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サマータイム 3

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 レイが部屋を出て行ってしまい、私とレイの母だけが残された。彼女は両の手に貝殻を持っている。その様子は、まるで少女のようだった。レイが女性になったらこうだろうと思われる、可憐で美しい容姿。とても高校生の息子がいるとは思えない。
 深い海色の瞳が、こちらへ向いた。

「セーレちゃん、だったわね?」
「は、はい」
 私は慌てて視線を正した。レイの母親はふわりと笑い、
「とっても綺麗ね」
「え、いえ、私なんかより、お母さまのほうが」
「見た目の話じゃないの。心よ」
「心?」
「ええ。人間はね、内側から美しい魂が滲み出てるものなの」

 レイにそっくりな面差しで、彼女は私を見つめた。
「あなたは、とても綺麗な心を持っているのね」
「え……」
 私は顔を赤らめて、目を伏せた。
「そ、んなこと言われたのは初めてです」
「そう? レイは見る目があるわ。さすが、私の息子ね」

 気恥ずかしくなって、私は慌てて言う。
「あの、貝殻、包みましょうか」
「本当?」
 私はハンカチを取り出し、貝殻を包んだ。
「レイはぼんやりしてるでしょう? あの子は、私にとても似てるから。なにも考えてないんじゃないかとか言われるみたい」

 彼女はでもね、と続けた。
「頭の中ではね、色んなことを考えているのよ。でもそれをうまく表に出せないの」
「レイさまは……すぐに寝てしまう病気、ですよね?」
「ええ、ナルコレプシーね。大きな欠陥だわ。でも、支えてくれる人がいれば生きていける」
 彼女はじっと私を見つめた。
「レイを支えてあげてくれる?」
「私は……むしろ、レイさまに支えられているんです」
 レイがいなければ、私は「悪役令嬢」のままだっただろう。母親はにこ、と笑う。

「婚約が決まった、って聞いて不安だったの。でもあなたなら、きっと大丈夫ね」
「ありがとうございます」
 私ははにかんだ。
「私、ミレイって言うの。そう呼んでくれる?」
「はい、ミレイさん」
「あっ、レイのアルバムがあるのよ。見る?」
 彼女はうきうきしながら立ち上がった。
「見たいです」

 私はミレイの後に続き、階下へ降りて行った。ミレイが私を連れて行ったのは、書斎だった。本棚からアルバムを取り出し、開く。
「これが2歳の頃」
「わあ、可愛い」
 レイが帽子を被って笑っていた。片手にはスコップを持っていて、頰には泥が跳ねていた。無垢な笑顔にきゅんとしていたら、
「昔はね、割と活動的な子だったの。じっとしているのが苦手なくらい」
「そうなんですか」
 それは意外だ。私はほのぼのしながらレイの幼い頃を眺める。ふと、ミレイからの視線を感じて顔をあげたら、彼女は優しい表情でこちらを見ていた。

「あ、の?」
「あなた、本当にレイが好きなのね」
 私はほほを赤らめ、
「はい」
 あるページで手を止めた。
「あ、ここ。この別荘ですよね」
 七歳くらいのレイが、ミレイと一緒に別荘の前に立っている。父親の姿はない。ミレイはその写真を眺めながら、
「私ね、急に意識を失ってしまう病気なの」
 そっと写真の表面を撫でる。

「夫は仕事で忙しくて……私とレイでよく別荘に来ていた。彼は、レイから目を離さないように、って言ったわ。それから、絶対に高いところに立ったり、泳いだりするな、って」
 でも私、うっかりバルコニーに立ってしまったの。ミレイは呟いた。
「意識を失ってしまって、バルコニーから落ちた。それを、レイは見てたの」
 私は息を飲んだ。

「それで……」
「怪我は大したことなかったんだけど、夫はすごく怒ったわ。当たり前よね」
「それだけ、ミレイさんのことが心配だったんですよ」
 彼女はふ、と口元をゆるめ、首を振った。何かを諦めたような笑みだった。

「違うわ。あの人は私が嫌いだから」
「そんなこと」
「あるの。私たち、政略結婚なのよ。それに、レイのナルコレプシーは、私がバルコニーから落ちて以来発症したの」
 だから家にいられなくなった、とミレイは呟いた。私はレイによくない影響を与えるから。
「そんなことないです」
 セーレが言うと、彼女は首を振る。
「レイの成長を時々見られれば、私はそれでいいの」

 そう微笑んだミレイに、胸が痛くなった。ぎゅっとその手を掴み、
「私、レイさまのこと幸せにしますから!」
 ミレイがぱちぱちと目を瞬いた。何言ってるのかしら私は……我に返って、慌てて手を離す。

「す、すいません」
「幸せにしてくれるの?」
「はい!」
「嬉しいわ」
 その時、ガタッ、と音がした。レイが真っ青になってこちらをみていた。背後には管理人らしき男性がいる。

 レイは足早にこちらへ歩いてきて、私の腕をぐいと引いた。
「母さんでもセーレは渡せない」
「え……」
「あら、そうなの。残念」
 ミレイはニコニコ笑っている。
「あの、なにか誤解があるようですが」
 私がおずおず言うと、セーレは女の子にもモテるから注意しなきゃ、なんて返ってくる。いえ、別にモテませんよ。

 それから、私たちは管理人さんが作ってくれた料理を食べ、居間でくつろいだ。ミレイは紅茶を飲んで、レイはうとうとしている。お腹がいっぱいになって、眠いのかもしれない。私はレイの肩を揺さぶり、

「レイさま、もうお休みになったらいかがですか」
「うん」
 レイはとろんとした目でこちらを見て、
「お休みのキスして」
「し、しませんよ!?」

 彼は不服そうにしたあと、ノロノロ部屋を出て行った。私は熱くなった頰を抑える。
「もう……なんてこと言うのかしら」
「別にしてもよかったのよ、お休みのキス」
 ミレイがおっとりと言う。
「し、しませんよ」 

 私が真っ赤になると、彼女はくすくす笑い、ソファから立ち上がった。本棚のところへ向かい、絵本を引き抜く。こちらへ表紙を向け、
「この絵本、知ってる?」
「おおかみとうさぎときつね?」
 どこかで聞いたタイトルだ。

「あ、いつだったか、レイさまが話してくれました」
 でも、結末を聞きそびれてしまった。私がそう言うと、ミレイは頷いて、絵本の表紙を開いた。
「銀色おおかみは、うさぎと住んでいました。うさぎは綺麗な銀色の毛並みが大好きで、おおかみはかわいいうさぎが大好きでした……」

 何度も読み聞かせられたのだろうか、絵本の文面は、レイが語った文句とまったく同じだ。そして、メスのおおかみが銀色おおかみに一緒に行こうと語りかけるところまで話が進んだ。

「メスのおおかみは去って行きました。銀色おおかみは迷いました。メスのおおかみと一緒に行けば、うさぎさんとはお別れです。もやもやしながらお家へ帰ったおおかみを、うさぎが出迎えます。

「今日は、おおかみさんが大好きなシチューよ」うさぎは、まだごはんを食べていませんでした。遅くなったおおかみを待っていてくれたのです。おおかみは、うさぎをぎゅっと抱きしめました。「うさぎさんは一番のお友達だよ」銀色おおかみは、メスのおおかみに、一緒に行くのを断ることに決めました」

 銀色おおかみは、再びメスのおおかみと話しました。
「ごめん。僕はうさぎさんと一緒にいたいんだ」
「それなら仕方ないわね」
 その様子を悔しがって見ていたのはきつねでした。
「くそっ、こうなったら最後の手段だ!」

 きつねは、おばあさんに化けて街へと行きました。
「森に恐ろしいおおかみがいてねえ、鳴き声で夜も眠れないんですよ」
 それを聞いた猟師は、銃を持って森へ向かいました。
 銀色おおかみは、自分の家へと向かっていました。ちゃんと断ることができて、どこかすっきりした気分でした。戸口では、うさぎが手を振っています。銀色おおかみが手を振り返した、そのとき。銃声が響きました。
「あぶなーい!」

 うさぎは、銀色おおかみの方へ飛び出しました。銃弾を受け、ばたりと倒れたうさぎに、銀色おおかみが駆け寄ります。
「うさぎさん!」
「おおかみさん、大丈夫?」

 うさぎは自分が傷ついたのに、銀色おおかみを心配していました。そしてそのまま、死んでしまいました。

 銀色おおかみは、うさぎを丘の上に埋めました。そうして何も食べず、そこにじっとうずくまっていました。かなしみで動けなかったのです。銀色おおかみは、痩せて、骨と皮だけになり、しまいにはぴくりとも動かなくなりました。だけどその顔は、どこか安らかでした。 

 じっと銀色おおかみの様子を見ていたきつねは、一言こうつぶやきました。

「なんにも手に入らなかった」
 おしまい」

 パタン、と絵本が閉じられた。私は眉を下げ、悲しいお話ですね、とつぶやく。
「そうかしら? 銀色おおかみは、天国でうさぎと一緒になれたと思うわ。一方、きつねはなにも得られなかった」
「あまり子供向けという気がしません」
「子供は意外と残酷よ。小さくても、人間なんだもの」

 ミレイは髪をかきあげ、私に絵本を差し出した。
「この絵本、あげるわ」
「いいんですか?」
「ええ、たくさんあるから」
 たくさん? 私はありがとうございます、と言いながら絵本を受け取り、表紙を見てあっ、と声をあげた。著者名は「ミレイ・アースベル」となっていた。


 ☆


 2日後、私とレイは迎えに来たハイヤーに乗って、別荘を後にした。ミレイは別荘の前に立ち、私たちに向かって手を振った。
「仲良くね」
「うん。仲良くする」

 レイは後ろから、私をぎゅっと抱きしめた。私は気まずくて目を泳がせる。
「れ、レイさま、暑いです」
 彼は私の肩に顎を乗せ、
「母さんは帰らないの?」
「私はもう少しいるわ」
 じっとミレイを見つめるレイに、彼女が笑ってみせる。
「大丈夫よ、もう飛び降りたりしない」
「うん」

 レイが笑ってるような、悲しいような、複雑な顔をした。私はそっと、レイの手を握る。彼が手を握り返して来た。
 ミレイに見送られ、車に乗り込む。振り向くと、彼女はずっと別荘の入り口に佇み、私たちを見送ってくれた。別荘が見えなくなったころ、レイがつぶやいた。

「母さん、元気そうだった」
「はい、きっとレイさまにお会いしたからですね」
「そんなこと、ないと思うけど」
 ちょっと照れくさそうなレイを見て、私は口もとを緩めた。ふと、海色の瞳がこちらに向いた。その目が、じりじり近づいてくる。私は思わず後ずさった。

「れ、レイさま?」
「キスしていい?」
「え!? だ、だめです!」
「どうして? 母さんがいたから、いちゃいちゃできなかった」
 レイの手が、私の耳たぶに触れた。くすぐるように撫でられ、身をよじる。
「ちょっ」
「セーレの耳、冷たい」

 運転席から咳払いが聞こえた。私はハッとして、レイを押しのける。
「やめてくださいっ」
 つい強い口調で言ったら、彼がしゅんとしてしまった。私はちら、とレイを見て、その手を握った。ぴくりと肩を揺らし、レイがこちらを見る。
「これで、いいでしょう?」
「……うん」
 嬉しそうに頷いて、レイは私の肩に頭をもたせかけてきた。私はぎこちなく、銀髪の頭を撫でる。

 そうして、月日は流れ、夏の時間は終わりを告げる。
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