最上の番い

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痣と支配

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暇だ、とてつもなく。ベンチでぼんやりとタバコを吸っていたら、目の前をぶん、と蜂が通り過ぎた。あれは働きバチだろうか。蜂ですら労働しているっていうのに、俺はこんなとこでぼうっとしているだけとは。五体満足に産んでくれた親が泣くぜ。やっと元の世界に帰れると思ったら、帰れないし……。ちょうど目の前を園丁が通りがかったので、声をかけてみる。

「じいさん、手伝おうか」
「いらん。おまえは作業が雑だからな」
すげなく断られ、うなだれていると、ニールが俺の顔を覗き込んできた。彼のサラサラした髪に火がくっつきそうになっていたので、慌ててタバコを引く。
「うわあっ」
「ここにいたのか、ヤツカ」
彼はしなやかな動作で俺の隣に腰掛け、肩を抱き寄せてきた。流れるような仕草に、俺はぽかんとするしかない。ニールは俺が手にしているタバコを奪い取り、手のひらでもみ消した。
「うおっ!?」
「私はこの匂いが好きではない。おまえの匂いが薄くなる」
「おい、やけどしたんじゃないのか。見せろ」
俺は慌ててニールの手を掴んだが、彼の手のひらに火傷痕はついていなかった。ああそうか、こいつは魔法使いだった。タバコの火なんてものともしないのだ。ほっと息を吐くと、ニールが俺の手を握り返してきた。彼は熱っぽい瞳で俺を見つめてささやく。

「おまえが積極的に触れてくれるのは嬉しい」
「……ポジティブで羨ましいな」
わざわざこいつが起きてくるだろう時間を避けて起床し、執務室から離れた場所で過ごしていたのに、どうして会いにくるんだ。俺が苦い思いでいると、ニールが顎を掴んで視線を押し戻した。至近距離に色素の薄い瞳が迫っていて、思わず身を引いた。
「なぜ私を避ける? なにか気に入らないことがあるのか」
「おまえがっていうより、おまえの周りがな……」
俺はそう言って肩をすくめる。その時、凛とした声が響いた。
「陛下」

ほら、筆頭が来たぞ。俺は、首を回し、回廊の向こうから歩いてくる男に視線をやった。線の細い男で、中性的な雰囲気を漂わせている。補佐官のヤハウェだ。俺みたいに無骨でもないし、ヨグのように貧弱でもない、まともなオメガだ。化粧でもしたら、多分完全に女になりきれるだろう。最近、ニールの周りにいる使用人に、やけに美形が多い気がした。彼らは身の回りの世話をしつつ、さりげなくニールの腕や手に触れる。そして、親の仇でも見るかのように俺をにらみつけていく。そんなわけで、ニールのそばにいるとストレスが溜まるのだ。ニールは俺の視線を追って、ああ、と相づちを打った。

「番いの選定の時期だからな。出入りが多くなるせいで、ヤハウェもピリピリしている」
「番いの、選定」
シエルが言っていた、たったひとりのオメガってやつを探すんだろう。大げさな言い方をしているが、要するに見合いなんだろうな。いくつもの選考をくぐり抜けてくるってんだから、そりゃあすごいのが選ばれるんだろう。ニールはこちらに流し目をくれた。
「おまえが私を受け入れれば、必要ないが」
「受け入れるって……おまえと、やるってことだろ」
「その言い方には情緒がないな。番うと言え」

どんな言い方をしようがやることは一緒だろうが。こいつの下で喘がされるなんてまっぴらだ。最も、何回もいかされているので今更なのかもしれないが。いや、矜持を失ったら終わりだ。俺は女ではないから、挿れられたいなんて思ったこともない。それにどうせなら抱かれるより、抱くほうがいい。俺はニールの端正な横顔をちらりと見た。こいつと俺、アルファとオメガが逆だったらよかったのに。

「陛下、お時間です」
細身の男――ヤハウェがそう言って、ニールを見た。ニールはベンチから立ち上がって、俺の顎をするりと撫でる。
「ああ。では、ヤツカ。またな」
ニールはヤハウェと一緒に回廊を歩いていく。どう考えたって、あの二人のほうがお似合いである。俺と来たら身長180センチの三十路で、ボサボサの頭、おまけに無精ひげが生えているのだから。絶対に、あんな優男に愛しているとか言われる柄ではない。俺はもう一本タバコを吸おうとして、箱の中身が空だという事に気づいた。ヨグのところに行って、呼んでもらおうか。ついでに新しい雑誌ももらってこよう。そう思ってベンチを立ち上がると、茶色い小山がこっちに来るのに気づいた。小山――ではなく、騎士団長のアドラスである。彼は俺に笑顔を向けて、片手を上げる。

「よ、ヤツカ――だったか?」
「アドラス……なんか用か」
アドラスは筋肉の盛り上がった腕を俺の首に回した。それだけで身体が傾きかける。
「おまえ、下働き希望らしいな。今から野営訓練をするんだ。暇なら来いよ」
「あー、断る。騎士団と行動するなって、ニールに言われてるんだよ」
俺がそう言うと、アドラスが眉をあげた。
「なんで?」
「さあ。でもあいつ怒らせると怖いし、やめとく」
「すっかり陛下の犬だな」
その言葉に、俺はぴくっと肩を揺らした。自分より頭2つ分高い、アドラスの襟首を掴む。
「誰が誰の犬だって?」
「だってそうだろ。陛下のご機嫌うかがって、尻尾振ってるわけだ。首輪をつけられてるようなもんだね」
アドラスはそう言って、俺の首筋をなぞった。
俺はその手を払いのけ、構えた。

「おまえ、クソむかつくな。のしてやるから、相手しろ」
「おいおい、オメガがアルファに挑むのか。死にたいのかね」
彼は余裕の態度だ。確かにこいつは俺よりも随分体格がよく、魔法も使える。しかし、俺は柔道黒帯なのである。そう簡単に倒されてたまるか。それに、こいつは眼帯をしている。片目が見えないのは大きなハンデだろう。アドラスは帯刀していた剣を、地面に放った。あくまで体術で勝負しようということだろう。俺は身体を低くして、彼の懐に入ろうとする。アドラスはその攻撃を避けた。あっと思った時には、彼の頭は俺の頭より下にあった。彼は悪いな、と言って、俺の腹に拳を叩き込んだ。みぞおちにもろにヒットして、思わずえづく。そのまま地面に突っ伏し、ゴホゴホと咳き込む。痛みでうめいていると、アドラスが俺の顔を覗き込んできた。

「おい、大丈夫か」
「……大丈夫じゃない」
アドラスは笑って、俺を肩に担ぎあげた。こいつ、やはり只者じゃないな。180センチある男を簡単に担ぐとは……。彼が向かったのは救護室だった。救護医は席を外しているのか、姿がなかった。部屋に入ったアドラスは扉を閉めて、俺をベッドに放り投げる。衝撃で激痛が走って、ベッドの上で身を縮めた。
「あ。痛かったか。ほい、湿布」
アドラスは悪気ない様子で、湿布を投げてくる。俺は礼を言って湿布を受け取った。認めよう。俺はこいつよりもずっと強い。こいつがその気になれば、俺なんて瞬殺できるだろう。悔しさに唇を噛んでいたら、アドラスがふっと笑った。
「言っとくが、陛下は俺より強いぜ」
「……バケモンかおまえら」

シャツをめくりあげると、腹に紫色のあざがついていた。こりゃあ、夜は腫れるなあ。げんなりしていると、アドラスがベッドに乗り上げてきた。俺は彼を睨みつける。
「なんだよ」
「目の前で腹を見せつけられたら、誘われてると思うだろ?」
「わけがわからん、おい、痛いっ」
のしかかられた拍子に、身体が変な方向に曲がって痛みが走った。アドラスは俺のシャツの襟をめくって、首筋を眺めている。

「あれ、痕がないな」
「痕って、なんの」
「番いの証だよ。オメガがアルファに首筋を噛まれると、そいつと番う羽目になる」
「嫌いなやつでもか」
「そう。オメガは番いの子しか孕めない。発情期には相手が欲しくて泣き濡れる。たまらんだろ」
アドラスはそう言ってニヤニヤ笑った。なんなんだ、そのアルファ側にとって都合のいい制度は。

「アルファにも制限はあるぜ。痕をつけると、番いのオメガにしか欲情しなくなる」
「要するに、おまえは番いはいないってことだな」
俺が冷たい視線を向けると、アドラスが両手を広げた。
「俺は自由でいたいんだ。縛られるのは嫌いなんでね」
「ああ、そうかい」
こういうやつこそ、たった一人のオメガを見つけておとなしくなるべきなのではないか。そうしないと主に俺が被害を被る。アドラスは顎に手を当て、不思議そうに首をかしげた。
「でも、変だな。気に入ったオメガを見つけたら、普通すぐ噛むもんだぜ。他の雄に取られたら大変だからな」
「相手の意思は無視でか」
「そんなこと考えてらんないだろう。なんせ番う相手ってのは、本能で選ぶもんだからな」
アドラスはあっけらかんと言った。アルファがこうって決めたら、逆らえないんだろう。やっぱりオメガの方が損な気がする。俺はふと思った。つまり……ニールは本能では、俺をなんとも思っていないということではないか?

その夜、部屋に現れたニールは、当然のように俺のベッドに潜り込んできた。押しのけるのも面倒だったので、好きなようにさせておく。ニールの肘が腹に触れて、痛みに呻くと、彼が顔を覗き込んできた。
「どうした。どこか痛むのか」
「なんでもないって」
そう言ったが、ニールは構わずに、俺のシャツをめくりあげた。腹に貼られた湿布を見たニールは、湿布を剥がし、驚いたように目を見開いた。
「どうした、これは」
「転んだ」
「嘘をつくな。これは殴られた痕だ」

ニールは珍しく、険しい顔をしている。ごまかしてもどうせすぐにバレそうだったので、正直にアドラスにやられた、と言った。
「なぜそんなことになった。あの男は、むやみに他人を殴ったりはしない」
意外とそういうところには信頼を置いているようだ。確かに、あれだけ強かったら相手を殴る必要もないだろう。無意味に尻は撫でてくるけどな。俺は憮然として答えた。
「俺が喧嘩をふっかけた」
「セイジが?」
「陛下の言いなりだ、って言われてムカついたんだよ」
「おまえのどこが、私の言いなりなんだ」

ニールは不可解そうな顔をしている。ニールからすれば、俺が反抗しているように見えるのだろう。しかし、それは違う。アドラスの言うことは当たっている。俺は、こいつの言うことに逆らえていない。彼が七瀬に似ているのもある。それから、おそらくはこれが相手を屈服させるアルファの力なのだろう。力でも、それ以外のことでも、俺はこいつには勝てない。後輩と全く同じ顔をした、この男に――。俺は内心で、ニールのことを畏れている。それが悔しかった。どんな凶悪な犯罪者にも、屈したことなどなかったのに。俺がオメガで、こいつがアルファだから、そうなってしまうのだ。
ニールは俺のシャツをめくりあげ、腹のあざに舌を這わした。俺はびくりと震えて、ニールの髪を掴む。
「や、めろよ」
「早く治せ。これでは手が出せない」
こちらを見る色素の薄い瞳に、背中が震える。舐めて怪我が治るわけではない。大体、湿布を這っておけばいずれ治る。それなのに、ニールは俺の腹を舐め続けた。
そういえば、アドラスは言っていた。番いになったら、相手がいないと生きていけないのだと。この男と番いになって、完全に支配されて――それで、俺はどうなってしまうのだろう。二度と元の世界には帰れなくなる。七瀬を殺した犯人を捕まえられなくなる。それに、きっと、俺は俺ではなくなってしまう。そう思うと、ひどく怖かった。
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