私のキライな上司

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勤労感謝の日編(6)

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 2012年、宗教団体「三和会」が売春行為を行っていたという事実を信者に暴露され、一斉摘発を受けた。その信者が吉田佳代子の妹、吉田美奈だ。晃は佳代子をパイプにして、美奈に接触し、暴露記事を書いた。美奈はその二週間後に自殺した。

 橋本の話に、私は相槌を打つ。
「つまり、晃さんは記事を書くために佳代子さんと……」
「そう取られても仕方ないね。当時、信者たちは外部からはほとんど遮断された生活を送ってた。美奈に近づくには、佳代子を落とすのが一番だったわけだし」
橋本はため息をつく。

「にしても、とんだ結婚式だね」

佳代子は言うだけ言って消えてしまうし──彼女を通した係員は、併設された葬儀場に来た方だと思っていた、としきりに謝っていた──。

 現在、式が終わったあと、みなロビーで帰りの車を待っている。私も私服姿に着替えていた。
「ところで、晃さんは?」
河原さんが尋ねる。

「そういえば見かけませんね」
 ちょっと探してきます。私はそう言って、ロビーを出た。晃は式の間中、ずっと浮かない顔をしていた。すぐへこたれるから、心配だ。

 エントランスに向かうと、晃がいるのが見える。近づこうとしたら、父がやってきた。
「晃くん、少しいいかな」
「はい」

二人はロビーにあるソファに腰掛けた。私はなんとなく声をかけづらくて、陰から二人の様子を伺った。父はタバコを取り出しかけて、「禁煙」という文字を見て手を止める。タバコをしまい、晃に問うた。

「あの女性は?」
「吉田佳代子。俺の元恋人です」
「単なる逆恨みかね」
「いえ、心あたりはあるので」
父は晃をじっと見た。

「人の結婚式を台無しにするほどの事情が、彼女にあると?」
 晃は瞳を揺らした。
「すいません」
「なぜ君が謝るのかな」
「俺のせいだから。ミチにも嫌な思いさせた。せっかくの晴れの日だったのに」
「嫌味に聞こえたら申し訳ないが、厄介ごとは清算してから結婚するべきだったのではないかね」
「はい」

 晃は、いつもよりずっと暗い声で答えた。父は晃を横目で見て、ソファから立ち上がる。
「──貸した本は郵送してくれ」

 そのままエントランスから出て行く。私はそっと晃に近づいて行った。
「晃さん」
「ミチ」
 晃はこちらを見ずにつぶやく。

「ごめんな」
 私は、晃の隣に座った。彼の手をぎゅっと握る。
「話して、ください」
「……佳代子は、大学時代の同級生だった。多分、俺のダチから今日のこと聞いたんだと思う」
晃はポツポツと話し出した。

 あくまで偶然だった。晃はそう呟いた。佳代子とたまたま再会して、彼女の様子がおかしかったから話を聞いたのだと。

「その時、ちょうど宗教団体の取材をしてたんだ」
晃は言う。
「佳代子の妹が信者だって聞いて、たしかに欲が出た。佳代子を通じて、話を聞けるかもしれないって」
「すき、だったんですか?」
「……わからない。でも、守りたいとは思った」
胸がずきりと痛んだ。
「佳代子は妹のことで疲れ果ててた。だから、かわいそうだって気持ちが強かった。それに罪悪感もあったから、大事にしようと思ってたんだ」

 佳代子は最初、美奈に会わせるのをしぶっていたのだそうだ。やっと話を聞けるようになって、三澤は美奈に面会した。
「美奈は普通の女の子だった。俺は細心の注意を払って、彼女から話を聞いた。美奈だとはわからないように、名前も伏せた」
 だけど美奈は普通じゃなかった。
「良心の呵責に耐えられずに、壊れて……おかしくなった。いや、前からおかしかったのかもしれない。二週間後に、自殺した。佳代子は俺をなじった。電話や手紙、メールは毎日来た。関係は自然に破綻した」
「最近はいやがらせもピタッと止んで、佳代子も幸せになったんだって勝手に思い込んでた。会ったのは、五年ぶりだ」
晃はそこで口をつぐんだ。
「軽蔑したか?」
「……はい」
「だよな」
今度、佳代子に会ってくる。晃はそう言った。

「一人でなんて、危ないです」
「大丈夫だよ。佳代子は俺を刺したりしない。俺ごときのために捕まるのをよしとしない女だ」
感情的にはならないけど、けして俺を許さない。怖い女だ。晃はそう呟いた。
「私も、行きます」
「だめだ」
「勝手に、危ないことしないって約束しました」
私は声を震わせる。晃は瞳を揺らし、
「おまえを巻き込みたくない」

私は、晃のほほをぐい、と引っ張った。
「いて」
「もう巻き込まれてますから。結婚式は台無しだし」
 彼は眉を下げる。
「……ごめん」

情けない顔。かっこ悪い顔。佳代子さんも、こんな顔を見たんだろうか。そう思ったら胸が軋んだ。晃の全部を独り占めしたい。そう思う私は強欲なんだ。




 後日私と晃は、近所のファミレスで佳代子を待った。私は落ち着かなくて、さっきから何度も水を飲んでいた。晃は珍しくじっとして、テーブルを見つめていた。自動ドアが開く音に、私たちは視線を向ける。

 かつ、かつ、と靴音を響かせ、佳代子がこちらにやってきた。今日も全身黒づくめで、黒い傘を持っている。彼女は晃の前に座り、微笑む。

「久しぶり、晃」
「ああ」
こちらに目を向けた佳代子に、私は頭を下げた。
「……こんにちは。三澤ミチです」
「こんにちは」
佳代子はにこりと笑う。本当に、綺麗なひと。

「ああ、そうそう。ご結婚おめでとう。これ、お祝いのクッキー。勤め先で売ってるの。すっごく美味しいのよ」
佳代子さんは、カバンからクッキーを取り出した。晃はそれを受け取ろうとはせずに、
「話があるんだ」
「話?」
「俺のことを、許してほしい」
「許すって、なにを?」
「美奈ちゃんを追い詰めたこと」
「ああ……そのこと」
佳代子はつぶやいた。

「ごめんなさいね。あんなこと言って。晃が結婚するって聞いて、どんな人を選んだのか気になっただけなんだけど。つい、ね」
「悪いなんて思ってないだろ」
「そんなことないわよ? だからお詫びにクッキーを買ってきたんだから」
彼女は微笑んでいる。でもね、と佳代子は付け加えた。

「どんなに謝ろうが、美奈のことは許さないわ。許されて楽になろうだなんて甘いのよ」
「じゃあ、どうすりゃいい」
佳代子はそうねえ、とつぶやいた。
「あなた、出版社を作ったんでしょう?」
水の入ったグラスをカラカラと揺らし、
「潰して」
冷たい声で言う。晃は固い声で言った。

「それはできない」
「あら、どうして? 謝罪の気持ちがあるならできるでしょう」
「社員がいるから」
「ふうん」
そうか、じゃあダメね。佳代子はそう続けた。

「それじゃあ、ミチさんと離婚して」
私は息を飲んだ。
「ミチは関係ない」
「あら、ミチさんのためでもあるのよ。こんな男、結婚してもロクなことにはならないから」
「佳代子」
「ねえ、私と付き合って」
佳代子は両手の指を組んで、小首を傾げた。

「また私を抱いてくれたら、許してあげる」
彼女はまだ、晃のことが好きなのだろうか。一瞬そう思う。だが私は、一瞬でその考えを打ち消した。佳代子が晃を見る目は、ひどく冷たくて暗かったからだ。
「だめです」
私がそう言うと、佳代子がこちらを向いた。

「あなたは、晃さんを苦しめたいだけなんでしょう。だから、だめです」
「あら、あなた、エスパーか何か? 私、超能力って信じてないのだけど」
「晃さんは、あげません」
佳代子は唇を歪め、
「どこがいいのかしら、こんな男の」
「たしかに、晃さんはセクハラクソ野郎だし、口が悪いし雑だし、いい加減だけど」
「っておい」 

私は、晃の腕をぎゅっと握りしめた。
「だけど、私の上司で、夫ですから。どんな過去があっても、私は晃さんが好きですから」
佳代子は冷たい瞳で私を見ている。

「惚気を聞かせるために、私を呼んだのかしら」
「そうです。晃さんと私はラブラブなので、あなたになにを言われても別れません」
「ふうん、そう」
彼女はどうでもよさそうに相槌を打ち、カバンから何かを取り出した。

「これ、なんだかわかる?」
「……?」
「遺書よ、妹の」
晃がハッとした。
「馬鹿なマスコミが、これを開示しろって何度も家に来たわ。もちろん開示したら、あなたを告発できたかもしれない。だけどしなかったの。どうしてかわかる?」
「美奈が、また晒されるから」
晃がつぶやいた。

「そうよ。マスコミは嫌いなの。あなたを含めて」
佳代子は遺書を揺らした。
「私にはこれがあるの。忘れないでね、晃」
そうして立ち上がる。私は思わず、彼女に呼びかけた。
「あなただって、晃さんのこと好きだったんでしょう?」
「……は?」
佳代子が振り向く。

「少しでも好きなら、こんなことすべきじゃない」
私の言葉に、佳代子がしばらく沈黙した。彼女は緩く笑い、
「好きだったからこそ、こんなに嫌いになったんだと思うわ」

 傘を揺らして歩いていく。私は自動ドアが開閉する音を聞いたのち、ぎゅっと拳を握りしめた。
晃がそっと、私の頭に手を置いた。





雨の音が聞こえる。
その日は、晃が朝からなんだかぼんやりしていた。声をかけても、んー、とかあー、とか、煮え切らない返事ばかりしているし、何かと言えばスマホの画面ばかり見ていた。

「晃さん、私、外に出てきます」
「あー」
上の空で窓の外を眺める晃に声をかけたら、砂を噛んだような返事が返ってきた。橋本さんが声をかけてくる。
「なあ、晃さん、今日なんか変じゃね」
「はい。朝からずっとああで」
「お腹でも痛いのかな?」
とは河原さんの言だ。子供じゃないんだから。私は晃を気にしながら、部屋を出た。


 雨粒が、傘に跳ねて音を立てる。取材先からの帰り道、私は傘を差して歩いていた。11月の雨は冷たくて、傘から髪にしたたると、ぶるっと震えがくるほどだ。

 車が通るたびに、道路の水を跳ね上げている。ふと、真っ黒な傘が視界を横切るのが見えた。私ははっと足を止める。

 さらりと揺れる長い髪、人形のような整った面立ち。

「……佳代子、さん?」
 どこへいくのだろう。気になって、後についていく。佳代子は濡れた路地を通り、長い石段を登っていく。私も、それを追って歩いて行った。階段の途中、佳代子がくるりと振り向いた。

「!」
「何か用?」
「あ……え、ええと、散歩です」

私はそう言って、目をうろつかせた。かなり無理のある言い訳をする私を、佳代子はじっと見つめた。そうして、また歩き出す。私は慌ててそのあとを追った。石段を登りきり、しばらく道なりに歩いていくと、墓地があった。

「ここ……」
佳代子は墓地に入っていき、とある墓の前で立ち止まった。花を活けて、クッキーを備えている。

私は彼女に近づいていき、佳代子さん、と声をかける。佳代子は振り向かずに、
「墓場で散歩? 変わった人ね」

 私が返事をせずにいると、
「今日は、あの子の命日なの」
 佳代子はそうつぶやいた。あの子とは、妹の美奈さんだろう。

「そう、なんですか」
「ええ」
 なんと声をかけていいか迷っていたら、佳代子が口を開いた。

「美奈はずっと、いじめられっ子でね。ずっと不登校だったの」
 雨音が墓地に響いている。
「ネットで知り合った子が三和会の信者で……あの子は、人の優しさに飢えてたから」
 佳代子は髪をかきあげた。その仕草で、雨粒がかすかに跳ねる。

「私はね、いいお姉ちゃんじゃなかった。仕事を始めたばっかりで、美奈をちゃんと見ててあげられなかった」
墓石は濡れて、色を濃くしている。
「それに、私は晃が初めてだった。彼に頼まれたら、どんなことも断れなかった」
 晃のせいにしたいの。佳代子はつぶやいた。

「晃が悪いって思えば、自分を正当化できるから。一生、晃のせいにしていたいの」
 私は、じっと佳代子を見た。

「佳代子さん、いったでしょう? 好きだったから、嫌いになったんだって」
「ええ」
「私は、逆でした。晃がキライで仕方なかった。こんな人、上司じゃなかったら顔も見たくないって思ってました」
「じゃあ、どうして?」

 佳代子は静かに尋ねる。
「どうして結婚したの?」
「……本当は、意識してたから。キライって思ったほうが、楽だからかもしれない」

 彼女は何も言わなかった。もしかしたら、佳代子も私と同じなのかもしれないと思う。晃を嫌っているほうが楽だから、彼を責め続けるのかもしれない。
その時、ざっ、と靴音がした。

「あ」
 その声に、私と佳代子は目を向けた。花束を手にした晃が立っている。彼は はちょっと気まずそうな眼で佳代子を見て、
「……よお」
 佳代子はさっと立ち上がる。晃に近づいていき、花を奪い取った。

 地面に投げつけ、踏みにじる。
「!」
「こんな花が贖罪になるとでも思ってるの」
 彼女は低い声で言い、晃を睨みつけた。
「あなたに求めてるのは墓参りなんかじゃないわ。一生苦しむことよ」
「……ああ」
「ああ、じゃないわよ。あなただけ幸せになるなんて許さない。自己満足の謝罪で楽になろうだなんて、絶対に許さないから」

 晃はかぶりを振った。
「わかってる。俺が一生忘れないから。だから、もう楽になれ」
「何を言ってるの」
「俺への嫌がらせをしてる、おまえが一番、苦しんでるように見える」
「わかったようなことを言わないで」
 佳代子は唇を震わせた。

「どうせ忘れるくせに。全部忘れて、また同じことをするくせに」
 晃は、佳代子に封筒を差し出した。
「これ、美奈ちゃんへの追悼文。五年ぶんだ」
 佳代子は再びそれを奪い取り、投げ捨てようとした。私はとっさに、その手を掴む。
「受け取ってあげてください。お願いします」
「……捨てるわ、こんなもの」
 彼女は真っ白な顔でつぶやいた。雨粒がほおに落ちると、まるで泣いているように見える。


「それでもいいよ」
 晃が答える。
「バカみたい。偽善者ふたり、お似合いだわ」
佳代子はそう言って、さっと歩き出した。彼女は今までずっとひとりで、雨の中をああやって歩いてきたんだ。

 私と晃は、並んでその背中を見送る。私は、晃の手をぎゅっと握りしめた。晃も、私の手を握り返す。
雨音がかすかに弱くなっていく。やがて、傘を叩く音が止んだ。

 雨が止んで、雲の切れ間から光が差し込む。晃は目を細めてそれを眺めた。

 それ以来、彼女の姿を見ることはなくなった。
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