虫愛る姫君の結婚

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秘密

伯爵の帰還

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サイレージ村に朝日が差している。帽子をかぶったシルフィーは、笑顔を浮かべてエントの方を振り返った。
「じゃあ行ってくるわね、エント」
「ああ、気をつけて」
エントはそう言ってシルフィーの頬を撫でた。シルフィーははにかんでその手に自分の手を添える。二人が見つめ合っていると、シルフィーの背後から声が聞こえてきた。
「そろそろ出発しないと、到着が遅くなりますよ」
シルフィーは慌てて馬車に乗り込んだ。彼女の隣に座っているミレイは、「例の蜘蛛は? あれを持っていると、入城できないでしょう」と尋ねた。エントはポケットから出した瓶を取り出して見せる。中には小型化したバロンが入れられていた。ミレイはエントをちらっと見て、平坦な声でこう言った。
「見つめ合いが永遠に続くのかと思い、お声がけさせていただきました」
「悪かったよ。シルフィーのこと、頼んだぞ」
「あなたに言われなくとも当然です」
ミレイとシルフィーを乗せた馬車が走り去っていく。窓から身を乗り出して手を振るシルフィーを、ミレイが引きずり戻していた。先日よりは随分と顔色がいい気がした。今日からしばらくシルフィーがいないのかと思うとなんとも寂しい。
「伯爵……」
「戻ったぞ、錬金術師」
厳しい取り調べが行われたはずだが、伯爵はけろっとしていた。エントは疑問に思いながら尋ねる。
「早くないですか、解放されるの」
「ある人物が便宜をはかってくれたのだ」
さっさと屋敷に入っていく伯爵を見て、エントは怪訝な顔をした。まさかシルフィーの嘆願書が功を奏したのだろうか。いやまさか。
「会いたかったぞ、コンテッサ」
彼は愛おしそうに、膝に乗せたカブトムシを撫でている。今更ながら、まっさきに会いたいのがカブトムシだったというのも変わっている。エントは伯爵を横目に、なぜこんな場所に呼びだされたのだろう、と思っていた。そもそも彼にはなんの罰則も与えられないのだろうか。直接の誘拐犯である、のっぽのピートと小柄なシリーは禁固刑のはずだが。エントは振る舞われた紅茶をよそに尋ねる。
「ある人物が便宜をはかったっておっしゃいましたよね。誰です」
伯爵はその疑問には答えずにこう返した。
「貴殿は錬金術師──つまりなんでも屋なのだろう」
「何でも屋というと語弊があるように思いますが」
「私の花嫁を作ってくれ」
 エントは一瞬、何を言われたのかよくわからなかった。思わず「は?」と尋ねる。伯爵は執事にトランクを持って来させた。トランクを開けると、札束がぎっしりと詰め込まれていた。ざっと見て、エントの去年の年収よりも多い。
「この値段でどうだ」
「……どうだと言われましても」
「もっとか。錬金術師というのは強欲だな」
 伯爵がさらに札束を追加しようとしたので慌てて止めた。引き受けるとは言っていないのに、伯爵は花嫁の注文を口にする。
「私の求める花嫁は、美しく性格がよく従順で、虫が大好きな娘だ」
「そんな女は存在しません」
 虫が大好き、という一点でシルフィーのことが思い浮かんだが、話がややこしくなるので埒外に置いておく。伯爵は深いため息をついた。
「それは私もうすうすわかっていたのだ。村むすめたちも虫には無関心だった」
「なら諦めて、現実的な範疇で花嫁を探されては?」
「今更妥協したくない」
だからあんたは結婚できないんじゃないのか。その言葉を飲み込んで、エントはこう言った。
「──いいですか、伯爵。現在ホムンクルスを作るのは禁止されています」
「ホムンクルスとはなんだ」
 エントが手早く説明すると、伯爵がふむ、と頷いた。
「なるほど。では、それを作れ」
「お話を聞いてらっしゃったんですか? まともな錬金術師があなたの依頼を引き受けることはありません。たとえ作れても、すぐ死んでしまいます」
「不可能を可能にするのが錬金術ではないのか」
「違います。錬金術師の理念は不完全なものを完全に、です」
 伯爵は「錬金術とやらは、大したことがないのだなあ」とつまらなそうにつぶやいた。エントは気になっていたことを尋ねた。なぜこんなにも早く釈放されたのか、という点だ。伯爵はあっけらかんと答えた。
「知り合いが取り計らってくれた。私に悪意がないということも考慮された」
悪意がなきゃ何をやってもいいと思っているのか。エントは席を立ち、冷めた目で伯爵を見下ろした。
「どうやら中央にコネがあるようですが、今度何かやらかしたら爵位の剥奪どころか追放ですよ。大人しくなさったほうがいいかと」
 その場を立ち去ろうとしたら、伯爵が問いかけてきた。
「おまえには欲がないのか?」
 いきなり何を言い出したのだ、この男は。振り向くと、伯爵がじっとこちらを見ていた。
「なぜこんな田舎で燻っている。いい女を抱いて美味いものを食う。そういう欲はないのか」
「ありません」
 そう答えたら、伯爵がつまらん! と叫んだ。つまらなくて何が悪いのだ。無視してそのまま歩き出そうとしたら、食堂の扉が開いた。そこに見知った人物が立っていたので、エントは驚いてその男を見る。眩い金髪に、母親譲りの海のような深い青の瞳。リーン王国王太子、エルランド・パーシヴァルだ。

「エルランド様……」
「久しぶりだな、エント・ヨークシャー」
 エルランドの隣には、当然のようにジャスパーが立っていた。なぜ彼らがこんなところにいるのだ。戸惑うエントをよそに、エルランドが近づいてくる。彼は女王にそっくりな美しい面持ちをこちらに向けた。
「シルフィーを返せ」
 あまりに単刀直入すぎる言葉に、腹も立たなかった。
「……返せとおっしゃるが、あなたのものではないのでは?」
「僕の家族だ。君とは他人だろう」
「なんにせよ、シルフィーはここにはいませんよ。ミレイという侍女と一緒に王宮に帰りました」
 その言葉に、エルランドが眉を潜めた。
「ミレイと? 私は彼女には何も命じていないが」
「──エリン様です」
「なぜエリンが出てくるんだ」
 エントはエリンが錬金術師を使い、ミレイをここによこしたことを説明した。エルランドはかぶりを振る。
「そんなこと、信じられない。いくらエリンでもそこまでのことは」
「実際に確かめてみればわかることです」
エルランドは眉を顰め、ジャスパーに顎をしゃくった。ジャスパーは肩をすくめて歩き出す。部屋から出ようとしたその時、ジャスパーがぴくっと肩を揺らした。その瞳が窓の外へ向かう。
「何か来るぞ」
 彼の発言から数秒後、窓ガラスを破って、巨大な蜂が突っ込んできた。エントは伯爵を床に倒し、蜂の襲撃からかばった。伯爵は頭を強打し、ぐったりと気を失った。巨大な蜂によって、食堂が荒らされる。召使たちが逃げ惑い、阿鼻叫喚の場となった。エントは鎖で蜂を拘束しながら、エルランドをかばっているジャスパーに向かって叫んだ。
「ジャスパー、あれはキメラアントだ1 蜂の腹部を狙え! そこが急所だ」
「そんな余裕ないんだよ!」

 ジャスパーはエルランドを守りつつ、的確に腹部を突き刺している。エントは剣を錬成し、床に転がり落ちた賢者の石を砕いた。砕けた石が真っ黒になって風化していく。しかし、安堵している暇はなかった。割れた窓の向こう、キメラビーが次々にやってくるのが見える。これではキリがない。エントは伯爵に「この屋敷って、文化財ですか」と尋ねた。当然、気絶しているので答えることはない。気が進まないが、やむおえないだろう。エントが床に術式を書いているのを見て、エルランドが「何をする気だ」と言った。エントはその問いには答えず、ジャスパーに顎をしゃくった。ジャスパーはエルランドを連れて食堂の外へ向かう。エントはいまだに伸びている伯爵を引きずって食堂の出口に向かった。数匹のキメラビーが襲いかかってくる。
「神の名を持つ賢者の石よ、彼らに安らかな死を」
 エントはそう言って十字を切り、床に書いた術式に向かって賢者の石を投げた。爆風が起きて、キメラビーが木端微塵になる。エントは飛び散った残骸を避けながら、食堂の外へ逃げた。エルランドがめちゃくちゃだ、とつぶやく声が聞こえた。足元に蜂の頭が転がってきたので、靴の裏で止めた。恨めしげな目がこちらを見ている。気分がいいものではないので目をそらす。ふと、どこからともなく声が聞こえてきた。
 ──こども、ころした。おまえたちが。
 今のはこの虫が話したのか。エントがそう思った直後、キメラビーの身体が風化していく。美麗な食堂は蜂の残骸と爆風でとんでもないことになっていた。目を覚ました伯爵は、その惨状を見て絶句した。
「私の屋敷がーっ!」
 肩を落として泣いている伯爵の肩を、ジャスパーがぽんと叩いた。エントは、呆然としているエルランドに声をかけた。
「殿下、大丈夫ですか」
「──なんなんだ、あの蜂は。なぜ私たちを襲ってきた?」

「キメラアントは元々凶暴なものですが、あそこまで明確な敵意を持っている種は初めて見ました」
 エントはそう言って、靴先にまとわりついてくる蜂の残滓を見下ろした。この哀れな生き物は錬金術師が作ったのだ。ならば錬金術師が責任を持って始末しなければならない。先人が残した負債も財産も引き受けなければ──。何か音がすると思って、ポケットの中を探った。バロンが瓶の中でキーキー鳴いているのがわかった。瓶から出すと、バロンが巨大化した、伯爵がおおっと声を上げる。
「なんだこれは! 巨大蜘蛛!」
「バロン、どうかしたのか」
おそらくシルフィーを恋しがっているのだろうと思った。エントはバロンをフリーズさせ、小さくして瓶の中に戻した。それをエルランドに差し出す。
「殿下、これをエリンに届けてやってください」
「君はどうするんだ、エント」
「私は少し、調べることがあるので」
エントはそう言って、キメラビーの残骸を掬い上げた。
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