乙女の涙と悪魔の声

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幸福

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  バアルは椅子の背にもたれ、「あるところに」と口を開いた。

「こぐまのきょうだいがいた。彼らは親を失い、二人きりで暮らしていた。その土地ではくまが神として崇められていたが、時代の流れで、狩猟されることに決まった。猟師はくまのきょうだいの片方──兄を殺し、毛皮を剥いだ」
 美しい声で、バラムは語る。レイチェルはしれず、話に引き込まれた。

「残されたこぐまは、兄が死んだことを知らなかった。兄が戻ってくるのを待って、一晩中穴倉の前で待った。冬眠の時期だったから、こぐまは死んでしまった」
 ──そのこぐまは、バラム?

「死んだこぐまは、神に兄と会わせてくれと願った。神はこぐまを天使にして、地上に戻した。こぐまは兄に再会した」
 バアルの手が、レイチェルのかぶっている帽子に触れた。
「この姿になった兄を見た」
 レイチェルは息を飲んだ。

「こぐまの心は怒りと憎しみに飲み込まれた。所有者の人間を殺し、兄の帽子を持って、天界に戻った」
 バアルは帽子を撫でながら言う。
「神は人間を殺したこぐまを許しはせず、こぐまをバビロンに堕とした。その時に、帽子はどこかに行ってしまった」

「悪魔になったこぐまは帽子を探してバビロンをさまよった。帽子を持っていたのは別の悪魔だった。仕えれば帽子を返してもらえると知って、こぐまはその悪魔にこき使われた。帽子を返してもらうためだけに、悪事を働き、人を殺した」
 胸が痛んで、レイチェルはぎゅっ、と手を握りしめた。
「そして、その悪魔すら殺したこぐまは、ソロモンに封印され、七十二柱に名を連ねるようになった。今は帽子を僕が所有しているから、僕になついている」

 レイチェルの頬を、涙が伝った。だから、バアルは帽子を被ったレイチェルにしがみついたのだ。兄のにおいがしたから。
「そんなの、ひどいわ」
「ひどいって?」
「帽子を返してあげて」
「バラムは君が思うよりずっと危険な悪魔なんだ。封印の順番が来たら必ず指輪へ戻す」

 レイチェルは顔を上げた。
「バラムを封印するの?」
「例外はない。すべての悪魔を封印する」
 僕自身も。バアルはそう言って、レイチェルの涙を指先でぬぐいとり、小瓶に落とす。
「やっぱり君はすぐに泣く」
  差し出されたハンカチを受け取り、目元にあてた。
「あなたが泣かせたんじゃない」
 その時、バラムがとことこ部屋に入ってきた。泣いているレイチェルを見て、わたわたと慌てる。

「なんでもないの」
 レイチェルはそう言って微笑んだ。
「片付けに来てくれたの? ありがとう」
 バラムに盆を差し出すレイチェルを、バアルがじっと見ていた。


 その夜、レイチェルは階段で膝を抱えていた。
 バラムにあんな過去があったなんて。あの子は人間に不信感を持っているんだ。かわいそうだなんて思うのは、レイチェルのエゴだろう。バラムにとっては、人間はみんな、兄を殺した憎い相手なのだ。

 とと、と足音がして、レイチェルはそちらを見た。
「あ」
 黒い犬が、階段を登ってきたのだ。
「あなた、どこにいたの? 全然見かけなかったけど」
 犬はレイチェルの足元まできて、膝に顎を乗せた。頭を撫でると、目を細めて尻尾を振る。
「ねえ、あなたも悪魔なの?」
 そう問うと、犬は首をかしげる。レイチェルは苦笑した。犬に言葉が通じるわけはないか。バベルの塔も、さすがに犬の鳴き声までは翻訳してくれないようだ。

 ふと、階段の影にもこもこしたものがあるのに気づいて、レイチェルは声をかけた。
「バラム?」
 影はびくりとして、手すりの陰からそろそろと顔を覗かせる。つぶらな瞳が、レイチェルと犬を見比べていた。帽子をかぶっていないから、寄ってこないのだろう。そう思ったら、胸が痛んだ。

 無理に近づいて、怖がられたくはない。バラムは人間を怖がっているのだ……目を伏せると、犬がぺろりとレイチェルの顔を舐めた。
「きゃっ、やだ、くすぐったい」
 レイチェルが笑っていると、バラムが目を丸くして階段のへりに手をかけた。恐る恐る、こちらに登ってくる。犬がバラムの襟首をくわえ、レイチェルの前に連れてきた。バラムはわたわた慌てながら、視線をあちこちに彷徨わせている。

「触っても、いい?」
 レイチェルが尋ねると、バラムはおどおどしながらうなずいた。
 手を伸ばすと、びくりと震える。レイチェルはそっとバラムの頭を撫でた。バラムは人形のように固まっていたが、レイチェルの手が離れると、ばねのように後ろに下がり、転がるように去って行った。レイチェルはそれを見送り、やわらかい感触が残る手のひらを見つめた。

「やっぱり、ふわふわだわ」
 ふふ、と笑うと、犬が膝に顎を乗せてきた。
「え? なに?」
 レイチェルが問うと、わん、と吠える。撫でろってことだろうか。
「あなたもかわいいわよ」
 そう言って頭を撫でると、嬉しそうに尻尾を振った。

「そうだ、今日、一緒に寝る?」
 レイチェルがそう問うと、尻尾の動きが止まる。かと思ったら、じりじり後退していった。
「あれ?」
 そのまま駆けおりて行ってしまった犬を見て、レイチェルは苦笑した。まるで照れてるみたいに見えた。
「振られちゃった」
 でも、幸福な気分だった。昨日よりは、ずっと。


  ◇

 翌日、目覚めたレイチェルがキッチンに向かうと、バラムがこちらに背を向けて朝食を作っていた。ぴょこぴょことした動きにきゅんとする。
「おはよう」
 声をかけると、びくりと震える。そろそろと振り向いて、ぎこちなくうなずいた。
 まだレイチェルを怖がっているようだけど、とりあえず、逃げられなかったのは進歩だと思いたい。

「なに作ってるの?」
 近づいて行って鍋を覗き込むと、トマトのような野菜と、ビーンズが入っていた。英国の田舎料理のような見た目だ。
「美味しそうね」
 そう言うと、バラムは鍋からスープをすくい、小皿によそって、レイチェルに差し出した。

「いいの?」
 尋ねると、こくこくうなずく。レイチェルはありがとう、と言い、一口飲む。
「美味しい。バラムは料理上手ね」
 そう言うと、バラムはもじもじして顔を覆った。
「照れてるの?」
 ふふ、と笑っていると、背後から美しい声がした。
「随分仲がいいな」

 振り向くと、どこか眠たげなバアルが立っていた。
「あ、バアル。おはよう」
 バアルにちらりと見られ、バラムがびくりとしてレイチェルから離れた。
「どうしたの?」

 バラムはレイチェルを食堂へとぐいぐい押した。首をかしげながら食堂へ向かい、椅子に座ると、バアルが椅子を押す。
「ありがとう」
 そう言って微笑むと、彼が眉を上げた。
「今日は機嫌がいい」
「昨日ね、バラムが頭を撫でさせてくれたの。ふわふわだったわ」
「それはよかった」
 呆れ気味に言って自分の席についたバアルに、レイチェルは尋ねる。
「ねえ、あの犬、なんて名前なの?」

 バアルの赤い瞳が、一瞬揺れた。
「犬?」
「黒い犬よ。賢そうで、可愛い子」
「僕は犬なんか飼ってない。幻覚でも見たんじゃないか」
「そんなわけないわ。ちゃんと感触があったもの。舐められたし、頭を撫でたし、抱っこもしたし」

 レイチェルの言葉を遮るように、バアルが言う。
「犬なんかいない。幻覚まで愛でるなんて、君はどれだけ毛皮が好きなんだ」
 その言い草にむっとする。
「誤解を招く言い方をしないで。それにあの子は幻覚なんかじゃ……」

 気がつくと、茶器を運んできたバラムが、目を丸くしてバアルを見ていた。ぽかんとした表情だ。
「なんだ」
 バアルが不機嫌に言うと、こぐまは慌ててカップを置いて、キッチンに引っ込んだ。

 レイチェルは、コーヒーを飲んでいるバアルを睨んだ。
「バラムを虐めないで」
 バアルは鼻を鳴らす。
「あれは君の毛皮じゃない。僕が使役する悪魔だ。自分の所有物みたいに言うなよ」
「毛皮って言わないで! バラムは生きてるわ!」
「比喩だ。気に入らなければバケモノとでも呼ぼうか」
「あなただってバケモノじゃないの!」
 言い争う二人を、バラムがキッチンからはらはらと見ていた。
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