私のキライな上司

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体育の日編(中)

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 そして、現在。10月9日、体育の日。私は巧と待ち合わせしたN港水族館へ向かった。出入り口で待っていたら、巧がやってきた。すらっとしていて、黒髪で、瞳は切れ長。やっぱり、晃にそっくりだ。

 巧は私をじっと見て、
「こんにちは。今日も可愛いな、あなたは」
「こ、こんにちは」
 兄弟二人を球種にたとえるとする。晃がカーブだとしたら、巧はストレートだ。彼は淡々と、
「そのブラウスはフェミニンだが、清潔感がある。それにあなたはスレンダーだから、スキニーパンツがよく似合う」
 私は横文字の羅列に目を白黒させた。この人、ファッション評論家か何か?

「巧さんも、おしゃれですね」
 巧はファッション誌から抜け出たような格好をしていた。色合いも秋めいていて素敵だ。晃は服装にこだわらない。秋物と冬物の区別もついてないような感じだし、服のタグには見知った量販店のロゴが入っている。

「晃さんなんか、たまに同じシャツ二枚持ってたりしますよ。買ったの気がつかなかった、とか言って」
 ちなみに、そのうち一枚は、私のお泊まり用パジャマになっている。いや、なっていた。私がぼんやりとシャツのことを考えていたら、巧が頭を下げた。

「ミチさん、今日はデートを了承してくださりありがとうございます」
「え、いえ、そんな大げさな」
 巧はそれで、と続けた。
「ワガママを言って申し訳ないが、晃の話はやめてもらいたい」
「……あ、すいません」

 一応いまはデート中なのだ。他の男の話をされたら、面白くないだろう。私の表情を見て、巧はため息をついた。
「僕は心が狭いな」
「いえ、しません。晃さんの話なんか、したくもないです」
 そう言ったら、巧が微笑んだ。 
「あ、こないだのタクシー代」
私がお金の入った封筒を差し出そうとすると、
「そんなことより、手を繋いでもいいですか」

 私は一瞬躊躇した。頭のすみっこに、晃の顔がちらついた。しかし、巧の視線に負けて頷く。
「は、はい」
 彼は私の手を取り、水族館の中へと入った。館内は、家族づれとカップルで混み合っている。巧は辺りを見回し、
「さすがに混んでいますね」
「日曜ですもんね」
「手を繋いで正解だった」

 側から見たら、私と巧もカップルなのだろう。一階のフロアで一番人気があるのは、熱帯魚を見られる水槽だった。カラフルで可愛らしい。アニメで人気を博した、オレンジと白の縞模様の魚もいた。

 巧は水槽を見つめながら、
「僕の好きな小説に、水族館を舞台にしたものがある。外国の小説ですが」
「どんな話なんですか?」
「水曜日には必ず水族館へ行く女性がいた。その女性は、水曜日が仕事休みなんだ」
 そこで、一人の青年と出会う。巧は続けた。

「青年と女性は惹かれ合う。だが、ある日を境に、青年は水族館へ来なくなる。女性は、わずかな手がかりで青年を探すんだ」
「面白そうですね」
「ええ。今度貸します」
 巧は文学青年なのだ。そういえば、こないだもファミレスで本を読んでいたっけ。

「晃さんは小説読まないから。いつも漫画ばっかり読んでるし」
 私はそう言ったあとハッとして、慌てて口を閉ざした。まずい。どうしても、三澤晃を頭から消せない。あんな、セクハラクソ上司のことを話す雰囲気じゃなかったのに。

 巧の気分を害してしまっただろうか。気まずくて、私は視線を地面に落とす。彼は少し黙ったあと、
「あなたに出会ったとき、その小説が頭に浮かんだ」
 巧は続ける。こういうのを運命と呼ぶのだ。そう思ったと。
「信じられないかもしれないが、三澤旅館の前で出会った瞬間、僕はあなたに恋をした」

 彼は眼鏡の向こうから、じっと私を見つめた。
「返事はすぐでなくてもいい。僕は明日にはまた海外へ戻る。ただ、次のデートの約束をしてほしい」

 私は、その視線に戸惑った。生きてきて、そんなにまっすぐ見つめられたのは初めてだった。彼の思いに応えなくてはいけない。そう思うのに、はい、という言葉は唇から出て来ない。
頭の中の三澤晃が、出て行こうとしないのだ。あんな、カーブしか投げて来ないような男のことを、私は常に考えている。

 つまりそれは、三澤晃にまだ恋をしているということだ。なのに他の人と付き合うのは、不実なことだ。

「巧さん、私」
「お腹が空きませんか?」
 そう尋ねられ、私は目を瞬いた。
「え?」
「確か、二階にカフェがある。行きましょう」
 巧はそう言って、私の手を引いた。


 ★

 カフェにたどり着くと、巧は私にメニューを差し出した。
「何を頼みますか?」
「私、オムライスを」
「僕はピラフにします」
 彼は店員を呼び、注文をした。すると、巧の携帯が鳴り響いた。

「ちょっと失礼します」
 巧が席を立った。手持ち無沙汰になった私は、鞄から取り出したパンフレットをめくる。パンフレットには、イルカの赤ちゃんが生まれました! というチラシが挟まれていた。イルカを見られるのはどこだろう。探していたら、カタン、と椅子が鳴る音が聞こえた。巧が戻ってきたのだと思い、私はチラシを見せる。

「巧さん、これ……」
「俺は晃だ」
「!?」
 目の前に座っていたのは、クソセクハラ上司の三澤晃だった。
 な、なぜこの人がここに……。

 晃はじろじろこちらを見て、
「デートなのに、相変わらずスカートじゃないわけ」
「私の勝手です。なんでいるんですか」
「俺がどこにいようが俺の勝手ですー」
 むかつく。小学生か。私はしっし、と晃を追い払う。
「どいてください。巧さんが戻ってきます」

 晃は目を細め、ささやいた。
「なあ、いいこと教えてやろうか」
「……なんですか」
「巧は童貞だぜ」
 私は思わず固まった。
「だ、だからなんですか」
「へったくそってことだよ」
「そんなの、関係ないじゃないですか。誰だって、最初は経験がないんだから」

 巧が気にしてるだろうことを勝手にバラすなんて、最低だ、この人。私は声を小さくし、
「大体、その……するために付き合うわけじゃないでしょ」
「何言ってんだ。ヤるためにデートして付き合うに決まってんだろ」
「最低。巧さんはあなたとは違います」
「ちがわねーよ。男なんかみんな一緒だ。猫かぶってるだけで、一年中やりたくて仕方ないんだよ」
「そんなことありません。大体、私のことが好きだからってストーカーですか? やめてください」
「誰がストーカーだ、この貧乳ツン娘」

 晃は私の頭に手を伸ばし、ぴたりと止めた。私は怪訝な思いでその手を見上げる。いつもなら、髪をくしゃくしゃにされるのに。その時、パタパタと足音が聞こえてきた。

「晃ったら、先に行かないで」
 その声には、聞き覚えがあった。
「女将さん!?」
 こちらへやってきた美人を見て、私はギョッとした。彼女は笑みを浮かべ、
「あら、ミチさん」
 女将さんは、いつもは結っている髪をほどき、洋服姿だった。美人は何を着ても美人だ。

「な、何してるんですか?」
「ふふ、晃とデート中なのよ」
 女将さんはそう言って、晃の肩に手を置いた。二人が並んでいる様子は、正直デートと呼んでもまるで違和感がない。私とよりお似合いかもしれなかった。

「旅館はいいんですか?」
 混乱しながら尋ねると、女将さんは微笑んだ。
「たまたまお休みをもらえたの。だから水族館に行こうって。ね、晃」
 晃は鼻を鳴らし、
「休みなら休んどきゃいいんだよ。こないだ倒れたばっかだろ」
「晃さん、そんな言い方ないじゃ」
「母さん?」
 戻ってきた巧が、女将さんを見つめてぽかんとしている。

「なぜ母さんが。というか晃、なにしてる。ストーカーか」
「誰がストーカーだ眼鏡」
 睨みあう晃と巧をよそに、女将さんが手を合わせる。
「そうだわ! せっかくだから、ダブルデートしましょうよ」
「母さん。悪いが、俺とミチさんは大事な局面を迎えていて」
 巧の言葉を、女将さんは笑顔一発で封じる。
「ねっ?」
「あ、ああ……」

 母は強し。私がそんなことを思っていたら、巧が私の隣に腰掛けた。女将さんは晃の隣に座る。なんだ、この状況。三澤家の食卓に混じってしまったような違和感だ。女将さんと晃が注文している間に、巧が話しかけてくる。

「すいません、ミチさん。母が強引で」
「いえ、そんなこと」
 晃が冷めた口調で言う。
「逆によかったんじゃねえの。この眼鏡とデートなんて、超つまんなそうだし」
 巧がむっとして晃をにらんだ。私は、晃のあまりな言い草に反論した。

「そんなことないです。巧さんは、誰かと違って紳士だし、知的だし、セクハラなんか一切してこないし」
「だからそれは、ネコかぶってんだよ」
「それは、相手を思うなら大事なことじゃないですか」
「そんなにその童貞眼鏡がいいわけ。趣味悪」
「なんせ、前付き合ってた人が最悪だったので」

晃は眉をしかめ、巧に話しかけた。
「可愛くねえ。おまえこいつのどこがいいわけ」
「ミチさんはすべてが可愛い。おまえは馬鹿だからわからないようだな。彼女の可愛らしさが」
「はっ、可愛いだけの女なんかいるかよ。これだから童貞は」

 その言葉に、巧が顔を強張らせた。恥じたように、かすかに唇を噛む。私には、巧がどんなに傷ついたかわかった。性的なことを言われるのは、誰だって嫌なんだ。それは一番デリケートで、傷つきやすい部分だから。

 軽い気持ちでも、悪気がなくても、言われた方は気にするし、家族であろうと踏み込んでいいことじゃない。だから、晃が許せなかった。私は晃に身体を向け、彼の頰を叩いた。

「!」
 晃は驚いたように私を見た。
「私だって、晃さんと付き合うまではしたことなかった。私のことも、馬鹿にしてたんですね」
「おまえのこと言ったわけじゃないだろ。何キレてんだよ」
「誰に対してでも同じことです。無神経で、口が悪くて、私は、あなたのそういうところが大嫌いです」

 その場がしん、とした。なんだか、家族の団欒をぶちこわしてしまったような気分になった。周りからチラチラ視線が飛んでくる。いったいどういう集団だ、と思われていそうだ。ああ、ダメだ。晃といると、私はすごく嫌な人間になる。

「……すいません、私、帰ります。オムライス、皆さんで分けてください」
 私は席から立ち上がり、テーブルにお金を置いた。そのままカフェから出る。明日、会社で三澤と顔を合わせるのが憂鬱だった。出入り口から出ようとしたら、背後から声をかけられた。

「ミチさん」
 振り向くと、巧が立っていた。彼は息を切らしながら、
「すいません、あなたに嫌な思いをさせて」
「巧さんはなんにも悪くありません。私が短気で……」
 巧はかぶりを振った。

「違う。僕が言い返すべきだった。性的なことをおまえに言われる筋合いはないと、晃にきちんと言うべきだった」
 だが恥ずかしかった。巧は続ける。
「あなたに、知られたことが……隠していたようで、そんな自分がみじめに思えた」
「そんなこと、言わなくていいんです」
 私はかぶりを振った。

「したことあるとか、ないとか、胸が小さいとか、全部……どうでも、いいことなのに」

 そうだ、晃は、軽い気持ちで私や巧をからかったのだ。実際、そんなのどうでもいいことのはずだ。でもそれが全てのように思える。経験があるとか、セックスが上手いとか、身体のこととか、性的な魅力が、人の価値を決めているように思えた。

 ──おまえ、処女だろ。貧乳。その辺のおっさんつかまえて、足開いてこいよ。

思いつきで投げたような、軽い言葉。どうでもいいような言葉。それがどんどん積み重なって、心に突き刺さっていく。他の人なら、どうとも思わなかったのかもしれない。

 私は、三澤晃が好きだから。きっと、ずっと前から好きだったから。晃は言ったじゃないか。やるために付き合うんだって。

「私ずっと、価値がないって言われてるような気がしてた」

 可愛いっていわれても、好きっていわれても、三澤のデスクにグラビアアイドルの雑誌が置いてあるだけで不安になった。心に突き刺さった言葉を、三澤が口にすると、また不安が増した。

 貧乳なのに、タイプじゃないのに、私を抱いたのは、ただ側にいたから。たまたま近くにいたから、彼は私と付き合ったんじゃないかって。適当な言葉でごまかすのは、ただえっちする相手をつなぎとめるためなんじゃないかって。

 恋をするまでは、自分がこんなに弱いなんて気づかなかった。

 目頭が熱くなる。なんで泣いてるの。泣く必要なんかない。三澤晃は、私のキライな上司だ。もう、彼氏じゃないんだ。晃にそっくりな巧を見ていたら、視界がぼやけた。

「すいません、目に、ゴミがはいって」
 巧は私の背中に腕を回して、ぎゅっと抱きしめた。私は息を飲む。

「た、くみさ」
「付き合ってください。あなたが、好きだ」
 巧の肩越しに、晃の姿が見えた。涙でぼやけて、よく見えない。晃に比べて、巧の言葉は、こんなにもまっすぐで、ごまかしようもない。私は小さな声で、はい、と言った。



 その夜、三澤から何回も着信があった。応答するか、着信拒否にすればいいのに、私はベッドに寝転がったまま、その音を聞いていた。着信は、午前一時をすぎたころ、ぷつりと途絶えた。
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