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情熱
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明日香は、鼻歌を歌いながら庭を掃いていた。ノアが苦い顔をして現れる。
「おい明日香、いーかげんにしろよ」
「あ、ノア」
「あ、じゃねえ! お前、滝沢の演奏にポーッとなって帰ってきてるだけじゃねえか!一日練習しなけりゃ三日分損するんだぜ!」
しゃーっと爪を向けるノアに、明日香は抗議した。
「だ、だって、演奏は素敵だし、滝沢くんは優しいんだもん! 夢みたいなんだよ!」
「あんな薄ら笑いに優しくされて喜ぶな! 大体、お前が猫だから優しいんだろうよあいつはよ!」
「う」
胸をおさえた明日香に、ノアはなおも言い募る。
「本当は嫌われてんだろ? あ? 現実見ろよ明日香さんよ!」
「うう、ノアの意地悪」
「意地悪だあ? 俺はお前のためを思って言ってんだ!おら、猫パンチ!」
「いたた、やめて」
足首を猫パンチで攻撃され、明日香はぴょこぴょこしながらノアの攻撃を避ける。ばん、と窓が開き、顔を出した滝沢が笑顔で言う。
「うるさいんだけど」
「す、すすすいません」
明日香はびし、と背筋を伸ばして箒を握りしめる。滝沢の視線がノアに移った。ノアがしゃー、と威嚇する。
「なんだこらあ! やんのかうらあ!」
「猫って、なに食べる?」
「へ? えーと、キャットフード、ささみ……ちーかまは塩分多いからあんまりあげないけど好物だし」
「ふうん」
滝沢は相槌をうち、再び窓を閉める。なぜあんなことを聞くのだろう? 明日香が首を傾げていると、ノアが再び猫パンチしてきた。
「いて」
「お前も掃除終わらせて、さっさと練習しろ! これ以上俺様のジョブを食らいたくなきゃな!」
「わかってるよ……」
明日香は唇を尖らせ、足首を撫でた。
翌日、第三期の課題発表のため、明日香たちは音楽室に集められていた。ドアから教師たちが入ってきて、雑談が止む。しん、とした会場内に、森屋の声が響いた。
「三期の課題曲を発表する。ドビュッシーの『アラベスク』だ」
ざわざわと教室をざわめきが支配する。今までの課題曲に比べて平易だったためだろう。
どちらかといえば好きなタイプの曲だったため、明日香はホッと息をついた。ところが、教師がとんでもないことを言い出す。
「ただし、目をつむって弾いてもらう」
「!?」
よりざわめきが大きくなった。
「静かにしなさい。みんなも知っての通り、君たちにとっては簡単な曲だ。鍵盤を見ずとも弾けるくらいでないと困る。何か質問は?」
だらり、と手が上がる。春川だ。
「あのー、何の意味があるんすか?」
「意味は自分で考えなさい」
「ふぇ?」
教師は素っ頓狂な声をあげる春川を無視し、
「他に質問は」
手は上がらなかった。森屋はてきぱきと告げる。
「では解散」
教室を出て行く生徒たちは、ざわざわと話している。明日香はリュックに入ったノアに話しかけた。
「ねえ、ノア。どういうことだろ」
ノアはひげを揺らしながら言う。
「こういう妙なこと考えんのはアイツだろ」
明日香は「アイツ」の顔を思い浮かべた。
「あ、セーラ。どう、調子は」
理事長室の扉を開けると、ポテチを食べる班目が手を挙げた。
「はい、元気です」
「誰も体調のことなんか聞いてないんだけどぉ」
理事長が油のついた指で明日香のほおをつかんでくる。
「むぐ」
「まあいいやあ、なんか用」
明日香は、ハンカチで頬を拭きながらたずねる。
「えっと、アラベスク、目隠しで弾くように聞いたんですが、なんでですか?」
袋をざらざら鳴らしながら、班目が言う。
「なんでそんなこと僕に聞くの?」
「へ」
「答えるわけないじゃん。言われなかった? 自分で考えなさい、って」
「は、はい」
班目はポテチの袋を逆さまにふり、中身を口に入れた。もぐもぐ咀嚼し、
「確かに僕は君を気に入ってるよ。けどさあ、なんでも教えてもらえると思ったら大間違いなわけ。わかる?」
「……はい」
「あともう生徒に戻ったんだからここで弾かないでね」
理事長がぱん、とポテチの袋を潰した。明日香はその音にびくりとしてうなずく。
「はい」
「わかったら出てって。あとごみ捨てといて」
明日香はポテチの空袋を受け取って、すごすごとドアに向かった。閉まったドアをにらみつけ、ノアがぐるる、と喉を鳴らす。
「なんだあいつ、えらそーに」
「偉いんだよ、理事長だもん」
明日香はため息をつく。班目の気安い様子もあり、どこかで甘える気持ちがあったのかもしれない。特別扱いなど許されない。安心してもいられない。試験に落ちたら学院を去るのは、依然変わらないのだ。ノアがリュックからひょい、と首を伸ばした。
「ん、あいつ、どこ行くんだ」
明日香はノアの視線を追った。
「春川くん?」
窓の外を、ひょろっとした少年が通っていく。明日香は窓から顔を出し、春川の行く先を目で追った。
「あ」
あっちは確か、畑があるはずだ。おばあちゃんと暮らしていた頃は、時々畑を耕す手伝いをした。懐かしくなり、見に行こうと足を向ける。ノアがすかさず声を飛ばした。
「おい明日香、練習はっ」
「するよ、するけど、ちょっとだけ」
明日香は階段を下り、学院の外に出た。畑の方に向かって、ホースが伸びていた。歩いて行った先で、春川が水をやっている。彼は近づいていった明日香に顔を向け、
「ん? 千秋サンじゃん。ちーっす」
「畑、どう?」
「ん、まあまあ。最近暑いから、こまめにみずやんねーとね」
「何か手伝うことある?」
「草むしりかなあ。ってか、練習しなくていーの?」
「するけど」
「気ぃ抜いてると落ちるよー」
けけけ、と笑った春川から軍手を受け取り、明日香は草をむしる。
「ねえ、春川くん」
「ん?」
「山の下、どうなってた?」
「山の下?」
春川が顔をあげた。
「うちの田舎で、土砂崩れが起きたみたいで」
「ああ、ニュースでやってた、結構亡くなったって。もしかして、千秋サンも?」
「うん……おばあちゃんが」
明日香の答えに、春川がしんみりした口調になる。
「そっか、そりゃ、災難だったな」
「うん……」
「今の時代水害なんて当たり前だけど、なぜかみんな、自分だけは大丈夫だって思ってるんだよなあ」
「そうだね」
明日香は足もとを流れていく水を見た。水がなきゃ生きていけないのに、水に殺されることもある。
春川は水を止め、ホースをたぐりながら言う。
「でさあ、どーやったら残れんのか教えてよ、ノア」
草むらのバッタを狩っていたノアが、気もそぞろで答える。
「ああ? 練習あるのみだ」
「猫耳あればうまくなるんでしょ? チョーダイよ」
ねっ、と拝んで見せた春川に、ノアがあきれた声を出す。
「お前プライドとかねーのか」
「ナイ」
ノアがため息をつき、ちょいちょい、と春川を手招いた。春川はわーい、と言いながら屈む。ノアの前足が、彼の額にびしりとヒットした。
「あいて」
春川は額をおさえ、次いで頭に手をやる。ぴくぴく動いている猫耳に触れ、彼は顔を輝かせた。
「おー」
感嘆した春川に対し、ノアがけ、っと顎をそらす。
「やろーの猫耳なんざきもちわりーだけだな」
明日香は曖昧に笑う。
「か、かわいい、よ」
「しかし、マジでうまくなんの?」
春川の問いに、ノアが答える。
「パッションがあればな」
「クッション?」
とぼける春川に、ノアは苦い顔をした。
「こいつ、ねえな」
「ま、いいや、試しにひいてこよー。じゃね、千秋サン」
春川はひらひら手を振りながら、校舎内に消えた。ノアは、バッタを逃して舌打ちしている。こちらを見上げ、
「ほら明日香、お前も弾けよ」
「でも草が……」
「草なんざほっときな!」
ジャンプしたノアが、明日香の後頭部を強く叩く。
「にゃっ」
明日香はぼん、と音を立て、猫に変化した。
「あ、やべ」
ノアが慌てていると、ふっ、と頭上が陰った。見上げると、滝沢が立っている。明日香は内心悲鳴を上げた。
「こんなところにいたのか」
そう言った滝沢は、ノアと明日香を見比べる。そして、足元に落ちた制服に目をやった。
「?」
やばい。明日香がオロオロしていると、滝沢が制服を拾い上げ、明日香も抱き上げた。足元でノアがにゃーにゃー鳴いている。
「これじゃ汚れて着られないな」
そう言った滝沢は、明日香を見てにこりと笑った。
「俺の服を貸そうか? 千秋さん」
「ばれた……」
女子更衣室でジャージに着替えた明日香は、がくりと膝をついていた。ノアがこちらを見上げ、平坦な声で言う。
「そこまでへこむか?」
「もう演奏聞きにいけない……」
「だからあ、人の演奏聞いてる暇あったら練習しろっての!」
ノアが猫パンチをさく裂させる。
「いてっ、そうだね……」
明日香は、パンチされた腕を撫でた。
(これでよかったのかもしれない。演奏を聴いてるだけじゃうまくはならないんだから)
明日香はノアをリュックに入れ、職員室へと向かった。受付にいた事務員に尋ねる。
「すいません、練習室空いてますか」
「あら、さっき埋まっちゃったわよ。音楽室も使ってるみたい」
「そ、そうですか」
理事長室も使うなと言われたし、どうしよう。
項垂れた明日香は、はっとする。
「あ、そうだ、寮のピアノを使えばいいんだ」
職員室を出て、寮への道を歩く。葉がさわさわと鳴っていた。見上げると、木漏れ日がきらきら輝いている。こんな風景が、アラベスクの曲はあっていると思う。
演奏を聞いた人が、こんな映像を思い浮かべられるように弾きたい。
──ああ、早く弾きたくなってきた。明日香は寮に向かって走り出した。
「うおい、揺らすなよ」
ノアが背後で文句を言っているが、聞き流して寮のエントランスに走りこんだ。食堂から出てきた静乃が、不思議そうに明日香を見る。
「あらあ、そんなに慌ててどうしたの、明日香ちゃん」
「あの、ロビーのピアノ弾いてもいいですか」
息を弾ませてピアノを指さすと、静乃がにこりと笑った。
「ええ、もちろんよ」
ノアの入ったリュックをおろし、楽譜入れから楽譜を取り出す。譜面台に置いて、弾き始めた。最初は普通に弾く。次は目をつむって。
やはり、慣れないうちはつい目を開けて鍵盤を確認してしまう。暗譜はもちろんのこと、ポジショニングも完璧にしなければならないのだ。
一時間ほど練習をしたころ、盆を持った静乃が声をかけてきた。
「明日香ちゃん、休憩しない?」
「あ、ありがとうございます」
明日香はソファに腰かけ、カップを手にした。静乃が砂糖を入れながら問う。
「ところで、どうして目を閉じて練習してたの?」
明日香は紅茶を一口飲んで、肩をすくめる。
「実は、次の課題、目を閉じて弾かなきゃいけないんです」
静乃は目を瞬く。
「まあ、そうなの?」
「はい」
明日香は皿にもられたクッキーをとる。ノアは、足元でがつがつと動物用のクッキーを食べていた。明日香はその様子にくすりと笑い、クッキーをかじる。
滝沢がエントランスに入ってきたのをみて、びくりとする。
「た、滝沢君」
「余裕だね」
明日香は思わず食べかけのクッキーを背後に隠す。
「ち、違うの。あの、休憩中で」
静乃が笑顔でクッキーを差し出す。
「滝沢君も食べる?」
「いえ、課題がありますから。一ついただいていいですか」
長い指がクッキーをつまむ。そうして彼は、こちらを一瞥もせず歩いていった。明日香はぐう、とうなだれる。と同時に、猫耳が萎れた。静乃がその様子に首を傾げ、尋ねる。
「何かあったの?」
「ええと……」
明日香は言葉を濁しながら、先ほどの出来事を説明した。静乃はうなずきながら聞いていたが、くすりと笑った。
「ああ、それでね」
「え?」
「滝沢くんが、ツナ缶ありますか、なんて聞くから。あなたにあげるつもりだったのね」
「私と言うよりかは、猫に」
「彼は悪い子じゃないとおもうわよ。似たタイプを知ってるの」
「似たタイプ、ですか?」
「班目理事長」
明日香は二人を思い浮かべ、首をかしげた。
「似て……ますかね?」
「ええ、似てるの。自分にはピアノしかないと思ってるところが」
「静乃さんって、理事長のこと、詳しいんですか」
「どうかしら」
はぐらかすように言って、静乃はまたクッキーをつまんだ。
「おい明日香、いーかげんにしろよ」
「あ、ノア」
「あ、じゃねえ! お前、滝沢の演奏にポーッとなって帰ってきてるだけじゃねえか!一日練習しなけりゃ三日分損するんだぜ!」
しゃーっと爪を向けるノアに、明日香は抗議した。
「だ、だって、演奏は素敵だし、滝沢くんは優しいんだもん! 夢みたいなんだよ!」
「あんな薄ら笑いに優しくされて喜ぶな! 大体、お前が猫だから優しいんだろうよあいつはよ!」
「う」
胸をおさえた明日香に、ノアはなおも言い募る。
「本当は嫌われてんだろ? あ? 現実見ろよ明日香さんよ!」
「うう、ノアの意地悪」
「意地悪だあ? 俺はお前のためを思って言ってんだ!おら、猫パンチ!」
「いたた、やめて」
足首を猫パンチで攻撃され、明日香はぴょこぴょこしながらノアの攻撃を避ける。ばん、と窓が開き、顔を出した滝沢が笑顔で言う。
「うるさいんだけど」
「す、すすすいません」
明日香はびし、と背筋を伸ばして箒を握りしめる。滝沢の視線がノアに移った。ノアがしゃー、と威嚇する。
「なんだこらあ! やんのかうらあ!」
「猫って、なに食べる?」
「へ? えーと、キャットフード、ささみ……ちーかまは塩分多いからあんまりあげないけど好物だし」
「ふうん」
滝沢は相槌をうち、再び窓を閉める。なぜあんなことを聞くのだろう? 明日香が首を傾げていると、ノアが再び猫パンチしてきた。
「いて」
「お前も掃除終わらせて、さっさと練習しろ! これ以上俺様のジョブを食らいたくなきゃな!」
「わかってるよ……」
明日香は唇を尖らせ、足首を撫でた。
翌日、第三期の課題発表のため、明日香たちは音楽室に集められていた。ドアから教師たちが入ってきて、雑談が止む。しん、とした会場内に、森屋の声が響いた。
「三期の課題曲を発表する。ドビュッシーの『アラベスク』だ」
ざわざわと教室をざわめきが支配する。今までの課題曲に比べて平易だったためだろう。
どちらかといえば好きなタイプの曲だったため、明日香はホッと息をついた。ところが、教師がとんでもないことを言い出す。
「ただし、目をつむって弾いてもらう」
「!?」
よりざわめきが大きくなった。
「静かにしなさい。みんなも知っての通り、君たちにとっては簡単な曲だ。鍵盤を見ずとも弾けるくらいでないと困る。何か質問は?」
だらり、と手が上がる。春川だ。
「あのー、何の意味があるんすか?」
「意味は自分で考えなさい」
「ふぇ?」
教師は素っ頓狂な声をあげる春川を無視し、
「他に質問は」
手は上がらなかった。森屋はてきぱきと告げる。
「では解散」
教室を出て行く生徒たちは、ざわざわと話している。明日香はリュックに入ったノアに話しかけた。
「ねえ、ノア。どういうことだろ」
ノアはひげを揺らしながら言う。
「こういう妙なこと考えんのはアイツだろ」
明日香は「アイツ」の顔を思い浮かべた。
「あ、セーラ。どう、調子は」
理事長室の扉を開けると、ポテチを食べる班目が手を挙げた。
「はい、元気です」
「誰も体調のことなんか聞いてないんだけどぉ」
理事長が油のついた指で明日香のほおをつかんでくる。
「むぐ」
「まあいいやあ、なんか用」
明日香は、ハンカチで頬を拭きながらたずねる。
「えっと、アラベスク、目隠しで弾くように聞いたんですが、なんでですか?」
袋をざらざら鳴らしながら、班目が言う。
「なんでそんなこと僕に聞くの?」
「へ」
「答えるわけないじゃん。言われなかった? 自分で考えなさい、って」
「は、はい」
班目はポテチの袋を逆さまにふり、中身を口に入れた。もぐもぐ咀嚼し、
「確かに僕は君を気に入ってるよ。けどさあ、なんでも教えてもらえると思ったら大間違いなわけ。わかる?」
「……はい」
「あともう生徒に戻ったんだからここで弾かないでね」
理事長がぱん、とポテチの袋を潰した。明日香はその音にびくりとしてうなずく。
「はい」
「わかったら出てって。あとごみ捨てといて」
明日香はポテチの空袋を受け取って、すごすごとドアに向かった。閉まったドアをにらみつけ、ノアがぐるる、と喉を鳴らす。
「なんだあいつ、えらそーに」
「偉いんだよ、理事長だもん」
明日香はため息をつく。班目の気安い様子もあり、どこかで甘える気持ちがあったのかもしれない。特別扱いなど許されない。安心してもいられない。試験に落ちたら学院を去るのは、依然変わらないのだ。ノアがリュックからひょい、と首を伸ばした。
「ん、あいつ、どこ行くんだ」
明日香はノアの視線を追った。
「春川くん?」
窓の外を、ひょろっとした少年が通っていく。明日香は窓から顔を出し、春川の行く先を目で追った。
「あ」
あっちは確か、畑があるはずだ。おばあちゃんと暮らしていた頃は、時々畑を耕す手伝いをした。懐かしくなり、見に行こうと足を向ける。ノアがすかさず声を飛ばした。
「おい明日香、練習はっ」
「するよ、するけど、ちょっとだけ」
明日香は階段を下り、学院の外に出た。畑の方に向かって、ホースが伸びていた。歩いて行った先で、春川が水をやっている。彼は近づいていった明日香に顔を向け、
「ん? 千秋サンじゃん。ちーっす」
「畑、どう?」
「ん、まあまあ。最近暑いから、こまめにみずやんねーとね」
「何か手伝うことある?」
「草むしりかなあ。ってか、練習しなくていーの?」
「するけど」
「気ぃ抜いてると落ちるよー」
けけけ、と笑った春川から軍手を受け取り、明日香は草をむしる。
「ねえ、春川くん」
「ん?」
「山の下、どうなってた?」
「山の下?」
春川が顔をあげた。
「うちの田舎で、土砂崩れが起きたみたいで」
「ああ、ニュースでやってた、結構亡くなったって。もしかして、千秋サンも?」
「うん……おばあちゃんが」
明日香の答えに、春川がしんみりした口調になる。
「そっか、そりゃ、災難だったな」
「うん……」
「今の時代水害なんて当たり前だけど、なぜかみんな、自分だけは大丈夫だって思ってるんだよなあ」
「そうだね」
明日香は足もとを流れていく水を見た。水がなきゃ生きていけないのに、水に殺されることもある。
春川は水を止め、ホースをたぐりながら言う。
「でさあ、どーやったら残れんのか教えてよ、ノア」
草むらのバッタを狩っていたノアが、気もそぞろで答える。
「ああ? 練習あるのみだ」
「猫耳あればうまくなるんでしょ? チョーダイよ」
ねっ、と拝んで見せた春川に、ノアがあきれた声を出す。
「お前プライドとかねーのか」
「ナイ」
ノアがため息をつき、ちょいちょい、と春川を手招いた。春川はわーい、と言いながら屈む。ノアの前足が、彼の額にびしりとヒットした。
「あいて」
春川は額をおさえ、次いで頭に手をやる。ぴくぴく動いている猫耳に触れ、彼は顔を輝かせた。
「おー」
感嘆した春川に対し、ノアがけ、っと顎をそらす。
「やろーの猫耳なんざきもちわりーだけだな」
明日香は曖昧に笑う。
「か、かわいい、よ」
「しかし、マジでうまくなんの?」
春川の問いに、ノアが答える。
「パッションがあればな」
「クッション?」
とぼける春川に、ノアは苦い顔をした。
「こいつ、ねえな」
「ま、いいや、試しにひいてこよー。じゃね、千秋サン」
春川はひらひら手を振りながら、校舎内に消えた。ノアは、バッタを逃して舌打ちしている。こちらを見上げ、
「ほら明日香、お前も弾けよ」
「でも草が……」
「草なんざほっときな!」
ジャンプしたノアが、明日香の後頭部を強く叩く。
「にゃっ」
明日香はぼん、と音を立て、猫に変化した。
「あ、やべ」
ノアが慌てていると、ふっ、と頭上が陰った。見上げると、滝沢が立っている。明日香は内心悲鳴を上げた。
「こんなところにいたのか」
そう言った滝沢は、ノアと明日香を見比べる。そして、足元に落ちた制服に目をやった。
「?」
やばい。明日香がオロオロしていると、滝沢が制服を拾い上げ、明日香も抱き上げた。足元でノアがにゃーにゃー鳴いている。
「これじゃ汚れて着られないな」
そう言った滝沢は、明日香を見てにこりと笑った。
「俺の服を貸そうか? 千秋さん」
「ばれた……」
女子更衣室でジャージに着替えた明日香は、がくりと膝をついていた。ノアがこちらを見上げ、平坦な声で言う。
「そこまでへこむか?」
「もう演奏聞きにいけない……」
「だからあ、人の演奏聞いてる暇あったら練習しろっての!」
ノアが猫パンチをさく裂させる。
「いてっ、そうだね……」
明日香は、パンチされた腕を撫でた。
(これでよかったのかもしれない。演奏を聴いてるだけじゃうまくはならないんだから)
明日香はノアをリュックに入れ、職員室へと向かった。受付にいた事務員に尋ねる。
「すいません、練習室空いてますか」
「あら、さっき埋まっちゃったわよ。音楽室も使ってるみたい」
「そ、そうですか」
理事長室も使うなと言われたし、どうしよう。
項垂れた明日香は、はっとする。
「あ、そうだ、寮のピアノを使えばいいんだ」
職員室を出て、寮への道を歩く。葉がさわさわと鳴っていた。見上げると、木漏れ日がきらきら輝いている。こんな風景が、アラベスクの曲はあっていると思う。
演奏を聞いた人が、こんな映像を思い浮かべられるように弾きたい。
──ああ、早く弾きたくなってきた。明日香は寮に向かって走り出した。
「うおい、揺らすなよ」
ノアが背後で文句を言っているが、聞き流して寮のエントランスに走りこんだ。食堂から出てきた静乃が、不思議そうに明日香を見る。
「あらあ、そんなに慌ててどうしたの、明日香ちゃん」
「あの、ロビーのピアノ弾いてもいいですか」
息を弾ませてピアノを指さすと、静乃がにこりと笑った。
「ええ、もちろんよ」
ノアの入ったリュックをおろし、楽譜入れから楽譜を取り出す。譜面台に置いて、弾き始めた。最初は普通に弾く。次は目をつむって。
やはり、慣れないうちはつい目を開けて鍵盤を確認してしまう。暗譜はもちろんのこと、ポジショニングも完璧にしなければならないのだ。
一時間ほど練習をしたころ、盆を持った静乃が声をかけてきた。
「明日香ちゃん、休憩しない?」
「あ、ありがとうございます」
明日香はソファに腰かけ、カップを手にした。静乃が砂糖を入れながら問う。
「ところで、どうして目を閉じて練習してたの?」
明日香は紅茶を一口飲んで、肩をすくめる。
「実は、次の課題、目を閉じて弾かなきゃいけないんです」
静乃は目を瞬く。
「まあ、そうなの?」
「はい」
明日香は皿にもられたクッキーをとる。ノアは、足元でがつがつと動物用のクッキーを食べていた。明日香はその様子にくすりと笑い、クッキーをかじる。
滝沢がエントランスに入ってきたのをみて、びくりとする。
「た、滝沢君」
「余裕だね」
明日香は思わず食べかけのクッキーを背後に隠す。
「ち、違うの。あの、休憩中で」
静乃が笑顔でクッキーを差し出す。
「滝沢君も食べる?」
「いえ、課題がありますから。一ついただいていいですか」
長い指がクッキーをつまむ。そうして彼は、こちらを一瞥もせず歩いていった。明日香はぐう、とうなだれる。と同時に、猫耳が萎れた。静乃がその様子に首を傾げ、尋ねる。
「何かあったの?」
「ええと……」
明日香は言葉を濁しながら、先ほどの出来事を説明した。静乃はうなずきながら聞いていたが、くすりと笑った。
「ああ、それでね」
「え?」
「滝沢くんが、ツナ缶ありますか、なんて聞くから。あなたにあげるつもりだったのね」
「私と言うよりかは、猫に」
「彼は悪い子じゃないとおもうわよ。似たタイプを知ってるの」
「似たタイプ、ですか?」
「班目理事長」
明日香は二人を思い浮かべ、首をかしげた。
「似て……ますかね?」
「ええ、似てるの。自分にはピアノしかないと思ってるところが」
「静乃さんって、理事長のこと、詳しいんですか」
「どうかしら」
はぐらかすように言って、静乃はまたクッキーをつまんだ。
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きっと彼が、私の求める答えを持っている。そう信じて。
ヤマネ姫の幸福論
ふくろう
青春
秋の長野行き中央本線、特急あずさの座席に座る一組の男女。
一見、恋人同士に見えるが、これが最初で最後の二人の旅行になるかもしれない。
彼らは霧ヶ峰高原に、「森の妖精」と呼ばれる小動物の棲み家を訪ね、夢のように楽しい二日間を過ごす。
しかし、運命の時は、刻一刻と迫っていた。
主人公達の恋の行方、霧ヶ峰の生き物のお話に添えて、世界中で愛されてきた好編「幸福論」を交え、お読みいただける方に、少しでも清々しく、優しい気持ちになっていただけますよう、精一杯、書いてます!
どうぞ、よろしくお願いいたします!

【完結まで毎日更新】籐球ミットラパープ
四国ユキ
青春
主人公・阿河彩夏(あがわあやか)は高校入学と同時にセパタクロー部から熱烈な勧誘を受ける。セパタクローとはマイナースポーツの一種で、端的に言うと腕を使わないバレーボールだ。
彩夏は見学に行った時には入部する気はさらさらなかったが、同級生で部員の千屋唯(せんやゆい)の傲慢で尊大な態度が気に食わず、売り言葉に買い言葉で入部してしまう。
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