私のキライな上司

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体育の日編(上)

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「一目惚れは、性的な欲求に直結しているというが、僕はきちんと段階を踏んで交際したいと思っています」
 三澤晃にそっくりな声で、三澤巧が言う。ついでに顔もよく似ている。違いは眼鏡の有無くらいだろうか。

「まずは何回かデートをし、互いのことを知るのが大事だと思う」
「……はい」
 私はうなずいて、モーニングについてきたコーヒーを飲んだ。メニューにはひきたてコーヒー、と書いてあるのだが、なぜだか味がしない。

 自動ドアから客が入ってきて、店員がファミレス特有の挨拶をする。
 色々あって、私は三澤晃と別れ、三澤巧と付き合うことになった。


 ★


 二日前。

 三澤晃と破局(?)したあと、私は一人で会社に戻った。遅れて会社に駆け込んできた三澤が、私の腕を掴んだ。
「おい、ミチ」
「名前で呼ばないでもらえますか」

 橋本と河原が、驚いたようにこちらを見ている。三澤はイライラと、
「おまえ、なんでそんなにキレてるわけ? 訳わかんねえ」
「わからないんですか? 馬鹿なんですね」
「はあ? おまえな」
 私はきっ、と三澤を睨みつけた。

「離してください。セクハラです」
「なっ」
 青筋をたてた三澤を、橋本がどうどう、と押さえ込んだ。
「晃さん、ちょっと落ち着いて」
「離せ橋本!」

 河原さんもやってきて、二人がかりでまあまあ、となだめている。図体がでかいので、抑え込むのが大変だ。三澤はお腹がすいたライオンみたいにうー、と唸っていた。

 いい歳したおっさんのくせに、感情的でカッコ悪い。あんな人にドキドキしたり、きゅんとしたり、あまつさえ泣いたりして、私って馬鹿みたい。つくづく、恋とは盲目なのだ。

 私はふん、とそっぽを向き、パソコンに向かった。

 その日、私は三澤と全く目を合わさなかった。用があるときは橋本か河原に伝え、どうしても話さなきゃならないときは無表情で会話した。三澤はそのたびに何か言いたそうな顔をしていたが、橋本に目配せされて黙り込んでいた。部下になだめられてるなんて、ほんと、ださい。

 いざ三澤と険悪な雰囲気におちいると、彼の嫌なところばかりが目についた。

 電話をとるときに猫背になるところ。座ってるとき、靴を脱いでるところ。笑い声も大きくて嫌い。グラビアアイドルの写真集が、デスク上の資料に紛れ込んでるところ。大嫌い。

そんなに胸の大きい女が好きなら、そういう子と付き合えばいいんだ。だって私の胸が小さいのなんて、どうしようもないんだから。

 私との未来をまるで考えていないところも、嫌だ。だって、いつでも別れて構わないってことと同じなんだから。いくら好きだって言われても、不安になってしまう。些細なことでも、彼の行動ひとつが、私の心に小さな傷を作るのだ。

 コーヒーを飲むため給湯室へ向かうと、三澤も入ってきた。一瞬二人して固まる。ものすごく気まずい。ああ、こういうのがあるから、職場恋愛って厄介なんだな。

「……飲みますか」
 早く立ち去って欲しかったのでそう尋ねる。彼は、ああ、と頷いた。紙コップホルダーの中はカラだ。
 紙コップを取ろうと背伸びしたら、三澤の腕がひょい、と伸びてくる。背中に体温を感じ、私は目を泳がせた。彼は紙コップをとり、私に差し出した。

「あ、りがとうございます」
 目をそらしながら紙コップを受け取ると、いきなり抱き寄せられた。
「!」
 紙コップがからん、と音を立てて落ちる。
 この人に抱きしめられると、胸がきゅうっとなって、全身が熱くなる。髪から漂うシャンプーの匂い。背中に回った腕の強さ。頭に腕時計が当たってちょっと痛い。

「ごめん」
 かすれた低い声で、三澤が囁く。それだけで身体の力が抜けそうになった。だめだ、流されたら。
「……なんで謝るんですか」
「だって、怒ってるじゃん」
「なんで怒ってるか、わからないくせに」
 わかんねえよ、と三澤は言った。

「でも、こんなことで別れんのは嫌だ」
 ぎゅっと抱きしめる力が強くなる。
「なあ、許してくれよ」
 私にしか聞けない、甘い声で彼は言った。三澤は知っているのだ。私が彼を意識してやまないとわかっている。どうすれば、なんて言えば懐柔できるか、わかっているのだ。

「触らないでください」
 そう言ったら、三澤がびくりと肩を揺らした。緩んだ腕から、私はすり抜けた。戸惑う彼を睨みつける。

「私は、あなたの無神経なところが嫌いです。それはこの先ずっと変わりません」
 三澤の表情を見ないように、給湯室を出た。なぜか、嫌いだと言った私の胸のほうが、ぎしぎし軋んでいた。


 ★


 その夜、私が帰宅しようと立ち上がると、三澤が声をかけてきた。
「ミチ」
 私は三澤から視線をそらし、
「原田って呼んでください」
「……原田、今日のことで話がある。時間とれるか」
 私は頷いた。三澤はまだ仕事が残ってるみたいだった。

「ファミレスで待ってます」
 そう言って出口へ向かうと、橋本がやってきた。身をかがめ、こっそり囁く。
「ねえ、ハラミチ。なにがあったの?」
「別れたんです」
「え?」
「あの人、私のことを馬鹿にしてるし、なにをしても許されるってたかをくくってるから、腹が立って」

 彼は目を丸くして、なるほどねえ、とつぶやいた。
「まあ、二人のことだからとやかく言えないけどさ、あんまり意地はるのはよくないよ」
「意地なんかはってません」
「そうかなあ。二人ともかなりの意地っ張りだよね」

  小学生の男女みたい。だから見てて面白いんだけど。橋本はそう言って笑った。
「ま、あんま職場の空気悪くしないでよ」
 たしかに、今日の私たちは、ものすごく感じが悪かっただろう。関係ない河原と橋本に心配をかけるなんて。
「はい、心配かけてすいません」
 私が頭をさげたら、橋本がじゃあね、と言い、去っていった。


 仕事帰りのサラリーマンや学校帰りの高校生たちが、食事をとっている。この時間帯って、混んでるんだな。

私は、近所のファミレスで三澤を待っていた。自動ドアの開く音に、何度も顔をあげる。仕事がたてこんでいるのか、彼はなかなか来なかった。なんだか落ち着かない。三澤がきたら、毅然とした態度をとらなくちゃ。私は水を一口飲んで、彼に何と言うか考え始めた。

 あなたなんか元々そんなに好きじゃなかったんだからね。
 なにこの、ツンデレみたいな言い方。やめよう。もっと、三澤が反省するようなことを言わなくちゃ。
 私を馬鹿にしてるような人とは付き合えません。
 うん、これだ。それとも……。
 私は三澤ミチになりたいんです。
 三澤ミチって、結構いい名前だよね。私は紙ナプキンをホルダーからとり、ペンで書いてみた。三澤ミチ。いいかも。

「ミチ?」
「!」
 いきなり三澤の声が聞こえたので、私は慌ててナプキンを腕でかばった。三澤がテーブルの脇に立っている。
「な、なんですか!」
 彼は不審げな顔で、私の向かいに座った。
「なにって、おまえがここに来いって言ったんじゃん」
「そ、そうですね」

 私は紙ナプキンをさっと鞄に入れ、咳払いして姿勢を正した。コーヒーを頼み終えた三澤に視線を据えて、
「三澤さんにふたつお願いがあります」
「なに」
「まずひとつ。名前で呼ばないでください。私、もう三澤さんの彼女じゃないですから」
 何か言いたげな顔をしながらも、三澤は頷いた。
「……わかった」
「それから、触るのとかもやめてください。セクハラですから」

 三澤はまたわかった、と答えた。心なしかしゅんとしている。効いてる、効いてる。その顔を見ていたら、ちょっと溜飲が下がった。彼はそれで、と言葉を継ぐ。
「俺は結婚とか考えたことなかったけど、おまえは、したいの?」
 さっき三澤ミチ、と書いたことを思い出し、私は赤くなった。私、何してんの?

「……実は、よくわかりません」
 だけど、三澤が結婚なんかしない、って言ったとき、ほんとに私のこと好きなのかなって思ったのだ。
「結婚の前に、同棲とかじゃねえの?」
「同棲?」
「鍵やるから、うち住めよ」
 三澤はそう言って、私の頰に手を伸ばす。そうして優しく、柔らかく撫でた。
「そしたらさ、自然に結婚のこととか、考えるようになると思う」
「……で、でも」

 そういう問題なのだろうか。私が口を開きかけたら、
「そんな男と結婚しなくて正解です」
 背後からいきなり声が聞こえてきて、私はハッと振り向いた。

 コーヒーを飲んでいた男性が立ち上がり、こちらへ歩いてくる。晃が視線をあげ、ギョッと目を見開いた。

「巧!?」
 巧は晃を無視し、
「こんばんは、ミチさん。偶然ですね」
「は、はあ……こんばんは」
 三澤によく似た切れ長の瞳が、こちらをじっと見つめる。
「1日に何度見ても、あなたはかわいい」
「あ、りがとうございます?」

 つい疑問符をつけてしまった。彼がここにいるのは、果たして偶然なのだろうか。
「晃の計画性のなさは、弟である俺が保証します。小学生の時宿題が終わらず、俺のを丸写しにして先生にバレたこともあります」

 それは馬鹿だ。馬鹿すぎる。学年が違うのだ、答えが同じになるわけがない。過去を暴露された三澤は、不機嫌な顔になった。

「そんなことどーでもいいんだよ。おまえなんでいるの?」
「せっかく日本に戻ってきたし、三日ほど滞在する」
 巧は眼鏡をかちゃりと押し上げ、
「気にせずに話を続けてくれ」
「気になるわ。どっかいけ」
 晃がしっし、と追い払う仕草をするが、巧は動こうとしない。晃は舌打ちし、私に向き直った。

「……とにかく、おまえが結婚したいなら、してやるから、別れるとか言うな、な?」
 私はぴく、と肩を揺らした。──結婚、してやる? 思わず立ち上がり、叫んだ。
「してやる、ってなんですか! 仕方ないからもらってやるみたいな言い方しないでください」
「はあ? 人が下手に出れば調子に乗りやがって、大体おまえ」
「女性に向かっておまえとはなんだ、晃」

 いつのまにか、巧が私の隣に腰掛けていた。
「こういう男がのちにモラハラを起こすんです。僕にはわかる」
「すっこんでろ眼鏡ェ!」

 晃が巧を押しのけようとするが、彼はそれを華麗に避けた。巧は、私の手をぎゅっと握りしめ、
「デートしましょう、ミチさん」
「へ?」
「この男とは別れたんでしょう? あなたは自由だ」
「はあ? おまえ何言ってんだ。ふざけんなよ」
「だまれ部外者。さあ、ミチさん、帰りましょう。タクシーを呼びます」

 私は晃を気にしつつ、巧と共にファミレスから出た。晃は会計をしながら、こちらを睨みつけている。巧はタクシーを電話で呼び、
「待ち合わせをしましょう。どこがいいですか」
「ええ……」
 巧の言葉に気もそぞろで返事をすると、
「まだ晃のことが好きなんですか?」
「なっ、違います!」
「じゃあ、デートを。動物園と水族館、どちらが好きですか」
 そう尋ねられ、私は反射で応える。
「水族館」
「では今度の体育の日、N港水族館で」

 そうこうしているうちに、タクシーが到着した。また電話します。巧はそう言って、タクシーの運転手にお金を渡した。颯爽と去って行く。私はぽかんとしながら、その後ろ姿を見送る。
 背後で、自動ドアの開く音がした。

「おい」
 振り向くと、晃がじっとこちらを見つめていた。
「デートなんかしないよな」
 その時、私の心の中にいる悪魔が囁いた。もし巧とデートしたら、きっと晃は嫉妬する──。
「……三澤さんには、関係ないでしょ」
 私はそう言って、タクシーに乗り込んだ。


 帰宅した私は、鞄の中身を整理していた。三澤ミチ、と書かれた紙ナプキンが出てくる。こんなもの書いて、ばかみたい。私はそれをくしゃっと丸め、捨てようとした。が、なぜかゴミ箱に入れられない。私は躊躇したあと、シワを伸ばし、それをそっと手帳に挟んだ。
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