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せんせいと ぷにちゃん(1)
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「やっぱいい匂いするよな、おまえ」
明石のおにいちゃんが、私の耳たぶを軽く噛んだ。保健室のベッドの上で、おにいちゃんが私に覆いかぶさっている。プリーツのスカートがくしゃくしゃで、端っこがおにいちゃんの膝に当たってる。
黒髪が首筋をこすって、くすぐったい。私は、おにいちゃんのジャージを掴む。
「誰か、来ちゃう」
「誰かに見られたら、完全にクビだな」
おにいちゃんが、首から下がった笛を外す。
「クビになったら、パン屋でもやるわ」
おにいちゃんはそう言って、私に唇を重ねた。
明石のおにいちゃんは、私より六歳年上だ。昔近所に住んでいて、イケメンで、運動神経もよくて、頭もいいって有名だった。たまに、違う学区の女の子が、おにいちゃんに告白するために家まで来ていた。だけど、明石のおにいちゃんはとても性格が悪かった。今も、昔も。私はそれを、唯一知っていたのだ。
「 明石昴です。今日から皆さんに体育を教えます。よろしくお願いします」
目の前で爽やかに笑う人物を見て、私は思わず立ち上がった。なんで──!? なぜここに、明石のおにいちゃんが!? いきなり立ちあがった私を、周りが不可思議そうに見上げる。体育館の床に座った、クラスメイトの三十人。
「どうかしたの? ふみ」
友人のはるかちゃんが尋ねてくる。
「え、あ……な、なんでもない」
よろよろ座り込んだ私に、明石のおにいちゃんが目を向ける。彼は、私を認識するなり、一瞬悪魔みたいな顔になった。ひい。おにいちゃんは一瞬にして悪魔から爽やか青年に戻り、
「久しぶりだな、河内!」
私にそう声をかける。
「先生ー、川内さんと知り合いですか?」
「ああ、昔家が近所でなあ」
へー、そうなんだ。幼馴染ってやつ? 周りから声が聞こえてくる。いや、違う。そんないいものじゃない。言ってみれば、私はおにいちゃんのパシリだった。
「うらやましいなー、ふみ」
友人のはるかちゃんが羨望の眼差しを向けてくる。他の女子たちもリアクションは似ていて、
「ほんとほんと。あんなかっこいい幼馴染がいるなんて」
「近所にあんなお兄さんいたら、絶対初恋相手だよね」
みんな好き勝手なことを言っている。 たしかに、明石のおにいちゃんは見た目がいい。黒髪はさらさらで、手足が長くて、顔立ちも整っている。見た目だけなら、アイドルみたいだ。だけど心の中が真っ黒で、実は目が笑っていない。私はそれを知っている……。
「今日は挨拶がてら、みんなの実力を見せてもらおうかな」
おにいちゃんがそう言って、みんなに跳び箱を出すように指示した。私が跳び箱の七段目を運んでいたら、おにいちゃんがすっ、と近づいてきた。
「川内、後で話がある」
「へ」
顔をあげたら、笑ってない目と視線が合った。ひいっ。私は思わず、跳び箱を落としかける。
「さー、運べたかな? じゃあ出席番号順に飛んでみよう!」
跳び箱を並べ終えると、おにいちゃんは爽やかな笑顔を取り戻し、笛をピッ、と吹いた。なんだか、嘘くさい体操のおにいさんみたい。みんな列に並び、ぴょんぴょん跳び箱を飛んでいく。私はといえば、三段までしか飛べなかった。おにいちゃんとすれ違う際、はっきりとこう聞こえる。
「どんくせ」
思わず視線をあげたら、おにいちゃんが冷たい目でこちらを見ていた。が、
「はは、川内は跳び箱が苦手なんだなー!」
他の生徒がそばを通ると、作った声で頭をくしゃくしゃかき回される。周りからいいなー、という声が聞こえてきた。よくない。怖い。
授業を終えた私は、素早く更衣室に向かおうとした。が、伸びてきた腕に拘束される。
「おい、なに勝手に帰ろうとしてんだ」
おにいちゃんが低い声で耳元に囁く。ひい。
「ち、ちょっと用事が」
「うるせえ。後に回せ」
更衣室に向かう女子生徒たちから、声が飛んできた。
「せんせー、またねー!」
「ああ、また水曜日にな」
おにいちゃんは爽やかボイスでそう返した。女子たちはきゃーっ、と黄色い声を上げ、体育館から出ていく。おにいちゃんはその声をBGMに、私を体育館倉庫へ引きずっていった。
だれかたすけてー! そう叫ぶ間も無く、倉庫内に連れ込まれた。
おにいちゃんは倉庫に入るなり、だるそうに壁にもたれ、タバコをくわえた。校内は禁煙なのに。恐ろしくてそれを言う勇気はない。あ、あれよく見たら禁煙パイポだ。おにいちゃんは禁煙パイポを吸って、
「久しぶりだな、ぷにちゃん」
「ひ、久しぶり、おにいちゃん」
「でかくなったな」
おにいちゃんの目は私の胸元へ向いていた。私は慌てて胸元をかばう。
「どこを見てるの!?」
「まさかおまえがこの高校にいるとは。意外と頭いいんだな」
うちは県内では結構な進学校だ。
「お、おにいちゃんこそ、まさか先生になってるとは」
「就活すんの面倒だったし」
そんな理由!? 私はびくびくしながら尋ねる。
「は、話ってなに。私教室に戻らないと」
「すぐ終わるよ」
おにいちゃんは壁から背を離し、こちらへきた。私はひい、と悲鳴をあげ、壁にへばりついた。ばん、と顔の横に手がつく。
「ガキどもに人のことをベラベラ喋るんじゃねーぞ、ぷに」
おにいちゃんの、無駄にかっこいい顔が近づいてきた。私は顔をそらす。
「ぷにじゃないです。ふみです」
「じゃあブス」
「ぶ……ブスじゃないです。かわいいって、五木先輩は言ってくれたもん」
「は? 五木ひろし?」
「ひろしじゃないっ。とにかく、私は別に、おにいちゃんのこと言いふらす気ないし、関わる気もないから」
私は早口で言い、おにいちゃんの脇を通り抜けようとした。おにいちゃんが肩を抱き寄せてくる。
「ひい」
「なあ、ぷにちゃん。おにいちゃんは苦労して先生になったんだ。わかるよな?」
おにいちゃんが私のほおを突く。
「わ、わかってるよ」
「もし余計なこと話したら、わかってるよな?」
「わかってる……イタイイタイ!」
つつく指が早くなる。そのとき、チャイムが鳴り響いた。
「じゃあ、私は戻るから!」
私はおにいちゃんを押しのけ、扉から飛び出した。
★
明石のおにいちゃんと初めて出会ったのは、小学一年生のときだった。その頃彼は中学一年生で、よく通学路で一緒になった。
「おい、ぷに。おまえまた置いてかれたのかよ」
私はその頃太っていて、足が遅くて、よく通学団から置いてきぼりをくらった。小学一年生の私は、泣きべそをかいて頷いた。
「仕方ねーな、乗せてやる」
おにいちゃんは私を自転車の荷台に乗せ、学校まで連れて行ってくれた。これだけならいい思い出だ。しかし、おにいちゃんはこのことを恩に着せ、よく私をパシリに使った。
「おい、ぷに。焼きそばパン買ってこい」
自分でいけばいいのに、おにいちゃんは誰も来ない廃工場のベンチに寝そべり、私にパシリをさせた。そのパシリも、私が通学団についていけるようになった小学三年頃にはしなくてよくなったはずだった。
しかし、小学校の高学年になると、今度は同級生にいじめられるようになった。ランドセルを四つ抱えて歩く私から、高2のおにいちゃんはランドセルを奪い取った。
「俺以外にいじめられてんじゃねーよ」
そして、小学五年に対し、口にするのも恐ろしい報復を成し遂げた。それ以来いじめはなくなったが、あの時見た悪魔のような笑みが、今でも脳裏に焼き付いている。多分、かちかち山のうさぎはあんな顔をしていたに違いない。
おにいちゃんは決して私のために報復をしたわけではない。彼はその頃、生徒会長とテニス部の部長という二大ストレスを受けていたのだ。言ってみれば憂さ晴らしである。
高3になると、おにいちゃんは受験で忙しくなり、疎遠になった。そうして、県外の大学に見事合格。それ以来、まったく音沙汰なかったのだが。
まさか先生になっていたとは。教室に戻った私は、盛大にため息をついた。
「どうしたの、ふみ。でかいため息ね」
はるかちゃんが顔を覗き込んでくる。
「ううん、なんでもない」
私笑顔を見せ、弁当を取り出した。苦手な体育は終わったし、はるかちゃんと食べるお弁当の時間は私の癒しだ。いそいそと手を合わせる。
「いただきま」
ピンポンパンポーン。
「二年三組、川内ふみさん。至急職員室まで来てください」
いきなり自分の名前が呼ばれて、私は驚いた。なんだろう、呼び出されるようなことしたっけ。
「ちょっと行ってくるね」
私ははるかちゃんにそう断って、職員室に向かった。
職員室に入ると、おにいちゃんが手を挙げた。
「おう」
私は嫌な予感を覚えながら、おにいちゃんに近づいた。
「なに? いまごはん食べてたんだけど」
おにいちゃんは、私に500円玉を差し出した。
「焼きそばパン買ってこい」
「え!?」
まさか、そんなことのために校内放送を使ったのか。
「五分以内」
そう言われ、私は反射的に職員室を飛び出した。廊下を走りながら、頭のなかで疑問符を浮かべる。なんで? なんでまたパシリ? 私はもう女子高生で、おにいちゃんは社会人だというのに。
購買はすごく混んでいたけれど、私はなんとか焼きそばパンをゲットした。ぜいはあ言いながら職員室に戻ると、おにいちゃんが頭をくしゃくしゃ撫でた。
「おー、えらいえらい」
犬じゃないんだから。
「じゃ、じゃあね」
私は息を切らしながら、教室へ戻ろうとした。おにいちゃんが襟首を引っ張ってくる。
「おい、待て」
「うぐ」
「どっかに空き教室とかねーの?」
「旧美術室は、使ってないけど」
「連れてけ」
私、お昼ごはん食べたいんだけど。その主張は無視された。鍵を借りて、旧美術室へ向かう。便利が悪いから、物置になっている場所だ。
おにいちゃんは、誰もいない旧美術室を見回し、んー、と伸びをした。
「ここいいわ。落ち着く」
「せ、先生って職員室にいなきゃいけないんじゃないの?」
「あんなとこ休憩時間にいられねーよ」
そうですか……。
「じゃあ、私はこれで」
踵を返そうとしたら、
「おまえどこ行くの」
「だって、お弁当食べてないもん」
「仕方ねーな、半分やるよ」
おにいちゃんは、焼きそばパンを半分こにして、私に差し出した。いや、お弁当を食べに帰りたいんですけど。仕方なく焼きそばパンを咀嚼する。
「なあ、おまえ彼氏とかいないの」
私は、ごくりと焼きそばパンを飲み込んだ。
「い……いない」
「なんでいま溜めたんだよ」
「おにいちゃんこそ、彼女いないの?」
「いるよ」
いるんだ。まあ、当たり前か。おにいちゃんの彼女って、大変そう。それとも、彼女にも猫かぶってるのかな。多分、綺麗なひとなんだろうけど。私が焼きそばパンを食べていたら、がらりと教室の扉が開いた。扉の前に立っていた人物を見て、思わず椅子から立ち上がる。
「い、五木先輩!」
「あ、川内」
「どうしたんですか?」
「ちょっと絵が描きたくなって。使ってた?」
「い、いえ、もう空きますから!」
私はぐいぐいおにいちゃんの背中を押した。
「おい」
「じゃあ、先輩、失礼します」
「うん。ありがとな」
五木先輩が笑顔を浮かべた。素敵だ。
私はおにいちゃんを連れて、美術室を出た。先輩と話しちゃった。嬉しくてはにかんでいたら、おにいちゃんが目を細めてこっちを見ているのに気づく。
「ふーん」
「な、なに」
「ぷにちゃんはああいう男がタイプなんだ~ふーん」
やばい、弱みを握られた。
「べ、べつに、ちょっといいなって思ってるだけで」
「へえ~そうなんだ~」
おにいちゃんはにやにや笑っている。やな感じ。私はそそくさと歩き出した。
「も、もう戻るから」
おにいちゃんが声をかけてきた。
「また明日よろしく」
明日も!?
明石のおにいちゃんが、私の耳たぶを軽く噛んだ。保健室のベッドの上で、おにいちゃんが私に覆いかぶさっている。プリーツのスカートがくしゃくしゃで、端っこがおにいちゃんの膝に当たってる。
黒髪が首筋をこすって、くすぐったい。私は、おにいちゃんのジャージを掴む。
「誰か、来ちゃう」
「誰かに見られたら、完全にクビだな」
おにいちゃんが、首から下がった笛を外す。
「クビになったら、パン屋でもやるわ」
おにいちゃんはそう言って、私に唇を重ねた。
明石のおにいちゃんは、私より六歳年上だ。昔近所に住んでいて、イケメンで、運動神経もよくて、頭もいいって有名だった。たまに、違う学区の女の子が、おにいちゃんに告白するために家まで来ていた。だけど、明石のおにいちゃんはとても性格が悪かった。今も、昔も。私はそれを、唯一知っていたのだ。
「 明石昴です。今日から皆さんに体育を教えます。よろしくお願いします」
目の前で爽やかに笑う人物を見て、私は思わず立ち上がった。なんで──!? なぜここに、明石のおにいちゃんが!? いきなり立ちあがった私を、周りが不可思議そうに見上げる。体育館の床に座った、クラスメイトの三十人。
「どうかしたの? ふみ」
友人のはるかちゃんが尋ねてくる。
「え、あ……な、なんでもない」
よろよろ座り込んだ私に、明石のおにいちゃんが目を向ける。彼は、私を認識するなり、一瞬悪魔みたいな顔になった。ひい。おにいちゃんは一瞬にして悪魔から爽やか青年に戻り、
「久しぶりだな、河内!」
私にそう声をかける。
「先生ー、川内さんと知り合いですか?」
「ああ、昔家が近所でなあ」
へー、そうなんだ。幼馴染ってやつ? 周りから声が聞こえてくる。いや、違う。そんないいものじゃない。言ってみれば、私はおにいちゃんのパシリだった。
「うらやましいなー、ふみ」
友人のはるかちゃんが羨望の眼差しを向けてくる。他の女子たちもリアクションは似ていて、
「ほんとほんと。あんなかっこいい幼馴染がいるなんて」
「近所にあんなお兄さんいたら、絶対初恋相手だよね」
みんな好き勝手なことを言っている。 たしかに、明石のおにいちゃんは見た目がいい。黒髪はさらさらで、手足が長くて、顔立ちも整っている。見た目だけなら、アイドルみたいだ。だけど心の中が真っ黒で、実は目が笑っていない。私はそれを知っている……。
「今日は挨拶がてら、みんなの実力を見せてもらおうかな」
おにいちゃんがそう言って、みんなに跳び箱を出すように指示した。私が跳び箱の七段目を運んでいたら、おにいちゃんがすっ、と近づいてきた。
「川内、後で話がある」
「へ」
顔をあげたら、笑ってない目と視線が合った。ひいっ。私は思わず、跳び箱を落としかける。
「さー、運べたかな? じゃあ出席番号順に飛んでみよう!」
跳び箱を並べ終えると、おにいちゃんは爽やかな笑顔を取り戻し、笛をピッ、と吹いた。なんだか、嘘くさい体操のおにいさんみたい。みんな列に並び、ぴょんぴょん跳び箱を飛んでいく。私はといえば、三段までしか飛べなかった。おにいちゃんとすれ違う際、はっきりとこう聞こえる。
「どんくせ」
思わず視線をあげたら、おにいちゃんが冷たい目でこちらを見ていた。が、
「はは、川内は跳び箱が苦手なんだなー!」
他の生徒がそばを通ると、作った声で頭をくしゃくしゃかき回される。周りからいいなー、という声が聞こえてきた。よくない。怖い。
授業を終えた私は、素早く更衣室に向かおうとした。が、伸びてきた腕に拘束される。
「おい、なに勝手に帰ろうとしてんだ」
おにいちゃんが低い声で耳元に囁く。ひい。
「ち、ちょっと用事が」
「うるせえ。後に回せ」
更衣室に向かう女子生徒たちから、声が飛んできた。
「せんせー、またねー!」
「ああ、また水曜日にな」
おにいちゃんは爽やかボイスでそう返した。女子たちはきゃーっ、と黄色い声を上げ、体育館から出ていく。おにいちゃんはその声をBGMに、私を体育館倉庫へ引きずっていった。
だれかたすけてー! そう叫ぶ間も無く、倉庫内に連れ込まれた。
おにいちゃんは倉庫に入るなり、だるそうに壁にもたれ、タバコをくわえた。校内は禁煙なのに。恐ろしくてそれを言う勇気はない。あ、あれよく見たら禁煙パイポだ。おにいちゃんは禁煙パイポを吸って、
「久しぶりだな、ぷにちゃん」
「ひ、久しぶり、おにいちゃん」
「でかくなったな」
おにいちゃんの目は私の胸元へ向いていた。私は慌てて胸元をかばう。
「どこを見てるの!?」
「まさかおまえがこの高校にいるとは。意外と頭いいんだな」
うちは県内では結構な進学校だ。
「お、おにいちゃんこそ、まさか先生になってるとは」
「就活すんの面倒だったし」
そんな理由!? 私はびくびくしながら尋ねる。
「は、話ってなに。私教室に戻らないと」
「すぐ終わるよ」
おにいちゃんは壁から背を離し、こちらへきた。私はひい、と悲鳴をあげ、壁にへばりついた。ばん、と顔の横に手がつく。
「ガキどもに人のことをベラベラ喋るんじゃねーぞ、ぷに」
おにいちゃんの、無駄にかっこいい顔が近づいてきた。私は顔をそらす。
「ぷにじゃないです。ふみです」
「じゃあブス」
「ぶ……ブスじゃないです。かわいいって、五木先輩は言ってくれたもん」
「は? 五木ひろし?」
「ひろしじゃないっ。とにかく、私は別に、おにいちゃんのこと言いふらす気ないし、関わる気もないから」
私は早口で言い、おにいちゃんの脇を通り抜けようとした。おにいちゃんが肩を抱き寄せてくる。
「ひい」
「なあ、ぷにちゃん。おにいちゃんは苦労して先生になったんだ。わかるよな?」
おにいちゃんが私のほおを突く。
「わ、わかってるよ」
「もし余計なこと話したら、わかってるよな?」
「わかってる……イタイイタイ!」
つつく指が早くなる。そのとき、チャイムが鳴り響いた。
「じゃあ、私は戻るから!」
私はおにいちゃんを押しのけ、扉から飛び出した。
★
明石のおにいちゃんと初めて出会ったのは、小学一年生のときだった。その頃彼は中学一年生で、よく通学路で一緒になった。
「おい、ぷに。おまえまた置いてかれたのかよ」
私はその頃太っていて、足が遅くて、よく通学団から置いてきぼりをくらった。小学一年生の私は、泣きべそをかいて頷いた。
「仕方ねーな、乗せてやる」
おにいちゃんは私を自転車の荷台に乗せ、学校まで連れて行ってくれた。これだけならいい思い出だ。しかし、おにいちゃんはこのことを恩に着せ、よく私をパシリに使った。
「おい、ぷに。焼きそばパン買ってこい」
自分でいけばいいのに、おにいちゃんは誰も来ない廃工場のベンチに寝そべり、私にパシリをさせた。そのパシリも、私が通学団についていけるようになった小学三年頃にはしなくてよくなったはずだった。
しかし、小学校の高学年になると、今度は同級生にいじめられるようになった。ランドセルを四つ抱えて歩く私から、高2のおにいちゃんはランドセルを奪い取った。
「俺以外にいじめられてんじゃねーよ」
そして、小学五年に対し、口にするのも恐ろしい報復を成し遂げた。それ以来いじめはなくなったが、あの時見た悪魔のような笑みが、今でも脳裏に焼き付いている。多分、かちかち山のうさぎはあんな顔をしていたに違いない。
おにいちゃんは決して私のために報復をしたわけではない。彼はその頃、生徒会長とテニス部の部長という二大ストレスを受けていたのだ。言ってみれば憂さ晴らしである。
高3になると、おにいちゃんは受験で忙しくなり、疎遠になった。そうして、県外の大学に見事合格。それ以来、まったく音沙汰なかったのだが。
まさか先生になっていたとは。教室に戻った私は、盛大にため息をついた。
「どうしたの、ふみ。でかいため息ね」
はるかちゃんが顔を覗き込んでくる。
「ううん、なんでもない」
私笑顔を見せ、弁当を取り出した。苦手な体育は終わったし、はるかちゃんと食べるお弁当の時間は私の癒しだ。いそいそと手を合わせる。
「いただきま」
ピンポンパンポーン。
「二年三組、川内ふみさん。至急職員室まで来てください」
いきなり自分の名前が呼ばれて、私は驚いた。なんだろう、呼び出されるようなことしたっけ。
「ちょっと行ってくるね」
私ははるかちゃんにそう断って、職員室に向かった。
職員室に入ると、おにいちゃんが手を挙げた。
「おう」
私は嫌な予感を覚えながら、おにいちゃんに近づいた。
「なに? いまごはん食べてたんだけど」
おにいちゃんは、私に500円玉を差し出した。
「焼きそばパン買ってこい」
「え!?」
まさか、そんなことのために校内放送を使ったのか。
「五分以内」
そう言われ、私は反射的に職員室を飛び出した。廊下を走りながら、頭のなかで疑問符を浮かべる。なんで? なんでまたパシリ? 私はもう女子高生で、おにいちゃんは社会人だというのに。
購買はすごく混んでいたけれど、私はなんとか焼きそばパンをゲットした。ぜいはあ言いながら職員室に戻ると、おにいちゃんが頭をくしゃくしゃ撫でた。
「おー、えらいえらい」
犬じゃないんだから。
「じゃ、じゃあね」
私は息を切らしながら、教室へ戻ろうとした。おにいちゃんが襟首を引っ張ってくる。
「おい、待て」
「うぐ」
「どっかに空き教室とかねーの?」
「旧美術室は、使ってないけど」
「連れてけ」
私、お昼ごはん食べたいんだけど。その主張は無視された。鍵を借りて、旧美術室へ向かう。便利が悪いから、物置になっている場所だ。
おにいちゃんは、誰もいない旧美術室を見回し、んー、と伸びをした。
「ここいいわ。落ち着く」
「せ、先生って職員室にいなきゃいけないんじゃないの?」
「あんなとこ休憩時間にいられねーよ」
そうですか……。
「じゃあ、私はこれで」
踵を返そうとしたら、
「おまえどこ行くの」
「だって、お弁当食べてないもん」
「仕方ねーな、半分やるよ」
おにいちゃんは、焼きそばパンを半分こにして、私に差し出した。いや、お弁当を食べに帰りたいんですけど。仕方なく焼きそばパンを咀嚼する。
「なあ、おまえ彼氏とかいないの」
私は、ごくりと焼きそばパンを飲み込んだ。
「い……いない」
「なんでいま溜めたんだよ」
「おにいちゃんこそ、彼女いないの?」
「いるよ」
いるんだ。まあ、当たり前か。おにいちゃんの彼女って、大変そう。それとも、彼女にも猫かぶってるのかな。多分、綺麗なひとなんだろうけど。私が焼きそばパンを食べていたら、がらりと教室の扉が開いた。扉の前に立っていた人物を見て、思わず椅子から立ち上がる。
「い、五木先輩!」
「あ、川内」
「どうしたんですか?」
「ちょっと絵が描きたくなって。使ってた?」
「い、いえ、もう空きますから!」
私はぐいぐいおにいちゃんの背中を押した。
「おい」
「じゃあ、先輩、失礼します」
「うん。ありがとな」
五木先輩が笑顔を浮かべた。素敵だ。
私はおにいちゃんを連れて、美術室を出た。先輩と話しちゃった。嬉しくてはにかんでいたら、おにいちゃんが目を細めてこっちを見ているのに気づく。
「ふーん」
「な、なに」
「ぷにちゃんはああいう男がタイプなんだ~ふーん」
やばい、弱みを握られた。
「べ、べつに、ちょっといいなって思ってるだけで」
「へえ~そうなんだ~」
おにいちゃんはにやにや笑っている。やな感じ。私はそそくさと歩き出した。
「も、もう戻るから」
おにいちゃんが声をかけてきた。
「また明日よろしく」
明日も!?
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