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第二章 旧都郷愁

50.日高愛華(1)

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 日高愛華の母に異変が生じたのは、4つ年下の弟が2歳を迎える頃のことだ。

 愛華が8歳になる頃には、完全に家事に関心を示さなくなってしまった。弟の世話も全て、家のことは愛華がこなす。家庭菜園が趣味だった母自慢の庭はすっかり荒れ果てた。

 仕事で疲れて帰宅した父が、母と怒鳴り合いを始める晩も多かった。

 愛華は弟を連れて子供部屋に避難して嵐が過ぎるのを待つ。布団を2人でかぶって聞かせるお伽噺に、弟は目を輝かせた。怒声と罵声を布団で遮る2人だけの宇宙を、微笑みで埋めてやり過ごした。

 蒸した温もりは、アイカの心の支えでもあった。

 父が趣味の日曜大工で作ってくれた子供椅子が、成長した弟には小さくなる頃、母が突然、愛華に執着を見せ始めた。

 いつも眉間に皺を寄せる父は、新しい椅子を作ってくれなかった。

 愛華を撫でまわす母を尻目に、買って来いとお金を机に置くだけだった。

 母は愛華のことを機嫌よく猫かわいがりする日もあれば、捨てないでと号泣して縋り付く日もある。小学校に行こうとすると、私を捨てるのか、淫らなことがしたいのかと罵声を浴びせることもあれば、満面の笑みで送り出してくれる日もある。

 下校後はすぐに帰らないと母が爆発する。

 全力でスーパーに駆けて行き、夕飯の食材を買い出すと、また全力で家に駆けて行く。腕に食い込むレジ袋の紐が痛かったが、少しでも早く帰らないと母の中の何かが暴れ出す。


「お母さんに早く会いたかったから!」


 と、切れた息で言う愛華を、母は抱き締めて涙を流す日もあれば、嘘を吐くな、この家は嘘吐きばかりだと、自分の部屋に閉じこもる日もある。

 猫かわいがりされる日は、弟から向けられる視線が厳しくなることも愛華にはツラい。

 母は弟に見向きもしない。まるで存在しないかのように振る舞った。

 弟との間に会話はなくなった。冷たい視線で見られるのはまだマシで、目を合わせてもらえないことも多い。

 母から夜中に家を追い出される日もある。

 電気が明るいコンビニでやり過ごそうとすると警察を呼ばれたので、近所の神社に逃げ込むようになった。

 背の高い樹々に囲まれ、小さな裸電球がひとつ照らすだけの夜の社は恐ろしかった。

 ただ、誰も訪れず静かな夜の境内は、愛華に奇妙な安息をもたらした。

 自分を追い出した母が半狂乱で迎えに来るまで、森に囲まれた境内で過ごす。

 運良く父の本棚にある小説か自分のスマートフォンを持ち出せた夜は、物語の中に身を置けた。

 下校後すぐに帰らないと母が荒れるので、友達付き合いも出来ず、学校に行かせてもらえない日もある。同級生からも弟からも距離を置かれ、父はいないも同然だった。友達もほしいし、恋人もほしいが、すべては物語の中だけ、妄想の中だけに存在した。

 実際の同級生たちは近くにいても遠く、愛華にとっては「眺めるもの」、そして「愛でるもの」になっていった。

 仲良く笑い合っている人たちを、愛でるだけで気分が満たされた。

 その輪の中に自分が入ることを妄想するのは、現実味がなさすぎてツラくなるので止めた。


「愛華がいなくなったら、生きていけない」


 高校2年生17歳になる頃、母の束縛はさらに強くなっていた。


「どこにも行かないよね? ずっと、側にいてね」


 と、優しい声音にはそぐわない強い力で、きつく抱き締める日もあれば、


「愛華がいなくなったら耐えられない。お前なんか産むんじゃなかった。私のために死んでよ」


 と、しくしく泣き続ける日もある。

 産むんじゃなかったと言われた日は、より一層に愛華の心を冷やす。いなくなったら耐えられないから死ねとは、もはや自分の存在する意味も分からない。

 夕飯の支度をしても、お弁当を作っても、洗濯をしても、洋服をたたんで箪笥に仕舞っても、母も父も弟も、何も言ってくれない。

 愛華の心はいつしか固く冷たく、凍り付いていた。

 母に追い出された夜の神社だけが、孤独を感じずに済む時間になっていた。本当に一人でいられる時間と空間は、愛華に悲しい安らぎを与えてくれた。

 その晩は、神社が靄に包まれていた。

 裸電球に照らされた社の前に、薄く輝く女の人が立っていた。

 怖さよりも、ひどく懐かしいものを感じた愛華は、古式和装を身に纏う女の人にふらふらと近寄って行った。


 ――愛華よ。


 と、女の人は音でない声で、話しかけてきた――。
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