上 下
45 / 307
第二章 旧都郷愁

40.細い月の下

しおりを挟む
 リティアが遠い地で眠りに就く頃、王太子妃エカテリニは宮殿のバルコニーで、細い月を見上げていた。

 ピンク色の髪はアイカのそれより紅に近い。濃紺の夜の闇が含む涼しさから冷たさに移り変わろうかという風が、微かに揺らしている。

 年が明ければ50になる歳とは思えぬ幼い顔立ちには、隠し切れない憂色が満ちていた。


「眠れないのか?」


 エカテリニの3倍はあろうかという体躯を白のナイトガウンで覆った夫、王太子バシリオスが、いつの間にか後ろに立っていた。


「目が、冴えてしまって……」


 と、エカテリニは眼下に広がる神殿街越しの西街区を見下ろした。深夜も深夜だというのに、まだ盛り場からは小さな灯りがいくつも漏れている。

 バシリオスはエカテリニの側に寄り、肩を抱くと、暗い夜空を見上げた。


「満ちていく月は、美しいな」


 夜空に切り傷が入ったような細い月が、青白く光っている。


「なにを憂いているのだ?」


 バシリオスは、エカテリニの肩を抱く手に力を込めた。


「……」

「もう、一緒になって長い。そのくらいは分かる」


 バシリオスは月を見上げたまま、エカテリニの身体を自分に抱き寄せた。


「私が……」


 と、エカテリニはバシリオスの厚い胸板に身を預けて、目を伏せた。


「……悪いのです」


 バシリオスは、なにが悪い? とは聞かず、30年以上共に歩んだ妃の言葉を待った。


「私が、男子を産めなかったから……。殿下にお辛い想いをさせることに……」

「アリダは、良い娘だ」


 バシリオスが答えにならない答えを口にすると、2人の間に沈黙が流れた。

 そして、エカテリニはバシリオスのナイトガウンをギュッと握って、口を開いた。


「……陛下が、殿下のことを蔑ろにされます」


 やはりエカテリニは、王太子が旧都から依代を迎える役目を解かれたことを、気に病んでいた。

 だが、実はそれだけではない。

 ここのところ、国王が王太子のことを軽んじるような出来事が続いていた。それは他の者では気付かないような、細やかな場面だけであった。

 が、今回の出来事は決定的なことだと、エカテリニは思い詰めていた。


「気にし過ぎだ」


 と、バシリオスは胸の中のエカテリニに顔を向けた。


「リティアが立派に果たしてくれる。あれは賢い」

「でも……」


 バシリオス自身も父王の異変に気付いていない訳ではない。

 だが、エカテリニの心労を増すような素振りは、微笑に包み込んで胸の内に隠すだけの懐を持っている。


「陛下は国王であり父であると同じだけ、戦友でもある」


 バシリオスは『聖山戦争』での初陣以来、14年間の月日を父王と共に戦い抜いた。その中には激戦として正史に刻まれる、ヴール戦役、アルナヴィス戦役も含まれている。

 そして、エカテリニの故郷チュケシエの参朝も、その戦歴の中に入る。


「側妃を……、お取りください」


 エカテリニは王宮の禁忌タブーに触れた。

 かつて、バシリオスは側妃を迎えようとしていた。それが、ルーファから送られたエメーウだった。次期王たる王太子の側妃に孫娘を贈り、絆を深めたい大首長セミールの思惑があった。

 しかし、王宮に到着したエメーウを謁見した国王ファウロスが、


 ――長旅、大儀であった。


 という、労いの言葉に続けて、


 ――我が宮殿に室を与えて報いる。


 と、宣した。

 その場に立ち会った全員が固まった。

 エメーウの美貌に触れた父が、息子に嫁ごうとしていた娘を、横取りしたのだ。

 『王太子の側妃』は、禁忌中の禁忌になった。

 もちろん、リティアの生まれる前の出来事であり、耳に触れることもないほど厳重に秘匿された。王宮に勤める者の中には、何故口にしてはいけないのか事情を知らない者も多い。王太子のエカテリニへの愛の深さゆえと、美談のように誤解している者もある。

 バシリオスはエカテリニの頬に手をやり、滴り落ちるものを拭った。


「私はエカテリニ、お前だけで満たされている」

「……」

「2人も愛せない」


 エカテリニは当時、夫を共有する女性が自らの宮殿に入ることへの困惑が、ない訳ではなかった。

 しかし、夫のため王室のためと心を定め、笑顔で顔を上げた。女官たちを取り仕切り、迎え入れる部屋を設え、調度を揃え、万事を整えた。

 が、その女性は夫の父に奪われた。

 惨めだった。

 事件はエカテリニにも、深い傷跡を残している。

 バシリオスは満ちつつある月を見上げ、決意せざるを得ない刻が訪れることを予感していた――。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

魔法が使えない令嬢は住んでいた小屋が燃えたので家出します

怠惰るウェイブ
ファンタジー
グレイの世界は狭く暗く何よりも灰色だった。 本来なら領主令嬢となるはずの彼女は領主邸で住むことを許されず、ボロ小屋で暮らしていた。 彼女はある日、棚から落ちてきた一冊の本によって人生が変わることになる。 世界が色づき始めた頃、ある事件をきっかけに少女は旅をすることにした。 喋ることのできないグレイは旅を通して自身の世界を色付けていく。

異世界道中ゆめうつつ! 転生したら虚弱令嬢でした。チート能力なしでたのしい健康スローライフ!

マーニー
ファンタジー
※ほのぼの日常系です 病弱で閉鎖的な生活を送る、伯爵令嬢の美少女ニコル(10歳)。対して、亡くなった両親が残した借金地獄から抜け出すため、忙殺状態の限界社会人サラ(22歳)。 ある日、同日同時刻に、体力の限界で息を引き取った2人だったが、なんとサラはニコルの体に転生していたのだった。 「こういうときって、神様のチート能力とかあるんじゃないのぉ?涙」 異世界転生お約束の神様登場も特別スキルもなく、ただただ、不健康でひ弱な美少女に転生してしまったサラ。 「せっかく忙殺の日々から解放されたんだから…楽しむしかない。ぜっっったいにスローライフを満喫する!」 ―――異世界と健康への不安が募りつつ 憧れのスローライフ実現のためまずは健康体になることを決意したが、果たしてどうなるのか? 魔法に魔物、お貴族様。 夢と現実の狭間のような日々の中で、 転生者サラが自身の夢を叶えるために 新ニコルとして我が道をつきすすむ! 『目指せ健康体!美味しいご飯と楽しい仲間たちと夢のスローライフを叶えていくお話』 ※はじめは健康生活。そのうちお料理したり、旅に出たりもします。日常ほのぼの系です。 ※非現実色強めな内容です。 ※溺愛親バカと、あたおか要素があるのでご注意です。

念願の異世界転生できましたが、滅亡寸前の辺境伯家の長男、魔力なしでした。

克全
ファンタジー
アルファポリスオンリーです。

子育てスキルで異世界生活 ~かわいい子供たち(人外含む)と楽しく暮らしてます~

九頭七尾
ファンタジー
 子供を庇って死んだアラサー女子の私、新川沙織。  女神様が異世界に転生させてくれるというので、ダメもとで願ってみた。 「働かないで毎日毎日ただただ可愛い子供と遊んでのんびり暮らしたい」 「その願い叶えて差し上げましょう!」 「えっ、いいの?」  転生特典として与えられたのは〈子育て〉スキル。それは子供がどんどん集まってきて、どんどん私に懐き、どんどん成長していくというもので――。 「いやいやさすがに育ち過ぎでしょ!?」  思ってたよりちょっと性能がぶっ壊れてるけど、お陰で楽しく暮らしてます。

ようこそ異世界へ!うっかりから始まる異世界転生物語

Eunoi
ファンタジー
本来12人が異世界転生だったはずが、神様のうっかりで異世界転生に巻き込まれた主人公。 チート能力をもらえるかと思いきや、予定外だったため、チート能力なし。 その代わりに公爵家子息として異世界転生するも、まさかの没落→島流し。 さぁ、どん底から這い上がろうか そして、少年は流刑地より、王政が当たり前の国家の中で、民主主義国家を樹立することとなる。 少年は英雄への道を歩き始めるのだった。 ※第4章に入る前に、各話の改定作業に入りますので、ご了承ください。

転生したら死んだことにされました〜女神の使徒なんて聞いてないよ!〜

家具屋ふふみに
ファンタジー
大学生として普通の生活を送っていた望水 静香はある日、信号無視したトラックに轢かれてそうになっていた女性を助けたことで死んでしまった。が、なんか助けた人は神だったらしく、異世界転生することに。 そして、転生したら...「女には荷が重い」という父親の一言で死んだことにされました。なので、自由に生きさせてください...なのに職業が女神の使徒?!そんなの聞いてないよ?! しっかりしているように見えてたまにミスをする女神から面倒なことを度々押し付けられ、それを与えられた力でなんとか解決していくけど、次から次に問題が起きたり、なにか不穏な動きがあったり...? ローブ男たちの目的とは?そして、その黒幕とは一体...? 不定期なので、楽しみにお待ち頂ければ嬉しいです。 拙い文章なので、誤字脱字がありましたらすいません。報告して頂ければその都度訂正させていただきます。 小説家になろう様でも公開しております。

辺境領主は大貴族に成り上がる! チート知識でのびのび領地経営します

潮ノ海月@書籍発売中
ファンタジー
旧題:転生貴族の領地経営~チート知識を活用して、辺境領主は成り上がる! トールデント帝国と国境を接していたフレンハイム子爵領の領主バルトハイドは、突如、侵攻を開始した帝国軍から領地を守るためにルッセン砦で迎撃に向かうが、守り切れず戦死してしまう。 領主バルトハイドが戦争で死亡した事で、唯一の後継者であったアクスが跡目を継ぐことになってしまう。 アクスの前世は日本人であり、争いごとが極端に苦手であったが、領民を守るために立ち上がることを決意する。 だが、兵士の証言からしてラッセル砦を陥落させた帝国軍の数は10倍以上であることが明らかになってしまう 完全に手詰まりの中で、アクスは日本人として暮らしてきた知識を活用し、さらには領都から避難してきた獣人や亜人を仲間に引き入れ秘策を練る。 果たしてアクスは帝国軍に勝利できるのか!? これは転生貴族アクスが領地経営に奮闘し、大貴族へ成りあがる物語。

土属性を極めて辺境を開拓します~愛する嫁と超速スローライフ~

にゃーにゃ
ファンタジー
「土属性だから追放だ!」理不尽な理由で追放されるも「はいはい。おっけー」主人公は特にパーティーに恨みも、未練もなく、世界が危機的な状況、というわけでもなかったので、ササッと王都を去り、辺境の地にたどり着く。 「助けなきゃ!」そんな感じで、世界樹の少女を襲っていた四天王の一人を瞬殺。 少女にほれられて、即座に結婚する。「ここを開拓してスローライフでもしてみようか」 主人公は土属性パワーで一瞬で辺境を開拓。ついでに魔王を超える存在を土属性で作ったゴーレムの物量で圧殺。 主人公は、世界樹の少女が生成したタネを、育てたり、のんびりしながら辺境で平和にすごす。そんな主人公のもとに、ドワーフ、魚人、雪女、魔王四天王、魔王、といった亜人のなかでも一際キワモノの種族が次から次へと集まり、彼らがもたらす特産品によってドンドン村は発展し豊かに、にぎやかになっていく。

処理中です...