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7.私、ここにいるのよ!?
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眉間にしわを寄せるわたしに、ビットは悪びれもせず胸を張った。
「もちろん、護衛さ!」
「……女性ばかりの船だから?」
「そうだよ!」
「……ハーレム船的な?」
「おう……、なんて誤解を……。あたらしい航路だから、そこまで心配することはないと思うんだけど、海賊が出ないとも限らないからね」
「海賊……」
言われてみれば、たしかに。
船員のほとんどは女性で、みんな逞しいとはいえ海賊に襲われたら……。
「僕も含めて5人の帝国騎士が乗ってる。万が一でも安心だよ?」
「そ、そうね……。ありがとう」
「それに僕はカーニャひと筋だから」
「それは、どうだか……?」
「それより舳先に行ってみようよ! いい景色が見られるよ!」
「う、うん……、そうね」
感謝の気持ちいっぱいに別れを告げたつもりだった、わたしの心は一体どこへ……。
――えっ?
と、ふと気がついてしまった。
ビットとも一緒に船で往復して、もどってゴールしたらキスするの?
それってなんか、……ほんとに恋人同士みたいじゃない?
Ψ
……っていう、わたしの乙女心は一瞬で吹き飛んだ。
ひどい船酔いだ。
すこし赤らめてしまったはずの頬は、いま青白いはずだ。
むしろ、どす黒くても不思議じゃない。
船室にもどって、ベッドに突っ伏す。
ギィー、ギィー、と音を立てて揺れ続ける帆船カーニャ号。
うぷ。
頭はグワングワン回ってるし、胃袋は身体のどこに自分がいるのか、ずっと主張し続けてる。
――私、胃袋! ここにいるのよ!?
もう充分わかったから、すこし大人しくしていてほしい。
となりの部屋では、リアもダウンしてるし、
――ば、馬車で帰れば良かった。
と思ったけど、もう遅い。船は港を離れてしまったのだ。
ケラケラと甲板で笑う女船員さんたちの声が、わたしの船室まで響いてくる。
わたしのために集まってくれた彼女たち。
いまさら船を戻してとは言い出しにくい。
ひたすら耐えていると、
コンコンッ――
と、ドアをノックする音。
「……はい」
と応える自分の声が、我ながら情けない感じ。
船酔いってこんなにキツいのか……。
「船長のルチアです。お水をお持ちしました」
「あ、ありがとう……。どうぞ、なかに入って……」
「失礼します」
と、なかに入って来たルチアさんは、もちろん元気。小麦色の肌もツヤツヤしてる。
水差しからコップに水を汲んでくれた。
「しっかり水分を摂って、遠くを見るようにしてたら、そのうち身体が慣れますよ」
「あ、ありがとう……」
寝返りを打って、ちいさな窓の外をながめる。
「ほんとうは甲板に出て風にあたる方がいいんですけど……」
「……まだ、無理そう」
「ですよね、服を緩めますね」
と、苦笑いしたルチアさんが、ドレスの腰の辺りと胸元をゆるめてくれた。
「あ……、とっても楽……」
「身体を締めつけるものは、船酔いをひどくしますから」
「そうなんだ……」
「男爵様が心配してらしたんですけど、さすがにこのお姿を見せる訳にもいきませんね」
「そ、そうね……。それは困るわ」
「できるだけ船の揺れと逆方向に身体を動かしてみてください」
「……はい」
「それから、ゆっくりと深呼吸をして。息をお腹にいれる感じで」
「……はい」
もう、言われるがままにしか出来ない。
ふふっと微笑んだルチアさんが、窓を開けてくれた。
さあっと頬をなでる風が気持ちいい。
潮の香りは胃に響くけど……、なるほど、甲板に出た方がいいというのは、そうなのだろう。
だけど今、とても動きたくない。
「できたら、そのまま眠っちゃってください。寝て起きたら治ってますよ」
「……はい」
期待と希望でいっぱいだった胸には、いま吐き気しか詰まっていない……。
そうね……。
深呼吸に集中して、そのまま眠れるように努力しよう。
Ψ
予定では10日の船旅。
最初の2日は船酔いで、完全にダウンして過ごした。
ようやく船室から出る気になれたのは3日目の朝。
「カーニャ~! 大丈夫?」
と駆け寄るビットが、正直、まだウザい。
「だ、大丈夫……」
「ほら、進行方向に朝陽が出てるでしょ? あれを眺めるといいよ」
「……ありがと」
ルチアさんが椅子を二脚持って来てくれて、ビットとならんで座る。
――ひ、ひとりにしてほしい……。
と思ったけど、それを言う気力も湧かない。
なにを言われても、無視するしかないか……。
と思っていたけど、意外にもビットはずっと黙って、わたしのとなりで一緒にただ朝陽を眺めていてくれた。
まぶしいけど、できるだけ朝陽を眺める。
最後に残っていた僅かな吐き気が治まって、徐々に視界がクリアになってきた。
それだけじゃなくて、まわりからクスクス笑う声が――、
「もう! 僕とカーニャがお似合いだからって、みんな見過ぎだよ~?」
「失礼しました~っ! ごゆっくり~!」
ビットの〈軽口〉に、女の船員さんたちが笑って応えた。
わたしにも気持ちの余裕が出てきて、
「あの中に、ビットの彼女は何人いるの?」
と、からかうと、ビットは真面目風の表情をつくって、
「僕はカーニャひとすじさっ」
と自分の後ろ髪をはね上げた。
ワザとらしいビットの仕草に、さすがに笑いをこらえきれなくなって、声をあげて笑うと、ようやく船酔いがどこかに消えてくれた。
すると、ビットがわたしに、銀色のちいさなウイスキーボトルをさし出す。
「……いや、お酒はちょっと」
「ジンジャーシロップを水で薄めて入れてある。生姜は船酔いに効くから」
「そうなんだ。ありがとう」
口にすると、ピリッとした辛みと爽やかな香りが、よどんだ鼻腔を洗い流してくれるようで心地いい。
そして、のどを過ぎた刺激が、胃腸を目覚めさせていくのが分かる。
「……美味しい」
「でしょう? むかしから船乗りは生姜の恩恵を受けてきたんだよ」
「そうなのね……、知らなかった」
「完全に船酔いになった後だと逆効果になる人もいるから、なる前にチミチミ飲んでおくといいよ」
朝陽に照らされて微笑むビットに、お礼を言うまえに、
グウゥゥゥゥ~。
と、お腹が鳴った。
これは、わたしが公爵令嬢でなくても恥ずかしい。
なんのかんの美形の貴公子なビットに聞かれたと思ったらなおさらだ。
「……聞こえたよね?」
「う~ん。なんのことだか」
「うそ。絶対、聞こえた」
「なんのことだか僕にはサッパリ分からないけど、朝ご飯を食べにいこう」
「聞こえてるじゃないの~」
「ん~? かもめが鳴いてたかなぁ~? そんなことより、カーニャ2日も食べてないんだから、お腹ペコペコでしょ?」
「む――っ」
「僕の選んだ料理長なんだから、腕は確かだよ~。生姜をいっぱい使った朝ごはんをつくってくれてるはず。さ、行こう!」
立ち上がって朝陽に逆光になったビットの笑みがまぶしくて、
しばらく船酔いのせいではなくて、立ち上がれなかった。
Ψ
一度、脱出した船酔いは、その後ぶり返すこともなく、
胃袋はわたしの身体の一部に戻り、
ようやくわたしは生まれて初めての船旅を楽しむことができた。
陸地の見えない一面の大海原。
日本の故郷はさびれた漁港になっていたし、漁業に関わりのなかったわたしが船に乗せてもらうことはなかった。
天然の良港を見下ろして育ったわたしは、どちらかというと〈山の子〉だ。
地域でささやかに受け継がれてきた伝統の民芸品――漆器を、全国に売り込むのだと駆け回る父親。
いやいや世界に売り込むのだと飛び回る母親。
ふたりの理想は、現代の北前船。
ときどき梱包を手伝ったりはしたけど、両親とも家にいない日が多かった。
ひとりで過ごす時間が長くて、縁側から眺める海の思い出は、すこし寂しい。
――だけど……。
と、クスッと笑ってしまう。
結局、わたしは海上交易だなんて日本の両親と同じようなことをしている。
それも、こちらの母親が遺したミカン畑を守るためにだ。
眼前にひろがる水平線を眺めて、妙な巡り合わせのようなものを感じてしまう。
あれほどわたしの寂しさをくすぐった海が、いまは希望に満ち溢れて見えた。
「あれ~? なにか面白いものが見えた?」
木箱に腰かけるわたしの横で、ビットが額に手をかざして遠くを見つめた。
「ううん。ちょっと小さい頃のことを思い出してただけ」
「そうか~。海は人に哲学させるよね~」
「あら? ビットってそんなことも言うのね?」
「言うよ~。僕はカーニャを眺めて、いつも〈美とはなにか?〉について哲学してるからね」
「わたしに答えはないんじゃない?」
「そうなんだよ!」
「……?」
「だから、ずっとカーニャのことを考えてしまう」
「もう……」
ビットのことだから、どうせ誰にでも言っているんだろうし、真剣に受け止めてはない。
でも、王都の男子生徒たちみたいに、ゴニョゴニョもにょもにょと、家門のプライドを織り交ぜながら〈ちょっといい感じ〉どまりで、踏み越えて来てくれないよりは、よほど気持ちがいい。
いや、日本の数少ない同級生たちもそうだったな……。
いや? むしろ、わたしか?
わたしが恋に奥手なせいで、男子も踏み越えられないのか?
「……ま、どっちにしても縁がなかったってことよね」
「ええ~っ!?」
「あ、ごめん……。いや、ごめんも変か。だけど、ひとり言だから気にしないで」
「気になるよぉ~!」
と、わかりやすく狼狽えて見せるところまで、ビットは徹底してる。
しかも、すごいなぁと秘かに感心していのは、たくさんいる女船員さんたちを口説いてるところを、わたしに絶対見せないところだ。
――ナンパはナンパなりに、礼儀をわきまえている。
と、かるく尊敬さえ覚える。
いままで会ったことのない種類の男性だ。
船旅もすでに7日。
おかげさまで、両腕をおおきく開いたり、あたまを抱えたりと忙しいビットを見てるだけでもクスクスと飽きずに過ごせる。
ただ、そのときのビットは不自然にピタッと止まった。
おや? と思ってビットの顔を見上げると、表情が険しい。
――こんな顔もできるんだ……。
なんて、ドキッとしてるわたしの視線に気付いたビットがニコッと笑い、わたしの肩に手を置いた。
「カーニャ、大丈夫だから。船室に戻ってて」
「え……? 大丈夫って……?」
というわたしの言葉を最後まで聞かずに、ビットはその澄んでいてムラのない声を鋭く響かせ駆け出していた。
「ルチア! 嵐だ!! 季節はずれだが、西南に雨雲を確認した! 近い!! 来るぞ!」
嵐……?
ビットの言葉に沿って船尾側――西南の空を見上げると、ドス黒い雨雲がみるみる広がり始めていた。
ビットの声が鋭さを増す。
「帆を巻き上げろ! 積み荷の固定を確認! 船倉は空きスペースが多い、桟橋づくりの資材が崩れたら、船が傾くぞ! 嵐はすぐに来る!! いそげ!!」
甲板を駆け出す船員の皆さん。
いつもとまったく違う真剣な表情。
船橋にはルチアさんの姿が見え、次々に指示を飛ばしはじめた。
ぽつりと雨粒がひとつ、わたしの頬を打ったとき、いつの間にかそばにはリアがいた。
「カロリーナ様。私たちは船室へ……」
「そうね。邪魔になってはいけないものね」
よろめきながら、船員さんたちとは逆方向に船室へと向かう。
すでに少し波が高くなりはじめていた。
だけど、
暗くなってゆく空を、厳しい表情で睨みつけるビットが妙に凛々しくて、慌ただしい喧騒のなか、
しばらくわたしは、見惚れてしまっていた――。
「もちろん、護衛さ!」
「……女性ばかりの船だから?」
「そうだよ!」
「……ハーレム船的な?」
「おう……、なんて誤解を……。あたらしい航路だから、そこまで心配することはないと思うんだけど、海賊が出ないとも限らないからね」
「海賊……」
言われてみれば、たしかに。
船員のほとんどは女性で、みんな逞しいとはいえ海賊に襲われたら……。
「僕も含めて5人の帝国騎士が乗ってる。万が一でも安心だよ?」
「そ、そうね……。ありがとう」
「それに僕はカーニャひと筋だから」
「それは、どうだか……?」
「それより舳先に行ってみようよ! いい景色が見られるよ!」
「う、うん……、そうね」
感謝の気持ちいっぱいに別れを告げたつもりだった、わたしの心は一体どこへ……。
――えっ?
と、ふと気がついてしまった。
ビットとも一緒に船で往復して、もどってゴールしたらキスするの?
それってなんか、……ほんとに恋人同士みたいじゃない?
Ψ
……っていう、わたしの乙女心は一瞬で吹き飛んだ。
ひどい船酔いだ。
すこし赤らめてしまったはずの頬は、いま青白いはずだ。
むしろ、どす黒くても不思議じゃない。
船室にもどって、ベッドに突っ伏す。
ギィー、ギィー、と音を立てて揺れ続ける帆船カーニャ号。
うぷ。
頭はグワングワン回ってるし、胃袋は身体のどこに自分がいるのか、ずっと主張し続けてる。
――私、胃袋! ここにいるのよ!?
もう充分わかったから、すこし大人しくしていてほしい。
となりの部屋では、リアもダウンしてるし、
――ば、馬車で帰れば良かった。
と思ったけど、もう遅い。船は港を離れてしまったのだ。
ケラケラと甲板で笑う女船員さんたちの声が、わたしの船室まで響いてくる。
わたしのために集まってくれた彼女たち。
いまさら船を戻してとは言い出しにくい。
ひたすら耐えていると、
コンコンッ――
と、ドアをノックする音。
「……はい」
と応える自分の声が、我ながら情けない感じ。
船酔いってこんなにキツいのか……。
「船長のルチアです。お水をお持ちしました」
「あ、ありがとう……。どうぞ、なかに入って……」
「失礼します」
と、なかに入って来たルチアさんは、もちろん元気。小麦色の肌もツヤツヤしてる。
水差しからコップに水を汲んでくれた。
「しっかり水分を摂って、遠くを見るようにしてたら、そのうち身体が慣れますよ」
「あ、ありがとう……」
寝返りを打って、ちいさな窓の外をながめる。
「ほんとうは甲板に出て風にあたる方がいいんですけど……」
「……まだ、無理そう」
「ですよね、服を緩めますね」
と、苦笑いしたルチアさんが、ドレスの腰の辺りと胸元をゆるめてくれた。
「あ……、とっても楽……」
「身体を締めつけるものは、船酔いをひどくしますから」
「そうなんだ……」
「男爵様が心配してらしたんですけど、さすがにこのお姿を見せる訳にもいきませんね」
「そ、そうね……。それは困るわ」
「できるだけ船の揺れと逆方向に身体を動かしてみてください」
「……はい」
「それから、ゆっくりと深呼吸をして。息をお腹にいれる感じで」
「……はい」
もう、言われるがままにしか出来ない。
ふふっと微笑んだルチアさんが、窓を開けてくれた。
さあっと頬をなでる風が気持ちいい。
潮の香りは胃に響くけど……、なるほど、甲板に出た方がいいというのは、そうなのだろう。
だけど今、とても動きたくない。
「できたら、そのまま眠っちゃってください。寝て起きたら治ってますよ」
「……はい」
期待と希望でいっぱいだった胸には、いま吐き気しか詰まっていない……。
そうね……。
深呼吸に集中して、そのまま眠れるように努力しよう。
Ψ
予定では10日の船旅。
最初の2日は船酔いで、完全にダウンして過ごした。
ようやく船室から出る気になれたのは3日目の朝。
「カーニャ~! 大丈夫?」
と駆け寄るビットが、正直、まだウザい。
「だ、大丈夫……」
「ほら、進行方向に朝陽が出てるでしょ? あれを眺めるといいよ」
「……ありがと」
ルチアさんが椅子を二脚持って来てくれて、ビットとならんで座る。
――ひ、ひとりにしてほしい……。
と思ったけど、それを言う気力も湧かない。
なにを言われても、無視するしかないか……。
と思っていたけど、意外にもビットはずっと黙って、わたしのとなりで一緒にただ朝陽を眺めていてくれた。
まぶしいけど、できるだけ朝陽を眺める。
最後に残っていた僅かな吐き気が治まって、徐々に視界がクリアになってきた。
それだけじゃなくて、まわりからクスクス笑う声が――、
「もう! 僕とカーニャがお似合いだからって、みんな見過ぎだよ~?」
「失礼しました~っ! ごゆっくり~!」
ビットの〈軽口〉に、女の船員さんたちが笑って応えた。
わたしにも気持ちの余裕が出てきて、
「あの中に、ビットの彼女は何人いるの?」
と、からかうと、ビットは真面目風の表情をつくって、
「僕はカーニャひとすじさっ」
と自分の後ろ髪をはね上げた。
ワザとらしいビットの仕草に、さすがに笑いをこらえきれなくなって、声をあげて笑うと、ようやく船酔いがどこかに消えてくれた。
すると、ビットがわたしに、銀色のちいさなウイスキーボトルをさし出す。
「……いや、お酒はちょっと」
「ジンジャーシロップを水で薄めて入れてある。生姜は船酔いに効くから」
「そうなんだ。ありがとう」
口にすると、ピリッとした辛みと爽やかな香りが、よどんだ鼻腔を洗い流してくれるようで心地いい。
そして、のどを過ぎた刺激が、胃腸を目覚めさせていくのが分かる。
「……美味しい」
「でしょう? むかしから船乗りは生姜の恩恵を受けてきたんだよ」
「そうなのね……、知らなかった」
「完全に船酔いになった後だと逆効果になる人もいるから、なる前にチミチミ飲んでおくといいよ」
朝陽に照らされて微笑むビットに、お礼を言うまえに、
グウゥゥゥゥ~。
と、お腹が鳴った。
これは、わたしが公爵令嬢でなくても恥ずかしい。
なんのかんの美形の貴公子なビットに聞かれたと思ったらなおさらだ。
「……聞こえたよね?」
「う~ん。なんのことだか」
「うそ。絶対、聞こえた」
「なんのことだか僕にはサッパリ分からないけど、朝ご飯を食べにいこう」
「聞こえてるじゃないの~」
「ん~? かもめが鳴いてたかなぁ~? そんなことより、カーニャ2日も食べてないんだから、お腹ペコペコでしょ?」
「む――っ」
「僕の選んだ料理長なんだから、腕は確かだよ~。生姜をいっぱい使った朝ごはんをつくってくれてるはず。さ、行こう!」
立ち上がって朝陽に逆光になったビットの笑みがまぶしくて、
しばらく船酔いのせいではなくて、立ち上がれなかった。
Ψ
一度、脱出した船酔いは、その後ぶり返すこともなく、
胃袋はわたしの身体の一部に戻り、
ようやくわたしは生まれて初めての船旅を楽しむことができた。
陸地の見えない一面の大海原。
日本の故郷はさびれた漁港になっていたし、漁業に関わりのなかったわたしが船に乗せてもらうことはなかった。
天然の良港を見下ろして育ったわたしは、どちらかというと〈山の子〉だ。
地域でささやかに受け継がれてきた伝統の民芸品――漆器を、全国に売り込むのだと駆け回る父親。
いやいや世界に売り込むのだと飛び回る母親。
ふたりの理想は、現代の北前船。
ときどき梱包を手伝ったりはしたけど、両親とも家にいない日が多かった。
ひとりで過ごす時間が長くて、縁側から眺める海の思い出は、すこし寂しい。
――だけど……。
と、クスッと笑ってしまう。
結局、わたしは海上交易だなんて日本の両親と同じようなことをしている。
それも、こちらの母親が遺したミカン畑を守るためにだ。
眼前にひろがる水平線を眺めて、妙な巡り合わせのようなものを感じてしまう。
あれほどわたしの寂しさをくすぐった海が、いまは希望に満ち溢れて見えた。
「あれ~? なにか面白いものが見えた?」
木箱に腰かけるわたしの横で、ビットが額に手をかざして遠くを見つめた。
「ううん。ちょっと小さい頃のことを思い出してただけ」
「そうか~。海は人に哲学させるよね~」
「あら? ビットってそんなことも言うのね?」
「言うよ~。僕はカーニャを眺めて、いつも〈美とはなにか?〉について哲学してるからね」
「わたしに答えはないんじゃない?」
「そうなんだよ!」
「……?」
「だから、ずっとカーニャのことを考えてしまう」
「もう……」
ビットのことだから、どうせ誰にでも言っているんだろうし、真剣に受け止めてはない。
でも、王都の男子生徒たちみたいに、ゴニョゴニョもにょもにょと、家門のプライドを織り交ぜながら〈ちょっといい感じ〉どまりで、踏み越えて来てくれないよりは、よほど気持ちがいい。
いや、日本の数少ない同級生たちもそうだったな……。
いや? むしろ、わたしか?
わたしが恋に奥手なせいで、男子も踏み越えられないのか?
「……ま、どっちにしても縁がなかったってことよね」
「ええ~っ!?」
「あ、ごめん……。いや、ごめんも変か。だけど、ひとり言だから気にしないで」
「気になるよぉ~!」
と、わかりやすく狼狽えて見せるところまで、ビットは徹底してる。
しかも、すごいなぁと秘かに感心していのは、たくさんいる女船員さんたちを口説いてるところを、わたしに絶対見せないところだ。
――ナンパはナンパなりに、礼儀をわきまえている。
と、かるく尊敬さえ覚える。
いままで会ったことのない種類の男性だ。
船旅もすでに7日。
おかげさまで、両腕をおおきく開いたり、あたまを抱えたりと忙しいビットを見てるだけでもクスクスと飽きずに過ごせる。
ただ、そのときのビットは不自然にピタッと止まった。
おや? と思ってビットの顔を見上げると、表情が険しい。
――こんな顔もできるんだ……。
なんて、ドキッとしてるわたしの視線に気付いたビットがニコッと笑い、わたしの肩に手を置いた。
「カーニャ、大丈夫だから。船室に戻ってて」
「え……? 大丈夫って……?」
というわたしの言葉を最後まで聞かずに、ビットはその澄んでいてムラのない声を鋭く響かせ駆け出していた。
「ルチア! 嵐だ!! 季節はずれだが、西南に雨雲を確認した! 近い!! 来るぞ!」
嵐……?
ビットの言葉に沿って船尾側――西南の空を見上げると、ドス黒い雨雲がみるみる広がり始めていた。
ビットの声が鋭さを増す。
「帆を巻き上げろ! 積み荷の固定を確認! 船倉は空きスペースが多い、桟橋づくりの資材が崩れたら、船が傾くぞ! 嵐はすぐに来る!! いそげ!!」
甲板を駆け出す船員の皆さん。
いつもとまったく違う真剣な表情。
船橋にはルチアさんの姿が見え、次々に指示を飛ばしはじめた。
ぽつりと雨粒がひとつ、わたしの頬を打ったとき、いつの間にかそばにはリアがいた。
「カロリーナ様。私たちは船室へ……」
「そうね。邪魔になってはいけないものね」
よろめきながら、船員さんたちとは逆方向に船室へと向かう。
すでに少し波が高くなりはじめていた。
だけど、
暗くなってゆく空を、厳しい表情で睨みつけるビットが妙に凛々しくて、慌ただしい喧騒のなか、
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