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敬老の日編(上)
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なんでこんなことになってるんだろうか。
「結婚してください」
三澤によく似た切れ長の瞳が、こちらを見つめている。私が飲んでいるアイスコーヒーの氷が、からん、と音を立てた。
「……へ?」
「兄(あきら)より俺の方が、ミチさんを幸せにできると思います。人生設計も完璧です」
何を言ってるんだ、この人は。
「あのですね、三澤さん……」
「巧(たくみ)でいい。晃のことは名前で呼んでるんだろう?」
いやそれは付き合っているからであって──そう言いかけた、そのとき。ファミレスのドアが勢いよく開いた。ようこそデニー◯へ。おなじみの文句が店内に流れる。
入ってきたのは、私のキライな上司、三澤晃だった。彼はずかずかこちらに近づいてきて、
「おいこら巧、なにしてんだ」
「なにって、原田さんに求婚している」
「ふざけんなてめー、表出ろ!」
揉み合う兄弟を、私は慌てて引き離した。
「ちょっと! 落ち着いてください!」
なぜこんなことになったかというと、話は3日前に遡る──。
★
秋といえば読書、食欲、睡眠……。とにかく、過ごしやすくて食べ物がおいしい。それに、祝日も多いから、秋が好きって人は多いんじゃないだろうか。
普通の雑誌は、紅葉スポットとか秋の装いとか、役に立つ情報を発信しているが、三澤出版がつくるしょうもない雑誌には、風流という文字が欠けているため、精々穴場旅館の記事ぐらいしか掲載されていなかった。それも、カニ食べ放題ツアーとか、そういった方面の。
三流エロ雑誌を作っている、三澤晃。私のキライな上司にして、恋人でもある男は、意外すぎることに、由緒ある旅館の息子だ。
「なあ、ミチ。今度の日曜、うちこない?」
三澤の言葉に、私は、いつも行ってるじゃないですか、と答えた。
「違うって。旅館の方」
私と三澤は、近所にあるファミレスにいた。たまにはカップラーメン以外のランチもいい。三澤はカツ丼を食べながら、
「うちの母親がおまえ連れてこい、ってうるさいんだよ」
「お母様が……」
「構われるのはうざいだろうけど、タダでうまいもん食えるし、いいだろ」
「ええ、私はかまいませんが」
よっしゃ。三澤はそう言って笑い、
「じゃあ、18日、おまえんち迎えに行くわ」
「はい」
こうして、私は再び、三澤旅館を訪れることになった。
★
港から、船で15分ほどいったところに浮かぶ離島に、三澤旅館はある。なかなか歴史のありそうな、素敵な旅館である。船から降り、タクシーで乗り付けると、出入り口に女将が立っているのが見えた。
「あらあら、ミチさん。いらっしゃい」
相変わらず可愛いこと。そう言って微笑む彼女のほうが、年齢を感じさせない可愛らしさに満ちている。
「お世話になります」
ぺこ、と頭を下げたら、女将がふふ、と笑った。私の隣に立った三澤が、不機嫌な声を出す。
「おい、息子にはなんもなしかよ」
「あら晃、いたの?」
「いたのって」
むすっとした三澤をなだめていたら、女将がどうぞ、疲れたでしょう、と私たちを促した。部屋につくなり、三澤はちょっと寝る、と言って畳に寝転がる。多分、校了が終わったばかりで疲れているのだ。寝かせといてあげよう。
音を立てないよう、荷物を整理していたら、
「ミチさん、ちょっといいかしら?」
女将が、引き戸の隙間から私を手招いた。
「はい」
近づいていくと、彼女はこっちこっち、と言いながら、私を奥の方へ連れていく。渡り廊下を通っていくと、旅館とは雰囲気の違う場所たどり着いた。
「あの、ここ……」
「ここは居住スペースなの」
彼女はとある部屋に入り、私に座るよう言った。いそいそと着物を取り出して来た彼女は、
「これね、私が若い時の着物なの。ちょっと当ててみて」
私は着物を受けとり、自分の身体に当ててみた。女将はうっとりと頰に手を当て、
「まあ~可愛いわ~」
「あ、ありがとうございます」
彼女は、様々な着物を出して来て、私にあてがった。満足そうに笑いながら、
「やっぱり女の子はいいわねえ。うちは男二人だから、つまらなくって」
「たしか、晃さんが長男ですよね」
見えないけど。
「あらあ、晃さんって呼んでるのね~いいわ~」
なんだか恥ずかしくなって、私は顔を赤らめた。そうなの、晃が上なのよ。下の子は、海外でホテル経営の勉強してるから。
「でもね、長男だからって心配しなくても大丈夫。父親は亡くなって私だけだし、老後はホームに入る予定だから、ミチさんに迷惑はかけないからね」
「え?」
いったいなんの話?
「それで、結婚の予定はいつ?」
「はい?」
「あっ、別に急かしてるわけじゃないのよ。色々都合もあるだろうし」
私は返事に窮した。女将はどうやら、私と三澤の結婚を望んでいるみたいだが、あの三澤晃が、結婚のことなんか考えているわけがない。
「ねえ、それ晃に見せて来たら? 絶対メロメロになるから」
「そ、うですか?」
メロメロになった三澤晃……グラビアアイドルの写真見てる時くらいしか、お目にかかったことがない。
私は、自分が着ている着物を見下ろした。白地に、朝顔の柄。すてきな着物だけど、我ながら胸元がさびしい。
私は着物を着たまま、部屋に戻った。三澤はまだ寝ている。私は部屋に入り、咳払いした。その音に反応したのか、三澤がんーっ、と伸びをする。
こきこき首を鳴らし、起き上がった彼は、テレビのスイッチに手を伸ばした。置かれていた菓子盆からせんべいをとり、かじり出す。こちらを見ようとしない三澤にしびれをきらし、声をかけた。
「ちょっと」
「あ?」
「なにか、ないんですか、感想とか」
彼は、切れ長の瞳をこちらに向けた。その目が私の全身をなぞる。何を言われるのかと思い、ドキドキした。
「……七五三?」
私は無言で、新聞を投げつけた。
「おい、拗ねるなよ。冗談だろ」
「拗ねてません。話しかけないでください」
私は三澤に背を向け、スマホをいじっていた。デリカシーのない上司は死ねばいいと思う。そう書いて、ツイッターに投稿する。背後から覗きこんできた三澤が、ヒデェ、とつぶやいた。
「ひどくないです。三澤さんのほうが、私に対してひどいじゃないですか」
「死ねはないだろ、死ねは。消せよ」
「いやです。もういいねついたし」
彼が私のスマホを奪った。
「あっ、何するんですか!」
「これどうやって消すんだっけ」
「ちょっと、返してください」
取りかえそうとしたら、三澤がスマホを高く掲げた。にやにや笑っているのがむかつく。
その時、何かが落下するような音が聞こえた。
「何でしょう、いまの」
「さあ……」
三澤が戸を引き、外の様子を伺う。私は彼に続いた。廊下に出るなり、彼がハッと息を呑み、走り出す。ちょうど、廊下の真ん中あたりで、女将がうずくまっていた。
「女将さん!」
三澤に抱き起こされた女将が、弱々しい笑みを浮かべる。
「大丈夫、ちょっと、たちくらみがしただけだから」
「ミチ、部屋に布団敷いて」
「はい」
私は慌てて部屋に向かい、布団を敷いた。三澤は女将を抱きかかえて、部屋に入ってくる。
布団に寝かされた女将は、私を見上げ、眉を下げた。
「ごめんね、ミチさん」
「病院とか、行かなくて大丈夫ですか」
「大丈夫。ただのたちくらみだから。昔からあるの」
女将はため息混じりに言い、額に手を当てる。三澤は番頭を呼びに行く、と言って部屋を出て行った。慌ててやってきた番頭が、女将の枕元に膝をつく。
「女将さん」
「亀さん……ごめんなさいね」
「そんなことより、医者に見せたほうが」
「大丈夫よ。もう、仕事に戻らなきゃ」
女将が起き上がろうとするのを、番頭と三澤が止める。
「無理すんなよ、もういい歳なんだから」
「ちょっと、晃さん、そんな言い方」
三澤は私をスルーして、番頭に尋ねる。
「巧は?」
「連絡しましたが、なにぶん海外にいらっしゃるもので……」
「今日の客は何人だ?」
「晃さんたちを入れたら、7名です」
と亀さん。
「俺たちは放っといていい。女将がいなくても、なんとかなりそうか?」
「代理をたてればなんとか。でも、明日のお見送りが……」
「じゃあ、その代理に任せろ。なんなら、こいつ使っていいから」
指さされた私は、ギョッとして目を見開く。
「はい!?」
女将が同調する。
「そうね、ミチさんなら、かわいいから、お客様もお喜びになるわ」
「いやいやいや」
私がぶんぶん首を振ると、冗談だよ、と返ってきた。笑えない冗談はやめてほしい。三澤は番頭と共に部屋を出て行き、私は女将さんのそばに残った。
「あの、お水か何か、持ってきましょうか」
「ええ、ありがとう」
私は部屋を出て、厨房に向かった。のれんをかき分けると、三澤が女中さんと話しているのが見えた。二人が並んでいるのを見て、どきっとする。
──きれいなひと。スタイルもいいし、着物もすごく似合っている。あの人が、女将代理だろうか。二人は用紙を覗き込み、視線を合わせ、時折笑いあっていた。
(お似合い、だな……)
三澤は、普通にしていればかっこいいのだ。
「あの、お水を……」
声をかけたら、三澤がこちらを見た。彼は私に水を渡し、
「あとで、飯持ってくから」
「はい」
私は二人を気にしながら、自室へ戻った。
★
「ごめんなさいね。せっかく来てくれたのに、大したおもてなしもできなくて」
「いえ、そんなこと」
私は女将と一緒に、部屋で食事をしていた。三澤はまだ帰ってこない。あのきれいなひとと、仕事してるんだ……。ぼんやりしていたら、女将が口を開いた。
「ミチさんは、結婚のことなんか、まだあんまり考えてないかしら」
「え、はい……まあ」
そういえば、三澤の父親に会ったことがないのに気づく。
「あの、三澤さんのお父様って」
亡くなったわ、と静かに告げる。
「私の旦那はね、あまり身体が丈夫じゃなかったの」
どんな人だったのだろう。三澤に似ていたのだろうか。
「彼は、旅館の後継ぎだし、優しい人だったから、女の子にすごく人気があった。あんまり誰にでも優しいから、私はすごく、やきもちを焼いたわ」
でも、彼は苦しみを知っていたから、優しかったのよね。
「優しさって、優柔不断ともとれるから……付き合うのにもすごく時間がかかって、付き合ってからも、全然結婚しようって言ってくれなかった」
私のことを、好きじゃないんじゃないか。そう思ったの。
「だから、私、彼にプロポーズしたのよ」
「女将さんから、ですか……」
「そう。だって、他の子に取られたくなかったもの」
女将はそう言って微笑む。
「意地を張って後悔するより、素直な気持ちを伝えようって、そう思ったの」
女将は優しい声で言う。
「晃は出来のいい子じゃないけど、悪い子じゃないのよ」
「……はい」
私は自分が着ている、朝顔の着物を見下ろした。そうだ。きっと、素直になれば楽なのに。
「さ、もう行くわね」
「もう少し寝ていたほうが……」
「若い人の邪魔はしないわ」
女将はいたずらっぽく笑った。
「もういい歳だからね」
私は女将を部屋に送って、自室へ戻った。三澤と、きれいな女中さんが一緒にいるのを見かけて、思わず柱の影に隠れた。──なんで、隠れてるんだろう。ドキドキしながら、ぎゅっと手を握りしめる。他の子に、とられたくないから──。
その時、ふ、と影が落ちた。
「なにしてんだ、おまえ」
「!」
三澤がひょい、とこちらを見下ろしてくる。
「な、なにって……女将さんを部屋まで送ってきたんです」
「そっか。ありがとな」
彼は私の髪をくしゃ、と撫でた。手の感触に、胸がぎゅっとなる。女中さんは、どこかへ行ってしまったようだった。
「さっきの、人」
「さっき? ああ、岬さんか」
岬さんっていうんだ。
「美人だし、色っぽいし……お似合いでしたね」
三澤は目を瞬いて、私の顔を覗きこんできた。
「な、んですか」
「妬いてんの?」
「違……」
否定しようとして、女将の言葉が蘇る。意地をはるのは、やめたほうがいい──。小さく頷いたら、三澤が瞳を緩めた。彼は指先で、私の髪を撫でた。唇を近づけてきたので、慌ててうつむく。
「だめ」
「なんで?」
「だ、誰か、通るし」
三澤は私の手を引いて、部屋に向かった。
「結婚してください」
三澤によく似た切れ長の瞳が、こちらを見つめている。私が飲んでいるアイスコーヒーの氷が、からん、と音を立てた。
「……へ?」
「兄(あきら)より俺の方が、ミチさんを幸せにできると思います。人生設計も完璧です」
何を言ってるんだ、この人は。
「あのですね、三澤さん……」
「巧(たくみ)でいい。晃のことは名前で呼んでるんだろう?」
いやそれは付き合っているからであって──そう言いかけた、そのとき。ファミレスのドアが勢いよく開いた。ようこそデニー◯へ。おなじみの文句が店内に流れる。
入ってきたのは、私のキライな上司、三澤晃だった。彼はずかずかこちらに近づいてきて、
「おいこら巧、なにしてんだ」
「なにって、原田さんに求婚している」
「ふざけんなてめー、表出ろ!」
揉み合う兄弟を、私は慌てて引き離した。
「ちょっと! 落ち着いてください!」
なぜこんなことになったかというと、話は3日前に遡る──。
★
秋といえば読書、食欲、睡眠……。とにかく、過ごしやすくて食べ物がおいしい。それに、祝日も多いから、秋が好きって人は多いんじゃないだろうか。
普通の雑誌は、紅葉スポットとか秋の装いとか、役に立つ情報を発信しているが、三澤出版がつくるしょうもない雑誌には、風流という文字が欠けているため、精々穴場旅館の記事ぐらいしか掲載されていなかった。それも、カニ食べ放題ツアーとか、そういった方面の。
三流エロ雑誌を作っている、三澤晃。私のキライな上司にして、恋人でもある男は、意外すぎることに、由緒ある旅館の息子だ。
「なあ、ミチ。今度の日曜、うちこない?」
三澤の言葉に、私は、いつも行ってるじゃないですか、と答えた。
「違うって。旅館の方」
私と三澤は、近所にあるファミレスにいた。たまにはカップラーメン以外のランチもいい。三澤はカツ丼を食べながら、
「うちの母親がおまえ連れてこい、ってうるさいんだよ」
「お母様が……」
「構われるのはうざいだろうけど、タダでうまいもん食えるし、いいだろ」
「ええ、私はかまいませんが」
よっしゃ。三澤はそう言って笑い、
「じゃあ、18日、おまえんち迎えに行くわ」
「はい」
こうして、私は再び、三澤旅館を訪れることになった。
★
港から、船で15分ほどいったところに浮かぶ離島に、三澤旅館はある。なかなか歴史のありそうな、素敵な旅館である。船から降り、タクシーで乗り付けると、出入り口に女将が立っているのが見えた。
「あらあら、ミチさん。いらっしゃい」
相変わらず可愛いこと。そう言って微笑む彼女のほうが、年齢を感じさせない可愛らしさに満ちている。
「お世話になります」
ぺこ、と頭を下げたら、女将がふふ、と笑った。私の隣に立った三澤が、不機嫌な声を出す。
「おい、息子にはなんもなしかよ」
「あら晃、いたの?」
「いたのって」
むすっとした三澤をなだめていたら、女将がどうぞ、疲れたでしょう、と私たちを促した。部屋につくなり、三澤はちょっと寝る、と言って畳に寝転がる。多分、校了が終わったばかりで疲れているのだ。寝かせといてあげよう。
音を立てないよう、荷物を整理していたら、
「ミチさん、ちょっといいかしら?」
女将が、引き戸の隙間から私を手招いた。
「はい」
近づいていくと、彼女はこっちこっち、と言いながら、私を奥の方へ連れていく。渡り廊下を通っていくと、旅館とは雰囲気の違う場所たどり着いた。
「あの、ここ……」
「ここは居住スペースなの」
彼女はとある部屋に入り、私に座るよう言った。いそいそと着物を取り出して来た彼女は、
「これね、私が若い時の着物なの。ちょっと当ててみて」
私は着物を受けとり、自分の身体に当ててみた。女将はうっとりと頰に手を当て、
「まあ~可愛いわ~」
「あ、ありがとうございます」
彼女は、様々な着物を出して来て、私にあてがった。満足そうに笑いながら、
「やっぱり女の子はいいわねえ。うちは男二人だから、つまらなくって」
「たしか、晃さんが長男ですよね」
見えないけど。
「あらあ、晃さんって呼んでるのね~いいわ~」
なんだか恥ずかしくなって、私は顔を赤らめた。そうなの、晃が上なのよ。下の子は、海外でホテル経営の勉強してるから。
「でもね、長男だからって心配しなくても大丈夫。父親は亡くなって私だけだし、老後はホームに入る予定だから、ミチさんに迷惑はかけないからね」
「え?」
いったいなんの話?
「それで、結婚の予定はいつ?」
「はい?」
「あっ、別に急かしてるわけじゃないのよ。色々都合もあるだろうし」
私は返事に窮した。女将はどうやら、私と三澤の結婚を望んでいるみたいだが、あの三澤晃が、結婚のことなんか考えているわけがない。
「ねえ、それ晃に見せて来たら? 絶対メロメロになるから」
「そ、うですか?」
メロメロになった三澤晃……グラビアアイドルの写真見てる時くらいしか、お目にかかったことがない。
私は、自分が着ている着物を見下ろした。白地に、朝顔の柄。すてきな着物だけど、我ながら胸元がさびしい。
私は着物を着たまま、部屋に戻った。三澤はまだ寝ている。私は部屋に入り、咳払いした。その音に反応したのか、三澤がんーっ、と伸びをする。
こきこき首を鳴らし、起き上がった彼は、テレビのスイッチに手を伸ばした。置かれていた菓子盆からせんべいをとり、かじり出す。こちらを見ようとしない三澤にしびれをきらし、声をかけた。
「ちょっと」
「あ?」
「なにか、ないんですか、感想とか」
彼は、切れ長の瞳をこちらに向けた。その目が私の全身をなぞる。何を言われるのかと思い、ドキドキした。
「……七五三?」
私は無言で、新聞を投げつけた。
「おい、拗ねるなよ。冗談だろ」
「拗ねてません。話しかけないでください」
私は三澤に背を向け、スマホをいじっていた。デリカシーのない上司は死ねばいいと思う。そう書いて、ツイッターに投稿する。背後から覗きこんできた三澤が、ヒデェ、とつぶやいた。
「ひどくないです。三澤さんのほうが、私に対してひどいじゃないですか」
「死ねはないだろ、死ねは。消せよ」
「いやです。もういいねついたし」
彼が私のスマホを奪った。
「あっ、何するんですか!」
「これどうやって消すんだっけ」
「ちょっと、返してください」
取りかえそうとしたら、三澤がスマホを高く掲げた。にやにや笑っているのがむかつく。
その時、何かが落下するような音が聞こえた。
「何でしょう、いまの」
「さあ……」
三澤が戸を引き、外の様子を伺う。私は彼に続いた。廊下に出るなり、彼がハッと息を呑み、走り出す。ちょうど、廊下の真ん中あたりで、女将がうずくまっていた。
「女将さん!」
三澤に抱き起こされた女将が、弱々しい笑みを浮かべる。
「大丈夫、ちょっと、たちくらみがしただけだから」
「ミチ、部屋に布団敷いて」
「はい」
私は慌てて部屋に向かい、布団を敷いた。三澤は女将を抱きかかえて、部屋に入ってくる。
布団に寝かされた女将は、私を見上げ、眉を下げた。
「ごめんね、ミチさん」
「病院とか、行かなくて大丈夫ですか」
「大丈夫。ただのたちくらみだから。昔からあるの」
女将はため息混じりに言い、額に手を当てる。三澤は番頭を呼びに行く、と言って部屋を出て行った。慌ててやってきた番頭が、女将の枕元に膝をつく。
「女将さん」
「亀さん……ごめんなさいね」
「そんなことより、医者に見せたほうが」
「大丈夫よ。もう、仕事に戻らなきゃ」
女将が起き上がろうとするのを、番頭と三澤が止める。
「無理すんなよ、もういい歳なんだから」
「ちょっと、晃さん、そんな言い方」
三澤は私をスルーして、番頭に尋ねる。
「巧は?」
「連絡しましたが、なにぶん海外にいらっしゃるもので……」
「今日の客は何人だ?」
「晃さんたちを入れたら、7名です」
と亀さん。
「俺たちは放っといていい。女将がいなくても、なんとかなりそうか?」
「代理をたてればなんとか。でも、明日のお見送りが……」
「じゃあ、その代理に任せろ。なんなら、こいつ使っていいから」
指さされた私は、ギョッとして目を見開く。
「はい!?」
女将が同調する。
「そうね、ミチさんなら、かわいいから、お客様もお喜びになるわ」
「いやいやいや」
私がぶんぶん首を振ると、冗談だよ、と返ってきた。笑えない冗談はやめてほしい。三澤は番頭と共に部屋を出て行き、私は女将さんのそばに残った。
「あの、お水か何か、持ってきましょうか」
「ええ、ありがとう」
私は部屋を出て、厨房に向かった。のれんをかき分けると、三澤が女中さんと話しているのが見えた。二人が並んでいるのを見て、どきっとする。
──きれいなひと。スタイルもいいし、着物もすごく似合っている。あの人が、女将代理だろうか。二人は用紙を覗き込み、視線を合わせ、時折笑いあっていた。
(お似合い、だな……)
三澤は、普通にしていればかっこいいのだ。
「あの、お水を……」
声をかけたら、三澤がこちらを見た。彼は私に水を渡し、
「あとで、飯持ってくから」
「はい」
私は二人を気にしながら、自室へ戻った。
★
「ごめんなさいね。せっかく来てくれたのに、大したおもてなしもできなくて」
「いえ、そんなこと」
私は女将と一緒に、部屋で食事をしていた。三澤はまだ帰ってこない。あのきれいなひとと、仕事してるんだ……。ぼんやりしていたら、女将が口を開いた。
「ミチさんは、結婚のことなんか、まだあんまり考えてないかしら」
「え、はい……まあ」
そういえば、三澤の父親に会ったことがないのに気づく。
「あの、三澤さんのお父様って」
亡くなったわ、と静かに告げる。
「私の旦那はね、あまり身体が丈夫じゃなかったの」
どんな人だったのだろう。三澤に似ていたのだろうか。
「彼は、旅館の後継ぎだし、優しい人だったから、女の子にすごく人気があった。あんまり誰にでも優しいから、私はすごく、やきもちを焼いたわ」
でも、彼は苦しみを知っていたから、優しかったのよね。
「優しさって、優柔不断ともとれるから……付き合うのにもすごく時間がかかって、付き合ってからも、全然結婚しようって言ってくれなかった」
私のことを、好きじゃないんじゃないか。そう思ったの。
「だから、私、彼にプロポーズしたのよ」
「女将さんから、ですか……」
「そう。だって、他の子に取られたくなかったもの」
女将はそう言って微笑む。
「意地を張って後悔するより、素直な気持ちを伝えようって、そう思ったの」
女将は優しい声で言う。
「晃は出来のいい子じゃないけど、悪い子じゃないのよ」
「……はい」
私は自分が着ている、朝顔の着物を見下ろした。そうだ。きっと、素直になれば楽なのに。
「さ、もう行くわね」
「もう少し寝ていたほうが……」
「若い人の邪魔はしないわ」
女将はいたずらっぽく笑った。
「もういい歳だからね」
私は女将を部屋に送って、自室へ戻った。三澤と、きれいな女中さんが一緒にいるのを見かけて、思わず柱の影に隠れた。──なんで、隠れてるんだろう。ドキドキしながら、ぎゅっと手を握りしめる。他の子に、とられたくないから──。
その時、ふ、と影が落ちた。
「なにしてんだ、おまえ」
「!」
三澤がひょい、とこちらを見下ろしてくる。
「な、なにって……女将さんを部屋まで送ってきたんです」
「そっか。ありがとな」
彼は私の髪をくしゃ、と撫でた。手の感触に、胸がぎゅっとなる。女中さんは、どこかへ行ってしまったようだった。
「さっきの、人」
「さっき? ああ、岬さんか」
岬さんっていうんだ。
「美人だし、色っぽいし……お似合いでしたね」
三澤は目を瞬いて、私の顔を覗きこんできた。
「な、んですか」
「妬いてんの?」
「違……」
否定しようとして、女将の言葉が蘇る。意地をはるのは、やめたほうがいい──。小さく頷いたら、三澤が瞳を緩めた。彼は指先で、私の髪を撫でた。唇を近づけてきたので、慌ててうつむく。
「だめ」
「なんで?」
「だ、誰か、通るし」
三澤は私の手を引いて、部屋に向かった。
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