ノア

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涙星

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 練習室について、先に演奏を始めたのは夏美だった。
 夏美の演奏は軽やかで、洗練されている。聴き終った明日香は感想を述べた。
「すごくいいんだけど、ちょっと軽いかな。あと、第二小節はもっと歌ったほうがいいと思う」
「そっかー、そうだね。なんか面白いね!」

 夏美は楽譜に明日香の言ったことを書き込みながら、屈託なく笑っている。さっきのことを引きずってはいないようだ。すごい精神力だなあ、と思いながら、明日香は夏美と交代した。

 明日香が弾き終わると、夏美が意見を言う。
「上手なんだけど、重たい感じがする。あと左手がちょっと主張しすぎかなあ」
 明日香は頭をかいた。
「うん、左手の運指が苦手で……」
「右利きだもんねえ、たいてい」
「そうなの。南雲さんは?」
「私? 私はね、左利きだったんだけど、矯正されたんだ」
 夏美は両手を握って見せた。

「今では両利き。へへ、ちょっと得した気分」
「両利きかあ、いいね」
「冬芽ちゃんはね、左利きなの。矯正されなかったんだって。そういうおうちもあるんだなって、私ちょっとびっくりしたんだけど」
「冬芽さんと、仲いいんだね」
「うん、小学校の時から友達なの。私ね、しゃべり方がアホみたいだって、よくバカにされてたんだあ」

 夏美は楽譜をなでながら、思い出すように目を細める。
「冬芽ちゃんはそんなことなかったんだ。ばかっていうほうがばかなんだって、言ってくれたの」
「いい子だね」
「そう、冬芽ちゃんは、すっごくいい子なんだ。だから絶対、合格させてあげたいの」
「でも、それだと南雲さんが」
「そうなんだ。どうしたらいいかなあ」
 夏美は困った顔をしていた。

「弾くしかないんじゃないかな」
 ノアは言っていた。ピアノを弾くことで、革命を起こすのだと。
「そう、だよね」
 夏美はうなずいて、ツインテールを揺らし、立ち上がった。気を取り直すようににこりと笑う。

「さあ、もう一回弾いてみよっ、よろしくねっ、千秋さん!」
「うん」
 明日香は微笑んで、夏美の演奏に耳を傾けた。







 第四回のテスト当日。明日香は緊張しながら試験会場に赴いた。
「あれ?」
 そこに集まっていた生徒たちを見回し、首をかしげる。人数が足りない気がする。数えてみるが、やはり八人しかいない。疑問に思っていると、教師たちが部屋に入ってきた。

森屋が口を開く。
「では、今からテストを始める。その前に一つ」
少し間を置き、
「桐嶋と藤沢が退学になった。よって、水瀬と滝沢は合格とする」
 春川が小さくまじかよ、とつぶやいた。
 冬芽が無表情で手を挙げる。
「どうしてその二人は退学になったんですか?」
「隠れて煙草を吸っていたようだ。ある生徒から報告があった」

 明日香はちら、と滝沢を見た。滝沢はその視線には応えず、口を開く。
「先生、約一名、不満に思っている生徒がいるようですが」
 視線が春川に集まった。彼はぶんぶん手を振る。
「え、俺、まじかよって言っただけじゃん」

 滝沢が口元を緩めた。
「こういうのはどうですか。もう一度くじを引きなおす」
 夏美がはじかれたように顔を上げた。その拍子に、ツインテールが揺れる。

「いいえ」
 冬芽が冷静な声で言った。
「このままの組み合わせを希望します」
「どうされますか、理事長」
 森屋が問うと、班目は爪をとぎながら、
「んー、じゃあ、タキザワとミナセでやればあ?」
 水瀬の顔色がさっと蒼くなった。

「そんな」
「俺はかまいません」
 滝沢の返答を聞いて、理事長は決まったとばかりに手をたたく。
「はい、じゃ、スタンバイして」

「水瀬」
 教師に声をかけられ、水瀬がピアノに向かう。動揺しているのか、何か所かミスタッチがあった。
「そこまで」
 中止の声が上がり、水瀬は悔しげにピアノから立ち上がった。
 次いで、滝沢の演奏が始まった。

 ラベルは「パヴァーヌ」を「つまらない曲だ」と自己評価していた。しかし、のちに記憶障害になった際、「この美しい曲を作ったのは誰だ」と尋ねたらしい。

 滝沢の演奏はラベルが望んだとおり、「感傷的になりすぎず」適度の切なさを伝えてきた。

「では次、春川」

 明日香ははっとして春川を見た。彼はピアノの前に座り、演奏を始める。
「アラベスク」のような超高速の演奏は見られなかった。ただし、多少技巧に頼りすぎていた部分が改善されて、抒情性をふくむ演奏になっていた。冬芽に「いい影響」を受けたのだろう。

 明日香はぎゅ、とこぶしを握り締め、深呼吸を繰り返す。落ち着いて、他の人は関係ない。自分がいい演奏をするだけだ……。
 中止の声はかからないまま、明日香の番になった。

 名前を呼ばれ、明日香は立ち上がった。ピアノの前に座り、時計を見る。通常のペースで弾けば、「パヴァーヌ」は六分半ほどの長さになる。

 夏美にこうしたほうがいい、と言われたアドヴァイスを思い出しつつ、鍵盤をたたく。

 非常に遠くから。

 冒頭部分の次のパートにはそういう指示がある。つい大きくなりがちな左を抑えつつ、遠くから、かすかに聞こえる靴音のように。そう念じながら音を奏でる。一つ音が飛んだ。仕方ない。これ以上のミスをしないことが大事なのだ。

 ついに「ストップ」の声はかからず、演奏は終了した。

 次いで、鹿島と酒井の演奏が行われる。だが明日香の意識は、夏美に向いていた。ずっとうつむいている。反対に、冬芽はまっすぐ前を向いていた。

「南雲」
 名前を呼ばれ、夏美が立ち上がる。冬芽が口を開いた。
「ちゃんとひかなかったら許さない」

 夏美ははっとしたように冬芽を見て、唇をかんだ。今にも泣きだしそうな表情に見える。明日香はハラハラと夏美を見た。

「南雲、早くしなさい」
 教師に言われ、夏美がピアノに向かっていった。椅子に座り、指を構える。なかなか弾きはじめない夏美に、教師が不審そうに尋ねた。

「どうした、南雲」
 その言葉に、ようやく鍵盤をたたき始める。
 優雅さに欠けた、たたきつけるようなパヴァーヌだった。夏美はいつも、バランスのいい、優等生的な演奏をする。

 夏美らしからぬ様子に、教師たちが不審そうな顔をする。まるでわざと失格になろうとしているみたいだった。

 ミスタッチが続き、教師が声を上げようとしたその時、いきなり冬芽が立ち上がった。

 すたすた歩いていき、夏美の頬を叩く。ぱあん、と乾いた音がして、明日香は息をのむ。おおう、と春川が声を上げた。

 森屋が冬芽をたしなめる。
「おい、冬芽、何をしてるんだ」
冬芽はそれに構わず、
「どいて、私が弾く」
 夏美はぽろぽろ涙をこぼしながら、席を立った。冬芽は夏美のかわりに席に座り、演奏を始める。

 しかし、冬芽が弾き始めたのは「パヴァーヌ」ではなかった。モーツァルト作曲、「きらきら星協奏曲」。

「おい、何の真似だ。やめなさい、冬芽」
 森屋は冬芽を停止しようとするが、班目がぴ、っと手を挙げた。
「まあ、いーじゃん、彼女たち最後だし」
 夏美は呆然とつぶやく。
「初めて、冬芽ちゃんと一緒に弾いた曲だ……」
 そうして、小さな声で歌いだす。

「きらきらひかる、おそらのほしよ。まばたきしては……」

「きらきら星」の平易な旋律をベースにしているが、「きらきら星協奏曲」は難曲だ。とっさに弾けること自体が優れた技巧を持っている証だ。

 不服気な教師たちと比べ、理事長は楽しそうに鼻歌を歌っている。
 冬芽が演奏を終えると、夏美が冬芽に抱きついた。
「冬芽ちゃんのばか! 自分だってちゃんと弾いてないじゃん!」
「あなたのせいよ、夏美。あなたが泣くから」

 冬芽は優しく夏美の頭をなでた。とたんにつまらなそうになった班目が、ぱん、と手をたたく。
「はいはい、安物のドラマみたいなことやってないで。発表ですよー」

 生徒たちはガタガタと椅子を片付け始める。春川はのんきな顔で言う。
「いやー、なんかえらくドラマチックだったねー、今回」
 明日香は寄り添っている冬芽と夏美に目をやる。
「そう、だね……」

 春川は明日香の視線を追い、苦笑いを浮かべた。
「まあ、俺らはどっちが勝っても恨みっこなしで」
「うん」
 教師たちが前に並び、生徒たちは恒例のごとく、部屋の中央へ集まる。

「では、今回の合格者を発表する」

 明日香は胸の前で手を組んだ。そうして祈る。お願いします、神様……
「滝沢、酒井、千秋」

 森屋はそこで言葉を切った。明日香は喜ぶと同時に、はっとして春川たちを見る。
「それともう一人。春川」
「え、俺?」

 春川が目を瞬いた。森屋は頷いて、言葉を続ける。
「冬芽と夏美は失格とする。理由を聞きたいか?」
 冬芽と南雲は二人して首を振った。水瀬がいらだった声を上げる。

「聞きたいです。どうして春川君が合格なのか」
「今回、そもそも二人欠場した。冬芽と南雲は失格。春川の合格は繰り上りだ」
「どうして私ではなく、春川君なんですか!?」
「簡単だ。君の演奏には進歩がない」
「進歩?」
「そうだ。春川は前回に比べ、感情表現を磨いてきた。技術面、感情表現において、君はまったく変わっていない。その違いだ」

 水瀬は悔しげに拳を握りしめた。森屋は淡々と告げる。
「失格および不合格になったものは荷物をまとめるように。では、解散」


「いやー、ラッキーラッキー、こんなこと、あるんだねー」
 昇降口にて、春川は陽気に言いながらノアを抱き上げる。明日香は冬芽と夏美を見た。
「でも、二人とも、残念だったね」
 夏美は首を振って、笑顔で冬芽を見る。
「いいの、自分たちのせいだもん、ね、冬芽ちゃん」
 冬芽もうなずいた。
「そうね、覚悟が足りなかったの。滝沢君風にいうなら」

 春川が視線を横に向け、おどけたように言う。
「おお、噂すれば影ありだ」

 滝沢が、鹿島と共に向こうから歩いてくる。荷物を担いだ鹿島が、立ち止まって言う。
「ここでいいよ」
 滝沢は微笑んで、
「元気で」
「うん、お前もな。絶対最優秀になれよ」
「ああ」
 鹿島は軽く微笑んで、背を向けざまに言う。

「こんなこというと軽蔑されるんだろうけど──俺も、お前みたいな才能がほしかったよ」

 その瞬間を、鹿島は見ていなかっただろう。滝沢は、ふっと無表情になった。何かをあきらめるような顔だ。

「じゃあな」
 そう言って、鹿島は手を挙げる。すでにいつもの微笑みを張り付けた顔を向け、滝沢は手を振った。

 照り付ける暑い日差しの下を、鹿島は歩いていく。
 日陰にいる滝沢が、なぜか羨望の表情を浮かべていて、明日香は妙な胸騒ぎを覚えた。滝沢は一体何を隠しているのだろう──。


 最優秀生徒決定まで、あと一試験。
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