ。子を想う母の気持ちは、よく分かるのでな。


 愛華は「子を想う母の気持ち」という言葉にピクリと反応した。

 自分を縛り付けているものとそれが、どうしても重ならない。世界中に無数にあると聞くのに、自分にはない温かく包んでくれるもの。

 求めて止まなかったものが、神霊の眼差しの先、異界にあるという。


 ――そなたのことは、いつも見ていた。


 目の前で輝く神霊は、憐憫の眼差しを愛華に向けた。


 ――母が……、恋しかろう。


 愛華の脳裏に、一緒に家庭菜園の手入れをしながら満面の笑みを向けてくれていた、母の姿が浮かんだ。

 心の一番奥に仕舞い込んでいた風景。

 笑い合った風景。

 遠い風景。


 ――異界で瀕死の我が子を抱く母親は、自らの命と引き換えに術を用いておるので、触れ合えるのはわずかな時間であろう。それでも、行きたいと思うならば、我はそなたを異界に引き渡そう。


 いつも空虚な心を慰めてくれた物語のひとつに、異世界で活躍する少女の冒険譚があった。何も知らない異世界に放り出されて、自らの運命を切り拓いていく実在しない少女を、愛華は心の中でいつも愛でていた。

 と、参道の入口から、今晩も半狂乱になった母の喚き声が聞こえた。

 子を求める母の叫びが、愛華の中で2つ重なった。

 一瞬だとしても、陽の差す方に。

 温かい方に……。

 愛華は神霊に、頷きをひとつ返した。


 ――分かった。


 神霊は優しく微笑んだ。

 瞼の奥に熱いものを感じた。それが、なんなのか愛華には分からなかった。長く覚えのなかった熱いものが、頬に一筋流れた。

 薄く輝く靄に包み込まれ、視界が白く塞がれていく。


 ――異界に行っても、そなたのことは見守っておるぞ。我をはじめ八百万の神々が見守っておる。


 靄が晴れると、自分を強く抱き締める力に気が付いた。

 眼前に、涙で眼鏡を濡らす娘がいた。


「無理やり召喚してごめんなさい」


 おさげ髪の娘は、アイカを強く抱き締めた。


「魂が別人になってしまっても、生きていてほしかった」


 娘の肩越しに、鬱蒼と繁る樹々と星空が見えた。


「もう時間がないから、貴女のお話を聞くことは出来ないけれど……、娘になってくれてありがとう」


 アイカは、脳天に落雷を受けるような衝撃と、胸を張り裂かんばかりの熱を感じた。


 ――娘になってくれて、ありがとう。


 凍り付いていた心臓がゆっくりと融け、熱い血潮を送り出し始めたのが、アイカにはハッキリと分かった。

 人生が動き始める音が聞こえた。


「結界が7年は貴女を危険から護ってくれます。結界が解けたら、西の王都に向かって。あそこなら、なんでも揃ってる。しがらみなく生きられるはずだから」


 眼鏡の娘は抱き締める力を緩めて、アイカの瞳を見詰めた。


「何にも束縛されずに、自由に生きて」


 胸に当てられていた夕暮れ色の宝玉が、パキッと音をたてて砕けた。眼鏡をした娘の身体は、霧のように消え去った。あとには娘の着ていた濃紺の服と眼鏡、それと小さな鞄だけが遺された。

 梟の鳴き声が聞こえる。

 アイカは、また森の中で一人になった。

 地面に落ちて広がった服を拾い上げた。抱き締めると、まだ微かに温もりが残っている。

 大きな声を上げて泣いた。


「産んでくれて、ありがとう」


 どちらの母親に向けた言葉なのか、アイカにも分からなかった。
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