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ずっと大好き 1

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 ☆


 高校時代は、いつも眠たくて仕方なかった。いや、今も眠いけれど。俺はカルテを片手に、病院の廊下を歩いていた。歩くたびに、白衣の裾がパタパタなびく。すれ違った老人に声をかけられた。

「アースベル先生、おはよう」
「おはようございます、キーンさん。お加減はどうですか」
「すっかりいいですよ。先生のおかげでねえ」

 ニコニコ笑う老人に、俺も微笑みかける。財閥の息子なのに、苦労して医者になるなんて。しかも、寝たきりのセーレとの婚約を解消しないなんて。みんなに散々そう言われた。だけど、母さんだけは賛成してくれた。

父さんは、利用価値がなくなったバーネットには関わる意味がないと思ってるみたいだけど。母さんはずっと、セーレのお見舞いにもきてくれる。

 俺は、305号室の特別病室へ入った。ここに泊まるだけで、一泊で何万って金が飛んで行く。セーレのお父さんが、一番いい部屋に入れたのだ。彼はいつも優しくセーレの手を握って、何かを語りかけてる。

悪役令嬢だろうとなんだろうと、セーレはちゃんと、大事にされている。だってセーレはいい子だし、確かに俺たちと同じ人間なんだから。アレックスが言っていたみたいに、スイッチ一つで消してしまえる記号じゃないんだ。

「おはよう、セーレ」
 俺はカーテンを開けてまわった後、セーレの顔を覗き込んだ。点滴でしか栄養が取れないから、少しだけ痩せて、大人びて見える。きれいなセーレ。やっぱり俺の恋人は、いつ見てもすごく美人だ。口の中の掃除をしようと、スポンジブラシを取り出したら、薄い瞼がぴくりと動いた。

 ああ、この瞬間、何度も見た。例えば卵が孵化する時のように、セーレが目覚めて、俺を見つめるんじゃないかって、そんな期待を持ってしまう。だけど大抵は、無駄骨に終わる。この十年、ずっとそうだった。

 だけど。次の瞬間、信じられないことが起きた。

 セーレの目が、開いたのだ。

 俺はしばらく、口を聞けなかった。なんて言おう。なんて言ったらいいかわからなかった。ずっと考えていたはずなのに。
 セーレの、形のいい唇が動いた。

「……のど、かわいた」
「あ、お水、飲む?」
 俺は慌てて、水差しを彼女に渡した。セーレはこくこく水を飲む。俺はぼう、っとそれを見ていた。
 こちらを見た瞳に、心臓が跳ねる。

「おれのこと、覚えてる?」
 ドキドキしながらそう尋ねたら、セーレは困った顔をした。
「ええと、あの……」
 ああ。そうか。わからないんだ。これも、罰の一部なんだろう。悪役令嬢っていう記号が消えたら、セーレの大事なところも消されたんだ。

「俺は、レイ・アースベル」
 そっと彼女の手を握る。
「君のことが大好きなんだ。友達になってくれる?」

 セーレは頷いてくれた。なんでだろう、胸が詰まる。セーレが起きてくれたから、嬉しいのかな。そうだ、セーレが、元気になってくれた。それでいいんだ。
 だけど、もう、俺をすきだって言ってくれたセーレはいない。

 少しだけさみしくて、だけど彼女が目覚めてくれたことが嬉しくて、俺はセーレを抱きしめて、涙をこぼした。

「泣かないで」
 セーレが困った声で言う。細い指が、俺の背中をそっと撫でる。
「泣かないで、レイ」
 俺はハッとして、顔を上げた。セーレが微笑んで、細い指先で、俺の涙を拭う。

「男の人なのに、泣き虫なのね」
「うん、そうなんだ」
 セーレを心配させたらいけない。笑おう。セーレが幸せって思えるように、目覚めて良かったって思えるように、泣いたりしたらダメだ。

 おおかみとうさぎのように、一緒に死ぬのが美しいなんて、俺は思わない。これからまた、セーレを取り戻していけばいいんだ。セーレは金の髪を揺らし、不思議そうに問いかけてきた。

「どうして私、寝てたの?」
「ちょっと、長い話になるよ」
「聞かせて」
 俺はセーレに話し始めた。
「あるところにね、悪役令嬢って呼ばれてる女の子がいたんだ──」

 俺とセーレの、恋の話を。
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