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それ以来、おにいちゃんは昔と同じく、私をパシるようになった。私はもはや、朝から購買に行き、焼きそばパンをゲットするようにした。だってお昼ごはんをゆっくり食べたいし。
とある日、いつものように焼きそばパンを手に席を立つと、
「ねえ、ふみ。昼休みどこ行ってんの?」
友人のはるかちゃんに問われ、私は目を瞬いた。
「え?」
「まさか、彼氏とか?」
私は慌ててかぶりを振った。
「違うよ。おに……明石先生に、パンを届けてるだけで」
「なんで?」
もっともな疑問だ。昔からの習慣でパシリしてる──とは言えない。
「明石先生、忙しいから……はは」
「そうなんだ~私も先生と話したいなー。一緒に行っていい?」
「え? うん、いいよ」
私は、はるかちゃんを連れて旧美術室へ向かった。
「先生がここで食べてるって聞いて、来ちゃいました」
そう言ったはるかちゃんを見て、おにいちゃんの目が一瞬怖くなる。ひいっ。おにいちゃんはすぐ笑顔に戻り、
「ああ、そうか。もちろんいいよ」
はるかちゃんはおにいちゃんの異変には気づかず、やったー、と喜んでいる。私の肩を抱き寄せ、おにいちゃんが囁く。
「おいおまえ。なにコブつけてきてんだ。他の生徒いたら安らげねーだろ」
「だってはるかちゃん、おにいちゃんと話したいって言うから」
「俺は話したくねーよ」
全然先生らしくない。
「ったく、次からは気をつけろ」
おにいちゃんは私の肩から腕を離し、席に戻った。はるかちゃんが身を乗り出して尋ねる。
「先生ってどんな子がタイプなんですかー?」
おにいちゃんは爽やか青年モードで答える。
「そうだな、優しい子かな」
絶対嘘だ。おにいちゃんは顔面九割、胸一割って昔からよく言っていた。猫かぶるから疲れるんじゃないのだろうか。ありのままでいればいいのに。私は、おにいちゃんとはるかちゃんのやりとりを見ながら、たくわんをかじった。
★
「あ、雨だ」
昇降口で靴を履き替えていた私は、外が暗くなっているのに気づいた。コンクリートが濡れて、色が濃くなっている。雨でも大丈夫。ちゃんと置き傘を持ってきているのだ。私が傘を開くと、隣にやってきた人物に、いきなり傘を奪われた。
「!?」
「すげー雨。駅まで入れてけよ」
「お、おにいちゃん」
私は、傘を取り返そうとした。おにいちゃんは頭上高く傘をあげる。
「やだ。家、駅のほうじゃないもん」
「はあ? 俺が濡れてもいいって言うのか」
おにいちゃんがほほを引っ張ってくる。
「わかったよ、いたいからやめて」
私は仕方なく、傘の中におにいちゃんを入れてあげた。おにいちゃんはそれでいいと言わんばかりにうなずく。お金あるんだし、傘くらい、購買で買えばいいのに。
置き傘なので、傘の中は窮屈だ。というか、さっきからはみ出した肩が濡れている。でも、おにいちゃんを押しのけたりしたら絶対大変なことになる。多分命はない。
「おまえもっと寄れよ。濡れるだろ」
おにいちゃんが肩を抱き寄せてくる。私は、おにいちゃんを見上げた。黒髪がかすかに雨に濡れている。長いまつげについた水滴が、ぴちゃん、と落ちた。黙ってたらかっこいいのに。私の視線に気づいたのか、こっちを見下ろして、目を細める。
「なに見とれてんの」
「見とれてないもん」
私はそっぽを向いた。いくらかっこよくても、おにいちゃんは性格が悪いからいやだ。
「見てただろ。正直に言え」
「見てたけど見とれてないもん」
「生意気だぞ、ぷに」
「ぷにじゃない、ふみです!」
言い合いをしていたら、向かいから男子高生の集団がやってきた。おにいちゃんが私を抱き寄せる。
「な、なに」
「透けてんだよ、ブラ」
「!」
私はびくりとした。おにいちゃんは鞄からジャージを取り出し、私に着せた。
「う」
「これでも着とけ」
おにいちゃんのだからぶかぶかだ。
「あ、ありがとう」
でも暑い……。駅にたどり着くと、おにいちゃんはここでいい、と言って傘から出た。改札前に女の人が立っているのが見える。こっちを見ているような気がした。
「あの人、こっち見てない?」
私がおにいちゃんに囁くと、
「俺の彼女」
「へ」
あの人が……すごい美人だ。目があったので会釈する。なぜだか視線をそらされた。
「じゃあな」
おにいちゃんは私に500円玉を渡した。なんだろう。お駄賃?
「雨ひどくなってきたから、バスで帰れ」
私の髪をくしゃ、と撫でて、彼女の方へ歩いて行った。
そうだ、おにいちゃんは昔からモテたんだ……。
そりゃあ、見た目はいいし、ごくたまに優しいこともある。だけど、やっぱり大抵は意地悪だ。付き合うなら、優しい人が一番。そう、五木先輩みたいな……。私はおにいちゃんに背を向け、バスに乗り込んだ。
★
翌日、私が登校すると、昇降口におにいちゃんが立っていた。「挨拶強化月間」というたすきをかけていた。なんというか、死んだ目をしている。目が合うと、無理矢理な笑みを浮かべた。
「おはよう、川内」
「おはようございます……」
なんだか、笑顔から威圧を感じた。すごく機嫌が悪いような気がする。多分、なんで俺がこんなダサいことをしなけりゃならないんだ、と思っているんだろう。
「なんだ、元気がないな。気持ちのいい朝は挨拶から始まるんだぞ」
「はあ」
笑ってない目でそんなこと言われても。
「あ、これ昨日のジャージ」
私がジャージを差し出すと、
「ありがとう(洗って返せよ。あ?)」
おにいちゃんが言葉の裏で威圧をしてくる。
「だ、だって乾かないと思って」
「確かに最近雨が多いからな(ちっ、仕方ねーな)」
解放された私は、おにいちゃんの機嫌をとるべく、いそいで購買に向かった。
おにいちゃんは、それ以降も変だった。お昼休みに焼きそばパンを届けたら、食っていいとか言うし、体育の時間、50メートル走をやれって言った後、ずっとぼーっとしてるし。明らかにおかしい。昨日、何かあったのだろうか。
「あ、あの、先生。タイム計測終わりました」
タイム表を手に声をかけたら、
「偉いなあ、川内は」
おにいちゃんが満面の笑みを浮かべ、わしわし頭を撫でてくる。私、犬かなにか? あと目が笑ってないから怖い。
「何かあったの?」
小声でそう尋ねたら、撫でる手を止めた。
「は?」
「だって、なんか変だよ」
「大人には色々あるんでちゅよ、ぷにちゃん」
おにいちゃんが、むぎゅむぎゅほほを押しつぶしてくる。こんなことする人が大人だとは思えないけど。
「ぷにじゃなくてふみだもん、うぐう」
視線を感じて振り向くと、はるかちゃんがこっちを見ていた。目が合うと、さっ、とそらす。
「?」
「あとは適当になんかしとけ」
「適当って」
おにいちゃんは私のほほを引っ張るのをやめ、黄昏始めた。多分何言ってもだめそうだ。私は仕方なく、みんなに自由時間だと伝えた。
授業後、はるかちゃんがおにいちゃんに声をかけた。
「先生! 私三角コーン片付けます!」
おにいちゃんは、いつもより覇気のない声で答えた。
「ああ、大丈夫。川内、頼む」
はるかちゃんがむっとする。私は体育倉庫にて、三角コーンを片付けながら言った。
「なんで私にやらせるの? はるかちゃん、やりたがってたのに」
おにいちゃんはマットの上に座り、タバコをくわえた。
「……おまえのさ、友達。はるまきちゃん?」
どんな間違え方なのだ。
「はるかちゃんだよ」
「それだよ。あのタイプはやばい。教育実習の時いたんだよな。やたらとアピールしてきて、二人きりになると迫る。拒絶されるとキレて泣く」
「はあ……」
「はあ、じゃねーよ。変な疑いかけられたら俺の教師生命終わりだからな」
「大変だね、先生って」
「まあな。だから労われよ」
「いたわる?」
「そうだよ。生徒はもっと教師をいたわるべきだ。教師の離職率の高さ知ってるか?」
労わるって、どうすればいいんだろう。私は三角コーンを置いて、おにいちゃんの頭を撫でた。
「……何してんだ?」
「労ってるの」
おにいちゃんは、上目遣いでこっちを見た。その腕が背中にまわる。ぎゅ、と抱きしめられて、私は固まる。
「!?」
「なんか、おまえいい匂いすんな」
「し……しません」
「胸、でかいし」
おにいちゃんの頭が、私の胸に当たった。
「あ」
「……やわらか」
「お、おにいちゃん、彼女いるんでしょ」
「振られた」
だから機嫌悪かったんだ。
「性格、悪いからだ、や」
おにいちゃんが、私の身体を引き寄せた。膝の上に座る形になる。
「おまえ、生意気だな。お仕置き」
おにいちゃんが私の耳を噛んだ。
「う」
柔らかく噛んで、なめる。私はびく、と震えた。
「せんせい、なのに、こんなことしたら、だめ、なんだから」
「あっそ」
おにいちゃんは関心なさげに言い、胸に手をすべらせる。やんわり揉まれて、私は息を詰めた。
「ふ」
「でかいな」
「でかく、ない」
胸を揉んでいた手が、体操着の下に滑り込んで来た。
「ひゃあ」
大きな手のひらが、お腹の柔らかい部分を撫でた。
「腹、ぷにぷに」
「や、だ」
ぞくっとして、私は身を縮める。なんでこんなこと。
「おまえのせいなんだよ」
「え」
「彼女。おまえの話したら、すげー機嫌悪くなったんだ」
なんで? だとしても、私のせいじゃないし。おにいちゃんは私の頭を引き寄せ、唇を合わせた。
「!?」
くちびる、やわらかい。ちょっと開いた口の中に、おにいちゃんの舌が入り込んでくる。うそ、なんで? 頭のなか、くらくらする。
大きな手のひらが、私の頭を撫でた。口の中、なんか、変。ちゅく、と水音がして、私は身体を震わせた。おにいちゃんは唇を離し、囁いた。
「エロい顔」
身体がふるえる。なんで。
「う、っ……」
私はぼろぼろ涙をこぼした。おにいちゃんが珍しくギョッとする。
「お、い」
「ば、か、初めて、キス……」
私がしゃくりあげたら、
「泣くなよ。つーかそっちかよ」
おにいちゃんはため息をついて、私の目元をぬぐった。それから、唇もぬぐう。
「ん」
「嫌いなやつとのキスはカウントしなくていいんだよ」
「そ、なの?」
「ああ。だから泣くなよ」
そうか、よかった。私はホッと息を吐き、はっとした。
「よくないよ! いまの、全部セクハラだよ!」
「おせーよ。大丈夫かおまえ」
おにいちゃんはため息をついて、私を離した。三角コーンを拾い上げる。
「もういいよ。教室帰れ」
私は入り口で足を止め、おにいちゃんの背中に声をかけた。
「お、おにいちゃんは顔だけならかっこいいから、彼女できるよ」
「はいはい」
おにいちゃんは振り返らずに、ひらひら手を振った。
★
放課後、私は旧美術室へ向かった。五木先輩が絵を描いているかもしれない、と思ったのだ。扉の前に、おにいちゃんがいるのが見える。
「なにし……」
声をかけようとしたら、羽交い締めにされた。
「ちょ、痛い。なに」
「いいから行くぞ」
おにいちゃんはそのまま私を連れて行こうとした。
「……でさ」
あ、五木先輩の声だ。私はおにいちゃんの腕を振り払う。かすかに開いた扉から、五木先輩と、多分三年生の女子がいるのが見えた。五木先輩はイーゼルの前に腰掛け、絵を描いている。女子は、机に座って、ぶらぶら足を揺らしている。
「ねえ、正樹《まさき》って意外とモテるよね」
「いきなり何」
「仲いいじゃない。あの、なんだっけ。川内さん?」
「別に。ただの後輩」
ただの、後輩。
「怪しいなあ」
「妬いてんの?」
五木先輩が、持っていた鉛筆を置いた。女子に唇を重ねる。先輩はそのまま、女子の身体を弄り始めた。
「ん、だめだよ……」
「いいじゃん、誰もこないって」
そこで目を塞がれた。そのまま、ずるずる引きずられる。気がついたら、駐車場に来ていた。私は、ぼんやりと車を見た。これ、おにいちゃんの車かな。なんだか二重に見える。
「車、持ってたの?」
「こないだ買った。さっさと乗れ、ばかぷに」
私は車に乗らずに、尋ねた。
「先輩に彼女いるって、知ってたの?」
「……知らねーよ。さっき初めて見た」
「なんで、言ってくれなかったの」
「だから、知らないって」
「笑ってたんだ。馬鹿みたいだって」
私は声を震わせた。
「おにいちゃんなんか、嫌いだ」
「俺に当たったって仕方ねえだろ」
そんなのわかってる。でも止まらなかった。
「パシリにするし、セクハラするし、大嫌い」
「うるさい」
おにいちゃんが私の頭を引き寄せた。
「黙って泣け」
私は、おにいちゃんのシャツにしがみついて泣いた。
とある日、いつものように焼きそばパンを手に席を立つと、
「ねえ、ふみ。昼休みどこ行ってんの?」
友人のはるかちゃんに問われ、私は目を瞬いた。
「え?」
「まさか、彼氏とか?」
私は慌ててかぶりを振った。
「違うよ。おに……明石先生に、パンを届けてるだけで」
「なんで?」
もっともな疑問だ。昔からの習慣でパシリしてる──とは言えない。
「明石先生、忙しいから……はは」
「そうなんだ~私も先生と話したいなー。一緒に行っていい?」
「え? うん、いいよ」
私は、はるかちゃんを連れて旧美術室へ向かった。
「先生がここで食べてるって聞いて、来ちゃいました」
そう言ったはるかちゃんを見て、おにいちゃんの目が一瞬怖くなる。ひいっ。おにいちゃんはすぐ笑顔に戻り、
「ああ、そうか。もちろんいいよ」
はるかちゃんはおにいちゃんの異変には気づかず、やったー、と喜んでいる。私の肩を抱き寄せ、おにいちゃんが囁く。
「おいおまえ。なにコブつけてきてんだ。他の生徒いたら安らげねーだろ」
「だってはるかちゃん、おにいちゃんと話したいって言うから」
「俺は話したくねーよ」
全然先生らしくない。
「ったく、次からは気をつけろ」
おにいちゃんは私の肩から腕を離し、席に戻った。はるかちゃんが身を乗り出して尋ねる。
「先生ってどんな子がタイプなんですかー?」
おにいちゃんは爽やか青年モードで答える。
「そうだな、優しい子かな」
絶対嘘だ。おにいちゃんは顔面九割、胸一割って昔からよく言っていた。猫かぶるから疲れるんじゃないのだろうか。ありのままでいればいいのに。私は、おにいちゃんとはるかちゃんのやりとりを見ながら、たくわんをかじった。
★
「あ、雨だ」
昇降口で靴を履き替えていた私は、外が暗くなっているのに気づいた。コンクリートが濡れて、色が濃くなっている。雨でも大丈夫。ちゃんと置き傘を持ってきているのだ。私が傘を開くと、隣にやってきた人物に、いきなり傘を奪われた。
「!?」
「すげー雨。駅まで入れてけよ」
「お、おにいちゃん」
私は、傘を取り返そうとした。おにいちゃんは頭上高く傘をあげる。
「やだ。家、駅のほうじゃないもん」
「はあ? 俺が濡れてもいいって言うのか」
おにいちゃんがほほを引っ張ってくる。
「わかったよ、いたいからやめて」
私は仕方なく、傘の中におにいちゃんを入れてあげた。おにいちゃんはそれでいいと言わんばかりにうなずく。お金あるんだし、傘くらい、購買で買えばいいのに。
置き傘なので、傘の中は窮屈だ。というか、さっきからはみ出した肩が濡れている。でも、おにいちゃんを押しのけたりしたら絶対大変なことになる。多分命はない。
「おまえもっと寄れよ。濡れるだろ」
おにいちゃんが肩を抱き寄せてくる。私は、おにいちゃんを見上げた。黒髪がかすかに雨に濡れている。長いまつげについた水滴が、ぴちゃん、と落ちた。黙ってたらかっこいいのに。私の視線に気づいたのか、こっちを見下ろして、目を細める。
「なに見とれてんの」
「見とれてないもん」
私はそっぽを向いた。いくらかっこよくても、おにいちゃんは性格が悪いからいやだ。
「見てただろ。正直に言え」
「見てたけど見とれてないもん」
「生意気だぞ、ぷに」
「ぷにじゃない、ふみです!」
言い合いをしていたら、向かいから男子高生の集団がやってきた。おにいちゃんが私を抱き寄せる。
「な、なに」
「透けてんだよ、ブラ」
「!」
私はびくりとした。おにいちゃんは鞄からジャージを取り出し、私に着せた。
「う」
「これでも着とけ」
おにいちゃんのだからぶかぶかだ。
「あ、ありがとう」
でも暑い……。駅にたどり着くと、おにいちゃんはここでいい、と言って傘から出た。改札前に女の人が立っているのが見える。こっちを見ているような気がした。
「あの人、こっち見てない?」
私がおにいちゃんに囁くと、
「俺の彼女」
「へ」
あの人が……すごい美人だ。目があったので会釈する。なぜだか視線をそらされた。
「じゃあな」
おにいちゃんは私に500円玉を渡した。なんだろう。お駄賃?
「雨ひどくなってきたから、バスで帰れ」
私の髪をくしゃ、と撫でて、彼女の方へ歩いて行った。
そうだ、おにいちゃんは昔からモテたんだ……。
そりゃあ、見た目はいいし、ごくたまに優しいこともある。だけど、やっぱり大抵は意地悪だ。付き合うなら、優しい人が一番。そう、五木先輩みたいな……。私はおにいちゃんに背を向け、バスに乗り込んだ。
★
翌日、私が登校すると、昇降口におにいちゃんが立っていた。「挨拶強化月間」というたすきをかけていた。なんというか、死んだ目をしている。目が合うと、無理矢理な笑みを浮かべた。
「おはよう、川内」
「おはようございます……」
なんだか、笑顔から威圧を感じた。すごく機嫌が悪いような気がする。多分、なんで俺がこんなダサいことをしなけりゃならないんだ、と思っているんだろう。
「なんだ、元気がないな。気持ちのいい朝は挨拶から始まるんだぞ」
「はあ」
笑ってない目でそんなこと言われても。
「あ、これ昨日のジャージ」
私がジャージを差し出すと、
「ありがとう(洗って返せよ。あ?)」
おにいちゃんが言葉の裏で威圧をしてくる。
「だ、だって乾かないと思って」
「確かに最近雨が多いからな(ちっ、仕方ねーな)」
解放された私は、おにいちゃんの機嫌をとるべく、いそいで購買に向かった。
おにいちゃんは、それ以降も変だった。お昼休みに焼きそばパンを届けたら、食っていいとか言うし、体育の時間、50メートル走をやれって言った後、ずっとぼーっとしてるし。明らかにおかしい。昨日、何かあったのだろうか。
「あ、あの、先生。タイム計測終わりました」
タイム表を手に声をかけたら、
「偉いなあ、川内は」
おにいちゃんが満面の笑みを浮かべ、わしわし頭を撫でてくる。私、犬かなにか? あと目が笑ってないから怖い。
「何かあったの?」
小声でそう尋ねたら、撫でる手を止めた。
「は?」
「だって、なんか変だよ」
「大人には色々あるんでちゅよ、ぷにちゃん」
おにいちゃんが、むぎゅむぎゅほほを押しつぶしてくる。こんなことする人が大人だとは思えないけど。
「ぷにじゃなくてふみだもん、うぐう」
視線を感じて振り向くと、はるかちゃんがこっちを見ていた。目が合うと、さっ、とそらす。
「?」
「あとは適当になんかしとけ」
「適当って」
おにいちゃんは私のほほを引っ張るのをやめ、黄昏始めた。多分何言ってもだめそうだ。私は仕方なく、みんなに自由時間だと伝えた。
授業後、はるかちゃんがおにいちゃんに声をかけた。
「先生! 私三角コーン片付けます!」
おにいちゃんは、いつもより覇気のない声で答えた。
「ああ、大丈夫。川内、頼む」
はるかちゃんがむっとする。私は体育倉庫にて、三角コーンを片付けながら言った。
「なんで私にやらせるの? はるかちゃん、やりたがってたのに」
おにいちゃんはマットの上に座り、タバコをくわえた。
「……おまえのさ、友達。はるまきちゃん?」
どんな間違え方なのだ。
「はるかちゃんだよ」
「それだよ。あのタイプはやばい。教育実習の時いたんだよな。やたらとアピールしてきて、二人きりになると迫る。拒絶されるとキレて泣く」
「はあ……」
「はあ、じゃねーよ。変な疑いかけられたら俺の教師生命終わりだからな」
「大変だね、先生って」
「まあな。だから労われよ」
「いたわる?」
「そうだよ。生徒はもっと教師をいたわるべきだ。教師の離職率の高さ知ってるか?」
労わるって、どうすればいいんだろう。私は三角コーンを置いて、おにいちゃんの頭を撫でた。
「……何してんだ?」
「労ってるの」
おにいちゃんは、上目遣いでこっちを見た。その腕が背中にまわる。ぎゅ、と抱きしめられて、私は固まる。
「!?」
「なんか、おまえいい匂いすんな」
「し……しません」
「胸、でかいし」
おにいちゃんの頭が、私の胸に当たった。
「あ」
「……やわらか」
「お、おにいちゃん、彼女いるんでしょ」
「振られた」
だから機嫌悪かったんだ。
「性格、悪いからだ、や」
おにいちゃんが、私の身体を引き寄せた。膝の上に座る形になる。
「おまえ、生意気だな。お仕置き」
おにいちゃんが私の耳を噛んだ。
「う」
柔らかく噛んで、なめる。私はびく、と震えた。
「せんせい、なのに、こんなことしたら、だめ、なんだから」
「あっそ」
おにいちゃんは関心なさげに言い、胸に手をすべらせる。やんわり揉まれて、私は息を詰めた。
「ふ」
「でかいな」
「でかく、ない」
胸を揉んでいた手が、体操着の下に滑り込んで来た。
「ひゃあ」
大きな手のひらが、お腹の柔らかい部分を撫でた。
「腹、ぷにぷに」
「や、だ」
ぞくっとして、私は身を縮める。なんでこんなこと。
「おまえのせいなんだよ」
「え」
「彼女。おまえの話したら、すげー機嫌悪くなったんだ」
なんで? だとしても、私のせいじゃないし。おにいちゃんは私の頭を引き寄せ、唇を合わせた。
「!?」
くちびる、やわらかい。ちょっと開いた口の中に、おにいちゃんの舌が入り込んでくる。うそ、なんで? 頭のなか、くらくらする。
大きな手のひらが、私の頭を撫でた。口の中、なんか、変。ちゅく、と水音がして、私は身体を震わせた。おにいちゃんは唇を離し、囁いた。
「エロい顔」
身体がふるえる。なんで。
「う、っ……」
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「お、い」
「ば、か、初めて、キス……」
私がしゃくりあげたら、
「泣くなよ。つーかそっちかよ」
おにいちゃんはため息をついて、私の目元をぬぐった。それから、唇もぬぐう。
「ん」
「嫌いなやつとのキスはカウントしなくていいんだよ」
「そ、なの?」
「ああ。だから泣くなよ」
そうか、よかった。私はホッと息を吐き、はっとした。
「よくないよ! いまの、全部セクハラだよ!」
「おせーよ。大丈夫かおまえ」
おにいちゃんはため息をついて、私を離した。三角コーンを拾い上げる。
「もういいよ。教室帰れ」
私は入り口で足を止め、おにいちゃんの背中に声をかけた。
「お、おにいちゃんは顔だけならかっこいいから、彼女できるよ」
「はいはい」
おにいちゃんは振り返らずに、ひらひら手を振った。
★
放課後、私は旧美術室へ向かった。五木先輩が絵を描いているかもしれない、と思ったのだ。扉の前に、おにいちゃんがいるのが見える。
「なにし……」
声をかけようとしたら、羽交い締めにされた。
「ちょ、痛い。なに」
「いいから行くぞ」
おにいちゃんはそのまま私を連れて行こうとした。
「……でさ」
あ、五木先輩の声だ。私はおにいちゃんの腕を振り払う。かすかに開いた扉から、五木先輩と、多分三年生の女子がいるのが見えた。五木先輩はイーゼルの前に腰掛け、絵を描いている。女子は、机に座って、ぶらぶら足を揺らしている。
「ねえ、正樹《まさき》って意外とモテるよね」
「いきなり何」
「仲いいじゃない。あの、なんだっけ。川内さん?」
「別に。ただの後輩」
ただの、後輩。
「怪しいなあ」
「妬いてんの?」
五木先輩が、持っていた鉛筆を置いた。女子に唇を重ねる。先輩はそのまま、女子の身体を弄り始めた。
「ん、だめだよ……」
「いいじゃん、誰もこないって」
そこで目を塞がれた。そのまま、ずるずる引きずられる。気がついたら、駐車場に来ていた。私は、ぼんやりと車を見た。これ、おにいちゃんの車かな。なんだか二重に見える。
「車、持ってたの?」
「こないだ買った。さっさと乗れ、ばかぷに」
私は車に乗らずに、尋ねた。
「先輩に彼女いるって、知ってたの?」
「……知らねーよ。さっき初めて見た」
「なんで、言ってくれなかったの」
「だから、知らないって」
「笑ってたんだ。馬鹿みたいだって」
私は声を震わせた。
「おにいちゃんなんか、嫌いだ」
「俺に当たったって仕方ねえだろ」
そんなのわかってる。でも止まらなかった。
「パシリにするし、セクハラするし、大嫌い」
「うるさい」
おにいちゃんが私の頭を引き寄せた。
「黙って泣け」
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